飛翔せよ、翼は既にある(2) |
コリンに担がれ、離着水桟橋にそっと横たえられたルカは異常に青い顔をしていた。その力を失くした手を傍らに跪いてしっかりと握りしめた者がいた。エリカだった。過去を乗り越え空に戻り、その後昏倒したアレックにしっかりと手を握られていたエリカが、今度は飛ぼうとして飛べなかったルカの手を握りしめている。 「……ルカ？ルカ！！」 エリカの声が聞こえたのか、虚ろだったルカの瞳の焦点が合った。自分の手を握っているのが誰かわかると、弱々しく目を瞬いた。 「エリカ……？」 ふうっとエリカが息をつき、コリンがやれやれ、と芝居がかった動きで腰に手をやる。と、怒気を含んだ声がした。 「飛べないのならば、飛ぼうとするな！」 いつものオズウェルの愛想の悪い物言いとはまた違った冷たい物言いに横たわったままのルカの瞳が揺れる。すると、それ以上の感情が籠った声が即座にエリカの口から発せられた。 「……何を言うの。……ルカは飛べるわ。……………………昔よりももっと高く、ルカは飛ぶわ！」 自分を睨みつけるエリカにオズウェルはたじろぐ。こいつがこんな表情で自分を見たことがあっただろうか。どんなに乱暴な突き放した言葉を投げかけても凹まず、泣き言も、恨みごとも言わなかったこいつが、今、何故。 ルカは担架で運ばれていった。残ったエリカは尚もオズウェルを睨みつけた。 「ルカは飛ぶわ。…………ルカは、そういう人よ。」 事態が収拾し、コリンは別の部下に哨戒を指示した。 「オズウェル、離水許可を出してくれ！」 コリンの叫びに我に返ったオズウェルは職務に戻る。トゥーフォンが少し身を屈めて何事かをエリカに囁き、それを聞いてエリカは手の甲で涙を拭うような動作をした。それはオズウェルの視界の端に入ったが、彼は何も見なかったふりをした。 終業宣言を出し人気の無くなったドックで先程まで哨戒計画を確認しあっていたオズウェルはコリンと対峙していた。冷たい床に置かれたランタンは二人の足下を照らすのみだ。 「……中尉。」 「なんだい、オズウェル。打ち合わせ以外で何かあるのなら、ささっといっちゃってくれるとありがたいな。」 整備兵は一歩前に出る。表情がわかるようになる。 「……少尉は本当に飛べるのか。」 仏頂面のオズウェルと目を細めたコリンの視線がぶつかる。戦時にあっても、コリンの表情は平時と同じでいつも柔らかい。 「ああ、飛ぶさ。ルカはね。」 明るく言ってコリンは笑う。 「飛んでくれなきゃ。ルカには天性のパイロットとしての腕があるからね。それ、しっかり奮ってもらわないと、俺、たーいへん。」 「……あんな病み上がりでぶっ倒れるような奴が空戦なんてできるのか。」 コリンはオズウェルをじっと見つめる。 「ルカが飛べなかったのは、体調の問題じゃない。君が気付かないっていうなら、教えるけど。」 オズウェルはそれに答えず、コリンが話し出すのを待った。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ エリカは、医療室から自室に帰る途中のルカを、待ち伏せし、彼の袖口をぎゅっと握って薄暗い休憩室へと引っ張っていった。が、何かいいたそうではあっても、エリカから中々言葉は出てこなかった。ルカは自分から話を切り出す。 「エリカ……昼は迷惑をかけちゃたね。俺のことを弁護してくれたこと、コリンから聞いたよ。すまなかった。」 「ううん、いいの、……私が言いたくていったことなんですもの。それに、気持ちはあっても体がついていかないことは誰にもあるわ。」 エリカはルカを座らせる。ルカは素直にかけ、向かいにエリカを座らせる。 「……そうじゃなくて。」 ルカは微笑んだ。 「俺が飛べなかったことで、君を悲しませてしまったことに詫びたい。」 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ コリンはとつとつと話す。 「ルカが撃墜され海に落ち、救助後、大破を免れて回収されたオオルリは整備班が修理した。コクピットの内部を君は見たんだろう。どんな様子だった。」 「……」 それを至近で見たはずのオズウェルは黙っていた。 ―――操縦席は赤黒く染まっていた。それはシートととそれに続く底板部が一番濃く、底板全体をその色のペンキで塗ったように拡がり、元の色がわからないくらいだった。計器盤には赤黒い指のあとが残り、手で触るとまだ粘ついた。 「手足と胸に大きな裂傷を負い、足は複雑骨折し、額からも出血し、あばらは折れて内臓を損傷し腹腔内も血の海だった。……軍医殿の言うには、失血死寸前だったそうだ。」 「……パイロットはコクピットを棺桶にする覚悟があるのじゃないのか。」 コリンはくるっと瞳を回してみせた。 「まあね。でもなあ……怪我を負った手も、足も、いうことを聞かず動かない。息をするたびに苦痛が襲い、出血で軍服が濡れて行く感触がして徐々に体が冷えて行く……俺はそのくらいしか想像しかできないけどさ。……少しずつ死に近づいて行く感覚っていう奴はどんなもんだったんだろ。オレは体験したくないな。死ぬなら、どっかーん、って方が性に合ってる。ま、じわじわきたらきたで最後まで足掻くけどねー、 一度コリンは言葉を切り、朗らかに、しかしゆっくりと言う。 「なんにしても、怖いもんは怖い。俺もね。」 「俺達技術屋と違って、戦闘員は腹をくくっているんじゃないのか。ましてやあんたたちは兵を動かす士官だ。尉官が飛ばずに誰が飛ぶんだ。」 コリンはふうっと息をつく。 「まあ、そうじゃないといけないよね。……でもね、救国の英雄だった准尉殿でもずっと飛べなかったんだ。……君は知っているだろう？オズウェル」 コリンに静かに言われ、オズウェルは視線を下に落とす。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ ルカは、同期の少女に優しく語りかける。 「エリカ、君は、人の前で激して物をいう人じゃあない。オズウェルがいくら君にきつくあたっても、君は怒ることも逃げることもしなかった。それはよく知っている。……だのに、君はオズウェルに対して怒鳴ったってコリンから聞いた。…………思い出させてしまったんだね。准尉殿の事。……そして、准尉殿は飛んだのに、俺は飛べなかった。コクピットで死んだようになって倒れた……それは君に、最も考えたくないことを考えさせてしまったに違いない。」 言いあてられてエリカはズボンの腿のあたりをぎゅっと指で掴んで肩をふるわせる。 「……ゴメン、エリカ。……飛べなくて。」 エリカはふるふると首を振り、木製の机に置かれたルカの両拳を自分の手で包んだ。 「……次は飛べるわ。きっと飛べる。ルカ、………ルカ…………」 「……そうだね……きっと大丈夫。……約束、だから……」 え？約束？目を開くエリカに、ルカは頷く。 「君とも、約束するよ、エリカ。……俺は、この小隊を、皆を、守る。」 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ ―――深夜、離着水桟橋――― こんな時間に宿舎に居ないことは処罰対象であったが、彼にとっては必要なことだった。繋留されたオオルリのコクピットの中でルカは浅い呼吸を何度も繰り返した。股の間から少しだけ見えるシートをじっと見る。昼は、このシートが血の色に見えた。大丈夫。今は単なる夜の沈んだ色におとなしく落ち着いている。のろのろと右腕を前に出して操縦桿を掴み、力を込めて握る。 外傷は完治した。高空の空戦となれば自信はないが、呼吸器も通常任務には耐えてくれるはずだ。 ならば、なぜ、飛ばない？ 全ては整えられている。飛ぼうとさえすれば飛べるはずなのに、なぜ飛ばない？ 眉間に皺を寄せため息をつく長兄の顔が脳裏に浮かぶ。王宮から逃げるように飛び込んだ士官学校。自ら志願した国境の中隊。ここで飛ばなくてどうするというのだ。……ここで自分が飛ばなくとも、新しいパイロットがどこかから補充されるだろう。それはユクトランド王国第三王子という、替えが効かないものではない。冷静に考えれば、王宮に戻るべきなのだろう。飛ぼうとしても飛べず、呼吸器に不具合のあるポンコツパイロットとして辺境の航空小隊に在るより、王宮でできる範囲のことをする方に国民は『価値』を認めるはずだ。そう、王都に戻るべきなのだ。 だが、ルカは頭を三度ほど横に激しく振ってその考えを追い払った。 今、できること。自分が選んだこと。……それを成さずに撤退し、逃げてどうするのだ。――おそらく――おそらく、自分はここで逃げたら逃げ続ける。逃げて、逃げおおせたことに安堵し、逃げ続けて幸せを見出す人間になる。そのような人間に自分は成り下がりたくはない。約束を破りたくはない。 約束 ……子供の頃の約束……王宮に招かれたアレック=ユーティライネンにルカは無邪気に質問した。 『また、何かが起こった時、准尉殿はその翼でユクトランドの皆を守って下さいますか。』 アレックは答えた。 『ええ、命がある限り、必ず。』 そのあとルカは妹のメルヴィ王女に宣言した。 『もしも何かが起こったら、僕がこの国を翼で守ってみせるんだ。准尉殿と一緒に。』 アレックは約束を守った。一度翼を失った救国の英雄は空に戻り、国を救うために帝国へと飛んだ。そう、彼は約束を守ったのだ。 ならば、自分が守らないでどうする。自分はただ、心に巣食う恐怖心に打ち勝つだけで飛べるのだ！ アレックの、エリカの優しい眼差しに甘えてはいけない。彼らに報いなければならない。オズウェルのあの責めるような物言いに感謝せねばならない。この場で最も的確な意見を声にしてくれたのはオズウェルなのだ。 いつの間にか浅かった呼吸は深くおちついた。 計器盤にも、レバーにも血の気配は感じられない。 「…………」 ルカは可笑しくなる。血などあるわけがない。オズウェルの号令一下、整備士達はオオルリの隅々まで磨き上げてくれているのだから。と、計器盤に小さな紙が貼りつけてあるのに気付いた。月明かりだけを頼りに目を近付けると、それにはこう書かれていた。 (飛べない奴の機体を整備する暇は俺達にはない) オズウェルの不機嫌そうな顔を想い浮かべ、ルカは苦笑した。 「君は、とてつもなくイイ奴なのかもしれないな。」 “まあ、次がダメだったらはしっかりしろーっ、てひっぱたくことも辞さないけどね。賭けてもいい。ルカは大丈夫だ。ああいうぐるぐる悩むけど無茶苦茶真面目なタイプは二度目は格好よく決めるもんさ”とコリンに言われた時、オズウェルは半信半疑だったが、翌日にルカは、長期のブランクを感じさせないような、コリンよりも美しい離着水をやってのけ、新しく来たパイロット達を唸らせ、彼らのチームの一員として改めて認められた。ルカは『流石は俺らの王子さんだ』とおやっさんに言われてまたもや顔を赤くしてその呼び方はやめて下さいと礼儀正しく頼んでいたが、そんな反応も面白がられて、いつの間にか王子さんと呼ばれるようになってしまった。 それからルカは毎日のように哨戒へと飛んだ。それは全く危なげのない飛行だったが、コリンは激しい空戦を伴うかもしれない出撃にはルカを出さずいた。表面上は完治したかのようにみえても、呼吸器系へのダメージが今も彼を苛んでいることを、軍医の言葉と、空から帰って来た時の息の弾み具合からアレックが居ない間の『隊長代理』ははっきりと把握していたのだ。幸い、全員が出撃するような事態は訪れていなかった。ユクトランド国軍は、国境付近の防衛線に陸海軍の精鋭を集めた布陣を敷いており、偵察部隊程度の飛来は時折あったものの、設定された防衛ラインを抜けて多数のヤクトケーファー編隊がロランドへと抜けることはあの悪夢のような空襲以来一度も起っていなかったのだ。 ルカは、哨戒中に、敵機と遭遇し、その良い目をもって先んじて行動を起こし、敵の背後について威嚇射撃し、追い払った。 ユクトランドは冬を迎えた。 暖流の影響でロランド湾内には流氷は入ってこず、離着水に支障はなかったが、大きなストーブをつけても凍てつくような冷気はドック内に容赦なく入り込み、防寒具をつけて懐炉をポケットに入れ整備士達は働いた。それでも室外よりはずっといい。屋外で素手でオオルリの金属部に触れようものなら指が貼りつき、外す時に手の皮まで持っていかれる。そんな過酷な条件下でも帝国は侵攻の手を緩めなかった。 それでも、整備兵達は、以前より落ち着きを取り戻していた。 ナカジマが戻って来たのだ。 親方は自分でオオルリにとりついて整備することはまだできなかったが、ドックの中央にエリカが縫ったジパング風の不思議な上着(それは『タンゼン』というものらしいとエリカは言った)にくるまって柔らかなクッションが置かれた椅子に座り、部下達の様子を睥睨して指示を次々に出した。初めは小声でしか喋れず、親方の言葉を聞きとったトゥーフォンが大声で皆に伝えていたが、今はもう親方の肉声がドックに響いている。、トゥーフォンを叱り飛ばし、この寒さはどうにかならねえのか、と悪態をつき、コリンと漫才のようなやり取りをする。彼らはそれだけで戦いが良い方向に向かっているように錯覚をした。実際には戦況は明るくはなく、ドック近くに仮眠所が設けられ、Ａ〜Ｂ級待機が言い渡されている時にはすべてのパイロットがそこで寝起きした。 エリカはルカの体調に毎日気を払っていた。顔色を見、動作を注視し、離水時には、必ず声をかけ、戻って来た時には飛んで行って、良かった、生きて帰って良かった、と握手した。彼女はどの機体を整備しているときにも熱心であったが、オズウェルの目には、ルカの乗機を整備しているときが最も真剣であるように見えた。ルカも、エリカの好意を受け入れ、ちょっとした空き時間にもコリンやトゥーフォンを交えて穏やかに笑みを浮かべながら話をしていた。それが、エリカと二人きりでの事もあり、オズウェルをイライラさせた。 ある日の夜、仮眠所に向かおうとするルカをエリカが引き留め、布袋にくるんだものを渡した。 「エリカ、これは……？」 「湯たんぽ。ストーブの上で沸騰していたお湯を少し水でうめたけど、ちょっと熱いかもしれないから注意してね。アリサから聞いたの。ルカは絶対に体を冷やしちゃ駄目って。」 湯たんぽをくるんでいる小さな布をパッチワークした袋は手縫いのものらしかった。ルカはその縫い目を指をそっと撫で、胸に抱えた。 「エリカ。……君は優しいね。有難う」 「ううん、整備はパイロットにしっかり飛んで貰えるようお膳立てするのが仕事ですもの。……ゆっくり休んで……また無事に帰ってきて……」 エリカの頭がトン、とルカの胸に当たった。ルカはそっとエリカの背に腕を回し、抱きしめた。 「うん……俺は大丈夫。自分の体のことはよくわかっているよ。だから、エリカ、君も無理はしないで……」 エリカと別れ、仮眠所に入ったルカは、自分が一度閉めた扉が勢いよく開かれた音に振り向くと、そこには、血相を変えたオズウェルが立っていた。 「オズウェル、何の用……」 話の途中で、ルカは胸倉を掴まれ、壁に背を打ちつけられていた。 「何を不埒なことをしている!?」 ルカは目の前にいる、自分より少しだけ年上の男が何を言っているのか理解できずにいた。 「不埒？」 「……あいつがあの人を待っていることを知っているはずだ。だのに、あいつの優しさと寂しさににつけいって自分のものにしようというのか。」 ルカは理解し、眦を上げ、オズウェルの手首をぐっとつかみ、ゆっくりと外す。 「なぜ、そうなる!?人が誰かを所有物のようにいうこと自体がおかしい。そして、俺は断じてそんなことはしていない。」 その毅然とした口調に、オズウェルは毒気を抜かれたようになる。 「ならば、なぜ抱きしめたりする！」 「…………相手を大切に思うならば、おかしいことなどないだろう。……エリカは大切な友人だ。同期として共にここにきて、馴染むまでの間、二人でよく話しをした。好意を抱いてはいけないか。大切に思ってはいけないか。彼女の不安を軽くしようとしてはいけないか。」 手首を握られたまま、体を入れ替えられて今度はオズウェルが壁を背に追い込まれる。見た目は優男に見える成人前の青年の手は厳しい訓練を積んだ、紛れもない軍人のものだった。 「…………准尉殿が居ない間……彼女を守りたいんだ。准尉殿が戻って来た時、彼女が笑い方を忘れてしまったりしないようにしたい。非情な戦の空気の中でも笑顔を交わし合いたい。」 「……その好意は報われない。」 「そうだね。わかっている。」 「……理解できん。」 「そうかもしれない……」 そして、ルカは手を放し、仏頂面の整備兵に向かって本当に優しく微笑んだ。 「でも、君だって同じだろう。オズウェル。」 そう言われてオズウェルの頬に血が上る。何か言い返したかったが、言葉は出なかった。しばらくして、『わかっていればいいんだ。』とオズウェルがいうと、ルカは湯たんぽを愛おしげに抱え直し、寝棚の一つに陣取った。 「休ませて貰っていいかい、オズウェル。正直、今の俺には休息が必要なようだ。……少し長めの、ね。……俺はやすやすと死んではいけないから……俺が死んだら、准尉殿を待つエリカの気持ちを折れさせることにもなってしまうから。」 極限まで疲労していたとみえてルカは足下に湯たんぽを入れてすぐ目を閉じた。取り残されたオズウェルは、安らかな顔で眠る年若いパイロットを一瞥し、小さく舌打ちすると、ドックに戻った。 アレックがシュレスベルク帝国へと飛び立ってから1年が経過した。帝国内では革命の狼煙が上がり、帝国軍は近隣諸国への侵略の手を緩めて然るべきであったが、そんな気配はついぞ感じられなかった。長期にわたる戦争状態で、ユクトランド軍はかなり疲弊しはじめていた。ロランドに到るずっと前にヤクトケーファーの編隊は、完璧に近い筈だった防衛線を突破しいつのまにかロビュから海を臨む空に現れるようになっていた。コリンをはじめとしたパイロット達はよく戦い、ロランド上空に来る前にこれを阻止した。……代償も払うことになったが……。死者こそ出なかったが、『おやっさん』ともう一人のパイロットは激しい空戦の中、二度と空に上がれぬ体となり、ロビュから去って行った。少しずつ体調を取り戻したルカは、常にコリンと翼を並べるようになり、見事な連携でロランドの街を脅かすことも無く海上で敵機を悉く排除した。ロランドの街の人々はいつしか彼ら二人を『ロビュの鉄壁コンビ』と呼ぶようになり声援を送った。コリンは撃墜数をのばし、ルカもまた、ほどなくエースの資格を得た。 オズウェルが紙挟みをを手にし本部棟からドックへと向かう途中、前方の休憩所にエリカとルカの姿を認めた。穏やかな表情でなにやら話している少尉は、こうしてみる限りは空の勇士とはとても思えない。醸しだす雰囲気が和やかで、容姿には気品も感じられる。トゥーフォンやエリカによれば、ルカはヴァイオリンやピアノも嗜んでいるという。貴族というのはすべからくそういうものなのかもしれないが、特にルカにはそれが似合っているようにオズウェルには思えた。 情に流されがちで士官としては問題がある。その評価を変えるつもりはないが、エリカの友人としてのルカは申し分のない人間のように見えた。彼はエリカの表情からその心情をよく読み取り、出撃続きの疲労の中でも不機嫌な顔一つみせず、いつも微笑んで沈みがちな彼女の心を解すように優しく語り掛けていた。……自分とは違う。いくら気持ちはあっても、自分は微笑むことなどできない。慰めたくてもぶっきら棒な言葉しか口からは出ず、叱咤を通り越して怒鳴り散らすこともある。……この国で認められているようであり実際はそんなことはない移民の子であり、母に便りも出さず、父とも和解できない人付き合いの悪い男、何の後ろ盾も無く、技術兵の薄給では自分ひとりが生きるのにもたいして余裕があるわけではない。……しかし、あいつならば……王家の教育係を一世紀以上務めている貴族フォルゴーレ家の一員ならば、この戦争がユクトランドの勝利で終わるにしろ、そうでなく終わるにしても戦後、自分などよりしっかりとエリカを支えられるはずだ。戦争に勝利すれば、エリカの実家のある王都で、貴族の夫人として何不自由なく暮らせるだろうし、万一敗戦国となったときにも、王家の一員ならば粛清されてしまうかもしれないが、教育係一族の三男坊まで手にかけるとは思えない。そして、いくら没落しようとも、フォルゴーレ家ほどの貴族ならば、一般庶民よりもよほどマシな生活ができるだろう。 初対面のときから年下のエリカを色眼鏡で見ることなく一人の人間として尊重し、女だからと侮ったりせず…… オズウェルが休憩所前に到達する前に、エリカは立ち上がり、手を振ってルカと別れていった。オズウェルは、一度歩く速度を落とし、エリカが建物の角を曲がってからまた速力を上げ、ルカの座っている椅子の前に差し掛かると、いきなり彼の椅子の前に滑り込むように腰掛けた。 「いいか、とにかく聞け。」 殺気だった表情で怒鳴りつけられるようにそう言われ、四歳年下の少尉は、いきなり現れたオズウェルに目を丸くする。オズウェルは、ルカに言葉を挟ませることなく、アレックとの約束のことを話した。彼が帝国に飛び立ったあと、エリカのことを頼むと言われたこと。……帰って来なかった場合を含めて彼女を託されたこと…… 「俺はあいつと整備班ではコンビだ。最も身近に居るのは確かだ、だが。」 オズウェルは殊更不機嫌そうに言う。 「あの救国の英雄に言われ、断るわけにはいかなかったが、正直言って柄じゃあない、迷惑だ。……だが、約束した手前、投げ出すわけにはいかない。……少尉に頼みたい。あいつを託されては貰えまいか。」 ルカは、言われたことをゆっくりと反芻していたが、机の上で指を組み合わせると生真面目な顔で、答えた。 「それはできない。准尉殿は君と約束したのであって、俺とではない。俺はオズウェルの役目をしてはいけない。そしてなにより、」 ルカの眉が吊上がる。 「エリカ自身の気持ちを他所に、誰がどう、と君がいうのは全く感心されたことではない。」 オズウェルは言葉を失う。確かにそうだ。……こいつの言うとおりだ。 「それに、君は嘘を付いている。オズウェル、君がエリカを迷惑に思うはずが無い。……何故君に託したんだと思う？准尉殿は君を信頼していたからだ。俺も見ていてわかる。君は態度こそ冷たいように思えるけれどそれは上辺だけでエリカをとても大切にしているし、彼女と最高のコンビだ。……それに……オズウェル、俺では駄目なんだよ。」 何故だ、というようにオズウェルがルカを睨む。 「……君はドックにいる。何時もエリカと一緒に。……俺はパイロットだ。ここを、ロビュ小隊を、エリカを、准尉殿の帰ってくる場所を守るために俺達は居る。……君は知っているだろう。大陸対戦の間、パイロットの生還率は全ての兵種の中で最も低かったことを。」 ルカはとても綺麗に笑った。 「俺は准尉殿のような優れたパイロットではないよ。……ここを命をかけても守り抜く決意ではいるけれど、……全てが終わったときに、生きてエリカの横に立っていられるかというと、客観的に考えてとても難しい。……君は違う。君は戦う人間ではない。ずっとエリカの横にいる。彼女が無事ならば君も生きているだろう。……ねえ、オズウェル、そうだろう。……僕からも頼む。君は……もう少しばかり彼女に優しく接した方がよいとは感じているけれど……君はとても誠実な人だ。エリカを頼むよ。エリカの同期の友人として心からお願いする。准尉殿は必ず帰ってくる。エリカと約束した通りにね。そのときまで、最も身近に居る人間として彼女を支えてくれ。」 頭を下げられ、オズウェルは視線を彷徨わせる。こいつは、あの人が『帰ってこないこと』など考えていないのだろう。そして、彼が帰って来なかったときにエリカの手をとるなどという生々しいことは考えもせず、純粋な好意から『支えてくれ』と頼んでいる。大貴族の子息、ユクトランド国軍の少尉が一介の平の技術兵に頭を下げている……だから、こういうところが軍人としてどうなんだ、とオズウェルは苛々しつつ、やはり、こいつの方が俺などよりもずっとあいつに相応しい、と心の内で呟いたとき ウォーと叫ぶようなサイレン音が鳴り響いた。音の鳴り方からして、これは最上級の警戒を促すものだ。ルカはオズウェルと顔を見合わせ、ドック横の待機室へ急いだ。オズウェルはドックへと走る。ほどなく、ルカはコリンから。オズウェルはナカジマから、戦況を説明された。 ロビンを主力とする南方の航空中隊からの入電は彼らの目を大きく開かせた。……帝国は、十機からなるヤクトケーファー部隊を戦線へ投入。ユクトランド国軍はこれを防衛ラインで食い止めたが、別動隊が大きく回りこみ防衛二次ラインをも突破。海上を北へ向かっている。そして、ラインを突破したのはヤクトケーファーだけではなかった。 ……一年半前にロランドの町を半壊させ、それがこの戦争の始まりだった空爆を行ったあの大型爆撃機……シュトラウスツヴァイがケーファーに守られ、再び悪夢をもたらそうとひたひたと空をこちらに進んでいたのだった。 |
| その２．コリンとオズウェル、エリカとルカのやり取りは、アレックさんルートでのアレックとオズウェル、クラウスとエリカを少しだけ意識して書きました。 尚、本文中に出てくる過去のやり取りは公式ではなく我が家設定です。 少年時のルカとアレックのやりとり→「ACE of ACES」 オズウェルとアレックの約束→「やくそく」 「ACE of ACES」は風色一周年記念祭のお題だったのですが、この時期から、「空白の二年」の間にアレックさんとの約束を果たすルカのことを書きたいと思っていました。ある意味伏線。「書かずに死ねるか」という奴です。 次回、空戦。もともと筆力がない上に知識不足なもので、「嘘っぱちドッグファイト」ではありますが、お待ちいただければ幸いです。 |
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