少年は高い崖の上から草原に座って海を見つめていた。潮の匂いを含んだ風に、膝丈ほどのしなやかな草はさーっと音をたててなびいた。少年はその音に自分の泣き声が消されるように願いながら鼻をすすった。 七日前、少年の父親は悠かな水平線の向こうに船を出した。銛一本を携えて、金色の大きな魚、キュリアナを追って・・・・ 船出の時、少年は母親の横で大きく手を振って父親を送り出した。父親は日に焼けた細いがたくましい腕を頭の上まで上げて水色の瞳でにっこりと笑った。 それが少年が見た父親の最後の姿になった。 ・・・・海は父親を飲み込み、そのまま返してくれなかった。 今日の海は嘘のように穏やかで大きな波もなかった。・・・・雲一つない空の下、眼下に広がる海はひたすら静かで、彼から父親を奪った憎い仇とは思えなかった。少年は手の甲で目を拭った。涙の跡がすうっと線になって残った。拭っても拭っても涙が湧いてきて、しまいには号泣に変わっていた。 （泣かないで。） 澄んだ優しい声がした。 少年が涙でぐしょぐしょになった顔をあげると、ついさっきまで誰もいなかったはずなのに、彼の傍らに誰かが座っていた。その美しい人物は白く薄い衣をまとい、金色に輝く長い髪には見たこともない白い可愛らしい花を飾っている。 （泣かないで、ラル。お父さまは精霊の世界に行かれたのだから。） 少年はぎゅっと目をこすった。涙が止まっていた。村ではこの美しい人物を見たことは一度もなかった。それなのに自分の名前を知っている。ラルがぼんやりと見つめていると不思議な人物は涙のあとを消すようにラルの頬に手をやった。 「あの、お姉ちゃんは精霊さま？なぜ僕の名前を知っているの？」 不思議な人物・・・・精霊、は微笑んだ。春の日の光のような笑顔だった。 （・・・・私はラルを昔からずっと見ていたのだもの。・・・・泣かないで。） 人差し指でラルの目にたまっていた涙を拭うと、少しの間、ラルは一生懸命嗚咽を堪えていた。が、やはり涙は止められなかった。 精霊は困ったようにラルを自分の膝の上に乗せた。 （いいよ。泣きなさい。うんとうんと泣きなさい。私は側に居ますから。） ラルはわんわん泣いた。 ・・・・ラルが家を出てきたとき、葬儀の終わった家の中で母親が青ざめた顔をして座っていた。そばには都から急いで戻ってきた二人の兄が無言で立っていた。 王都の騎士見習いである、人を笑わせるのが得意な長兄も、神殿で修業をしている優しい次兄も母の背に手を置きうなだれていた。ラルの姉のファナは目を赤くして泣き続けていた。ラルは、母や姉を元気づけなければいけないのだと幼心にもわかっていた。しかし、涙を堪えるのが精一杯だった。そして気付くと家を飛び出していた。・・・・後ろから兄の呼ぶ声が聞こえたが振り向かないで走り続けてここに来たのだ。 ラルが涙も枯れるかと思うほど泣いてしまい、少し落ち着いてくると精霊は自分の胸にラルを抱き締めた。優しく柔らかい胸はふうわりと暖かくラルはまるで母親に抱かれているような気持ちになった。 （・・・・ラル。海を恨まないで下さい。海も、空も、大地も、皆私達の命の源なのです。・・・・・あなたのお父さまに負けない立派な大人になりなさい。お母さまを助けて下さい。優しいラル。） ラルは泣き疲れて眠っていた。精霊はやわらかな草の上にラルを横たえると、自分の首から下がっていたペンダントをラルの首にかけた。素朴な花の木彫りに革紐に通しただけのものだったが、花の形は本当に咲いているように生き生きとしていた。 （・・・・おやすみなさい。ラル。） 次の瞬間、精霊の姿は空気に溶けていってしまった。 精霊がそこにいたことを示すものはなく、ただ、ラルの首にペンダントが残っているだけだった。 |