３　命の天秤　
　
　カイユンの部屋に、十五才くらいの少年が入ってきた。他の人々は皆、カイユンに対して親切だったが、この少年だけは、挨拶の握手をした直後からもう、あからさまな敵意を示していた。

　「まだ、ここに居るのか。」

　少年は、書き物机の上のノートを片手で払い落とした。カイユンは、跳ね起き、ノートを拾った。

　「何するんだ！・・・・・何を怒っているのかわからないけれど何を言われても、僕は暫らくここに居るよ。居なくちゃいけないんだから。」

　「当然かもしれないな。ここに居ればいい暮らしが出来る。まわりの者は表面上は親切だしな。」

　少年は、自分の美しい黒い巻き毛を手でかき回し、左手を濃紺のビロードのスーツの腰にやり、見下げるようにカイユンに目をやった。
　カイユンは笑った。

　「・・・かもしれないね。皆さん、とっても優しくしてくれるから、ここにいる決心がついたんだと思う。」

　「僕は、あなたが大嫌いだ。祖父を嫌うのと同じくらいにね。」

　誰かがドアの横のベルを押した。少年は、くるっと背を向け、走り出て行った。入違いにほっそりした、亜麻色の髪の女性が入ってきた。女性は、心配そうに、出て行った少年を見送っていたが、カイユンに声を掛けた。

　「キムさん。アーサー様が何かおっしゃいましたか。」

　カイユンは首を傾げた。今まで多くの人が部屋に出入りしたが、この女性は初めてだった。

　「いや、僕は嫌われているみたいで、顔をあわせるたびにアーサーに何やかや言われるんです。なぜ、雇い主のカイエさんのお孫さんに嫌われるのかそこの所は判らないのですけれど・・・・・あの、あなたは？僕に何の御用ですか。」

　女性は開け放しになっていたドアを閉めた。

　「失礼しました。私はシャーリー　キャラハンと申します。アーサー様付きのメイドをやっておりますが、カイエ様が私に、今日からあなたのお世話係を兼ねるようにお言い付けになったのです。よろしくお願い致しますね。」

　“アーサー付きのメイドさん？・・・・・にしては、若い人だな。普通、年配のしっかりした人を付けるものじゃないのかな。”

　カイユンはちょっと不審に思った。女性は続けた。

　「・・・・アーサー様は優しい方です。決してあなたを嫌っていらっしゃるのではなく、優しさゆえにそういった行動しか取れないのだと思います。・・・・・それはそうとして、キムさん、何か私に出来ることはありませんか。」

　「・・・・・ここ、見事に自動化されていますよね？僕、一応身の回りのことは、わざわざキャラハンさんの手を患わさなくとも一人で出来ますけれど。」

　シャーリーは、すみれ色の瞳でじいっとカイユンの目を見つめた。

　「カイエ様は、あなたに元気がないので心配しておられます。どんなことでも結構です。おっしゃってください。」

　カイユンは、クローゼットから絹のジャケットを出し、腕に掛け、首には大きめのタオルを巻いた。

　「僕、元気になるよう、自分で努力しますよ。カイエさんに、心配しないでくださいと伝えてください。あ、そうだ。今度一緒にクッキーでも焼きませんか？」

　「クッキー・・・・ですか？」

　カイユンの笑顔につられてシャーリーも少し微笑んだ。

　「・・・・キムさんは今から水槽へ行かれるのですか？」

　「ええ。・・・・・僕が行くと、あの子たちが喜ぶんです。・・・・・じゃ、出ましょうか？」

　そのとき、呼び出しブザーが鳴った。

　「キムさん。あなたに面会人です。応接室までどうぞ。」

　＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊

　「手榴弾もてあそぶの止めなさいよ。」

　ジョーは、小さいが、凄みのある声でマリオを諭した。
　案内に立っている、白衣の男は、かちんかちんに固まった表情で四人、特にマリオを見ていた。武器を取り上げようという勇気さえないらしい。
　もっとも、通路には、その気になれば一瞬でジョーたちを処分できるだけの設備があることを四人の内三人（ソーンダイクは残る一人）までは気付いていた。

　「キムさんは、この先の部屋にいます。あなたがたが来たことはお知らせしましたので、どうぞ。」

　マリオが一歩進み出た。彼は、ジョーが付いてこないのを見、いらついてぶつぶつ言った。

　「あんた、会わないつもりか？」

　「・・・・あたし、一応はリーダーよ。まずはカイユンを雇ったご本人の話を聞きにいくわ。カイユンとの話はあんたとソーンダイクに任せる。後であたしも顔を出すから。・・・・案内の人、聞いた通りよ。あたしはカイエに会わさせてもらう。どんな手段を取ってもね。」

　白衣の男は、反論しかけたが、スピーカーからの声がそれを遮った。

　「私の部屋に御通ししなさい。・・・・私がお会いしようといっているのだ。くれぐれも失礼の無いようにな。」

　低く、柔らかく、それでいて深く強さのある声だった。
　今まで最後尾に立っていた、サングラスの男が先に立ち、ジョーとロマノフに付いてくるよう手で合図した。
　マリオは、白衣の男に示された扉へと進んだ。白衣の男に頭を下げてからソーンダイクも続いた。
　マリオは荒々しく扉を開け、カイユンの居る部屋へと入った。小さな明るい部屋で、そのすかっと抜けたような明るさが、浮き世離れしたような雰囲気を醸しだしていた。カイユンは、絹のジャッケトを膝の上に抱え、ソファーに座っていた。少しやつれたが、五体満足なカイユンの姿を見、マリオは走りよって、カイユンの肩に片手を乗せ、もう一方の手で頭を叩いたり顔をつねったりした。

　「この馬鹿野郎！大丈夫だったか。ひどいことはされなかったか？」

　カイユンは、久しぶりに心からニッコリ笑い、マリオの肩をボコボコ叩き返した。

　「ひどいことなんて・・・・・手紙に書いたでしょう。ここの人たち、とっても親切なんです。僕が済まなくなるくらい気を使ってくださって・・・・・ほんっとに悪くって・・・・・」

　「ばーか。」

　マリオはカイユンの耳を両側にぎゅっと引っ張った。

　「お前、丸め込まれたな。詳しい事情は道々聞かされた。お前は人がいいからすぐこんなことになる。さ、帰るぞ。早く支度しろ。」

　引っ張るマリオをカイユンが引き戻した。

　「・・・・僕は、自分でここに居ることに決めたんです。丸め込まれたんじゃあありません。」

　「お前なぁ。・・・・・」

　マリオはあきれ顔だ。

　「ここに居たら、もしかして、命にも関わるんだぜ。そこのところ理解してんのか。」

　「判ってます。よく。僕も随分考えたんです。折角来てくれたのはうれしいけど、僕は帰りません。決めたんです。」

　次の瞬間、カイユンは首根っ子を捕まれ首を締めあげられた。

　「おまえ、何考えてる？こういう安穏とした空気がよっぼど好きなのか？」

　ソーンダイクが、慌ててマリオの手からカイユンをもぎ離した。カイユンは、ワイシャツの一番上のボタンを外し、深く息をした。

　「好きじゃないって言えば、嘘になる。・・・・・ここでは、昔の僕の夢が・・・・・リマンでは実現できなかった研究者になるという事が実現できるんだし・・・・・」

　カイユンに殴りかかろうとしたマリオを、ソーンダイクが後ろに回って必死に止めた。

　「・・・・・・俺らには用無しって事なのか？」

　ソーンダイクはといえば、濃茶のサングラスの下から二人を見つめているだけだった。

　＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊

　ジョーたちが案内された部屋は、簡素だが、いかにも暮らしやすそうな居間だった。案内人が出ていくと、奥から電動車椅子に腰掛けた老人が、スイッと現われた。顔には深く皺が刻まれ、顔色は妙にくすんでいる。薬剤注入管が両の腕の袖口から覗いていた。ジョーが、女学生だった時星間史で習った偉大な開拓者、カイエ一族の末裔が彼女の前にいた。

　「わざわざ足を運んでいただき、申し訳ありません。」

　老カイエは右手を弱々しく差し出した。ジョーは素早くその手を受け止め握手した。この老人が、クリア・ウオーターの未来の決定権の一翼を担っている男、善良な開拓者の師と仰がれる男だった。

　「意外に思われたでしょうな。・・・・・以前の私は、もっと頑強で力に満ちていましたが、今はただの老いぼれ、歩くこともままならない。息子が事故死せず生きていれば、もうとっくに引退しているはず・・・・・いや、生きていないはずです。・・・・・私は、私の後を継ぐだけの強い意志と野心を持った人材を育成することが出来なかった。自分の考えを推し進めるのに夢中でね。・・・・付いてきてくれるものは多いが、引っ張ろうとするものが居ない。・・・・私の過失です。・・・・私は、死ねなくなってしまった。・・・・・・・私が死ねば、今はなんとか均衡を保っているナトアとの関係は一気に崩れ、闘争が激化するのは必然。」

　もはや、カイエは一人の実業家ではなかった。彼は、象徴化され、祭り上げられ、一種の宗教の教祖的な人間となってしまっているのだ。そのことが、彼の苦悩を増していた。

　「・・・・植民者たちは、私の中に“神”の力に近いものを感じているらしい。・・・・それは、誤りです。幸か不幸かね・・・・その、間違いを正すためにも私は暫らく生き残らねばならない。」

　「・・・・カイエさん。だからと言って・・・・」

　口を挟んだジョーに、カイエは“判っている”というように頷いた。

　「私は、あなたがたに彼を説得して連れて帰っていただきたいのです。・・・・もう、一応の説明を受けられたかと思いますが、繰り返させていただきます。・・・・私の病気は、私の体質によるものです。八方手を尽くしましたが、治療法はありません。病気の進行を遅らせるのにも、現在のところたった一つの方法しかないのです。それが、他の生物の生体物質を利用することでした。未だ、化学的に合成には成功していません。・・・・特殊な、海棲哺乳類・・・・・ここ、クリアウォーターに生息する亜人間のうち、突然変異の個体のみが生産する物質です。私がこの星の開発を手がけるようになったのも、実はその物質を確保するためから始まったことです。それらは、幼弱体のうちに死んでしまいます。開発で、亜人間の数自体が激減した一方、私は、病気の進行とともに、さらに多くの量を要するようになりました。・・・・・あなたの仲間の青年の体液中には、同じ物質が非常に高濃度に含まれています。人間と、亜人間との混血彼の特殊性が私にとっては天からの助けとなったのです。・・・・今は、この星の亜人間の変種から取る物質で事足りていますが、いつ足りなくなるとも限りません。・・・・あの青年の故郷の星に部下を飛ばしてもしましたが、あの惑星は連邦の実験星・・・・私の力も及ばず、新たな供給者を確保することはできませんでした。私は、生きたい。生きて、この星の進む道を見届けたい。・・・・しかし、他人の命を削ってまで、生きたくはない。・・・・・二つの心が、私の中で戦っているのです。・・・あの青年を、私の前から連れ去ってください。そうすれば諦めも付く。私の側近たちは反対するでしょうが、私から言えば、どのようにかなります。・・・・・彼さえ、出ていく意向を明確にすれば、彼らも強い手段には出ないでしょう。・・・・・」

　ジョーは、冷静だった。

　「・・・・しかし、カイエさん。あなたは、あなたの命が、あなた一人の者ではないと感じていらっしゃる。私もそう思います。・・・・・この星に、つい三ヵ月前にきた私達でも、あなたのやろうとしていることを知っている。ナトアの、力任せのやり方を知っている。・・・・あなたは、迷っている。カイエさん。もし、本当にあなたが私達の仲間を引き止めているのが苦痛なら、もう、とうに追い出しているはずですね・・・・・」

　老カイエは、目を伏せた。口を結び、肩を落とした。ロマノフが、ジョーに囁いた。

　「・・・・カイエ氏を困らせるだけではいけない。君はどう思うんだね。」

　「・・・・あたしも困ってるのよ。・・・・結局は、カイユンの命は・・・・あの子自身の物なのだから・・・・・」

　医者が、老カイエのもとにやってきて脈を取った。医者はそのまま車椅子を押し、老カイエをジョーたちの前から連れ去った。

　＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊

　「なんとか言ってやれッ！」

　ソーンダイクにはがいじめにされつつ、マリオは怒鳴った。

　「どうにかしろ！さっきあいつは別の部屋に移った。あの角をまがった先だ。引きずりだしてこい。」

　ジョーは、溜息を付き、マリオの前で、白い清潔な樹脂製の床をつま先でコツコツ打った。

　「頭に昇った血を下げなさいよ・・・・・アケルナルに帰ってな。留守番しているパトリックが心配だわ。カイユンにあんたの言いたいことは全部言ったんでしょう。後は任せて。」

　マリオは尚もぶつぶつとあたり散らしていたが、ソーンダイクにはがいじめにされたままジョーの視野から消えた。

　「さて・・・・・」

　しばらくして、ジョーは大義そうに口を開いた。

　「どうする・・・・・？」

　問いかけられたロマノフは、首を横に振った。

　「・・・・ジョー、君が一人で行っておいで。・・・君に説得できなかったら、私にも無理だろう。」

　「ロマノフに・・・・・逃げられたのかな・・・・・」

　「彼は誰よりも君のことを慕って尊敬しているはずだよ・・・・行っておいで・・・・・私の手助けが必要なときには呼んでくれればすぐに行くからね。」

　ジョーは、角を曲がって、ガードマンの二人いる扉の前に立った。ここでは、凶器となり得るものすべてを没収された。身体検査をされているとき、ビロードの服を着た少年がそばの壁にもたれかかり、ずっと、不機嫌な顔をジョーに向けていた。二重扉のロックを外してもらい、中に入ると、湿度の高い空気が襲いかかってきた。
　その部屋は、にぎやかだった。カイユンの、優しい、子供をあやすような声が聞こえた。その他に、音楽のような高い囁き声が聞こえた。よく聞くと、その声は人間の笑い声に似ていた。
　クスクスクス・・・・・クスクスクス・・・・・くぐもった笑い。それが複数集まり、快いハミングの様になっている。
　カイユンは、大きなプールになっている場所の水際にしゃがみ、なにかを抱いて撫でていた。そっと近付いたジョーは、思わず立ちすくんだ。
　これが、この星の原住種族だろうか。確かにヒューマノイド系の亜人間だ。・・・・しかし、カイユンの種族とは全く違う。
　眉はなく、円形の目を覆う目蓋は、上下同じ大きさで、太い血管が浮き出ている。鼻に相当する部分には、丸い穴が一つあるきりだ。口は丸く、歯はギザギザ。水からあがっているものもあったが、四足歩行で、短い四本の指の間には水掻がついていた。背には大きな背びれがある。・・・・・その生物を、カイユンは抱いているのだった。
　ジョーに気付いた生物は、驚いて、プールの底に身を潜めた。カイユンは、その時初めて、ジョーが来たことを知った。
　カイユンは、プールの水面を向いたまま説明しだした。

　「・・・・。・・・・あの子たちが、この星の亜人間です。突然変異で遺伝子が病んでいるので、普通の姿とはまた違いますが・・・・・戻っておいで。この人は何もしないから・・・・・。」

　亜人間は、水面に浮かび上がり、二人ほどがカイユンに近付き、絹のジャケットに身を擦り寄せた。ジャケットは、彼らのよだれや、体のぬめりで、筋を付けたように光っている。

　「・・・・みんな、この上着が好きなんだね。・・・・・肌ざわりがいいんだよね。」

　ジョーは、黙っていた。

　「・・・・キャプテン。・・・・・？」

　「・・・・・わたしたちとずっと違うのね。・・・・・魚に近い・・・・・」

　「・・・・。・・・・そうですか？・・・・・僕の祖先、これに近い姿なんです。・・・・・僕たち、混血ですから、ときどき先祖帰りという現象がありました。・・・・・僕の家族には一人も居なかったんですが、近所では何人もありました。この子たちと同じく、病んだ遺伝子を持っていて、十歳くらいまで生きられればいいほうでした。・・・・そういう子が生まれた家は、医療費を初めとしてかなりの負担なんです。ですから、その子たちは地域で世話をします。・・・・その子たちの何人かは、僕と友達でした。ちょっと体の造りは僕たちと違いますけれど、その他は全く同じなんですもの。」

　ジョーは、カイユンから少し離れた位置に座った。突然、亜人間が飛び出し、彼女の指を噛んで、カイユンのそばに身を寄せた。カイユンは小突いた。

　「駄目だよ！・・・・・キャプテン・・・・・許してやってくださいね。・・・・知らない人だから、恐いんです。」

　暫らく、亜人間の跳ねる水音だけがしていた。

　「・・・・カイユン・・・・みんな、あんたに死んで欲しくないって思ってるわ。・・・・いいえ。死ぬかもしれない危険にさらすことすらやらせたくないと思ってる。・・・・人一人の命は、他のどんなものにも代えられない。それはあたしより、カイユンの方がよく判っているはずよ。」

　「僕は、亜人間との混血です。人間じゃありません。」

　「亜人間だって同じよ。生物の生命は大切なものよ。」

　「この子たちも生物です。・・・・・この子たちだって生きています。」

　カイユンは、優しく、亜人間達を水の方へ押しやった。

　「生命・・・・・確かに尊いものですけれど、・・・・・“僕の命は大切にしなければいけない、しかしこの子たちの命ならいい”ということはありません。生命と生命の比較なんかできっこないんです。丈夫な人も、虚弱な人も、犯罪者も、精神病の人も、酔っ払いも、政治家も・・・・・みんな、生物としての生命は同じです。」

　「そうよ。・・・・だから、あんたの生命より、カイエ氏の生命が重要だなんて決して言えないわ。」

　カイユンは、重々しく頷いた。

　「そうなんです。こんなちっぽけな僕ってものでも、生命は他の人と同じなんです。カイエさんとも同じです。・・・・・キャプテンの言う通り、一つの生命を、もう一つの生命と比較して、どちらが良いか、なんて決められません。一つと一つでは・・・・・」

　ジョーは、いやな予感がしてきた。カイユンの話は、理路整然としている。よほど、確固とした考えがあるに違いない。

　「・・・・一つの生命と、多くの生命を比べたならば？・・・・僕の死は、僕、一人だけのものです。でも、カイエさんの死は、一人の死にとどまりません。あの人が死ねば、多くの人が傷つき、死ぬでしょう。この子たちの親の亜人間も、乱開発で、やがては死に絶えてしまうでしょう。・・・・やがて・・・・何百年か、何千年後かには、この星も死にます。マリオさんの故郷のドルガ星のように。僕は、そんなこと、させたくないんです。」

　「カイユン！あんた、本当に、自分が何をしているか判っているの！」」

　ジョーは、きつく言った。ここで強く引き戻さねば、カイユンは自分の考えに飲まれてしまう。
　カイユンは、水面を見たまま微笑した。

　「僕が死ぬって決まったわけじゃないですし・・・・・そうなる可能性は低いですよ。僕の体液の中にはかなりの濃度でカイエさんの必要なものが入っているそうですから。僕は弱虫ですから確実に死ぬっていわれたら、僕はきっと逃げ出していたと思います。・・・・キャプテン。・・・・・たくさんの命の重さと、たった一つの命の重さ、どちらが重いかはっきりしているでしょう？・・・・・この子たちも、カイエさんの必要に応じて、徐々に体液を取られ、死んでいきます。・・・・・カイエさんの病気が悪化したときは、殆どこの子達一人の半分の体液が要るんです。僕の体液が取られるのは、この子たちが死んでから・・・・・御免ね。・・・・・君達を助けられなくて。・・・・・研究所の人たち、僕の方が君達より大事なんだって。僕が人間に近いから、そして、君達が、どうせ早死にするからって・・・・・・御免ね。・・・・・・・・・・キャプテン。僕は、せめて、この子たちの最後の時を幸せにしてやりたいんです。」

　「・・・・・あなたの理屈は判ったわ。・・・・・でもね、カイユン。人間には、理屈が通らない部分があるのよ。マリオたちは、カイエ氏より、・・・・いいえ、一万人、一億人の人間より、そして、惑星や恒星の生命よりもあなた一人の命の方が重いと思っているわよ。それが、利己的で危険な考えだとしてもね。それに、あなたは間違っている。あなたの死はあなた一人だけのものなんかじゃない。」

　「・・・・・人間って、いつ死ぬか判りませんよね。・・・・・僕なんか、今まで生きてこられたのが不思議なくらいなんです。ぼんやりしてて、ドジで、・・・・・僕は、この、生きているときに、今っていうときに、やれることをやりたいんです・・・・・」

　命とはなんだろう。
　科学力の進んだこの宇宙でも、まだ生命を作ることには成功していない。
　逆のこと・・殺すことに掛けては人間は長じているのに、アメーバすら生み出すことは出来ないのだ。
　殺すこと・・・・・ジョーは今までに三つの命を奪った。十五才の時に乱暴されて出来た子供の中絶。そして、体を張って仕事をしていく中で、避妊に失敗して出来てしまった子を二人。その二人は、薬で処理してしまい、罪悪感などまるで感じなかった。・・・・そんな女が、命について云々することは、許されないことかもしれない。脈々と生命を伝えていくための行為を、仕事のために利用するような女には・・・・・

　「・・・・。一つだけ覚えておいて。・・・・・あなたの帰る場所はいつも用意してあるのよ。」

　カイユンは、頷いたが、立ち上がろうとしなかった。ジョーは、膝をのばし、真っすぐに顔を上げると踵を返して扉へ向かった。ずっと話を聞いていたのだろう。ロマノフが静かに待っていた。
　まさに閉まろうとする二重扉の向こうで、再び亜人間のクスクスという声が始まった。
　扉がぴったり閉まると、笑うようなクスクスの音は全く聞こえなくなり、ぞっとするほどの静寂が、ジョーたちを支配した。それを破ったのは、いつから来ていたのだろうか、壁にもたれかかって、ジョーを冷ややかに観察していた老カイエの孫、アーサー　カイエだった。

　「あなたは、彼を説得できなかったわけだ。」

　ジョーは、それには答えず、いつもと変わらぬきびきびした足取りで、出口へと向かった。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　

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