12　水　


　「・・・・こ〜ゆ〜ことなのか。危ない仕事っていってたのは。・・・・最後の最後まであたしには本当のことを報せてくれなかったわねえ、え？マリオ。」

　カイユンが“危険な笑顔”と評して怖れている表情をしたジョーに対し、マリオはのほほんと曖昧に笑顔を浮かべている。

　「報せるも報せないも、そっちが一方的についてきたんだろ〜が。」

　こんなことを走りながら喋る。古い区画にもかかわらず、妙なところで独立型の安全機構は生きているらしく、水を感知したセンサーが他の区画を守るために隔壁をおろしていく。　結果、とにかく上へ上へと逃げていく。・・・・それは、おそらくは彼らと敵対するであろうドルガの保安隊に向かって距離をつめていってしまう行為だろうが、今はそんなことは言ってはいられない。なにせ、どんどん水音が下から・・・・・

　カンカンカンカン・・・・

　上から靴音が聞こえる。大人数ではない、三人といったところか。ジョーはパラライザーを構えた。マリオも慌てて腰から銃を抜き、急いで柱の陰に隠れる。
　明かりをもった人影が階段を降りてくる。マリオが躊躇なく引き金を連続してひく。見事に命中し、くずおれる。にやりと笑うマリオの後頭部をジョーは殴った。

　「ばっか！あの格好を見なさいよ！民間人、ど〜みてもただの作業員じゃないっ！」

　言いつつかけよる。

　灰色掛かった緑の制服に安全ヘルメット姿。念を入れてあらためた持ち物は全て工具だった。マリオが懐を探るために一度抱き起こした体をいささか乱暴に横たえると、ジョーはその横でマヒを解消する薬剤を注射していた。

　「何やってんだ？」

　ジョーはちょろちょろと上がってくる水を示した。

　「このままじゃこの人達を溺死させることになるわ。いくらなんでもあんまりじゃない？・・・・大丈夫よ。彼らが意識を取り戻しても所詮一般人。十人かかってきたってどうってことない。」

　すぐに覚醒刺激が脳にやってくる。
水は緩慢にあがってきて平らな床に積もった埃をすうっと払うように広がっていく。作業員達の体も一センチほどの深さの水に浸った。一人、また一人と目をあける。目を開け、ファイバーを伝った弱い日光の中で首を振る。

　「さあ、あなたたち、早く逃げたほうがいいわよ。ちょっと痺れているだろうけど立てるはずよ。立って、そして上層へ行きなさい。」

　作業員たちは身を起こし、次の瞬間、三人揃って悲鳴をあげた。あまりにも大きな声にジョーははっとした。この反応にはなにかある。しかし、見渡しても何もない。あるのは、天井と、柱と、広く薄く広がった水と、水の上に浮いた白い埃・・・・


　　＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊


　「きゃっ！」

　地面を縦に揺するような衝撃に足をすくわれたフェリナはカイユンに支えられてなんとか転ばずに持ちこたえた。マリオと、彼を監視していたはずのジョーに抜けられ、戸惑っていた彼らは、この町での情報収拾に出掛けたロマノフを待って薄暗い通路で待機しているところだった。

　「フェリナ、大丈夫？」

　「う、うん。」

　フェリナは頷き、それからソーンダイクに促されて情報ネットに接続する。

　「フェリナさん、今のどうしちゃったのかな？地震？爆発？」

　彼女の足元から円らな瞳でじっと見上げるパトリックには構わずフェリナは真剣に操作を続ける。その顔色がみるみるうちに青くなる。

　「ソーンダイクさん、カイユンさん・・・・非常事態を告げてるよ。ここから少し離れた区画の奥の方で大規模な地盤崩壊があったって。・・・・爆破かどうかはわかんない。とにかく最基底の地盤が破れて水が吹きあがってるんだって。水を止める為にあちこちで旧時代の隔壁がおりてきちゃって、そのことでも混乱してる。」

　フェリナに相手にされなかったパットはカイユンの足にまとわりついた。この冷静な少年は怯えることはない。いや、フェリナよりも落ち着いている。

　「カイユン、もしもそれがマリオのしたことなら、そこに行けば会えるんだよね？」

　ロマノフが走ってきた。息が荒い。さきほどの振動でもしものことがあればと思い、戻ってきたのだろう。ジョーとマリオが居ない今、いざというときには自分がいなければ、と彼自身、大きな責任を感じている。状況を尋ねる彼に、カイユンはフェリナの言葉をその通りに伝えた。

　「そうか。・・・・となると、“破壊と再生”と小競り合いを続けているドルガ正規軍は一先ず撤退してくれるかもしれんな。」

　情報屋の少女は、話に加わることなくひたすらつぶやいている。

　「・・・・ちょっと待ってよ・・・・どのチャンネルでも緊急の割り込み通信ばっかじゃない。正規チャンネルでも違法チャンネルでも・・・・え？何よ・・・・？でもなんで？どういうことなんだろ。」

　　フェリナは首を振った。

　「どうしたね？」

　フェリナはロマノフが帰ってきたことにやっと今気付いたらしくカイユンがロマノフに話していたことを繰り返して説明した。そして不満げに眉を顰めた。

　「・・・・でも、なんでそんなに大騒ぎしてるんだろう。そりゃ、水が吹き上がるのは事件でびっくりしちゃうだろうけど・・・・喜んでいいんじゃないの？あたしたちの世界は慢性的な水不足なんだから。」

　確かに・・・・あの街も、そして今居るこの街も、乾いた世界だ。街の埃を押し流すのは雨ではなく集塵機であり、貴重な水は浄化し何度も繰り返して使う。上層の正式な街ではともかく、この薄暗い地下では限られたものがあまりにも多かった。限られた水、限られた空気・・・・人間たちが吐き出す廃棄物や屎尿だけは限りなく排出され続け、その処理ができなくては生きてはいけない・・・・自然を放棄したドルガは裏を返せば限られたものをヒトの力で循環させることに成功した科学の結晶であった。
　フェリナの言葉どおり、水は不足気味なのだろう。シャワーは薬液吹き付け型だったし、むろん風呂桶はなかった。

　「フェリナ！」

　「へ？」

　穏やかなロマノフに鋭い声で言われ、彼女は思わず間の抜けた返事をした。

　「フェリナ、きみは水が吹き上がるときいてどんなことを想像した？」

　フェリナは首を傾げ目の前で小さくビンの形を指で描いてみせた。

　「吹き上がる水なんて・・・・シャンパンの栓を抜いたときくらいしか見たことないですけど・・・・・・もったいないじゃないですか、水を無駄遣いしちゃ。」

　「・・・・それだけなのか？」

　フェリナは肩をそびやかす。イヤホンから新しい情報が飛び込んだらしい。その瞳が大きく見開かれる。

　「何で？何で救難信号が出たの？それもあたしの街からも・・・・」

　ロマノフの胸をどんと叩く。

　「おじさん、ロマノフおじさんは知ってるんでしょ？一体何がおこってるの？あなたの仲間の爆弾屋は何したの？」

　足元ではソーンダイクがキーボードをマシンガンのように叩いている。画面には情報科学者のシバンから受け取ったこの階層都市の図面が出ている。
　ややあってから、彼は厳かに告げた。

　「沈みますね。フェリナの街。」


　　＊＊＊＊＊＊


　ジョーは泣き喚く三人の作業員に猿ぐつわを噛ませて手足を縛りおとなしくさせてから皮肉な笑いを浮かべた。今回のことの元凶であるマリオは作業員の反応に毒気を抜かれたように灰色の壁によりかかっている。

　「な、なんだってんだ？こいつら？いきなり気でも狂ったか？」

　ジョーはははははと力なく笑いながら再びマリオの後頭部を叩いた。

　「何で地元民のあんたがわかんないのよ。・・・・マリオ、あんた、湖あるいは海を初めて見たのはいつ？」

　頭を押さえてマリオは怒鳴る。

　「それがこの状況となんの関係があるっていうんだ！人の頭をぽかぽか叩きやがって！このクリアな脳細胞を死滅させて何が面白い。・・・・・・モノホンの水溜まりを見たのはこの星から出てからだが、教育プログラムの中でそんなもんはガキのときからどうってことなく・・・・・」

　そこまで言ってマリオは作業員達を指差す。

　「ま・・・・さか、こいつら、水に驚いてるのか・・・・？」

　「・・・・多分ね・・・・個人差があるでしょうけど、ここの下層地区の住民たちは、“水面”ってものはコップや鍋の中でしかお目にかかってないのよ。雨の降るのも見てない人間が多いんじゃない？そうね・・・・プールを前にして恐がって爪先だけ水をつけてとびすさる子供のようなモンじゃないの？そんな人間があたしたちだって平静ではいられないじわじわ上がってくる水にぶちあたったんだからそりゃあ恐怖だわよ。・・・・マリオ、あんたさ・・・・まさかだけど、そのことに気付かないで爆破したわけ・・・・・」

　マリオの顔色が変わっている

　「・・・・その様子じゃ、思い至らなかったようね・・・・しっかりしなさいよ！びびって何になるのよ！」

　彼は耳の中に小指を入れてカリカリと掻いてみせた。

　「・・・・あのな。・・・・俺は水害がでそうだからびびってんじゃねえ。水が流れこむのは予想してた。ただ、住んでた奴らの反応が予測できなかった自分の馬鹿さ加減に唖然としただけだ。」

　またジョーの水平平手うちが襲ったがこんどはマリオがひらりとよけた。ジョーはぎりっと奥歯をかみしめる。

　「・・・・じきにに下からの住民が上に目掛けて半狂乱で殺到してくるわよ。上のほうでドンパチやってる“破壊と再生”と政府のごたごたの火に油をそそぐようなもののような気がするけど。それもあんたの予想のうちなの？」

　ジョーが話しているうちにマリオは立直ったようだった。

　「まあな。」

　彼は作業員達の足の縛めを解き、立たせるとぱんぱん手をたたいた。

　「さあ、早くいったいった。俺の計算じゃあと少なくとも十五層上まで水が行くんだ。溺れたくなかったらちゃっちゃっと歩け歩け。」


　　＊＊＊＊＊＊＊＊


　フェリナは泣きだしていた。号泣というわけではないが、目尻からふっくふっくと新しい涙がつぎつぎに湧きだして頬を伝って流れ落ちていく。

　「あたしの街が水に埋まるの？母さんやお姐さんたちはどうなるのよ？」

　泣きながらもソーンダイクに促されて情報収集を続ける。しばらくしてソーンダイクは集まった情報をまとめて読み上げた。

　「さて・・・・これからどうするかだが・・・・」

　「僕は、水没しそうな地域に救助に向かいたいと思います。」

　普段口火をきることのないカイユンが真っ先に口を開いた。

　「水のことなら手を貸せるでしょうから。」

　ロマノフは頷いた。
　まだ涙のおさまらないフェリナの頭にがっしりとした大きな手を置く。

　「・・・・ただしフェリナ、君の街まで降りていくかはわからない。・・・・我々は相当遠くまで来てしまったからね。・・・・わかって欲しい。」




　そのころフェリナの母であるアンジェラ達は、圧力に耐えかねてコンクリートの蓋を押し上げて洪水となった膝までつかる水の中を、運べるだけの荷を背負い、果敢に避難していた。

　「あっ！」

　一番年下の、フェリナとそう歳のかわらない娘が転んで水の中でじたばたしてもがいた。先頭を進んでいたアンジェラが立ち止まり、戻り、急いで立たせる。

　「アンジェラ母さん、もう嫌！こんな怖いところを歩くの！ね、ね、店に戻りましょう？きっと水はもう上がってこないわ。」

　その横っ面をぱちんとひっぱたく。

　「意気地がないね！毎日体を張って生きてるのに、水に体を撫でられただけで泣き言かい？」

　不安げに様子をみる他の娘たちにも鋭い一瞥を与える。

　「ほらほら！歩くんだよ！考えようによっちゃラッキーじゃないの。地下で生まれて育ったあたしたちがこんなにたくさんの水を見られるなんてね。一生で一度の出来事なんだから、よーっくこの大量の水を眺めておきなさい。これから、忙しくなるわよ。こんな被害が出たら慰めて欲しい人間が山ほどでるじゃない？そしたらあたしたちの出番。不景気な顔するんじゃないよ？」

　アンジェラとて恐怖心がないわけではない。しかし、今の状況は耐えられないこと・・・・心が引き裂かれるような痛み・・・・を伴ってはいない。近くの家々の二階では、まだ水の中を歩く決断ができない男たちがこちらを見下ろしている。アンジェラは怒鳴り付けた。

　「何をためらってるんだい！もっと水が上がって、“泳ぎ”って奴を使って逃げたいのかい？さっさと下りといでよ。今なら上の階層への通路は開いているけど、いつまでもそうなのかはわからないよ。避難民が増えてごらん。あたしが上の方の階層の奴らなら通路を閉鎖するわね。」

　まだ男たちは動こうとしない。

　「だ〜っも〜っ！あたしらはあんたらより体も小さい。力も弱い。あたしたちができてあんたらにできないことはほとんどないはずだろがッ！」

　一応声はかけてやった。あとは自分で選択することだ。しかし・・・・居住している人間の数に比べて避難中の人間は少ない・・・・それほど“水”を恐れている奴ばかりなのだ。彼女が引き連れている女の子たちにしても、さんざん脅し宥めすかしてからやっと動き出したのだ。着のみ着のまま、アンジェラを含めた幾人かは動きやすい服に着替えていたが、仕事用の艶かしいドレスのままの娘もいる。はたからみればさぞ奇妙な団体だろう。ただ、彼女たちの結束は固い。一人たりと置いていくことはしない。皆がそう思っており、そう思っていることを皆が知っていた。
　と、眼前の建物の地階から悲鳴とともに何人かが逃げるように飛び出してきた。

　「戻ってきたら殺すぞ！」

　そのぶっそうな声を聞いてアンジェラはほっと息をついた。

　「スラバタ！姿が見えないと思ったらこんなところにいたんだね。」

　使い慣れた得物である金属性の鞭を振り回していたスラバタはいつもどおり妖艶な笑みを浮かべているアンジェラの様子にふうっと息をついた。

　「・・・・あんたらみんな無事か。・・・・早く上に行けよ。あの“海”が溢れたんだ。この街は沈んじまう。・・・・今、この街に潜伏していた同志の数はわからないが、この騒ぎの中、知った顔を三人ほど見付けた。俺はそいつらと、ここの人間の避難を促してまわってる。・・・・レイモンドを知らないか。」

　「さあ？見ないけどね。」

　「そうか・・・・あの人がいれば少しはラクなんだが・・・・俺は実行部隊でカオはきかんから・・・・おい、なにするんだ。」

　アンジェラはスラバタの額にルージュをひいた唇で軽くキスをした。

　「おまじないだよ。・・・・スラバタ、水が怖いんだろ？隠したって無駄さ。カオに書いてあるからね。・・・・あたしにキスされた男はその日のうちには死なないってジンクスがあるからね。・・・・いいかい。効き目は一日だけだし、あくまでジンクスだからね。もしもあんたが死んだらジンクス破り第一号ってわけよ。・・・・じゃ、あたしはお言葉通に従って上へ行くわね。」

　近くではこのときとばかりに掠奪に精を出している不届き者もいるが、アンジェラ達はひたすら上の層への大型昇降機へと急ぐ。
　水が川のように流れているが、昇降機への通路は勇気を出して逃げてきた避難民でそれなりにごったがえしていた。人垣ができ、アンジェラ達は前で何がおこっているかわからない。ただ、列ができ、それが遅々として進まない。ここまでがんばってきた娘たちもついつい弱音を吐き始めた。
　と、大音響とともに、爆発音が聞こえてきた。

　「なに？軍隊が降りてきたの？」

　アンジェラは店の女の子の怯えた疑問に答えず、少し視線を上にあげて煙をあげている昇降機のエントランスを目に入れた。と、さらに続けてオレンジ色の閃光が走りさきほどよりももっと大きな爆発が続いた。　蜘蛛の子を散らすように避難民は水しぶきを跳ねあげて四散する。アンジェラは微動だにせずエントランスを見つめた。人影が見えた。と、彼女のカオが自嘲気味に微笑んだ。視線を下に落とすと豊かな金髪が揺れた。

　「・・・・そういうことか・・・・」

　道の左右に別れていた娘達が肩をふるわせてクックックッと笑っているアンジェラを気遣って両側から道の真ん中に戻ってきて手をひき、揃って道の片側によった。彼女等が客商売の女だとわかっている人間は、自分たちも脛に傷持つ身だろうにあからさまな軽蔑を目に浮かべている。アンジェラは笑うのをやめ、くるりと昇降機に背を向けると、娘たちについてくるよう手で合図した。

　「お母さん。どこ行くの？」

　人込みが途切れたあたりで先程転んだ娘が不安げに尋ねた。

　「上へよ。・・・・親に捨てられたあんたたちが、子供の頃暮らしてた碌でもない細道・・・・そこからどうにかして上に上がるわよ。・・・・あの昇降機は動くかもしれないし動かないかもしれない・・・・だったら待っていないで自分のアシで逃げたほうがマシ・・・・ほら・・・・同じ考えの連中が思い思いの細道めざして“壁”に向かってるよ。知ってる子がいたら教えてくれない？上へあがる近道を。」

　娘たちは自分の幼い日の記憶を掘り起こしああだ、こうだと議論しはじめた。だれもが皆、よくねぐらにしていた細道をひとつはもっていたのだった。額を突き合わせた話し合いの後、女たちは移動しはじめた。水を恐れて震えて動かない人間や、動くかどうかわからない昇降機を囲む人間より彼女等は数倍生き生きと命に溢れているように見えた。

　下層へと向かうロマノフ達が初めにぶつかったのは、下から上へと移動してくる避難民たちが“破壊と再生”と政府の小競り合いに突っ込んできた大混乱状態だった。それは結果としては政府の撤退をもたらした。新たに加わってきた地下住民達は、“破壊と再生”に共鳴しないものも多くいたが、少なくとも皆政府が好きではなかったからだ。だが、政府が撤退をきめても平和になったわけではない。戦闘状態時につっこんできた住人は流れ弾を受けて深い傷を負うものもいたし、水に対する恐怖心は水が到達しそうにもない上層でもパニックを引き起こし、通常なら味方でありそうなものの間にもいさかいを引き起こした。その中をロマノフたちは流れに逆らうように突き進んだ。ようやく、フェリナが目指した枝の通路に達して一息つくと、フェリナは壁によりかかったままずるっと背で壁をすって座り込んだ。

　「・・・・喧嘩を見るのは慣れてるけど・・・・あそこまでやるのってバカだよね・・・・」

　カイユンが済まなさそうに頭を下げた。困っている人を放っておけない、喧嘩があれば仲裁にはいる・・・・それがカイユンの性格である。とても仲裁できるような争いではないが、カイユンとしてはフェリナの同郷の人々の混乱を素通りしていくことが彼個人としてとても心が痛んだのだった。フェリナは彼のそんな気持ちがわかっていた。そんなことを気に病むのは仕事屋として不似合いなことだったし、馬鹿げてもいたが、混沌とした地下都市育ちの少女は、人の善意や優しさが得ようとしても得られない貴重な宝だと身をもって知っている。だから膝をぐいっとのばして立ち上がると明るく大きく声を出した。

　「とにかく下に行こ。・・・・近道でいい？」





　近道というのは、何かしら難点があるものだがこの場合もそうだった。フェリナは一刻も早く下層に到達したい一心で選んだのだが、それは道と言えるものではなく、ありていに言ってしまえば旧い時代のダストシュートであった。
　以前ここを使ったことは三度あるが初めは思い切り捻挫したんだったっけ、と大きな蓋をあけてごくりと唾をのむフェリナを押し退けるようにしてロマノフが常備している細いケーブルを蓋にとりつけた。

　「普通にすべっても命を落とすことがないのなら、こいつをつたって行けば怪我もなく辿り着けるだろう。」

　頷いて、フェリナは初めにすべっていこうとすると、今度はカイユンに押し退けられ、彼に先陣をきられてしまった。物理的衝撃に強いのは彼の種族の特性なのだ。

　「よ〜し、パットおいで。」

　遥か下から声が聞こえ、パトリックが入り、ソーンダイクと続く。

　「フェリナ、おいで。」

　フェリナはケーブルを伝って途中までおり、ケーブルが足りなくなると手をはなした。それでもものすごい勢いで下っていく。フェリナは手足を縮め、着地に備えた。

　「？」

　衝撃は全くなかった。カイユンがふわりと下で抱き留めてくれたからだ。

　「フェリナ、大丈夫？」

　「え？うん。」

　カイユンが優しいことはこの少女にもわかっていたが、直接助けられ、ただ優しいだけでないことを改めて認識させられた。頼りなさそうでいて腕は逞しい。やはりこの人達は仕事屋だ。

　最後にロマノフがケーブルを回収して滑ってくると彼女に声をかけた。

　「フェリナ、ここからはどういく？」

　フェリナははっとして小さな扉に走った。ゴミを運ぶために設けられていた朽ちかけたコンベアのゴムレールが下方へ続いている。　

　「ここを下ってそこからちょっと上に上がると昔の廃棄物処理施設に続く道があるの。今、そこはゴミから役に立ちそうなものを拾い歩いていた機械屋さんたちの街になってるって。・・・・・どっちかっていうと科学者タイプの人が多くてあまり怖い街じゃないはずよ。ここから先は足掛かりがあるからあたしが先に行くわね。」

　コンベアに足をかけるフェリナの襟首をカイユンがぎゅっと掴んだ。フェリナは引っ張られた形になりすてんと背中から床に落ちた。

　「いったぁ・・・・」

　「ご、ごめん。」

　すっと脇の下に腕を差し入れ立たせる。

　「僕が先に行くよ。・・・・匂いがするから。」

　「匂い？ここをゴミ処理ルートとして使ってたのって二百年以上前のはずだけど。

　「いや、そうじゃなくて・・・・」

　カイユンはロマノフに耳打ちすると、上着を脱ぎ、一人でコンベアの上を下っていった。


　コンベアの傾斜は途中から急になった。ぱしゃん、と水が跳ねる。さっき感じた水の匂いは間違いではなかった。携帯用のライトを肩口にセットし、腰まで水につかってから泳ぎ始める。
　埃を溶かしこんだ水は今までにない複雑で嫌な味と匂いをしていた。だが、彼はなんともいえぬ安らいだ気分を感じていた。やはり自分は水棲亜人間との混血体なのだな、と思う。・・・・人間じゃない。だから僕は・・・・
　悲しいことを思い出しかけて、カイユンは首を振った。とにかく今は状況の調査だ。
　びしょ濡れになって戻ってきたカイユンを見てフェリナはロマノフに齧り付いた。

　「だ、大丈夫???」

　「おどろかないでいい。この世界では珍しいだろうが、私たちの世界では大量の水の中をつっきることもある。“泳ぐ”というんだが・・・・カイユンはそれをやってきたんだ。・・・・で、どうだった。」

　「ええ。上への通路は確かにあって、そこは閉鎖されてはいませんでした。ただ、そこに行くには五十メートル位泳がないと・・・・だから無理そうな人はここで待機して貰って・・・・」

　ソーンダイクは無言で直ちにコンピュータをザックに入れて密閉した。

　「あれ・・・・ソーンダイクさん、泳げるようになったんでしたっけ？」

　「いいえ。全く。」

　ロマノフが苦笑する。

　「カイユン、引っ張っていってくれ。この前の仕事で海に落ちたときしてくれたように。・・・・・ただ・・・・」

　少女を見下ろして首をふる。

　「あ、あたしも大丈夫・・・・だってあたしは、・・・・あたしはこれから本物の空を見て、本物の宇宙を見るんだもの。それに比べりゃ水くらい・・・・」

　腕まくりをして鼻からふうっと息を吐き出す。
　気合いの入ったフェリナの宣言にカイユンは笑って頷いたのだが・・・・目指す通路に辿り着いたとき、カイユンは頬に三ヶ所ほどの引っ掻き傷をうけ、痕がつくほどぎゅっと首を絞められていた。

　「ごめんなさい・・・・」

　真っ赤になって下を向くフェリナをすいすいと泳いで行程をクリアしたパトリックが見上げる。小さな子供が一人でできたことを自分はできず、できないのみならず大人げなく騒いでしまったことをひたすら恥ずかしく思っていたが、カイユンは全く気に留めていないようだった。いや、初めてなのによくがんばったと誉めてくれさえした。

　「フェリナ。案内を頼む。」

　「あ、はい。」

　ロマノフにしてもそうだ。こうして自分にしっかりと役目を与えてくれている。

　「うん。」

　先に立って歩き始めたとき、フェリナは確かな手応えを感じた。自分は必要とされている。自分を仲間と認めてくれている・・・・この人達が・・・・そして今は離れてしまっているけれど、綺麗なお姉さんと爆破屋が自分の運命の人達だったんだ。・・・・母親達を気遣ったときと違った涙がじわっとフェリナの目に湧いてきていた。
　別れ道にきて、彼女は情報チャンネルに今一度接続して状況を確かめた。

　「もうすぐだよ！こっちを右に行けば・・・・先に行って様子を見ておくよね。」

　目に浮かんだ涙を見られたくないのと、少しでも役に立ちたい気持ちとで、たったったと走っていく。

　「大丈夫かな、フェリナ。」

　「・・・・ドルガが故郷なんだ。大丈夫だよ。」

　「そうでしょうか・・・・僕は故郷の星の街でもよく方向音痴で迷ったりしてたけど・・・・リマンの通い慣れた市場でも迷ってたし・・・・ね、ソーンダイクさん。」

　ソーンダイクは無言だった。・・・・・・彼は地図を持っていれば迷うことはあまりないが、・・・・・・地図なしならばカイユンなど足元にも及ばない方向音痴の極みといってよかった。

　「キャーッ！」

　フェリナの悲鳴が遠くから聞こえた。全速で“街”に走り出たロマノフとカイユンが見たものは、血走った目の男たちに囲まれて胸ぐらを捕まれているフェリナだった。
とんでもないことをやりつつも、最後は人道的な選択をとることの多いアケルナルのメンバーですが、今回のマリオはそんなことを構っていないようです。彼の爆破が間接的に人を殺傷してしまっています。このおとしまえは何らかの形で彼に跳ね返らせるつもりです。

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