| 3 殺戮の村テンペ(前編) |
その家は人里離れた平原にぽつんと一軒建っていたが、中は暖かで暮らしやすそうであった。この家の主人はメイシア達を暖かく迎えてくれ、食事と、宿を提供してくれた。さっきまで愛嬌を振りまき、先程の少年――パブロ――とクライスと一緒にじゃれあって遊んでいた暴れ狛犬の子供、ペトロは、丸くなって眠り、その腹を枕にしてパブロはうとうとと眠りに落ちていた。子供といっても暴れ狛犬。ペトロは相当大きな体で、パブロをペトロが守っているように見える。 パブロの父親は、時折コンコンと咳をしていたが、心配するメイシア達に、 『これはたいしたことはないんです。ただ、薬を湿気らせてしまって……効力に変わりはないだろうと飲み続けていたのですが、やはりダメだったようです。実のところ、そろそろサランに買いに行こうと思っていたんですが、息子がご迷惑をお掛けしてすみません』、と頭を下げた。医術にも明るいサライの見立てでも、咳は主のいうように、重篤ではない慢性的な症状で、すっきり治る事はないかもしれないが、根気よく薬草を飲んでいくことで軽くなっていくに違いなかった。それでも、アリシアが治癒の呪文を唱えると、少し胸が楽になったようで、主人はとても有難がった。 「しかし、ご主人、私のような旅の若輩者が言うべきことではないかもしれませんが、持病をお持ちでこのような一軒家に小さな息子さんと住んでいらっしゃるのは心細くはありませんか。」 そうメイシアが生真面目に言うと、主人は、真冬にはサランの近くへと避寒のために移住するのだといい、ここから少し行ったところにある山に、高値で売れる魔力を秘めたキノコがあり、そのためにここに住んでいるのだと説明した。 「キノコ！」 途端にサライの目の色が変わった。 「そ、そ、そのキノコは、軸が茶褐色で傘が白く、手のひらを広げたほどの大きさのものではありませんか!!夜にぼうっと黄色く光って……も、もしやもしや傘に赤い斑点が散っていたりはしませんか!!」 ガタンと音をさせて椅子から立ち上がり、目をキラキラさせながら歌うように言うサライに主人は多少退き気味になったが、ええ、そうですよ、と頷いた。サライは主の傍にいってぎゅっと両手で彼の手を包むように握り締めた。 「是非、是非そのキノコのお話を聞かせて下さい！私は乾燥させたものしか見たことがないんです。……あのキノコに宿る魔力は生育環境によって異なるといいます。赤い斑点があるものは、そりゃあ魔力が濃いんです。ど、ど、どんなところに生えているんですか？時期は？土は？ああ、これこそ神様のお導きだ！」 マニアック……オタク…… そんな言葉がメイシアの頭に浮かんだ。アリシアはサライの新たな一面を見、目をパチクリさせている。……それから主人は息つく暇もない質問攻めに会い、サライが帳面にゆうに５頁も書き込みをするだけの時間会話につき合わされたのだった。そして、長い時間話し続けていたせいか、コンコン、と主人はまた軽い咳をする。サライもさすがにこれは自分の所為だと感じて、そっと主の背をさすった。 「お使いの薬草はあまり特殊なものではないですよ。ここからなら、サランよりもテンペの方が近いのでは？よろしかったら、私達が出立するときに一緒に行きませんか？馬でなら早朝に出発すれば余裕で夜までにはここに戻って来られます。」 すると、主は、少し疲れたように微笑んだ。 「テンペへは行きません。大丈夫。サランまでいってきますから。」 これにはメイシアが異を唱えた。 「今ご主人の体は弱っていらっしゃる。旅は短い方がいいはずです。」 すると、主は、私はテンペへは行けないのです。あそこから追放されたのです。と言った。 クライスとアリシアが顔を見合わせる。メイシアは、拙いことを言ってしまったかもしれないと思いつつも、話を続けた。ここでこの男が倒れでもしたら、パブロは一人になってしまう……この家の庭に、まだあまり古びていない墓があるのを彼女は見逃してはいなかったのだ。 主人は、事情を話すことを厭いはしなかった。 「正確には私が追放されたのではありません。追放されたのは私の祖父です。テンペに住んでいた祖父はまだ若かった頃に仲間と一緒にキノコの採取に出掛けて遭難し……生きて帰って来たのは祖父だけだったのです。村人達は、祖父が友人を殺したのだといい……真実は今もわかりません。祖父は私達家族にもそのときのことを何も言い残しませんでした……村人は祖父を追放し、祖父は、当時婚約していた祖母を伴ってこの地に移り住みました。……それ以来、私達の家族はテンペに足を踏み入れることはなかったのです。」 「そんなのヘンだ！」 クライスが大声をあげた。 「おじさんのお祖父さんは罪を犯したのかもしれない。でも、おじさんは、罪なんて犯してはいないんでしょう。だのになんでテンペに行けないの？」 主は、憤っているような少年の顔を眩しそうに見た。 「確かにね。でも、親と子は良く似るというからね。……人を殺した人間の子供や孫は似たようなことを考え、同じことをしてしまうに違いないと思う人も多いんだよ。……実際、私の父に、子供のあんたに遺恨はないから村に戻ってきなさいと言ってくれた人もいたのだけれど、父はテンペには戻らなかった。……根強い差別が引き続いて起こることを予想していたのだろう。……いっそサランに移住しようと思ったこともあるんだがね……私の母も亡くなった私の妻もサランの出だしね。でも……誰かがあのキノコを採取しなければならないのだとしたら、それは他の誰でもなく、私じゃないかと勝手に思っていてね。…………パブロには寂しい思いをさせてしまっているかもしれないが。あの子も冬の間はサランで友達と遊んでいられるが、その他の季節はひとりぼっちだ。」 「…………パブロは、ペトロがいるから大丈夫だと思う。……おじさんは、パブロの友達にしようとしてペトロを飼ったの？」 主は首を振る。 「家の裏手に野菜畑があってね……ある日、そこに暴れ狛犬が一頭、収穫直前の芋を食い荒らしにきたんだよ。……随分ふらふらしている様子だったので、自分でも仕留められると思い、鍬で脳天を打ち据えて退治した。……それがペトロの母親だった。まだやっと一人で歩けるようになったばかりのような子犬が母親の亡骸の傍らに居るのを見、私が殺そうとしたら、パブロがその子犬を抱き上げて、叫んだんだよ。『父さん、この子はちっとも悪くない。何にも悪いことをしてない。だから殺さないで！この子はお母さんがもういないんだ。僕がお母さんの代わりになってやるんだ。』……パブロの母親は、その半年前、パブロの弟を出産したときに亡くなっていました。そして、その生まれて間もない弟もすぐに死んでいたのです。……ですから、私は子犬を殺すことができなかった。……パブロは子犬を懐に入れ暖め、ジャガイモを茹でて潰して食べさせました。あの子が子犬につけた“ペトロ”という名前は、あの子の死んだ弟の名前なのです。」 すん、と鼻をすする音がした。アリシアが下を向いて目を潤ませていた。 「おやおや、悲しい話をしてしまったね。ごめんよ、お嬢さんは優しいんだね。」 アリシアはぶんぶんと首を振る。 「おじさま……おじさまはもっと体を大切になさらなくっちゃいけません。……メイシア、ちょっと時間がかかってしまうかもしれないけれど……」 王女は信頼を寄せる女性騎士にそっと囁く。アリシアはサライに視線を送ったがサライは目を閉じて頷いただけだった。サライが一番の年長者であっても、この一行のリーダーはメイシアなのだ。 「ご主人、私達には一宿一飯の恩義があります。明日、私達はテンペへと向かいますが、そこで薬草を購入してここに誰か一人、馬で戻って参ります。どうせテンペでは少し骨休めするつもりでしたから、こちらに一度戻ることなど大したことではありません。……ですよね、クライス。」 名を呼ばれ、クライスも頷く。それはあまりに申し訳ないと主人が固辞するのを、あなただけのためではなく、パブロ君の為です。と説き伏せ、結局主は納得させられた。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 次の朝、主人の心づくしの朝食を食べ、四人はテンペに向けて旅立っていった。……それをそっと見ていたのは、まだ眠っているはずのパブロだった。パブロは父親が玄関のドアを閉めて家の中に入っていくのを見、窓をあけ、そこからとん、と飛び降りて、犬小屋へと向かった。早起きのペトロは、やってきた親友に尻尾を振る。 「ペトロ。あの人たち、テンペって村に行くんだって。ここからあまり遠くないんだって。……ねえ、どんな村だと思う？村ってサランより大きいのかな？どんな人たちが住んでいるのかな。一緒に遊んでくれる子はいるかな？ペトロはサランにも行ったことがなかったっけね。いつも家でおるすばんだったよね。……ね、行ってみようか？」 ペトロは尻尾を嬉しそうに勢い良く振った。 「よし、じゃあ行こう！」 パブロはペトロの背に跨る。 「あのお兄ちゃんやお姉ちゃんたちのところへ！」 パブロは一声ワン、と吼えると、バネのように弾みながらテンペへの道を、アリシアたちの後を追って走り始めた。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ パブロが一行に追いついたのはテンペに程近い街道だった。メイシアもサライも馬から降り、困ったように腕を組む。アリシアも不安げだ。その中でクライス一人が不思議そうな顔をしている。 「何難しい顔してんのさ。ここまできちゃったんだし、一緒に連れてけばいいじゃん。」 アリシアがはあああああ、と息をつく。 「お兄様、何も考えずにそんなこと言わないで。」 「……お前はいろいろ考えすぎるから簡単なことも判らなくなっちゃうんじゃないの？パブロは何も悪いことをしてないんだ。だからテンペに行ってパブロを悪くいう人がいたら、その人の方が間違っている。パブロは自由にテンペにいくことができて当然なはずなんだ。ペトロだって、こーんなに慣れてるんだからさ、問題ない問題ない。」 暴れ狛犬の頭をぐりぐりと撫でるクライスに今度ははあああああああああ、とメイシアが息をつく。 「そんな風に単純に考えられれば、パブロのお父様も悩むことなどなかったでしょうね。パブロのことは私達の連れだということで済ませられるかもしれませんが、ペトロは別です。……ご両親からテンペで起こった出来事はお聞きでしょう？」 魔物が生贄に若い娘をさしだせと強要していたあの事件ですね、とサライが確認するように尋ね、メイシアが頷く。 「あのときの魔物は、邪悪な魔物使いに暴れ狛犬が二頭だったと聞き及んでいます。……いくら慣れている、他の暴れ狛犬とは違う、と私達がわかっていても、テンペの人々はペトロの姿を見ただけで恐怖心が湧いてくるのではないでしょうか。」 クライスは不服そうにメイシアを見つめる。メイシアは一瞬怯む。王子は間違ったことを言っているわけではないのだ。それが間違っているように感じられるのは、人の心の問題なのだ。するとサライがクライスの頭の横で穏やかに囁く。 「村の人々がペトロを怖がったら、一番悲しい思いをするのはパブロ君ですよ。……ペトロには村の外で待ってもらうことにしましょう。」 そしてパブロに言う。 「お父様に聞きましたけれど、ペトロはサランの町の中に行くときにはお家でお留守番していたのでしたっけね。テンペでもお留守番してもらいましょう。誰かがペトロについていて村の外で待っていることにしましょうね。」 パブロはペトロのことについては父から色々注意されているらしく、駄々を捏ねることはなかった。ただ、そうだったら自分はずっとペトロについていると言い、村の入り口の近くの木立の中にペトロを座らせた。王子と王女はペトロたちと残り、メイシアとサライだけが村に入っていった。 村は地方の小村としては大層賑やかでそこここが飾り付けられていた。忙しく立ち働く男にメイシアが声をかける。 「こんにちは。私達は旅のものなのですが、この村ではお祭りがあるのでしょうか？」 すると、男は運んでいた木製の椅子をその場に下ろすと愛想よく答えた。 「旅人さんかい。そうさ、祭りだよ。昔、この村は魔物に脅されて若い娘を生贄に差し出してきた。それが、二十年ちょっと前、旅の三人組が魔物を退治して下さったんだ。年老いた魔導師、若き神官、そして、鬼神の如く強い少女。……あとからわかったんだが、その三人は今の女王さまとそのご夫君、そして宮廷魔導師の長であるブライ様だったんだぞ！俺達はその日を記念して祭りをすることにしたんだ。」 「……女王様達への感謝の祭りですか。」 「そうさ。女王様に感謝し、生贄を出さずに済む幸せを祝う。」 そこで男は歯を見せて笑った。 「それだけじゃないのさ。俺達は間違っていた。魔物に脅されるまま、生贄を差し出すなんてやっちゃいけないことだったんだ。……女王様たちのように戦わなくちゃいけなかったんだ。だから、おう、ご苦労だな、気をつけてくれよ。」 男が四人、何かを貼り付けた大きな板を運んでいた。それを見たメイシアは息を呑んだ。 そこに彼女が見たのは、命を失った魔物たちの体だった。あるものは白目を剥き、首を縄で吊るされ、日干しにされて縮んだスライム達はまとめて網に入れられてかけられ…… 「俺達は自分達でも魔物を退治することに決めたんだ。森に入って魔物を狩り、祭りの日にこうして仕留めた魔物を吊るして、祝う。」 メイシアは、気分が悪くなるのを感じながら、質問を続ける。 「……その森は、村の方々が木の実を集めたり狩猟をする場なのですか。」 「いいや、もっともっと奥まで入るのさ。魔物は近頃じゃ村の近くの森には殆ど出ない。だから俺達はもっと遠く……普段はあまり行かないところまでいって罠をしかけ、こうして魔物を狩る。ま、これで奴らが根絶やしになってくれたら素晴らしいことなんだがな。……おおっと本格的な祭りは今日の夜からだ。もしもここで泊まるなら、あんたたちも一緒に楽しんでいってくれよ。歌も踊りもあるし、村人総出でもてなすからな。」 男は椅子を運んで行ってしまった。 メイシアは口を手で押さえる。サライが心配そうに覗き込む。 「なんということだろう。……騎士団が魔物を討伐に行くのは、国民の生活場所が魔物によって脅かされる可能性があるときだけ。……魔物の暮らす領域まで立ち入ることなどない。……そして、他国でどうなのかは知らないが、サントハイム騎士団が討伐した魔物を晒し者にすることなどあり得ない。……魔物も命を持っており、その命は本来ヒトとなんら変わらない……私はそう父上から何度も伺ってきた。クリフト様の教会でのお話からも何度も教えていただいた……それを……一時魔物に娘達を殺されていたとはいえ、…………胸が悪くなる。」 サライは頷く。 「私の養母であり師匠でもあるルリア様も同様なことをおっしゃっていました。ただ……魔物を憎む気持ちをどこに発散したらよいのかこの村の人たちはわからなくなっているのでしょう。……ペトロを連れてこないで正解でした。それより、薬を扱っているところを探しましょう。……教会に寄って神父様にお尋ねするのが早いかもしれませんね。こういった村では医療は神父様が行っていらっしゃることが多いですから……メイシア？」 生真面目な女性騎士は、まだ何かに憤るように肩をいからせ、立ち尽くしている。 「……メイシア。薬を買いましょう。そして、早くこの村から出ましょう。ね。」 サライの穏やかな笑顔にメイシアは頷き、村の奥、教会へと歩を進めた。 教会は村の賑わいから取り残されたように、しん、と静まっていた。 「ごめん下さい。」 サライが重たい教会の扉を開けると、中は暗く、無人だった。 「すみません。旅の者ですがお尋ねしたいことがございます。どなたかいらっしゃいませんか。」 しばらくたってからコツ・コツ、と杖をつく音がして、老いた神父が現れた。彼は痩せ、指は節くれだち、皺の多い顔にぎょろりとした目をしている。彼は二人を認めると、はあ、と息をついた。 「待たせてすまなかったな。…………『祭り』の日に、この教会に用がある者など村にはいないものでね。……して、どうしたね。旅のお方。体の具合でも悪くなされたか。」 サライが、入用な薬の名称を告げると、神父は頷いた。 「それならば、ここにあります。そこで待っていなさい。」 コツ・コツ、と杖の音が遠ざかり、暫くしてまた近づいてきた。神父はしっかりと油紙で包んだ薬草をサライに渡し、サライは言われた代価を払った。 「お見受けするところ、あなた方は健康体のようだ。この薬はどなたがお使いになられるのか。」 サライは知人が、とだけ言ったが、神父には実のところ、予想がついていた。……彼は今まで何度かパブロの父を訪ねていた。彼にはそれだけしかできなかった。『テンペに来てはどうだ』と言う事は容易かったが、実際に彼が移り住んできたとき、人々から彼を守りきれるか神父には自信がなかったのだ。 「お気をつけて……良い旅を。」 一度、神父に背を向けたメイシアが振り向いた。 「神父様……神父様は、この村の『祭り』をどのようにお考えですか。」 すると、神父は目を閉じ、天を仰いだ。 「……生贄を出していた頃、私は神に祈ることしかできなかった。今も同じです。祈ることしかできない。」 すると、メイシアは項垂れた。 「祈りは力だと私は教わってきました。……それは間違いだったのでしょうか。」 「……娘さん、あなたは真っ直ぐな心根をお持ちのようだ。……それは間違いではない。正しく祈るのならばね。」 「……はい。きっとそうなのですね。……さようなら、神父様。」 教会の扉が閉まった。神父は暗い礼拝堂の中で呟いた。 「神のご加護がありますように」 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ その時、クライスとアリシアはパブロとペトロと並んで座り、日向ぼっこをしていた。王子は両手を上に上げ、ふああああああと欠伸をした。 「あー、退屈だ〜！よーし、パブロ、ペトロ、来い！」 すっかりパブロ達と仲良くなったクライスは、遊び始めた。手を叩いて呼ぶとペトロはまずクライスのところに行き、パブロが呼ぶとパブロのところに行き……二人の間を尻尾を振って目まぐるしく動き回る。 「ペトロ！次はこれだよ！」 手近にあった木切れを少年が拾い投げるとペトロは嬉しそうに走りっていって口に銜えると全速力で戻ってくる。そんな様子をアリシアは目を細めて見守る。……本当に、魔物だなんて思えない。普通の犬……いいえ、普通の犬より愛想がよくておりこうさんかも…… 「よしよしよし、んじゃ、次は、すごーく頑張って投げるからなー！ペトロ、取ってこーい！」 クライスが渾身の力を込めて木切れを投げると、くるくるとブーメランのように回転しながら遠くまで飛んでいった。ペトロは嬉しそうにぴょんぴょん跳ねるように走りながら木切れを追う。 と、ペトロの姿を追っていたクライスの視界に一人の男が入ってきた。男は暴れ狛犬の存在に驚き、しかし、逃げることなくこちらへと走ってくる。クライスはすぐに気づいて走る。……彼の鋭い目は男の様子をはっきりと捉えていた。男は武装していた……鋼の鞭……魔物を退治するための強力な武器の一つ…… ペトロは見知らぬ男がやってくるのを見た。子犬は、銜えていた木切れをそっと地面に置き、遊んで、遊んで、というように舌を出し、尻尾を振る。その前で男は鋼の鞭を振りかぶり…… キャン！とペトロは悲鳴を上げた。額が割れて血が流れた。どうして？どうしてなの？と言う様に尾を足の間に挟み、頭を下げて服従の姿勢を取る。そのペトロの頭上でまた男は鞭を振りかぶった。 今度はペトロも俊敏に避けたが、鞭はペトロの背にあたって肉を少し抉った。ペトロは知る。このニンゲンは敵だ。子犬は四肢を踏ん張り、うまれてから一度もあげたことのない、低い地響きのような唸り声を上げる。 「くたばれ！この魔物め！」 ペトロは今度は軽々と鞭を避けた。そして、尚も鞭を振りかぶる男から逃げ出した。額と背に焼け付く様な痛みを感じ、ニンゲンから受けた理不尽な暴力に混乱しながら。 クライスが追いついたとき、もう全ては終わっていた。 「ペトロー！」 走りながら、ペトロは大好きな友達の声を幽かに耳にしたが、止まることはなかった。 殺される！ここにいたら殺される！ 「坊主、見かけない顔だが、旅してるのか？無事で良かった。あいつは恐ろしい魔物なんだ。大丈夫、あれだけ痛めつけておけば、もうこっちには寄ってこないからな。」 あとから走ってきたパブロが泣き出した。それを男は安堵の為だと勘違いし、抱きとめる。アリシアは男から奪うようにパブロを抱きしめた。クライスは男を渾身の力を込めて蹴飛ばしたかったが、できなかった。…………男の発した言葉は何一つ間違ってはいなかったからである…… ペトロのことを何も知らないニンゲンにとっては。 |
長くなってしまいましたので、前後編に分けました。
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