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| フレイス村の昼下がり。 今は春の真っ盛り。小高い丘の上にある村からは、海がきらりきらりと輝いているのが見えた。老人たちは日差しの中、パイプをくゆらしたり、ちょっとした縫い物をしたりしながら広場に置かれた椅子に座り気のおけない仲間どうし集まって談笑している。漁師たちは早朝の漁から戻って網を繕っている。畑を耕している者や、細工師、鍛冶屋、道具屋などはひるげの休みに入っている時間だ。 今日は夕方から大漁祈願の祭りを行うせいか、あちこちでそのための用意をしている者達も目立っている。 村人は皆働き者だ。朝、早くから起き出してめいめいの仕事を始める。フレイスの村人に限って、ものぐさの穀潰しは一人もいないということができる。 彼らはまた、村人どうし、非常に仲がよい。一人が病気になれば、村人全員で心配をし、誰かが結婚するとなれば三日続けて踊りの輪が作られる。 織物商人のダジルは、驢馬から降りると村の端にある小さな家の入り口に向かって呼び掛けた。 「シーラさん！私だ！ダジルだよ！」 この家の女主人はにこやかに微笑んで刺繍の施された幕を上げて出てきた。もう三十はとうに過ぎているはずだが、二十歳くらいにしか見えない。ほっそりとしたたおやかな姿にはまわりをはっとさせる美しさと少女を思わせる可憐さが同居していた。 「まあ、ダジルさん、お待ちしてましたわ。さあ、どうぞお入りになって。」 ダジルが入っていくと、よく磨かれた気持ちのいい部屋が彼を迎え、木づくりのテーブルの上に幾反かの織物が乗っていた。シーラはダジルに椅子をすすめると、お茶の支度をするために台所に入っていった。 ダジルは反物を手慣れた調子で広げ、満足気に頷いた。 「いつもながらシーラさんの腕前は大したものだ。模様は美しいし織りも確かだ。こんなに素晴らしい織物を扱えるとは商人冥利につきるよ。」 ダジルが反物をまとめて背負い篭に入れるとシーラは濃い茶をテーブルに置いた。商人は一口飲んで目を細め、懐から革袋を出すと幾枚かの金貨を取り出した。 「こんなにたくさん？・・・・受け取れませんわ。」 シーラが金貨を押し戻すとダジルが押し返した。 「いいや。あんたの布にはこれくらいの価値は十分にあるよ。・・・・受け取っておくれ。そうでないと私が都で暴利をむさぼることになってしまう。都ではね、貴族のお偉いさんが高値で買ってくれるんだよ。特にこの間の海の風景のタペストリーは”海の音、海の匂いがしてくるようだ！”と宮廷ご用達の画家を唸らせたくらいなんだ。だからあんたが豊かになるのは当然のことなんだよ。さあ。」 シーラは何度も何度も礼を言って金貨を受け取って棚の中の小箱にしまった。彼女は金にこだわらない性格だが、その有り難さも知っていた。 「気にしないでおくれ。こっちも商売なんだ。損はしないさ。・・・・それより・・・・シーラさん。」 シーラは首を傾げた。 「余計なことかもしれないが、この村を離れて王都に越したらどうかね。都は便利だし、大きな織り屋で働けば売れっ子になって生活も楽になるよ。何より上のお子さん達と一緒に暮らせるじゃないかね？男手のない生活は大変だろう。いや！あんたがしっかりやっているのはわかっているさ。ウェンスが海で死んでから十年、本当にがんばっているよ。しかし、やはりたいへんだろう？」 シーラは静かにかぶりを振った。 「この村で私はウェンスと結婚しました・・・・・あの人が亡くなった今も、ここを離れるつもりはありませんわ。それに、下の二人の子供達が私を支えてくれます。生活になんら不自由はありません。」 商人は一つため息をつくと微笑んだ。 「ウェンスは幸せ者だな。・・・・この世を去ってなおこんなに愛されて。ああ、あんたの爪の垢をせんじてうちのかみさんに飲ましてやりたいもんだ。」 シーラは微笑んだ。ダジルはなんのかんのいっても愛妻家として有名なのだ。 「ところで、子供達の姿が見えないようだが？折角土産を持ってきたのになぁ。」 商人は残念そうに小さな二つの袋を懐から取り出した。 「ファナちゃんにぴったりのペンダントを見付けてきたんだが。」 「いつもいつも済みません。ファナは隣のシン君とタグ君兄弟と一緒に花を摘みに出掛けましたの。」 「あ、今日は”大漁祈願の夜”の日か。ああ、夜までいられりゃファナちゃんの竪琴と綺麗な歌が聞けたのになあ。シンはファナちゃんを飾る花を自分で摘みたいってか？シンももうそろそろ大人だし、次の春までに結婚式が見られるかねえ？」 「ええ、・・・・そうなってくれればいいと思っていますの。ファナはともかくシンは十分に家を構えられる青年ですから。」 「ほっほっほ、こりゃあ楽しみだ。で、ラルは今どうしている？」 「ラルフィスは・・・」 シーラが説明しようとしたとき、大きな声が遠くから近付いてきた。 「かあさぁぁ〜〜ん！」 シーラはタペストリを跳ね上げて明るい戸外へ出た。陽光が彼女の髪を照らした。不思議なことに太陽の下では彼女の艶やかな髪は深い青い色を帯びて見えた。目を細めているシーラの視線の先には、村の広場を突っ切ってこちらに走ってくる少年の姿があった。小柄で細い体を洗い晒しの服に包んで元気よく足を上げて走ってくる。胸では小さなペンダントが歩調に合わせて弾んでいる。右手で銛をしっかり掴み、左手で大きな板のようなものを小脇に抱え、心底嬉しそうだ。 広場にいる村人はそんなラルの様子に慣れているのか驚きはしなかったがくすっと笑い声をたてた。と、村一番の年寄のセイばあちゃんがゆっくり杖をつきながらやってきた。ラルは慌てて止まろうとしたが、勢い余って横に転んだ。その前を何事もなかったようにばあさんはとことこと歩いていく。ラルはポリポリと母親によく似た深い青い色の髪を掻き、立ち上がるとまた家に向かって走りだす。 「おかえりなさい、ラル。」 優しく迎える母親の足元にラルは頭上に抱えてきたものを静かに置いた。得意そうに胸を張る。 シーラの肩ごしに覗きこんだダジルがびっくりした声をあげる。 「こりゃあ凄い。銀ヒラメじゃないか。・・・・この二・三年、ずっと漁模様が悪いってえのにこんな大物をよく捕ったなあ！」 「あっ！ダジルさん！こんにちわ！」 ラルは無造作にぴょっこりお辞儀をし、右手に持った銛がダジルの鼻先を向いた。商人は慌てて飛び退いた。 「おいおい！気をつけておくれよ！・・・・で、どうなんだ？魚の群れが帰ってきてくれたのかい？」 ラルのくるくる動く大きな水色の瞳が心持ち下を向いた。 「ううん・・・・帰ってくるどころか、だんだん減っているみたいなんだ。このヒラメだってずっと深くまで潜ってやっと捕まえたんだ。浜のおじさんたちも困ってる。海の妖精たちは何をしてるんだろうって。・・・・」 ラルはそっくりかえるようにしてダジルを見上げた。 「でも、負けないよ。いつか魚は帰ってくる。大きな金色のキュリアナも戻ってくる。俺、父さんみたいな村一番の銛漁師になって奴を捕らえてみせるんだ！」 シーラが息子の手から銛をそっと受け取った。 「ラル、お魚をどうにかしないと傷んでしまうわ。もう買って下さる方は見つかったの？」 ラルは”いけないっ！”といったように口に手をやるともう一度ヒラメを担いだ。 「粉屋のランドンさんのとこまで届けてくるねっ！もう一匹、これよりでっかい奴を捕まえたんだけど、それは今日のお祭り用にとってあるからね。あっ！おっちゃん！ごゆっくり！」 ラルは疾走して消えた。 息子の後ろ姿を見て母は小さくため息をついた。 「あの子ったらいつまでも子供で・・・・」 しかしその口調には息子に対する愛情が溢れていた。海で死んだ彼女の夫、ウェンスはキラキラした瞳をもった男だった。彼はシーラを横に伴って海を見つめ、夢を語った。彼の夢はシーラにとっては大きすぎるものだったが、彼女は夫の夢を理解していた。二人は何度か夜明しでその夢について語り合ったものだった。ウェンスは単なる夢想家ではなかった。困った者があると進んで力を貸す優しい強い男だった。シーラもウェンスもこの村の生まれではない余所者だったが、しばらく暮らすうちに村人達は受け入れてくれた。いや、ウェンス達を喜んで迎えてくれたのだ。 金髪ですらりとしており貴公子のような顔だちをしたウェンスは美しいシーラと共に、この片田舎の村には不釣り合いな美しいカップルだった。そのため、いろいろな噂が初めのうちは飛びかったがウェンスは気にしなかった。その噂はウェンスが進んで村の仕事を引き受けて働くうちに消えた。ウェンスは村祭りの夜、村に来る前から持っていた竪琴を奏でた。シーラは彼の琴の音に合わせて歌った。夫婦のまわりでは村人が総出で踊った・・・・懐かしい日々・・・・やがて四人の子供が生まれ、幸福な生活が続くかと思えたのにウェンスは逝ってしまった。シーラとウェンスが初めて出会った場所である海へ・・・・ 四人の子供は父親の美点をそれぞれ受け継いでいた。正義感の強い偉丈夫な長男のローンは現在王宮の近衛騎士団の一員である。人と苦しみを分かちあい命のの尊さを知る次男のシェンスは既に神官の地位に就き、琴を弾き謙虚で静かなファナは旅の偉大な吟遊詩人から”王都に来て私の弟子にならないか。”と誘われた。・・・・この三人は村人から”シーラの家の三つの宝玉”と言われていた。残るラルフィスはとくに際立った才能といったものを持っていなかった。二年前まではファナと競い合うほどの竪琴引きで歌も綺麗だったが、ぱったりとやめてしまった。（これは遊び仲間から”歌なんか歌う奴は軟弱だ”と冷やかされたせいである。）魚取りの腕は確かだがそれとて浜の男達にはかなうものではない。元気で明るく少し大雑把で抜けていて憎めない子。男のくせに花が好きなちょっと変わった子。無類のお人好しで暇があれば誰かの手伝いをしているが、偉そうなことは全く言わない。遊び仲間も多く、同じ年頃の子供達の中で一際活発だったが、喧嘩は苦手だった。弱いのではない。やれば勝つ。ただ、ラルは争いが嫌いなのだ。剣術も嫌いだ。近衛兵になった長兄のローンが教えてくれようとしたことがあったが、即座に断った。 ”いい奴だけど何だかよくわからない奴”それがラルだった。 しかし、シーラはラルフィスを他の三人と同様に愛していた。 ラルは成長するにつれてウェンスに似てきた・・・・・・特にその水色の瞳が・・・・ たったったと軽快な足取りでラルが戻って来たときにはシーラとダジルはテーブルについて静かに昔の話をしていた。ラルは二人の様子を見て一瞬立ち止まったが、急いで笑いを顔に浮かべると大股で入っていって抱えていた茶色の革袋をテーブルに置いた。 「かあさんただいま！これ、魚の代金。粉で貰ってきた！」 ダジルがにっと笑って小さな袋をラルに放る。 「おっ、帰ってきたな。それはおじさんの土産だ。開けてみな。」 ラルが袋の口を緩めて中身を手で受けるとると色とりどりの丸い飴玉が転がり出てきた。 「もう・・・・おっちゃんったらいつまでも俺を子供扱いして・・・・」 「おやおや、飴は嫌いか？せっかく王都の店で買ってきたのにな。そりゃ残念だ。」 ダジルが袋を取り返そうとするとラルは慌てて一つ飴を摘んで口に入れると残りを懐にしまった。椅子に座るとその上で器用に胡坐をかく。 「うん、うん、さすがおっちゃんの選んだ飴玉だ。素晴らしい舐めごこちだな。」 「・・・・見え透いたお世辞はいらんよ。・・・・しかし、なんだなぁ、お前さんに好きな女の子でもいたら、贈り物用に髪飾りの一つも買ってきてやったんだが、ラル、そっちの方はどうだ？」 ラルは吹いた。 「そんなこと考えたこともないよ。・・・・兄さんたちだって俺くらいの年のとき、そんなことなかったしさ。」 「ははっ、お前さんは知らなかっただけさ。兄さんたちはお前さんくらいの時、二人とも村の娘に追っ掛け回されていたんだぞ。ローンは腕っ節が強かったし、シェンスはあの通り姿がいいからな。シェンスは迷惑している様子を露にしていたが、ローンはだいぶにやけていたなぁ・・・・」 末弟は口笛を吹いた。 「・・・・に、しては二人ともお嫁さんをもらわないね。二十歳を過ぎてるのに。」 「そりゃあ、剣の道、或いは神の道を究めるためには女は邪魔だろう。シーラさん、こりゃあ、孫の顔が拝めるまで、相当時間がかかりそうだね。もしかしたらファナちゃんとシンの結婚が一番最初になるかもしれないな。」 ラルは目を丸くしてダジルを睨んだ。 「ファナねえちゃんがぁ？そりゃあ、あと何年かしたら隣のシン兄ちゃんと一緒になるかもしれないけど・・・・シン兄ちゃんが俺の本当の兄貴になったら嬉しいけどさ、ファナねえちゃんはは俺と一つ半しか違わないんだよ！」 ダジルは舌を鳴らした。 「ラル、お前さんはまだわからんかもしれないがな。女って奴は男よりもずっと早く大人になるんだ。ファナも花嫁になるのに適当な年令だ。」 ラルは納得がいかないように首を捻っている。 「かあさん、どう思う？」 シーラは微笑んでいるだけだった。 「我が家の大黒柱さん、ファナを呼んできてくれる？お祭りの用意をしなけりゃ。」 母に頼まれるとラルは嫌な顔一つせずすぐに席をたった。そしてダジルに会釈すると、妹を捜しに出ていった。 「シーラさん。ここはまだ安全なのかい？」 心配そうに言うダジルにシーラは眉をひそめた。 「安全・・・・といいますと？」 「いや、王都の近くではこのところ急に狂暴な獣が増えてきてね、女子供の一人歩きはできたもんじゃない。獣だけじゃない。数は少ないが”異形のもの”も出没していてな。」 シーラは息を飲むとダジルの話の続きを待った。 「その顔じゃ知らぬようだね。・・・・異形のものはいわゆる怪物だ。しかしその形は出会った者によって全く違っている。黒いもやもやした固まりだというものも居れば、人間と獣を混ぜ合わせたようなものだというものもある。死体がないのでなんともいえないのだが・・・・とにかく精霊様の加護が都にはないらしい。この平和な村でも魚が獲れなくなっている。・・・・・風、水、火、土・・・・四大精霊神様は何をなさっていらっしゃるのだろう。・・・・・・・都の神殿の神官様が一心にお祈りなすっても精霊様のお答えはなかったそうだ・・・・。精霊様は我々をお見捨てになったのだろうか。」 シーラは窓から海を眺めた。彼女がウェンスと愛を語らったときに見た海の色は今よりもずっと明るく輝いていた。どんどん世界は暗くなっている。しかし、精霊が人間を見捨てるなどとは・・・・彼女は首から下げたペンダントを右手で握り締めた。彼女の瞳と同じ青い海の色をした石は手の中で仄かな輝きを放っていた。 やがて太陽はだいぶ西に傾いてきた。シーラはダジルに三杯目の茶を入れると玄関から外へ出た。すると折り好くラルが帰ってくるのを見付けた。 「ラル、ファナは？」 「あ、かあさん。まだファナねえちゃん帰っていないの？シン兄ちゃんもまだなんだって。いろんなところ、捜したんだけど・・・」 そこまで言ってラルは表情を凍りつかせた。シーラはその視線の先をたどり、驚きのあまり口を両手で押さえた。 そこには真っ赤な・・・・全身を血に染めた隣家のダグ少年が幽鬼のように立っていた。やがてダグは崩れ伏した。 「ダグ！」 ラルはかけ寄って血みどろの年下の友の体を抱き起こした。ダグは目を開けたが何も見えていないようだった。しかし、力をふり絞って声を出した。 「ラル・・・・ファナお姉ちゃんが・・・・山の洞窟で・・・・・シン兄ちゃんは化物に・・・・ラル・・・痛いよ・・・」 ラルは何度も何度もダグの名を呼んだが、それきりダグは動かなくなった。 シーラはエプロンで血に汚れたダグの顔を拭き、目を閉じさせた。そして精霊に祈りを捧げた。彼女が顔を上げた時、目の前には怒りに燃える息子の姿があった。拳を握り締め、歯を食い縛り・・・・そして家へとって返すと銛をひっつかみ、山へと走り出していった。 「ラル！お待ちなさい！」 声を限りに叫ぶ母親の声も彼の耳には聞こえなかった。 ラルは走った。切り株に足をとられ、岩の角で腕に傷を作り・・・・点々と続くダグの血の痕を捜し・・・・・山頂に近いところにある洞窟へとたどりついた。入り口からは生暖かいねっとりした風が吹き出していたが体の芯が凍るような感覚がラルをとらえた。だが、彼は一度ぶるっと体を震わせて一歩踏みだすと岩盤の上にカツーンと銛の柄を突き立てた。 その反響音だけが響いた。凶々しい気配は奥から漂ってくる。一足、一足、萎えそうになる気力を奮い立たせながら進む。ただ、姉を救いたいという気持ちだけを支えにして・・・・ 何か大きなものが居た。目が暗闇に慣れるにつれてそれは大きなコウモリだとわかった。その怪物の前にファナは岩壁にもたれ、膝の上にお気にいりの竪琴をのせて座っていた。怪我はないようだった。ただ、その顔には表情がなく、ラルの存在も分かっていないようだった。 目をこらすとファナの足元には何かの肉や骨が飛び散っていた、赤い血だまりの中に見慣れた小さな木片があった。ラルとシンがお互いに作り合った護り札だった・・・・ ラルは吹き飛びそうになる意識をどうにか踏みとどまらせた。今は死んでしまった者よりも生きている者を助けなくてはならない。 「ファナ！ファナ姉ちゃん！」 ファナはピクリとも動かない。 怪物がこちらを向いた。その大きな口からのぞいた牙には赤い血がまだこびりついていた。 「この怪物！」 ラルは銛を振りかざして怪物めがけてつきすすんだ。ケンカを嫌い、兄にいくら勧められても剣術を習おうともしなかった少年が生死をかけた勝負をしている。不思議なことにラルの動きはてだれの戦士のようななめらかなものだった。怪物を突き刺しては飛び退き、敵の死角へと回り込む。しかし十何回目かの突撃の後、コウモリは鈎爪の生えた手でラルを薙ぎ払った。ラルは自分の右手の甲からだらだらと血が流れているのを知った。焼けるような痛みのあと、手から銛がカランと音をたてて転がった。 ラルは急いで左手で銛を拾い上げた。が、コウモリの大きな牙が目前に迫っていた。 そのとき、竪琴の音が流れてきた。ファナが表情のないまま、竪琴をつまびいているのだった。その場の状況に似合わない清いメロディーが洞窟に反響した。するとコウモリはその音を恐れるように大きな羽で自分の体を覆うようにした。ラルはその隙を逃さなかった。彼は左手と右脇で銛を支えるように持ち、体当たりをするようにして怪物に突き立てた。青い血が噴水のように噴き出て断末魔の悲鳴が岩を揺るがした。ラルは何度も何度も銛を倒れた怪物の死体に突き立てた。 「・・・・返せ！・・・・タグを、シン兄ちゃんを返せよぉ！このっ・・・・このっ・・・・」 ピクピクと動いていた怪物の死骸が動かなくなるとラルは怪物の血だまりの中で吐いた。もう吐くものがなくなるとふらふらと立ち上がり、涙で曇る目で自分が殺したものを見下ろした。そして、やっと姉のことに想いが向くと、傷ついた足を引き摺りながらファナのそばにやってきた。 ファナはまだ竪琴を爪弾いていた。 「ファナねえちゃん、よかった。・・・・ほんとうに良かった。」 ラルは血と汗と涙でぐしょぐしょになった顔でほほ笑みかけた。 ファナは無表情に琴を鳴らし続ける。 「ねえちゃん？」 ラルの手が姉の頬に触れた。ファナは全く無表情に前方を見つめている。 「いったいどうしたの！」 びくっとして動いたラルの体が引っ掛かり竪琴が落下した。ファナは何の反応も見せなかった。大事にしていた父の形見の竪琴、それをファナは床に転がったままにしている。 ラルは姉を抱き締めると言葉にならぬ叫びをあげた。そして感情を失った姉を腕に抱いたまま、疲労と心身の痛みが、ラルの意識を奪い彼は昏倒していった。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 絶望がラルをとらえていた。重たい空気が彼のまわりにあり、呼吸ができなかった。空には小鬼のようなものが乱舞しており、爪で襲いかかり彼をさいなんだ。ラルはファナをかばうように彼女の上に覆いかぶさっていたが、小鬼は容赦なく剥出しになっているラルの腕や足に牙をたてた。彼は幼い子供のように悲鳴をあげるとがたがた震えながら身を縮めた。ファナは弟が懸命に守ろうとしているのに、全くの無表情であった。 不意に怪物の攻撃が止んだ。 ふっと見上げると怪物はおらず幼い頃に出会ったことのある美しい精霊がやわらかに微笑んでいた。 ”大丈夫。私が守ってあげます。私が助けてあげます。あなたのことも、あなたのお姉さんのことも・・・” 精霊が白い華奢な手をラルの額にあてるとひんやりとした心地よさがそこから広がっていった。 ラルはいったん目を閉じてから目を開けた。そこには心配げに覗き込む母親のシーラの顔があった。 「母さん・・・・」 村の誰かが彼を家まで運んできてくれたのだろう。毛布から手を出すと包帯がぐるぐると巻かれていた。シーラはそっとラルを抱き締めた。 「・・・・あれからもう三日もたったのよ。ああ、ラル、なんてむこうみずなことを・・・・母さんは危うく一度に二人の子供をなくすところでした・・・・・」 暖かな母の涙を自分の頬に感じラルは自分をしゃんとさせた。 「母さん、心配かけてごめん。もう大丈夫だよほら、」 ラルは寝台から飛び下りるようにはね起き・・・よろけて母の胸に倒れこんだ。シーラは息子をたしなめて寝台に押しこんだ。ラルはふうっと暖かな息を吐いたが、眉根にしわを寄せて訊ねた。 「母さん・・・・ねえちゃんは・・・・ファナ姉ちゃんは？」 母親はピクリと肩を動かした。 「ファナ姉ちゃんは生きているの？」 母親は無言で頷いたが、その外の答えは返ってこなかった。それがすべてのことを物語っていた。 それからひと月が過ぎた。ラルの傷は癒え、再び村を走り回り魚を獲りに浜へ出られるようになったが、ファナの様子は一向によくならなかった。優しく輝いていた瞳からは光が失せ、いつも何かに怯え、時折頭を押さえ泣き叫んだ。夜の闇は彼女を恐怖に駆り立てうずくまらせた。シーラやラルと共にいるときには割合に落ち着いていたがそれでも発作的に震えだし気を失う日が続いた。・・・・・そして言葉が消えた。目の前で恋人引き裂かれ怪物に貪り食われたあの恐ろしい日のことがファナを苦しめていることは明らかだった。 村一番の老人である長の前にファナは座っていた。長の屋敷は村で一番高い位置にあり、開け放たれた大きな窓からは海に突出した岬、そして青い海が見えた。ラルは母親と一緒にファナに付き添ってきていた。しかし、何か手があるというのだろうか。薬草師は首を振り、神父は奇跡を待つしかないと言った。しかし・・・・長は多くの知識をもっているはずだ。ラルはどきどきしながら長の言葉を待った。 長はどっしりした樫の椅子に腰をかけ、左手を肘掛にのせ、右手で白い髭をしごいた。 「・・・・人間の力では治すことはかなわぬじゃろう・・・・・”異形の者”の歪んだ力がファナの心を蝕んだのじゃ。・・・・魂を抜かれたといったほうが正しいかもしれぬ。精霊様でもないかぎり治せない・・・・その精霊様の力もこのところなにゆえか衰えている・・・・・」 シーラは頷きラルは眉を下げた。 ファナは発作が起きて頭を押さえた。シーラが優しく抱きかかえる。 ラルは叫んだ。 「長老様！僕ができることは何もないんですか？僕、なんでもします。精霊様がねえちゃんを治してくださるのなら精霊様の住んでいらっしゃる遠くの国までいっても構いません。ファナねえちゃんは怪物に殺されそうになった僕を竪琴を弾いて助けてくれました。今度は僕が助ける番です！」 長老はラルの必死の形相を見て少し考えると重々しく口を開いた。 「一つだけ手段がある。・・・・だが、そしてその手段を求めることは確実でもないし困難を伴うじゃろう。ラル、それでもよいか。」 ラルは頷いた。 長老は話し始めた。 「昔、愛し合う二人の若い男女があった。しかし娘は不治の病にかかり、明日をもしれぬ命となってしまった。青年は精霊に祈ったところ精霊は告げた。”聖なる山、ホリイル山の頂上に咲く精霊の花ならば娘の命を救える。”青年は海を渡り、砂漠を越え、雪をいただく山を命をかけて登った。そこには精霊の告げたとおりに花が咲いていた。・・・・花は間に合い娘は命を取り留めた・・・・」 ラルは踏みだした。 「長老様！そのホリイル山はどこにあるんです？僕、行きます！」 長老は軽く手を上げて制した。 「・・・・二人は程なく夫婦になり、たくさんの子供に恵まれた。二人の家の庭からは不思議にも精霊の花が芽生えた。子供達は世界の各地へ花を持って渡り、精霊の花は広がっていった。精霊の慈悲が多くの人々を病から救ったのじゃ。人々は花で命が救われるたびに精霊に感謝の祈りをささげた。・・・・・しかし世は乱れ、人間が精霊を軽んじ始めてからは精霊の花は次々と枯れていった。昔野原という野原に存在していた精霊の花は消えてしまったのじゃ。・・・・じゃが、精霊の花は確かにある。ラル、お前さんがよく遊びに行くあの崖の上の野原にもこの老人が子供の頃確かに一本だけだったが精霊の花は咲いていた。風や水や火や土の精霊様のお力が働いている豊かな土地にはまだあるはずなのじゃ。・・・・その場所はわからないがな。」 このときラルは既に旅立ちの決心を固めていた。横で息子の様子を見ていたシーラもそれを敏感に感じとった。しかし彼女はラルをとめなかった。止めることができないこともシーラにはわかっていたのだ。母親は哀しげに目を伏せた。 ラルはちらりと母親を見ると長老に向き直った。首から下げているペンダントが揺れた。 「場所がわからなくても僕は行きます。ファナを治せるのぞみがあるならば。・・・・・僕、王都に出ます。王都にはさまざまな国の人々がいるはずです。僕、必ず精霊の花を捜しだします。教えて下さい。精霊の花はどのような姿をしているのでしょうか。」 老人は深い息をついた。 「精霊の花は透き通るように白い花じゃ。太陽の光があたると優しい暖かな黄金色に輝く・・・・形は・・・・ラル、お前の下げているペンダント。その花が精霊の花、まさにその姿だ。」 精霊に貰ったペンダント。そこには今、自分が最も必要としている花の形が浮き彫りにされている。・・・・もしかしたらあの女性はこの花を司る精霊だったのかもしれない。そう考えるとラルには希望が湧いてきた。 「しかし、ラルよ。お前、母御を残して旅に出るつもりか？」 反論したのはシーラだった。 「長老様、子供はいつか親のもとから離れていくものでございます。そして若者は危険を顧みず何かのために命をかけるのです。この子の父親がそうだったように。・・・・私のことならば心配ありません。・・・・ラル、でも約束して。きっと帰ってくると・・・・・。」 ラルは元気よくうなずいた。 出発の時は、珍しく空気の透き通った日だった。 村人たちはラルの家の前に集まり、ラルを王都まで乗せていってくれるダジルの馬車を取り囲んでいた。 シーラはラルが背負い鞄の中身を点検するのを見ていたが、薬草の束と共に小箱をラルに差し出した。 「母さん、これは？」 箱の中で輝いているものをラルは見つめた。 それは指輪だった。青い・・・・海の深い青い色の小さな石がはめこまれた指輪だ。 「お父さまが若いときに身につけていらしたものよ。ファナが竪琴を貰ったようにあなたにはこれをあげます。ローンには小さな宝剣、シェンスにはペンダントを渡してあるの。兄さんたちと一緒に王都の北の森に住むアラダというお爺さんを訊ねなさい。きっと力になってくれるはずです。・・・・さあ。」 ラルはいわれるままに手を差し出したが、指輪は明らかに大きいようだった。ところが、ラルの右手の中指にはめられると同時に急に小さくなって丁度よくなった。 「！」 「これは妖精の指輪。・・・・・昔お父さまが海の妖精に貰ったもの。その指輪をしている限り、海はラルの味方よ。さ、村のみんなも待っているわ。もう行きましょう。」 シーラが幽霊のようにぼんやりしているファナを伴ってラルと一緒に外に出ると、村中の者が集まっていた。 「おっ！主役が来たな！」 ダジルがラルの肩を叩くと、ラルは胸をはって地面にとんと銛をたてて見せた。 ラルの遊び仲間が吹き出した。 「ラル、お前王都に行くんだろ？銛を担いでいくのかよ。」 「うん。・・・・短剣も貰ったけれど、短剣よりもこいつの方が使えるからさ。悪い獣が増えているらしいけれどオオカミくらいならなんとかなるよ。・・・・例えこの間のような化物が出てきても・・・・」 一瞬皆しずまった。その沈黙を破るようにラルが明るい声を出した。 「皆さん！母さんを頼みます！じゃあ・・・・」 ラルは反応のないファナと心配げなシーラに優しくキスすると馬車の荷台に駆け上がった。 「いってきま〜す！」 馬車がごとんと音をたてて動きだした。 「ラル！」 悲痛なシーラの声が背後からかかった。ラルは精一杯の笑顔を返す。 「母さん！待ってて！僕、精霊の花を兄さんたちと一緒に力の限り、捜すよ！姉さん！それまでがんばって！」 王都を目指し、馬車は遠ざかっていった。 |