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朝のおつとめを宿屋の庭で済ませると、クリフトは司教から手渡された神聖魔法の書を紐解いた。難解な古代語で記された文章は読み取るだけでも大変だが、こつこつと学んでいけば少しずつ前進できる。不思議なのは、これと同じ物を幼い頃に自分の家の書棚
で見たような気がすることだった。ただの薬草師だあった父親がこのように特殊な書物
をもっていたはずはないのに。
起きだしてきたブライが熱心な神官の様子に目を細め、しかし、口調はぶっきらぼうに
判らぬところは手助けしようと請合ってくれた。魔道師と神官の魔法体系は根本が異なるが、古代語の表記には共通点が多い。若い神官にとっては願っても無い申し出だっ
た。
少女は目が覚めると、大きく伸びをして飛び起きた。窓に駆け寄り窓を両手でぱあっと 開け放つ。
「う〜ん！今日もいいお天気！、魔物達、覚悟してらっしゃい！私が退治してあげる。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
「スライムが六匹、大ミミズが七匹、飛びネズミが八匹に土わらしが五匹。」
今日、自分が倒した魔物の数をアリーナは指を折って自慢気に数えた。
アリーナの活躍は目覚ましいものがあった。クリフトが梃子摺る魔物もものともせずブラ イの寒気の呪文が効かない相手も一撃で倒せるようになっていた。戦いの初めこそ約 束通り二人の後ろに控えているのだが、次の瞬間には前に一人で突出してくる。
「姫さま、そんなに誇らしげに数えるものではありません。魔物とて生き物なのですから。あ、少しお待ち下さい。」
「え？」
アリーナが歩みを止めると、クリフトは少し腰を屈めた。姫の肘は擦り剥けて赤い血が流れていた。
「あ、この位、舐めとけば治るわ。」
「そういうわけにはいきません。……この世界を統べたもう全能なる神よ。その力もて小さき者の傷、癒し給え。」
大きな手のひらをかざされると、くすぐったいような感覚があり、傷の辺りがぼうっと光ってきれいに塞がった。
「う〜ん。少しくらい傷があった方が武闘家らしいんじゃない？」
「姫っ！」
とにかくアリーナは魔物が……いや、魔物と戦うことが無常の喜びらしかった。ブライから貰った書き取り練習用だったはずの帳面はたちまちのうちに魔物の特徴や弱点で埋まっていった。いつ、どこでどんな魔物を倒したかまで克明に書いてある。表紙がクリフトから教えられた古代語で、しかもブライから教えられた飾り文字で魔物の帳面にしては場違いに麗々しく書き上げられているのは二人の教育が徹底しているのかいないのか。
街道を外れて野宿したときに寝込みを襲われたこともあったが、帳面にはそれすら楽しげに書きとめられた。
もちろん、魔物を倒すときにはブライの寒気の呪文や素早さをあげる魔法、クリフトの目くらましの魔法や不可視の盾をつくる魔法が役にたっていたのだが、この勝気な姫は、
戦闘の際の二人の気遣いにはそれほど敏感ではなかったようだ。寒気の魔法は効果が目に見えるためいいとして、攻め込む剣術の腕の中々上がらぬクリフトに、可愛い憎ま
れ口を叩くことが多くなっていた。忠実な幼馴染のそば仕えはただただ微笑んでいた。
城を出てからひと月。何故かクリフトが先を急ぎ始めた。彼の生まれ故郷のチェルナ村 が近くなってきたからだとブライにはわかっていた。八才の時にブライに連れられて王都に移り住んでからは実は初めての帰郷だ。心が動かぬわけがない。
「もっとゆっくり歩かんかい。村は逃げはせんぞ。」
「あ、すみません。」
クリフトは例によって荷を一つ自分で背負ってブライをひょいと驢馬の背に載せた。
「どうしてもあと三日のうちには着きたいものですから。」
アリーナはクリフトに並んだ。
「ね、そんなに懐かしい？」
「はい。知り合いもおりますし、思い出も沢山あります。……急いでいるのは姫さまに見 せたいものがあるからですよ。三日過ぎると終わってしまうのです。」
姫は横合いから体当たりしてきたスライムを軽くあしらうと背の高い神官の顔を下から見上げるようにして尚も尋ねた。
「見せたいものって何？」
クリフトはくすっと笑ってくしゃっとアリーナの髪をかきまわした。
「さて、なんでしょうね。……たまにはこのクリフトにも意地悪させて下さい。」
彼はまた少し歩調を速めた。そのあとから、彼の長い足に負けないように小走りのアリ
ーナ。驢馬に揺られたブライはしんがりから追っていった。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊
実際に村に着いたのは二日後の午後だった。チェルナは山に囲まれた小さな村で、赤 っぽい石で葺いた屋根の家々が御伽噺の風景のように立ち並んでいた。いや、実際、クリフトがアリーナにしてくれたお話の通りの光景だった。アリーナは村の入り口近くにある、 こんこんと水を湧き出させる小さな泉の美しさに思わず声をあげた。
クリフトはぐるっと辺りを見回した。記憶は薄れたが、覚えているかぎりは何も変化していない。違うのは、クリフトが生まれ育った家の一際高いとんがり屋根が焼失してなくな っていることだけだ。情けないとは思いつつ、彼は目が潤んでくるのを止められなかった。 そのとき、小太りの中年の女性が一行を見て驚きの声を上げた。
「あ、まさか、あの、神官様、間違ってたらごめんなさい。クリフトちゃんかい？」
女は白い前掛けを両手できゅっと握り締め、クリフトの返事を待っていた。
クリフトは神官帽を頭から取り、微笑んだ。
「アディー小母さんですか？」
女は背の高いクリフトに飛び付く様にして抱擁した。
「ああ、なんて立派におなりだい！もう、もう十年以上もたつんだね。いきなり来て心臓が止まるかと思っちまった。髪も、瞳もそうだよ、確かにクリフトちゃんに間違いないよ。ああ、もう、何から話せばいいんだか！」
ブライが驢馬から飛び降りてうぉっほんと咳をした。
「アディー。久しぶりじゃのう。わしのことは覚ておるか？」
「忘れるもんかい。あんたがいたからこそクリフトちゃんじゃないかなって思えたんじゃないかね。この頑固爺さんめ。さ、立ち話も何だ。宿屋なんかじゃなくってあたしの家に泊まっていってくれるだろう？ね、クリフトちゃん。」
アディーの家は、村のほぼ中央にあった。彼女は三人を外で待たせ、しばらくしてから
入ってきても良いと合図した。がっしりした大きなドアをくぐると、そこは大きなテーブルがある部屋で下は五才から上は十八に至るまでのアディーの七人の子供達が一斉に出迎
えてくれていた。
年かさの子供から挨拶がはじまる。
「リアです。」
「フィーといいます。」
「ジェイクです。」
「ミミーっていいます。」
「リーグです。」
「ロブだよ。」
「僕はガイっていうんだ。」
「あともう一人、十歳になる息子のアリーは勝手口から村長さんのとこにあんたが帰ってきたことを知らせに行ってる、そんで、これが亭主。」
この家のあるじのバルグ氏は、まんまるい顔に笑みをたたえて客達に椅子を勧めた。
「お久しぶりです。ブライ様。」
「……様とつけるなと以前いったろうが。それにしても、よくわしの名を覚えておったな。」
「あなたには恨みがありますからね。クリフトが一人ぼっちになったとき、私も家内も家族の一員として迎えたかったのに、遠い親戚だとかいうあなたがひょいとやってきて“立
派な魔道士に育てる”と宣言して王都に連れていってしまった。……まあ、クリフトから来た手紙で、あなたはクリフトを魔道士にはさせられなかったと知りましたが。」
ごほんごほんとブライはむせて、言い訳をした。
「この子は魔道士になる素質が十分にあったのじゃが、王都に向かう旅の途中に“僕は魔道士になるよりも神様の言葉を学んで心や体の病で苦しんでいる人の力になりたい”などと、殊勝なことをいうもんじゃから。」
一番上の姉さんのリアがクリフトから神官帽と剣を受け取った。クリフトの記憶の中では、リアは泣き虫のちびさんだったが、今は黒髪を綺麗に編んだ、清楚な美しい娘へと
成長していた。
「ほんとうに残念だったよ。クリフトちゃんが家に来てくれてたら、今頃娘の誰かを貰ってくれてたかもしれないのにね。リアなんぞ、十八にもなって何の話も持ってこない。クリフトちゃん。今からでも遅くはないよ。婿に来ないかい？」
さあっと一瞬で赤くなったクリフトをアディーは小突いて大笑いした。
「冗談だよ！王都の神官様がこういう小さな村に引きこもるなんて思っちゃいないって。教会のお使いなのかい？その様子じゃ、長くはいられそうにないけれど。」
「ええ、旅の途中なんです。でも、明日の夜だけはここに居たくて。」
バルグは目を細めた。
「そうだね。そうしなさい。……ところでこの可愛らしいお嬢さんは？」
可愛らしいといわれ、アリーナはバルグに敵意に満ちた視線を送った。
「ちょっと変わった服を着ているね。王都からずっと一緒に？」
クリフトは返答できなかった。嘘が下手な彼に代わってブライが言った。
「アナという名前です。ちょっと先の村まで行くというので旅を一緒にしておる次第。街道も物騒になってきましたからな。」
アリーナ自身はこの場を沈黙をもって切りぬけることにした。バルグも仔細有りとわかったのかそれ以上追求はしてこなかった。
「とにかくゆっくりしておくれ。夕飯ができるまでは部屋で休んでいて結構だよ。リア、お客さんを客間に案内しておくれ。
リアは二階の客間に上がっていった。ベッドは二つあり、古びたテーブルの上には薄桃色の花を付けた木の枝が白い陶器の一輪ざしに生けられていた。
「何かお入用のものがあったら言ってください。あ、アナさんのお部屋は後から用意しますから、心配しないでね。」
彼女は三人にスリッパを履かせ、マントの類をクローゼットに掛けた。
クリフトはぽりぽりと髪を掻き揚げ、ためらいがちにリアに声をかけた。
「あの、リア、……全然わからなかった。すっかり大きくなっちゃって。」
リアは気持ちのよい笑顔を見せた。
「クリフトこそ。とっても立派になったわ。」
クリフトが懐かしそうにじっとリアを見つめると、リアは白い頬を真っ赤に染めて、食事ができたら呼ぶから、といって下に下りていった。
「変わっちゃったな。」
クリフトが首を捻る。
「リアは泣き虫だったけど、もっと活発な子だった。少なくともあんなに顔を赤くするような恥かしがりやではなかったのになぁ。」
「クリフト！」
それまで黙っていたアリーナが彼の目の前で人差し指をぴんと立てて左右に振ってい た。
「理由はわかるわ。お城の女官達も同じだもの。」
「はあ？」
「炊事場のナリスもお針子のメローナも侍女のエレミアもクリフトの前に行くと皆真っ赤 になるのよ。あのね、クリフトは神官だけれど、まだ若いでしょう。修行不足なのよ。司教様はどんな人も包 み込むような不思議な力をお持ちだから大丈夫だけれど、クリフトの前に立つと、何か悪 いことをしたなぁって感じているときには血が顔に昇っちゃうのよ。ほら、私だって悪戯し たときには顔に出るってクリフト言ってたじゃない。」
「はあ、そういうものですか。」
アリーナは真面目くさって頷く。
「きっとそうよ。」
ブライはこういうことにひたすら疎い二人に呆れ果て、ぶつぶつと呟いていた。司教のように年を取ったなら、確かに若い娘は赤面しなくなるだろう。全くこの若い神官は自分
の容姿や性格の良さが娘達をひきつけることに鈍感なことこの上なく、武闘のことしか眼中に無い姫は、恋愛というものの存在自体を認識していない節がある。
そのとき、アディーの七才と八才の息子が客間のドアをノックした。ブライが応えると二人は石版をもって入ってきた。字を覚えたので見て欲しいという。クリフトが覗きこむと
ところどころ鏡文字になっていた。早速客間は勉強部屋に早代わりだ。アリーナも何気なく覗きこんだが、下手糞な字に呆れてしまった。アリーナは五才のときにすべての文字を間違いなくすらすらと書けたというのに。
姫が顔を顰めたのに気づいたブライが手招きし、そっと姫の耳に囁いた。
「姫様。王都ではすべての子供達が文字を習いますが、このような辺境地では文字を一生知らずに過ごすものの方が多いのですぞ。」
「なぜ？本を読むときや手紙を書くときに文字は必要でしょう。司教様もブライもクリフトも文字の大切さを教えてくれたわ。」
ブライは彼にしては珍しく優しく言った。
「姫様。文字を習うのには生活にそれだけの余裕がなくてはならないのです。貧しい農民達は子供でも畑に駆り出されます。朝から晩まで働いても、それでも一年で姫様のお部屋に飾られたタペストリ一枚の代価も稼げないのです。……無償で文字を広めようと
いう神官でも居ない限り、文字を知らぬ人はこれからも減ることはないでしょう。」
アリーナははっとした。武闘の練習をしていて、何枚かのタペストリを自分は破いてしまったが、それにほとんど痛みを感じたことはなかった。今、痛みを感じなかった自分の心
が痛みを発している。知ろうとすれば城に居ても知ることができたことを自分は知ろうとせずにここまできてしまったのだということを。
翌日は早朝から村全体が沸き立っていた。クリフトが急いでいたわけはこれだ！今日は村の始まりの日の祭り……旅の開拓者が野宿の途中、まばゆい光に導かれて美しい
泉を見つけたという日が今日なのだ。祭りの本番は日が沈んでからだが、飾り付けや食べ物の準備に男も女もおおわらわだ。クリフトは年に何度かは手紙をやりとりしていたら
しく、何人かの村人に囲まれて何事か語らいながら、準備を手伝っていた。アリーナとブライは少し失礼させて貰い、村を眺めて回った。
古いつくりの漆喰で固めた壁。それはこの村が長い間戦に合わず、穏やかに暮らしてきたことを語っている。一つだけ新しい漆喰造りの家があった。
「姫様。ここに家事で焼け落ちたクリフトの家があったのです。」
新しい家を杖でさしてブライが言った。猛火だったのだろう。隣家の壁はススで真っ黒に汚れていた。
「じいの遠縁にあたります娘は、この村で薬を扱う男の家に嫁ぎ、その長男がクリフトでした。火が出たのは暑い夏の夜で、深夜に暗い色の稲妻が走り、瞬く間に家を包んで燃え広がったそうですじゃ。……クリフトも煙にまかれましたが、誰かに守られたように、火の中から火傷一つ負わずに出てきたと聞きます。」
アリーナは手を胸の前に組んで目を閉じた。
「生者の魂にも死者の魂にも等しく平安が有りますように。御国への門がすべての人に開かれますように。」
勉強と名のつくものはすべてといっていいほど嫌がっていたアリーナも、祈りを捧げるこ とは嫌がらなかった。もちろんそれは亡き王妃への思慕から始まったものであることをブライは知っている。しかし、心に信仰がごく自然な形で根付いているのは確かなようだ。
チーズとパンの簡単な昼食を終えると、バルグ家の娘達は大騒ぎしながら、着飾り始めた。アディーは抵抗するクリフトから神官衣を剥ぎ取り、ブライと一緒にまとめて男の子
たちが着替えている部屋に押し込めた。アリーナは黙って女の子達が黒くて長いスカートの上から、花の刺繍を一面に施した赤い胴着を身に付けるのを嬉しそうに眺めていた。
クリフトから村祭りのことは幾度か聞いていて、祭り装束のことも興味をもっていたのだ。衣装は、王都の貴族の娘達が着ているものより、ずっと粗末なものなのだが、アリーナ
には何倍も好ましく美しく見えた。二番目の姉さんのフィーがアリーナに話しかけた。
「ねえ、お客様。アナちゃんっていったっけ？折角お祭りに来たんだから、一緒に踊らない？お客さんも一緒に村のお祝いをしてくれると私達も嬉しいな。髪も結ってあげる。
私達のお古だけど衣装もあるわ。母さんが、どうぞ、って。」
アリーナはフィーが差し出してくれた衣装を素直に受け取れなかった。他人が身につけているのを眺めるのはよくても、自分が長いスカートを履くのは嫌いだ。それに……フィ
ーになんと話していいのかわからなかった。姉妹が楽しそうに話している場に居る自分
は余計なものであるような気がしてきて、途端に息苦しくなって、部屋を出てしまった。リアが衣装を持って心配そうに追ってきた。
アリーナは、彼女のためにアディーが片付けてくれた屋根裏部屋のベッドの上に膝を 抱えて座っていた。リアは部屋に入ると、アリーナが驚いたことにすっと彼女の前に跪いた。
「あなたはアリーナ様ですね。サントハイムのお城の。気づいているのは私と母だけの
ようですが。……クリフトから私達家族宛てに届く手紙の中にあなたのことが何度も書いてありましたから。赤みがかった美しい金髪のそれは可愛らしい方だと。」
アリーナは、今度クリフトを一発殴ってやるんだと決めた。
「妹達が仲良くしているので、悲しくなられたのでしょう。姫様はお母様も亡くされ、ご兄弟はいらっしゃらないと聞いています。」
リアの口調はあくまで静かで不快感はなかったが、アリーナの心のどこかにカチンと来るものがあった。
「なぜ私が悲しいなんてわかるの？」
肩を怒らせて言うと、リアは微笑んだ。
「昔の私がそうでしたから。私は両親を亡くしてアディー母さんに引き取られたのです。」
その言葉を聞いた途端に、アリーナとリアの間を隔てていた壁が崩れて落ちた。怒ったように言ってしまったさっきの言葉を取り消したくて、でも、うまく心を言葉にできなくて、
サントハイムの王女はうつむくしかなかった。
「私も先程、あなたが部屋を飛び出していくまでは確信がもてなかったのですが、あの ときはっきりわかりました。アリーナ様ですね。」
アリーナはコクンと頷いた。この黒髪の娘の前では素直にならなければいけない気がした。
「お祭りの服は、お嫌ならば無理にお召しになることはございませんが、髪だけは梳か
されたほうがようございますわ。そのぅ……今はもつれにもつれていらっしゃるから。」
そうかもしれない。王宮を出てから手櫛でしか梳かしていない。
リアはアリーナをベッドの縁にかけさせると、横に座って大きなブラシで髪を梳きはじめ
た。最初はひっかかったがとくうちになめらかに進むようになる。
「クリフトでもこういうことまでは気がまわらなかったんですね。……本当に綺麗な髪ですわ。」
アリーナは口を尖らせた。
「あなたの…リアの黒い髪の方がよっぽど綺麗だわ。私、髪じゃなくてもっと違うことで 誉められるようになりたい。」
「どういったことでですか。」
姫はすう、と息を吸う。
「私、強くなりたい。」
リアはクリフトに良く似た笑顔を見せた。
「そうですね。……それは髪よりずっと大切なことですね。」
アリーナは拍子抜けした。びっくりされると思ったのに。
「私も強くなりたいと思いますわ。男の方たちの無鉄砲で荒々しい強さと違った強さを女は持っていると私は考えているのです。姫さま。さあ、梳けましたわ。」
アリーナはぴょこんとお辞儀した。リアというこの娘を姫は大層気に入ったようだ。
「リア、クリフトからお祭りでは皆が踊るとそりゃあ見事だって聞いたの。リアも踊る？」
「少しだけ弟と。どちらかというと炊き出しをやっている方が性にあっています。別に、誰かから誘われているわけでもないので。」
アリーナは少し残念に思い、それから何事か思いついたのかぱん、と手を打った。
「クリフトと踊れば？」
リアの顔が紅潮した。
「え？でも。」
「クリフトじゃ嫌？」
「いえ、私達は幼馴染ですし、そういうことではないのですけれど。」
「それじゃ、いいでしょう。私、リアが踊っているのを見たい。きっとクリフトはリアのことが好きよ。あ、そうだわ。リアがクリフトのお嫁さんになって王都に来たら素敵。私、そうしたら毎日リアのところに遊
びに行くわ。」
自分の突飛な思いつきを気に入ったらしい姫に、リアは目を細めた。
「アリーナ様、クリフトが誰のことを一番好きなのか、私は知っています。それは私ではありません。」
アリーナはぽかんと口をあけた。十年以上自分の身近に居ながら、自分はクリフトから
そういうことを聞いたことが無い。
「その人、どんな人？クリフトが好きだっていう人。」
リアは微笑んだまま、姫さまよりもずっと強くて年上のすばらしい方だと囁いた。
「そう。クリフト、私には何も言ってくれないから。」
内心、自分より強い女の人なんているのだろうかと疑うアリーナであった。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
祭りは、やや音程のはずれたラッパの音で始まった。威勢のよい楽しげな音楽が一しきり鳴り渡ると、村長が型通りの挨拶をした。そして彼が手を上げると、この日のためのと っておきのぶどう酒樽が開けられて、村の全員の盃が満たされた。花火と共に盃が干され、泉を囲むようにして村人による劇が始まった。開拓の歴史をなぞったもので、馬車に揺られての旅、狼の襲来、水の欠乏、不思議な光に導かれての泉の発見、そして村の形成と繁栄が程よいテンポで上演される。途中で熱演がすぎて泉に何人かが落ちたり、 光の精（を演じた酒屋の旦那）が持っていた松明で火傷をしてクリフトがあわてて治療に走るなど、笑いやスリル（？）に富んだ劇で観客達は腹の筋がよじれぬように注意しなければならなかった。
劇がフィナーレを迎えると、村の即席楽団が軽快な曲を鳴らし始めた。 踊り自慢の男が一人、飛び出して激しくステップを踏んだ後、大きく叫んだ。
「皆の衆！踊りだ！踊りだ！」
おう、という返事と共に、男達が女達の手を取って泉のまわりに輪を作る。くるくると娘達が回り、長いスカートが大きく広がる。拍手が拍子をとり、掛け声が場を盛り上げる。
「どうですか？賑やかでしょう？」
アリーナが振り向くと、祭りの衣装を着せられて頭を掻いているクリフトがいた。茶色い鳥の羽が挿してある小さな黒い帽子、白いシャツ、赤い縁取りのある黒いベストを羽織った姿は娘達の視線をひきつけていたが、アリーナはクリフトに関していえば子供の頃の
神官見習衣と大きくなってからの神官衣を着た姿しか知らないため、違和感の方が強かった。
「あ、クリフト。どこにいっていたの？」
「村長様のところに挨拶にいっておりました。」
「遅い！」
アリーナはクリフトの腕をぐい、と掴み、小さな弟たちと踊りを見ていたリアの前まで引っ張って行った。
「私に踊れ、と？」
アリーナは腕を組んでうん、と頷く。
「しかし、私はだいぶ踊りの型を忘れて……ぐあっ！」
アリーナがずん、とクリフトの足を踏みつけた。
「それくらい、気力と根性でどうにかしなさい。サントハイムの神官がお祭りの踊りくらい踊れなくてどうするの！」
……滅茶苦茶な理論である。
アリーナは右手でリアの腕、左手でクリフトの腕を握り、踊りの輪までずんずん歩く。こ
うなっては踊らぬわけにもいかずにクリフトはぎくしゃくとリアの手をとった。リアの方は軽
やかに足を運び、この二人の幼馴染はやがてまわりと遜色無く踊れるようになっていった。
アリーナは満足そうに二人の様子を眺めていた。
舞踏会が好きだった。
辛うじて記憶が残っている幼い頃、
たくさんのろうそくに明るく照らされた広間にたくさ んの人がいて……他の誰より綺麗なのがお母様で……お母様とお父様が踊るととても
素敵で。ダンスも素敵だったけれど、お母様の笑顔がとても優しくて、お父様の笑顔もお母様に負けないくらい優しくて……ダンスが終わるとお父様が抱き上げてくださって、お母様が頬にキスして下さって……
舞踏会が大嫌いになったのはいつからなのかはよくわかっている。お母様はいなくな
って、お父様の笑顔も見られなくなって、だけれど、広間のろうそくは相変わらず明るくて
華やかで、広間で踊る人達は以前のお母様とお父様のように幸せそうで……
ドレスのまま逃げ出して隠れたことが一度あったっけ。クリフトに見つかって……もう忘れたけれど、なにかわあわあ喚いたら、クリフトが広間から微かに風に乗って聞こえてく
る音楽に合わせて一緒に踊ってくれた。 あれは、この踊り？
随分長い間俯いていたらしい。顔をあげると傍らにブライがいて、小さい頃よくしてくれ
たように頭を撫でてくれていた。アリーナはにこっと笑ってブライを相手に踊り始めた。
夜が更けて尚，祭りは続いた。アリーナとブライは椅子に座ってイチゴ水を飲んでいた
が、背後から二人の頭の上を通してクリフトが暖かい焼き菓子を差し出した。
「ふん、また甘いものをもってきおって。わしをこれ以上太らせたいか？一緒に踊っておった娘ごはどうした。」
「リアはほら、あそこに。弟さんたちを連れて帰るそうです。」
クリフトが手を振ると，リアは振り返した。アリーナも両手を振った。
「ね、ところでクリフト。」
「なんですか。」
「クリフトが好きな人って誰。」
アリーナがリアとの会話を細かく再現すると、クリフトはその端正な顔を赤く染めたが、
確かに自分には他の誰よりも大切で好きな方がいるのですとはっきり言った。
「その人、私よりも強いのですってね。一体誰？私、会ってみたい。」
クリフトは笑う。
「私も会ってみたいです。」
「え？会ったことが無いのに好きなの？」
「はい。姫さまも大好きなはずです。」
そのとき、きゃーっという悲鳴が聞こえた。音楽が止み、踊りの輪が崩れた。
かがりびに照らされた泉の前に、血だらけになった一人の男がよろよろと歩いてきてば ったり倒れた。すぐさまクリフトが駆け寄る。男は少し痛みが和らいだのか、口を開いて 途切れ途切れの言葉を発した。
「テンペ村……生贄………助け…て…」
それきり男は動かなくなった。クリフトはしばらく回復魔法を唱えていたが、それが無駄だと判るとうな垂れて死者の為に長い祈りを捧げる。
ブライが死者の傍らで呟く。
「遥かな昔。魔物がこの地を我が物顔に支配していた頃、テンペ村のそばに、ひときわ邪悪な魔物がいたという。魔物の命の源は乙女の魂だったため、一年に一度、純潔な娘を生贄に要求してきた。……伝説かと思っておったが……この男は助けを求めにきた
のであろう。」
「ご老人。この可哀想な男を引き裂いたのはその魔物なのでしょうか。」
一人の村人がブライに尋ねた。
「いいや。この牙のあとは魔物ではなく狼に間違い無い。獣達も近頃は気が荒くなっておるからな。」
「……じいさま。」
クリフトが震え声で言った。両の拳は白くなるほどぎゅっと握られている。
「クリフト、気持ちはわかるが、今のわしらはお供をする身じゃ。関わって姫さまにもしものことがあればどうする。……」
ぽんぽんとアリーナが後ろからクリフトの肩を叩いた。振り向くと彼女はしっかり荷物を
持ち出していた。
「さあ、二人とも！テンペ村に行くわよ！」 |
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