飛翔せよ、翼は既にある(3) |
それは予想されていたことだった。 帝国はあの騙し討ちのような演習でロランドを爆撃・半壊させ、それをもって開戦の挨拶とした。町を灰燼に帰さなかったのは、『やろうとすればそのような小さなことはいつでもできるのだ』という絶対優位を表すための行為であったのだろう。ロランドは生き残った。帝国の哄笑に満ちた温情に拠って。 しかし、今は状況が違う。かねてよりシュレスベルク帝国と対抗してきた大国、ランブール王国はユクトランドと帝国の開戦を機に空軍の防衛力を強化、開戦までは到らないが国境線を巡って両者の間には極度の緊張状態が続いている。帝国の南では、属領化しているリンツライヒに独立の気運が芽生え、嘗ては敵対していた更に南に位置するカラビア王国と手を結ぶ勢力が現れた。そして、帝国国内で『小シュレス主義』を標榜する、革命組織がその力を大きく誇示し始めた。……北の小国ユクトランドなど、すぐに降伏し、帝国に吸収されるはずであった。しかし、そのちっぽけな国のちっぽけな軍隊は、革命組織との戦いで勢いを削がれた帝国軍と互角に戦い、国境線は1ミリも移動していなかった。しかし、帝国も、ユクトランドも、その他の国々も知っていた。これはユクトランドにとってはギリギリのところでの消耗戦であるということを。何らかの決定的な敗北があればユクトランドの民の心は折れ、王家は国民を守るために降伏するだろうことを…………そして、その『決定的な敗北』の中にロランドの壊滅が含まれていることを。 もっと国境に近い位置に街はあるが、そこは海軍の軍港であり、国民の生活圏とはいい難い。王都、エーレ、フェンクスといった大都市に向かって飛ぶにはいかなヤクトケーファーでも距離が遠すぎる。 一度は生きながらえさせたロランドを完全破壊する……そのことが、ユクトランドの民の心を萎えさせることを帝国はよく知っていた。 予想されてはいた。考えられることではあった。しかし、それがこうして実際に起こりつつあることはまるで悪い夢のように思われた。 ルイディナは眉一つ動かさずに命令を下した。無論、それはシュトラウスツヴァイの撃墜若しくは無力化である。防衛分隊はフランツ＝ローナー曹長の号令一下、おそらく撃破は無理だと承知しつつも高射砲に取り付き、また、最悪の事態に備えて待機する。 ルイディナはまた、補給班隊長、ドゥニ=ブロッホ上級曹長を呼び寄せ、ロランド市民の街からの完全撤退のため、輸送トラックを走らせるよう命じた。 「街が失われようと」 ルイディナは毅然として言う。 「人が失われなければ、そこにはまた街は建つのだ。」 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 空襲の記憶が新しいロランドの街の人々は、兵士に促され、ほぼ身一つで避難していく。持っていきたいものは山ほどあるが、命より大切なものは何一つないことを彼らはよく知っている。……目指すは街の外……市街から少しでも遠くに逃れること！ 補給班の兵士達は、老齢の者、怪我や病気で走れない者を輸送トラックに次々と引き上げていく。フォンク亭でも大おかみと大旦那が乗り込むことになり、おかみさんは二人の付き添いとして同行することになった。元気で若いサラとセルジュは自分から身をひいた。……トラックの数は十分ではなく、自分たちが知っているだけでも、この付近にはたくさんのお年寄りが居住している。だから、大丈夫よ、かあさん、あたしたちは絶対に大丈夫だから、とふわふわっと微笑むいう姉の隣でセルジュはありったけの勇気を振り絞ってそうそう、そうだよ、じいちゃんやばあちゃんこそ気をつけてくれよ、と胸を叩いて言い、そのあと家族で抱擁しあって、三人の大人はトラックに登り、セルジュは姉と小走りに街の外を目指した。 「姉ちゃん！」 父親が作ったレシピのノートを左手で胸にしっかり抱え、息を弾ませながらセルジュは言う。 「何？どうしたの？」 「……俺達、戻ってくるよな！必ず、ロランドの街に戻ってくるよな！」 サラはくしゃくしゃっと笑う。 「あたりまえよ、この街は私たちの故郷なんですもの！」 「コリンとルカがどうにかしてくれる、きっとどうにかしてくれる！……もしも駄目でも……そのときはまたフォンク亭を建て直せばいいんだ！それだけのことなんだ！」 そうね、そうよ、とサラは言い、姉弟は手を繋いで走る。 ……ルイディナの言葉を体現するように。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ コリンは、クラウスから下された作戦を、地図を前にして四人の部下に伝える。 「向かっているのはヤクトケーファー七機。シュトラウスツヴァイ一機……もう一機居たっていうけど、それは南で撃墜したってことで、ロビンのパイロットに大感謝しなけりゃな。……シュトラウスツヴァイさえ墜とせば俺達の勝ちだ。ヤクトケーファーは地上への攻撃能力はナシだからな。あっ、だから、街の上で撃墜するのは勘弁してくれよ。墜とすんなら、海の上限定だ。」 いつもの通りの柔らかな口調で軽口を叩きつつ、コリンの頭は目まぐるしく回転していた。 (七機か。爆撃機を落とす前に、こいつらをひっぺがさなけりゃならない。こっちは五人。さぁて、どうしたもんだか。) 帝国に出発する前、アレックはコリンに様々なことを教えていった。編隊の作り方、連携のとり方、敵を誘い出し撃墜する方法、数に勝る敵への対処…… 大陸大戦の英雄、アレック＝ユーティライネンには、一対四で敵機と戦ったという噂があった。コリンが確かめてみると、アレックは笑った。 コリン、それは間違いだよ、と。それから訂正した。 確か、六機だったよ、と。 向こうも精鋭が来ているはずだ。腕利きパイロットに単独で対抗できるのはこちらでは何人いるだろうか。 コリンの視線が三人の部下の上を通り過ぎ、最後にルカで止まった。そして、机に敵機を表す赤いコマと味方を表す青いコマを素早く並べる。 「フォーメーションはこれでいく。……幸い、ケーファーはシュトラウスツヴァイの警護を教科書どおりの位置取りで行ってくれている。……ということは、今まで訓練してきた仮想空戦の通りにやればいいってことだ。一機ずつ引き剥がし、そう、こう、こんな風に。 青のコマを目まぐるしく動かす。 「有効な攻撃が可能と判断ししだい、シュトラウスツヴァイに攻撃する。奴の死角を確認。ここと……ここ。性能は悪いが、奴にも機銃がつけられている。当たったら痛いぞ！補給に戻ってる暇はなさそうだから、無駄弾撃たずに急所を狙っていこう。要はシミュレーションしてた通りにやってりゃいいんだ。隊長さんにしっかりついてくるんだぞ〜。」 パイロット達は、にこりともしない。皆、ここが正念場だと自覚しており、……そして、自分たちの命がここで尽きるかもしれないことをも静かに受け入れていた。 「あ、そうそう。……大切なことを忘れるところだった。大き目のレンガをちゃーんとどっかから拾ってきてから搭乗すること！」 レンガ？男達は顔を見合わせる。 「機銃の弾とか切れちゃって、あー、こりゃー、駄目かも、って思ったら、上に上がって敵さんの頭上から投げつけること。上手く当たれば効果絶大だからー！」 初めて、男達はくすりと笑った。全く、俺達の現時点での隊長は、こんな時にも胆の据わった大した奴だ。 離着水桟橋に着けば、既に五機のオオルリは離水準備が整い、整備士達はパイロットの到着を岸に近い所で一列に並んで待ち受けていた。ナカジマがこちらを見、オズウェルが、トゥーフォンが、エリカが、……整備士全員がこちらを見る。 コリンが敬礼し、続いて四人のパイロットが敬礼する。 「それじゃあ、行って来る！……ロビュ独立小隊航空班！搭乗開始！」 すると、あとからこの小隊に入ってきた三人の男達は、オオルリに飛び乗る前に、口々に『おひめさん、行って来るぜ！』と叫んでポンと一つエリカの背を笑顔で叩いて行った。あっけにとられるルカにコリンが笑う。 「あー、ルカが倒れている間、エリカちゃんは彼らの女神みたいなもんだったからさ……」 コリンは真顔になると、飛行帽の上からポスンとルカの頭に手をやった。 「頼りにしてるぞ、相棒！」 ゆっくりルカは頷く。何やってんだ、早く乗って待機しろ、と親方の怒声が聞こえ、ルカは走り出し……エリカの前に立つと、彼女の手を両手で包むように握手し、心配そうなエリカに笑いかけてからそっと一度だけ飛行手袋で髪を梳き、大丈夫、と目で会話してからオオルリのコクピットに飛び込み出撃の合図を待つ。 オオルリが一機だけ飛び立っていく。哨戒が彼の任務だ。……コクピットに無電はない。通信兵がもたらした情報と、哨戒に飛んだオオルリの双眼鏡による防衛分隊からの目視報告を受け、司令が離水の決断をする。 整備班の注視の中、桟橋横の装置にその連絡が来た。 「回せ！」 オズウェルの声が出撃の合図だった。四機のオオルリのエンジンが一斉始動し、プロペラが回り始める。爆音が鳴り響き、振動で海水が細かな飛沫になって宙を舞う。コリン機がすべるように発進した後、ルカは追う様に動き出し、……自分の機体の横、桟橋を疾走するオズウェルに気付いた。彼はいつもと同じ不機嫌な顔で何事かを怒鳴り散らしていた。エンジン音が全ての他の音を掻き消していく中、ルカの鼓膜は辛うじて、しかしはっきりとその言葉をでもって振動した。 ―――死ぬな、絶対に死ぬな――― 彼は確かにそう言っていた。 爆撃機を守るヤクトケーファーのパイロット達は、より抜かれた者達で、今までにユクトランド海軍のオオルリとも交戦経験があった。そして、彼らは出力と攻撃力に勝るケーファーを操ってこの青い機体を何機もいともたやすく葬ってきたのだ。この翼の上にエンジンを乗せた不思議な形の機体は、なぜこのような設計になっているのか彼らにはわからなかった。はっきり言ってしまえば、設計者が頭のおかしな奴だったとしか思えない。これをまともに御せるパイロットはそう多くはない。今もまた、視界に入ってきた馬鹿げた青い鳥は、ケーファーの背後を取ろうとやっきになっていたが、旋回が甘く、まるで餌食にしてくれと言わんばかりだ。パイロットは己の完全優位を信じて機銃の発射ボタンに手を添えた。と、獲物が急に横すべりのような奇妙な動きをして旋回した。……しかし、ついていけない動きではない、パイロットはラダーペダルを踏み込み…… 次の瞬間、ヤクトケーファーは背後からの攻撃を受け、撃墜された。 (こいつは俺達の得意でな) 嘗て、アレックの部下だったという曹長はこのフォーメーションをコリンに説明した。錬度の極端に低い機体を装い、大雑把に飛ぶ。敵は撃墜しようと寄ってくる。……河原のチドリが雛を守るため、怪我をした振りをして敵を自分にひきつける、それと同じだ、と。そのときに『横滑り』を行う。敵が尚も追ってくるところを僚機が撃破する。『横滑り』で逃れても、ケーファーが追尾してくれば、お陀仏だ。そんな危険な動きをこともなげにできるのは、アレック=ユーティライネンという隊長が、敵を討ち漏らすことがないという絶対的な信頼からだ。もともとは部下を助けるために、アレックが行った行動だというが、部下達はその動きを吸収することで、隊長に応えた。……その、信頼しあう関係が今のロビュ航空班の中にもある。 爆撃機の逆側では、同じ戦法でルカが一機を海に墜とした。……あと五機。 しかし、帝国のパイロット達は、もう『横滑り』では誘い出せなかった。彼らは飛ぶうちに、オオルリ乗り達の力量を見て取った。……突出した動きを見せる二機と、凡庸に思える三機。後者は一対一ではこちらの敵ではあるまい。シュトラウスツヴァイをロランド上空に送り届けるのが今回の任務だ。煩い蝿を減らして数の優位が得られれば、錬度の高い二機が相手でも恐れることはないだろう。 一機が爆撃機の傍から離れ、ゆったりした飛び方をしているオオルリに襲い掛かった。後ろを取った！と思った瞬間、オオルリはふわり、と上に浮かび上がる。何だ？今の動きは？とパイロットが次の動きに迷う中、ケーファーの左右からオオルリが回り込む。コリン機の機銃が音をたて、エンジンから黒煙があがる。……あと四機。 ロビュ小隊のオオルリは海軍のオオルリとは既に別の機体と言ってよいほどに異なっている。ナカジマの号令のもと、オズウェルとエリカが図面をひいて改造を加えたオオルリは、海軍のオオルリが決してできないような動きをやってのけた。 そこまでは、一気だった。そして、オオルリが優位に見えた。……そう、その時点までは。 ケーファーは編隊を立て直した。爆撃機にぴったりと寄り添い、離れない。オオルリは何とか引き出そうとしたが、敵は全く興味を示していないかのように思われた。業を煮やし、一機が至近まで近づくと、ケーファーは急旋回し、後ろを取り、オオルリを機銃で撃った。オイルタンクを損傷したオオルリはそれ以上の飛行を続けられず、海面へと降下していく。……これで四対四。が、その上からルカ機がふわりと舞い降りてきた。いかにも後ろを取ろうとしているかのように思わせ、右に急旋回し、そうはさせまいとケーファーも旋回する。そのケーファーがそのまま墜ちていくのをルカは見送る。隣にはコリン機が来ており、芝居がかった動作で敬礼をしている。 (来て欲しいときに来てくれる) ルカもコリンも相互にそう思い、微笑もうとしたところに、ケーファーのエンジン音が聞こえて左右に分かれる。 四対三。 これで優位にたてたろうか。いや、不利だ。爆撃機を入れれば四対四であり、しかもこちらには時間制限がある。……爆撃機が街の上空に入ればこちらの負けだ。コリンは焦りを感じる。……もう、ロランドの街は遠くはない。……間に合わなければ、捨て身で飛び込むまで……そう腹はくくっていたが、今はまだその時ではない。自分は、航空小隊の隊長代理(隊長はあくまでアレックだ！)は、皆の希望を背負っていなければいけない。部下が斃れようと『あの人が健在ならば大丈夫だ』と安心して墜ちていけなければならない。……コリンがそう思っていることを、中尉よりもずっと年上の部下二人はよくわかっていた。 二人は行動を起こした。最も爆撃機から離れたケーファーに二機で攻撃を仕掛けたのだ……彼らが目標としたケーファーは墜ちていった。だが、他のケーファーが僚機を攻撃するオオルリを屠った。それでも彼らはただでは落ちなかった……墜ちながら、彼らは残弾をすべて爆撃機の機銃部分へと叩き込んだ。炎は出なかったが煙が上がった。それを確認した二機のオオルリは、自分たちが定めた己の役目を終え、無様に海へと突っ込んでいった。単なる動力つきボートと化したオオルリの翼の上に上り、パイロットはコリンとルカの操るオオルリを見上げる。すべては二人に託された。あとは信じるだけだ。 二機しか残っていなかったが、不思議と恐怖はなかった。ルカも、コリンも、相棒の小さな動きに反応し、奇跡のような連携を見せた。残るケーファーは二機。いずれもてだれだった。膠着状態から抜け出すために、コリンは急上昇する。初めは動かなかったケーファーの一機が慌てたように動く。マニューバで宙返りし、背後に回りこまれる危険を察知したのだ。その判断は正しかったが、もう一機が一度降下してから急上昇してくるのには気付くのが遅れた。ルカは自分に背中をさらけだしているようなケーファーに機銃を浴びせる。計器盤の損傷が目視で確認でき、ルカは緊張状態の中で、小さく息をつく。次の瞬間、ルカは信じられないものを見た。僚機が沈黙させたと思ったシュトラウスツヴァイの機銃が相変わらず周囲から煙を薄く出しているが明らかに動いているのだ。狙っているのは……コリン機。 ルカは咄嗟にスロットルを全開にし、マニューバから通常飛行の体勢に戻ろうとしているコリンと爆撃機の間に割り込む。……そして、コリン機に穴をあけるはずだった機銃は、ルカ機の翼を損傷させた。……煙は出ていない。だが、青い翼は右の先端がもげ、バランスを失っている。 「無理をするな！」 声が届くはずはないが、コリンは叫んだ。ルカ機は高度を下げ、水面近くを飛行している。コリンは胸を撫で下ろす。そして、眼下に広がる光景を見る。……ロランドの港がすぐそこに迫っていた。……もう躊躇はできない。 コリンは微笑む。……いい人生だった。空と、飛行機と、人と……こんなおちゃらけた男に対して、神様はなんて多くのものを今まで与えてくださったことか！ヤクトケーファーの一機くらいは余裕でかわしてみせる。いや、かわさねばならない！ (エースだもんな、最後の最後にもう一機撃墜させてもらいましょうか！) 攻撃してくるケーファーを旋回して避け、コリンは爆撃機までの突入経路を考える。 (ルカ、お前なら、遺されても航空班を背負ってくれるよな？) 高度を落としているルカ機はもうコリンからは見えない。 (なぁ、……今度はお前のこと……守ってやれたよな？) どうせ体当たりをするのだ。最後のケーファーから蜂の巣にされても構わない。しかし、シュトラウスツヴァイに到達するまでに墜とされては堪らない。 (俺の青い天使。……君の最高の旋回を見せてくれ) 一度コリンは急上昇する。捻りを加え、急降下しながらケーファーの脇に回りこむ。パイロットがこちらに気付く。いかん、間に合わない。 と、横合いにもう一機のオオルリがふわりと浮かび上がった。……ルカ機は片翼でもって、空の戦線に再び突入してきた。最後のケーファーがルカに照準を合わせる。ルカは慌てない。……それどころか至近にいたコリンに片手をあげてみせた。 (馬鹿！) しかし、この好機を見逃すわけにはいかなかった。コリンは小さく旋回し、脇の空いた爆撃機の懐に下から潜り込む。エンジンを空冷させるために開いた空間。確実にエンジンをを損傷できる場所。 狙いを定め、残弾を全て打ちつくす。 爆撃機の動力部が火を噴く。それが墜ちていくことは、パイロットがパラシュートで飛び出したことから明らかだった。灰色の機体は斜めに落ちていく……それが鼻面を海面に落としたのは、ロランド漁港から僅か１キロの沖だった。 その脇を、最後のヤクトケーファーが墜落していった。コリンの頬が一瞬緩んだが、それは凍りついた。……ヤクトケーファーに並んでオオルリが……片翼のオオルリが落ちていく。いや、自然落下ではない。エンジンからうすく煙をあげていたが、ルカ機はまだ生きていた。傷ついたオオルリは、小隊の離着水桟橋を目指ししばらく滑空、キールを下ろし海面に着水し……桟橋に向かってしばらく走った後……不自然に停止した。 固唾を呑んで双眼鏡を使って状況を見守っていた整備士達は、何が起こったか把握できずに、海上で止まってしまったルカ機を呆然と見る。……あれはエンジントラブルで止まったのではない。明らかに「止めた」のだ。そして、彼らは見た。豆粒ほどにしか見えないが、飛行服を脱ぎ、軍服のジャケットもブーツもいだルカが操縦席から海に飛び込んだのを。 状況をいち早く察したのはオズウェルだった。 「……あいつはここを守ろうとしている……」 「え？」 オズウェルの呟きを耳にしたエリカが声を出す。 ……ケーファーに墜とされた三機のオオルリは、海面をゆっくりとこの離着水桟橋へと移動して来ている。……ここで爆発が起こったなら桟橋は破壊され、移動してきた三機のオオルリも巻き添えになるだろう。……それをあいつは理解している。 馬鹿め。 オズウェルは万一に備えて係留されていた予備機にロープと浮き輪を持って飛び乗り、トゥーフォンに叫んだ。 「係留索を解け！」 「何言ってんだ、オズウェル、一体何を？」 「回すと言っているんだ！この馬鹿やろう！」 あまりの気魄にトゥーフォンは発進の手助けをする。同時にオズウェルはスロットルを全開にする。オオルリを動かしたことなど一度もないが、こいつの機能は親方の次くらいには把握している。揚力をつけず、ひたすら海面を進むにはどうすればいいかを技術者として理解している。全く……全く世話の焼ける奴だ。自分の命をなんだと思っている？ 海面を進み、ルカのところまで到達したオズウェルは、ロープを結んだ浮き輪を投げる。 「捕まれ！」 本来、操縦席まで引き上げてやるべきだろうが、オズウェルにそんな膂力はない。ルカが腕でしっかりと浮き輪を掴んだことを確認すると、端を搭乗補助用の手摺にしっかり結びつけ、再び出力をあげ、海面をターンして一路、桟橋へと向かう。 振り返る余裕など無かったが、大きな爆発音と熱風を背後から感じたのはそれほど長い時間が経ってからのことではなかった。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 桟橋からはボートが出され、トゥーフォンがぐったりして浮き輪につかまっていたルカを引き上げた。離着水桟橋に上がったルカは、海水を飲んだのか時折咳き込んでよろついていたが怪我はなく、既に戻っていたコリンを含む他のパイロットから荒々しく祝福された。『さすがは俺らの王子さんだ』『ったく、見せ場、攫っていくなよな』『ひやひやさせるなよ……って、先に落とされた俺達がいうことじゃないか』コリンはぐしょぬれのルカをえいやっとばかりに腰を掴んで抱え上げた。 「今ので撃墜十機目だったっけー？いやいや、俺も鼻が高い高い！」 コリン、ふざけるなよ、下ろしてくれってば、と顔を赤くしてジタバタするルカを桟橋に素直に下ろし、コリンはパイロットを横一列に整列させる。 「ロビュ小隊航空班隊長代理、コリン=グレイディーア中尉以下パイロット５名、、整備班諸君の整備と支援に感謝する！」 完璧な形の敬礼に親方はニヤリと笑う。 「いいっていいって。飛行機ってのは、パイロットが居なけりゃ飛ばねえからな。俺達もお前らに感謝、だ。……特に今回は感謝してもしきれねえ。……なくなってもおかしくなかったもんが、何も欠けずにあたりめえのように在り続けていやがるんだからな。……それよか、ルカ、おめえは早く医療室に行きな。顔が青いぜ。……パイロット連中は報告があんだろ。エリカ、お前が連れて行け。 しかし、ルカは、相変わらずのぶっきら棒な顔をしているオズウェルのもとに近寄って深く頭を下げた。オズウェルはそっぽを向く。 「別に……お前は遠泳が得意そうに見えなかったし……親方もいったろうが。飛行機はパイロットが居なけりゃ飛ばないんだ。……だったら助けるのが整備士としての筋だ。」 ルカは、ありがとう、といって、オズウェルを抱擁した。 それじゃ、コリン、俺は行くよ、とルカが言うと、それまで平静を保っていたエリカがルカの手を握って俯いた。 「……医療室行ったついでに、そいつの気持ちも落ち着けさせろ。つーか、エリカも自力で落ち着け。そんなんじゃ仕事になんねえからな。」 ルカは、はい、と笑顔で言い、会釈した。それをぼーっと見送っていたオズウェルの足がいきなり地面から浮いた。馬鹿げたことに、コリンがオズウェルを横抱きにしてくるくると回っているのだった。 「ば、馬鹿！何をやってる！ヤメロ！」 整備班と航空班の両方から爆笑が起こる。 「いやー、相棒を救ってくれたヒーローへ、感謝を込めての行動！オズウェル、男にしちゃ軽いなー！」 馬鹿、殴るぞ、と言おうとしたオズウェルの耳に、コリンの小さな呟きが注ぎ込まれる。 (……今度も守れないかと思った……) その声は、コリンの声だと思えないほどに震え、泣きそうな声で、オズウェルは『お前があいつを守った。俺がいかなくてもおそらくあいつは大丈夫だった』と柄にも無く静かに囁き返し、直後、背中を乱暴に叩いて、桟橋に飛び降りると 「気色が悪い。いくら漁色だといっても男まで守備範囲に入れるな」 と怒鳴り散らした。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ この『空爆阻止』のあと、ロランド近辺にヤクトケーファーが現れることは殆どなくなった。帝国内では小シュレス主義者達の革命組織による動きがシュレスベルク全土へと広がり、他国への侵攻の要であった空軍も、嘗てのグリュンフォイエルと、彼と翼を並べる彼に勝るとも劣らぬ優れたパイロットによって、力を削がれていた。……皇帝は既に大国を統べるだけの力を認められておらず、軍部と貴族世界の指導者達が己の地位基盤を守ることに躍起となっていた。そして、ユクトランドとランブール、小シュレス主義者の代表、リンツライヒの反帝国主義者代表は非公式ながら会談を設け、世界は停戦に向かって少しずつ動き始めた。 「なんだって？」 オズウェルはルカに向かって問い質した。 「お前、馬鹿か。下手しないでも営倉送りだぞ。」 それほど、ルカがオズウェルに持ちかけた頼みごとは常軌を逸していた。ルカは、少し気分を害したように眉をひそめ、そんなことはわかっているよ、と答えた。そして、微笑むと、でも、営倉も一度は入っておくべきかと思って、と言ってきたので、やはり馬鹿か、馬鹿はトゥーフォンとコリンだけかと思ったが、と呟くと、ルカは、トゥーフォンもコリンも馬鹿じゃない。そういう言い方は辞めた方が良いと思う、ととても生真面目に諭すように言った。 「説教なんかするなよ。……どうせ冗談だ。なんで、いったいまたそんなことを考えたんだ。」 ルカは静かに言う。王都に帰らなくてはいけなくなった、と。ついては、約束を果たさないままここを去るのは本意ではない、と。 「そんな約束、いつしたんだよ。」 「……随分前。……でも、正直なところ、約束していなかったとしても、俺はそうしたい。」 オズウェルは前髪を掻き揚げる。……ああ、そうだ、確かに……俺がパイロットだったとしてもきっとこいつと同じことをしたいと思うだろう。『わかった、協力する。だが、俺は営倉はごめんだ。』と言いつつ、さあて、どういった風に親方を誤魔化すか、とオズウェルの頭は目まぐるしく回転を始めた。 それから暫く経った日の早朝、まだ暗い内にルカはエリカをドックまで呼び出した。ルカが程なく王都に戻ってしまうことを知らされていたエリカは、ゆっくりと話がしたいと言われ、不審に思うことなくドックへと向かった。……そこには、飛行服を着たルカが待っており、エリカに予備の飛行服を差し出した。戸惑うエリカにルカは説明する。 「この小隊に入ってまだ間がなかった頃、食堂でのことを覚えている？」 エリカが緑色の瞳を大きく見開く。 「君はコリンの後ろに乗せて貰って、空が素敵なところだって俺にとても嬉しそうに話をして……そのとき、約束したよね。今度は俺が乗せてあげる、いつになるかわからないけれど……って……。エリカはそのとき『楽しみにしてる』って言ってくれた。今がそのとき。さ、行こう！」 先に立って歩き出すルカにエリカはまだ戸惑っている。ルカと一緒にトラックに揺られて右も左もわからずに小隊に着いた頃とはエリカも違う。いくら士官だとはいえ、ルカに独断で空を飛ぶ権限はない。ましてや技術兵と二人乗りなど……はっきり言って、ウーデット少佐と個人的な繋がりのある親方がゴリ押ししない限りはできない相談だ。でも、ルカは晴れやかな表情で桟橋に向かう。 「ルカ、ちょっと待って。こんなことやったら、あなたが罰せられてしまう。」 エリカが立ち止まってしまったのに気付き、ルカは首を振る。ここで進むのをやめる気は毛頭ない。 「約束したからということもあるけれど、俺が君と一緒に飛びたいんだ。……ダメかな……」 そう言われてしまってはエリカも反対できなかった。桟橋に着けば、オオルリは既に発進を待ちかねており、ルカの手に縋って操縦席に入れば、昔コリンと一緒に飛んだときのようにエリカが乗れるようシートが極限まで前に引き出されている。……これをやったのは誰？親方さん……？親方さんでなかったら誰？ 「準備はいい？しっかりつかまって！」 エンジンが始動する。 「行くよ！」 ルカがオオルリをゆっくりと始動させる。……初めにオオルリを見たときには、水上機というものすらエリカは知らなかった。飛行服の必要性も理解していなかった。こんなものが本当に空を飛べるのかと不安に震え……空に上がって辺りを見たとき、空の青さと、どこまでも続く今まで見たことのないような景色とにエリカは目を見張り……不安は高揚感にとって代わった。あのとき、エリカは空と飛行機の魔法にかかり…… オオルリが空に上昇する。見下ろす海面は夜明け前でまだ鈍(にび)色だ。……何も知らない17歳の少女は、この小隊でたくさんの人と物に出会い、多くの宝を心に積んだ。今は……心から、少しずつ何かがこぼれていっている。大好きな空の色の瞳を持った人は敵国に赴いたまままだ帰ってこない。 エリカは帝国がある方角をじっと見つめ、飛行帽からはみ出た髪をごわごわした手袋で押さえた。どこまでも自由に飛んでいく可能性を秘めた機械、それが、人殺しの機械であり、人を実際に殺していくところをエリカはその目で見てしまった。…… 戦いは終わったのだろか。本当に終わるのだろうか。終わったのだったら、大好きな人は何故帰ってこないのだろうか。 「エリカ！」 晴れ晴れとしたルカの声にエリカは我に返る。 「日が昇る！」 空は朝焼けに変わり、海面には太陽に向かって輝く金色の道ができていた。 「……綺麗……！」 美しいものを、心から美しいと言える気持ちが残っていたことをエリカは嬉しく思う。そう、やはり飛行機には無限の可能性がある。人が諦めない限り、人が、間違えない限り！ 太陽が水平線から離れると、空の色は目まぐるしく変わり始め、青に向かって一日の準備を始める。 「ルカ。」 「なぁに、エリカ。」 「……これで、すべて終わったの？」 ルカはそれが戦争のことを指していると知っていたが、大きく首を振って叫んだ。 「いいや！」 エリカの体がピクリと震えた。ルカは叫ぶ。エンジン音に消されぬように、そして、自分に誓うように。」 「終わりじゃないんだ！…………これから全てが始まるんだ！」 ルカの左手が上に上がり、シートを越えて延ばされてきた。エリカはその手に、大切な友人の指に自分の指をしっかりと絡める。 「……………………そうね、そうね……始まるのね！」 エリカがしゃくりあげる。その声に気付いたルカが、大丈夫、と声をかけると、エリカは答えた。 「涙が止まらないの。だって……だって、世界はこんなに綺麗なんですもの。」 空はもう青に近づいていた。ルカはきゅっとエリカの手を握る指に力を入れ、エリカも握り返した。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ それから三日間、ルカは自分の予想通りに営倉に入れられた。嬉々として牢に入っていくルカと対照的に困惑気味の副指令が妙といえば妙であった。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ オズウェルがルカと最後に会ったのは、彼が王都に帰る前日だった。休憩所の壁に寄りかかったオズウェルが横で壁に寄りかからず立っているルカと並んでいる風景はとても話をしているとは遠目には思えなかったが、彼らは親しく……初対面の時と比べると卒倒しそうなほど親密に会話していた。今日に到るまで、小隊をあとにして王都に戻る事情を聞きもせず話題にもしなかったオズウェルが何故帰るのか、貴族というのは親の成すままに動くのか、と問うと、ルカは微笑んだ。 「……俺が今一番しなければいけないこと、俺だからできることがわかったから。」 初めて会った頃と違い、ゆったりとそういうと、オズウェルはそれは何だ、パイロットを辞めるほどの理由がどこにあると突っ込んできた。 「いろいろあるけれど……たとえばできるかどうかは別として、航空機発展のためのはたらきをしていこうと思う。」 へーえ、とオズウェルは無感動に言い、だが、それは王家の教育係の一族レベルのはたらきではなく、王家そのものレベルの仕事じゃないのか、とルカを横目で見る。慌てるルカを不審に思いながら、だが、とオズウェルは続ける。 「コリンから、お前は第三王子……なんという名だったか、あの王子は……とにかくそいつの学友だったと聞いた。大方、そこらへんから攻めるつもりでいるんだろう。……何にせよ、それが実現されれば何よりだが期待せずに待ってはみるか。……その王子、どんな奴なんだ。」 ルカは赤くなった頬を元の色に戻した。 「……なんというか、目立たない人だよ。皇太子のフレドリク様は『真面目で優しいだけ』といったこともある。……俺にいわせれば、その真面目さも優しさも自分の自信の無さを取り繕うためのもので……本来在るべき場から逃げ出してしまうような弱いところもあって……」 オズウェルはため息をついた。 「馬鹿か、その王子。」 「……ああ、相当馬鹿だと思う。最も身近にいた俺が言うんだ。間違いない。」 オズウェルは目を丸くする。目の前に居ない人物をこの男が悪し様に言うのを彼は初めて聞いたのだ。 「……でも、それはちょっと前までのことだからね。もう逃げないと思う。カレルヴォ王子は。」 「そっか……まあ、お前の友人だったら、そこそこいい奴なんだろう。………………それより、……ここにはもう戻らないのか？」 オズウェルの視線がドックの方を向く。そこには整備兵の幾人かが居るはずだ。トゥーフォンに、エリカ…… 「ああ、でも……」 ルカは微笑む。 「……こんな俺だけれど、君が判断して俺の力が必要だと思うときには、手紙で呼んでくれ。フォルゴーレ家気付ならば俺の手に入るから。……その時には、家名も何もかも放り投げてきっとここにくる。……あくまでできる範囲で、だが。……だから、……オズウェル、頼んだよ。 何を、とルカは言わなかったし、オズウェルも何を、と尋ねなかった。しかし、二人は言葉がなくともそれが何なのかをよく承知しており、移民の子である整備班の一等技術兵と王都の貴族である航空班の少尉は対等の立場でしっかりと握手を交わしたのだった。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ それから何年もの月日が経過し、オズウェルのもとに一通の書簡が届いた。それは新たに設立される航空機開発機関の技術者としてオズウェルを招聘したいという依頼の文面であった。手紙の最後には聖なる槍を意匠化したユクトランド王家の印が押され、それが王立の機関であることを明確にしていた。 「全く……何をぐずぐずしていたんだか。……遅いんだよ。……まあ、不器用なあいつにしては上出来か？」 もうその頃にはルカが何者であるかを知っていたオズウェルは呆れたような調子で呟いたが、その口角は確かに少し上へと上がっていた。 |
| やっと完結しました。フォンク亭の人たちの様子も入れたい、コリンとルカのあれこれも入れたい……と様々なことを詰め込んでいきましたら、かなり散漫な印象になってしまいました<(_
_)>。 ルカとオズウェルの物語ですが、今在る場所から前進し、飛翔していくのはルカ。オズウェルは見守り役です。王立航空機機関の視察に来た王国第三王子と、機関で設計の腕を存分に奮うオズウェル。二人が平和な空を飛ぶ飛行機を前に言葉を交わす様子を是非見たいものです。 風色４周年祭開始から20日間弱。最後までお読みいただいてありがとうございました！ |
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