12 運命の向こうに

　「ご気分はどうですか？」

　ヨハンの包帯を取り替えてラナは微笑んだ。ヨハンは片目を瞑った。

　「ああ。動かさなければほとんど痛みはない。・・・・利き腕でなかったのが幸いだ。明日からでも戦場に・・・・」

　「駄目です！」

　ラナは怖い顔をした。

　「いくらヨハン様が丈夫でも、筋一本で繋がっていただけだったんですよ。スカサハとラクチェが応急手当をしていなかったら、おじさまは死んでいました。」

　怒りながらもうっすらと涙を浮かべているラナの頭をヨハンは片手でぐりぐりと撫でた。ラナはにっこりした。この人が無事でよかった。この人はこの大きな手でこの軍のたくさんの人の心をつないでくれているのだもの。
　包帯の山を運んで手伝っていたラクチェにラナは手を振った。ラクチェは手を振り返したが、ヨハンに気付くときっと睨みつけ、どんと包帯を置くと出ていってしまった。

　「・・・・・・な、なぜか以前に輪をかけて、対応が冷たくなったのだが・・・・シスター、心当たりは？」

　「あ、あの・・・・」

　ラナは左と右の指を突き合わせてもじもじすると小声で言った。

　「あんまりラクチェがヨハン様のことで怒っているようだったから・・・・決して悪い方ではなくてとってもいい方なんだって・・・・話しちゃったんです。小鳥のことや、なぜあんなに気障なことばかりおっしゃるのかを・・・・そうしたらラクチェ、もっと怒っちゃって・・・・・ごめんなさい。」

　なんだかよくわからない話だが一先ず自分もラクチェも生きている。これは喜ばしいことだとヨハンは楽天的に考えることにした。自分に深刻なのは似合わない。

　「謝ることはないよ、シスター。」

　「は、はい。・・・・ゆっくり休んで下さいね。」

　ラナは怪我人の様子を一人一人見てまわり、治癒の呪文を唱え、励ました。怪我人たちはこのシスターが皆大好きで、彼女が篭一杯の汚れた包帯を抱えて部屋を出ていくときには逆にラナを励ましてくれた。
　ドズルの城の中を流れる小川で、まだ使えそうな包帯を洗っていると、横から手がのびてきて包帯を一本握って隣で洗い始めた。フェルトの帽子を目深に被った青年だ。

　「セリス？」

　ラナはこの頃身近な者たちだけでいるときだけはセリスに「様」をつけようとしなかった。それは親しいから、というわけではなく、尊称をつけることがこの軍の盟主の心にかかる重さを増すことに繋がることを知っているからだった。

　「ラナにはすぐわかってしまうね。」

　セリスは悪戯っぽく笑った。それからしばらく二人はなんということもない話をして包帯を洗い続けた。開放軍の盟主が包帯を洗いにくるなど、不審な行動ではあったが、ラナにはセリスの気持ちが痛いほどにわかっていた。自分は心細くなっていたらパティと話したり、レスターに相談したりできる。・・・・セリスはオイフェやシャナンにはともかく、同年代の兵に弱さをみせることなどできないのだ。だから、ラナは包帯を干しおわるまで黙っていた。包帯は風に翻り軽やかに舞った。
　それを面白そうに見つめるセリスにラナは声をかけた。

　「・・・・セリス・・・・あまり寝ていないのでしょう？・・・・少し隈ができている。」

　「ん？気のせいだよ。」

　「ううん。わかります。小さい頃からずっと一緒だったもの。」

　シスターにきっぱりと言われてセリスは頷いた。

　「・・・・ときどき怖くなるんだ。・・・・この先何が待ち受けているのか・・・・皆が私についてきてくれている。しかし私がほんとうに何かできるのか・・・・って。そうすると眠れなくなる・・・・こんなに弱い私になにができるんだろう・・・・」

　ラナは背の高いセリスの顔を下から見上げた。

　「セリスは一人で戦っているのじゃないんですもの。それにね、セリスはそこにいてくれるだけでとても力になるの。小さな頃からいつもそうだった。暗い道を歩くときにも、盗賊達と戦うときにも、セリスが一緒だと安心できた。今度だって戦っているのはみんな同じ。でもセリスがいるから戦えるって皆思ってます。・・・・セリスが一番気をつけなきゃいけないことは、よく食べてよく寝ること。・・・・多分そうだと思うんです。」

　セリスはまた頷いた。

　「そうだね。よく食べて寝る。エーディンおばさんからもよく言われたっけ。・・・・小さい頃からよくこうして話をしたね。私はティルナノーグの人たちが大好きだった。有難う、落ち着けたよ。・・・・そうだ！あのね、ラナ。」

　「何ですか？」

　セリスは、岬で両親から貰った金の腕輪をラナに差し出した。

　「これはラナが持っているといい。女の人が使うものだから、お守りにね。くれぐれも無茶はしないように。ラナやコープルが後で待っていてくれるから、僕たちは安心して戦えるのだから。」

　「あの、大切なものなのでは？」

　「いいんだよ。ラナは私にとって大切な家族だから。」

　家族・・・・
　ラナにとっては非常に嬉しくもありほんの少し悲しくもある言葉だった。ラナは微笑んだ。つらく悲しいことの多いセリスには笑顔を見ていてほしかった。

　「セリス皇子！」

　リーフが走ってきた。

　「何だ？その格好は？仮装大会かい？」

　「リーフ王子！そんなことより、何の用？」

　「あ、それなんだが、パティの話を聞いてくれ。」



　パティは謁見の間にしょんぼりと座り、シャナンからお小言を食らっている真っ最中だった。そしてセリスがくるとほっとしたように大きく手を振った。

　「セリス様、あの、あたし、ユングウィの城下町までちょこっと遠征してきたんですけど！」

　「だから、それのどこがちょこっとなのだ！」

　普段の冷静なシャナンを知るものにとって、激昂する彼を見るのは非常に面白いものだった。

　「・・・・お母ちゃんの故郷ってどんなだか知りたかったし、従兄のスコピオってのがどうも悪人らしいからそれの動きを探ろうと思って・・・・そしたらね、セリスさま。」

　パティに依れば、ユングウィでは出撃準備が整っているという。兵士たちの矢に使われる鳥の羽なども各地から供出されている。
　妹の隣に義理で座っているファバルは腕を組んで頷いた。

　「俺が敵なら、解放軍を挟み撃ちにするな。でも、そうとわかったら、俺達は先手をうってユングウィのスコピオから片付けてやれる。」

　「そうだね。・・・・オイフェ、パティの情報を参考に作戦をたててくれ。ユングウィの弓騎士部隊バイゲリッターは侮れない相手だ。」

　パティは”ほぉら、また役にたったでしょう？”というようにシャナンの前でにたにたと笑った。

　セリスたちは囮として、フィーに何度かユングウィに飛んでもらったが、攻撃してくる気配はなかった。それが余計に、スコピオは何かを待っているのだと確信させることになった。それはきっとフリージとの連携行動なのだろう。オイフェは考えた末に、フリージに対して、騎馬を伴った魔法部隊を向かわせ、剣士隊や弓隊、そしてハンニバルとその精鋭重装歩兵をユングウィとの間の森に潜ませることにした。ヒルダ率いるフリージの重装魔法部隊ゲルブリッターは狭い山道を進むセリス軍に襲いかかった。セリス軍の先頭にいるセティを見たヒルダはからからと笑った。

　「フォルセティを持っているからっていい気になるのじゃないよ。確かに、部下は雷魔法を使うけど、このあたしは炎魔法の使い手だから、風には強いのさ。・・・・この間は必死のお前に負けちまったけれどね。」

　雷と炎、そして槍の攻撃がセティたちに降り掛かってきたが、セティは魔法を連発して敵の鎧を風でざっくりと切り払った。それを確認したデルムッドたちが止めをさす。押され気味になったヒルダはスコピオの到着をひたすら待った。先程狼煙はあげたはずだ。なぜ来ないのだ？気付くと殆どの配下は倒されていた。転移しようと魔法の指輪に填まった宝石に触れる。が、何も起きなかった。

　「くっ、魔力切れってことかい？・・・・それじゃ、行くよ、風使いの坊や。炎の怖さを思い知らせてやる！」

　炎の上位魔法ボルガノンの魔法が一同を襲う。だが、被害は最小限度に止められた。アレスがミストルティンで魔法を切ったのだ。ヒルダは自分の魔法が切り払われたのを見た。そしてそこから銀の髪の兄妹が現われるのを。　魔道書を抱えたティニーは一歩一歩確かな足取りでヒルダに近付いていった。そして寄り添うようにアーサーが・・・・



　その頃、ヒルダの援軍としてフリージに向かっていたスコピオの弓騎士部隊バイゲリッターは、森林地帯で解放軍の待ち伏せを受けていた。ハンニバルの重装歩兵部隊が文字通り解放軍の盾となり敵の混乱に乗じてフィンの部隊が退路を断った。

　「怯むな！」

　スコピオが叱咤する。

　「我ら、ユングウィの弓騎士の恐ろしさを見せてやれ。・・・・見通しの効かぬ森だからといって安心するな！」

　号令と共に一斉に矢が射られる。木々の枝に遮られることもなく、魔法のように矢は目標に刺さっていく。槍騎士隊の何人かが命を落とし、それより多い人数が腕をやられて戦えなくなった。フィンはすぐさま被害の状況を報告させ、怪我人の手当てにあたると同時に包囲の薄くなったところに新たな兵士を充てた。

　「総員下馬！木の幹の東側に身を寄せて待機せよ。」

　槍騎士たちは生真面目な隊長の指示どおり、馬を降り、手槍を握って様子を伺った。第二波。一頭の馬に矢が刺さって悲鳴が上がったが、もう死ぬものは出なかった。

　「槍騎士隊は現在の位置を死守！敗走する敵を逃すな！・・・・できれば生かして捕虜としろ。」

　長い戦場経験を持ったフィンの命令に兵士たちは頷く。・・・・この、にわかじたての槍騎士隊の兵は、捕虜としてとらえられたかつて帝国軍の兵士だったものが少なくなかった。が、フィンは兵士に無防備な背中を向け、先頭で指揮をとる。自分等によせる信頼が嬉しくて、槍騎士たちは持ち場を死守する決意を皆がそれぞれもっていた。
　弓の攻撃が背後の敵には大きな効果を及ばさなかったのを知って、スコピオは前進を決めた。森から抜ければ視界も開け、命中率があがる。一人が五人殺せばこの戦いは勝ちだ・・・・一人は三十本以上の矢を持っている・・・・森さえ抜ければ五人などすぐだ・・・・敵が逆に森に逃げ込んでも森を出るのを待って射かければよい。
　青い、小さなものが森の中に見えた。スコピオ自らが弓をひく。矢はそれを見事に射抜いた。

　パティがスコピオの矢が刺さった帽子を地面から拾い上げてさっと木の陰に隠れた。

　「うわ。ファバル兄ちゃん、真ん中だよ。」

　妹と並んで木の陰に隠れているファバルはぽりぽり肩のあたりを掻いた。

　「いや、ちょっとばかり反応が遅い。レスターなら最高点で完全にど真ん中を射抜いて帽子を木に縫い付けてただろう。」

　近くにいたレスターが、従兄の賛辞に微笑んで見せる。

　「とはいえ、相当な腕だ。腕力は俺とレスターの中間。狙いはレスターより下で俺とどっこいどっこいだろ。さすが母ちゃんの血筋だぜ。」

　「・・・・感心してる場合じゃないよ？」

　「・・・・ん。そうだな。他の奴はともかく、あのスコピオってのがでてくると、ハンニバルのおっさんの部隊、危険だな。・・・・あの弓・・・・鎧もとおっちまうぜ。」

　すると、ハンニバルその人が鎧を鳴らしてやってきた。

　「危険は戦につきもの。引き付けることのみを目的とするなら、戦うことに差し支えるような傷を負わぬよう守備に撤した動きをすることができよう。・・・・スコピオさえ崩せば、この戦、勝ちが見えるとみた。喜んで囮となろう。」

　囮と言う言葉を聞き、パティが自分を指差しにこにこと笑った。

　「おまえなぁ・・・・」

　「ラナちゃんがいったよ。あたしたちウルの血筋のものに弓矢はあたらないって。」

　「・・・・あのな、じゃ、スコピオにも弓矢はあたんねえぞ。」

　「あはは、兄ちゃんの弓矢なら当たるよ。レスターのも。」

　兄と従兄に対する絶対の信頼がパティの口調には溢れていた。


　ハンニバルがスコピオたちの射程距離に入ったとき、雨のように矢が降った。将軍は大盾を構え、ひたすら耐えた。矢の浪費を防ぐためか、その次はなかなか来ない。将軍はちらと上を見、故意にガードを外して前進し始めた。
　目のいいスコピオは将軍が上を見た動作を見逃さなかった。将軍の視線をなぞると、大きな木の上に、こちらに狙いをつけている一人の男が目に入った。気付かぬ振りをして弓をひきしぼる。
　しかし、その動作はハンニバルの後に隠れていたパティにはわかりすぎるほどのものだった。盗賊はクロスボウにつがえていた鏑矢を発射する。甲高い音が森に響き、ファバルは矢をかわした。
　妹の注意もあってことなきを得たファバルはスコピオを見下ろした。矢をひきしぼりつつ声を出す。彼のいる高さに、今の位置から矢を届かすことができるのはスコピオ一人のはずだった。ファバルの相手は彼一人である。

　「あんたがスコピオだな！・・・・まったくこの非常時にユリウスに手ぇ貸しやがって、弓使いウルの名が泣くぜ。」

　「お前のもっているその弓はイチイバルではないか。・・・・そうか！お前がブリギッド伯母の息子なのだな。我が父はブリギッドに殺されたのだ！汚い逆賊の息子め！」

　「そりゃ、あんたの父ちゃんが悪かったんだろが！・・・・母ちゃんを侮辱するなよ。母ちゃんは逆賊じゃねえ。正義の海賊だ・・・・って似たようなもんか？まあいい。タイマン勝負だ。」

　言葉の応酬を続けつつも、ファバルは全神経をイチイバルに集中させていた。・・・・一発勝負だ。相手より早く射つこと。そして相手の攻撃を避けること。小さな頃、弓に手を添えて弓術を教えてくれた母が言ったっけ。
　”ファバル、あなたは、母さんからいろいろなものを受け継いでいる。でも、一番肝心なところは父さんから継いでいるのよ・・・・それは一撃にこめる心の強さ。”

　矢がつるを離れた。避けたファバルのこめかみをスコピオの矢がかする。つうっと赤いすじができたが、ファバルの目はじっとスコピオに注がれていた。額にファバルの矢を受け倒れているスコピオに。

　「お前、馬鹿だよ。・・・・・・俺達と同じ血筋のものだってのに・・・」


　ハンニバル部隊が前進を始めた。レスター隊が背後につく。バイゲリッターは壊滅に向かっていた。



　「・・・・伯母さま。これが最後です。・・・・私の母の・・・・というよりも、あなたがとらえてバーハラに送った子供たちの母親たちの悲しみの責任はとっていただきます。」

　ティニーの言葉が魔法にのってヒルダの耳へと届けられる。

　「ふん、上等だね。・・・・あたしもしくじったね・・・・もっと早くに・・・・ティニー、あんたを殺しておくべきだったよ。こんな小生意気な口をきくようになる前にね。」

　ヒルダの炎魔法がティニーを襲った。そのティニーを抱き留めるようにして、アーサーが炎魔法をぶつける。
　炎と炎がせめぎあい、兄妹のまわりだけ、何もない空間が出現した。

　「父はヴェルトマーの公子、アゼル。炎戦士ファラの血はあなたよりも濃いはずだ。・・・・ヒルダさん・・・・魔法は・・・・こんな使い方をしちゃいけない・・・・と思う・・・・」

　ティニーが雷魔法を唱え始めた。それをアーサーはやめさせる。
　一方ヒルダは悪鬼のような形相でより強い炎の嵐を二人のまわりに荒れ狂わせた。

　「ティニー・・・・支えて・・・・僕に力を貸して。」

　兄に言われ、なんのことかといぶかりながら、ティニーはアーサーをぎゅっと抱いて魔法力を開放した。

　アーサーが、ヒルダの攻撃を防ぐために放っていた炎魔法の威力があがった。

　「な、何を！」

　ヒルダが力をふりしぼって放った炎魔法は二人には届かなかった。・・・・アーサーの作った炎がそれを押し返し・・・・ヒルダは自分の魔法の炎に焼かれて果てた・・・・
　ぐったりと座り込んだ兄は、ふうっと大きく息をついた。

　「疲れちゃった・・・・ああ、ティニーの力をいっぱい貸して貰ったんだから、ティニーの方が疲れているよね？・・・・ティニー。ティニーはあの人を殺しちゃいないからね。あの人があの人の魔法で勝手に死んでいったんだからね・・・・」

　それだけいうと、アーサーはころんと地面に転がってしまった。ティニーは間の抜けた顔で気持ち良さそうに寝ている兄の額にかかる銀の髪をそっと撫で付けた。そしてすがって泣いた。嬉しくて、切なくて・・・・そして、終わったのだという安堵で・・・・

　フリージの城を制圧したセリス軍は束の間の休息をとった。このあとは最後の戦いが待っているはずだった。・・・・ヴェルトマーとそれに程近いバーハラ。ユリウスとマンフロイが待つ敵の本拠地・・・・そこにはユリアも居るはずだった。未だ静養中だというユリウスだが、すぐに攻め上る余裕は今のセリス軍にはなかった。シアルフィからの度重なる戦闘で、さしもの彼らも疲弊していたのである。
　特に、バイゲリッターの退路を塞ぐ役にあたっていた槍騎士隊は、相当数の怪我人を出していた。スコピオの亡きあと、敗走する彼らと直接にぶつかったのが槍騎士隊であり、一時だが、攻撃を集中的にうけたのだ。

　アルテナは、槍騎士隊の隊長であるフィンに、尖塔の石段に腰掛けて戦いの様子を聞いていた。いつかとおなじ、薄紅のドレス姿の彼女は、鎧姿のときと違い、武人というよりもレンスターの姫という肩書きが似合っていた。リーフも話に加わりしきりと相づちを打っている。

　「・・・・大変だったのですね。私はゲルブリッターのほうの偵察に当たっていて、少しもわかりませんでした。」

　「兵が何人も亡くなりました。・・・・もう少し弓矢に対処する方法を教えておけば、と悔やまれてなりません。・・・・家族をもっている者もありました。何と言ってわびたらよいのか・・・・・戦だとはいえ、一家の柱を失った悲しみ、それは平時と変わりないのですから。・・・・家族を持たない私が、できれば代わってやりたかった。」

　　沈んでしまった空気を破ろうとしてか、リーフがつとめて明るい声で言った。

　「もしかして、理由はそれ？フィンがいまだに独り身だっていうのは？」

　いきなり自分の方に話を振られて、槍騎士はぽかんとした顔になった。

　「私は、私の世話に忙しくてこういうことになっってしまったのだと悩んでいたんだが。そうか、そうか。・・・・でもな、フィン。フィンは絶対大丈夫だ。絶対死なない。だから身を固めてくれ。・・・・変だ変だと思っていたんだ。真面目で裏表がなくて、槍の名手で、優しくて、上背もあり、よく気が付いて、味はともかく料理だってしてくれた。絵本を読むのもうまかったぞ。そんな男がなぜ独り身なのかってさ。」

　アルテナがくすくす笑う。
　対する槍騎士は困ったような表情でいつも通りの四角四面な返答を返す。

　「すみません。私は・・・・元来不器用なものですから、そういった浮いたことにまでは手がまわりませんで・・・・」

　するとアルテナが少し心配そうに言った。

　「解放軍にも綺麗な女の方はたくさんいらっしゃるのに、フィンは全く眼中にないのですもの。・・・・リーフだけなく、私も心配になってしまいます。」

　「はい、では、あの、レンスターに帰りましたら検討させていただくということにして・・・・」

　アルテナがまたくすくすと笑う。そのやわらかな笑い声が妙にフィンには快かった。

　「無理はしなくてもよろしいのですよ。・・・・そうですね。私たち、レンスターで三人ずっと一緒というのも楽しいかもしれません。あ、リーフのお嫁さんも一緒にね。」

　「姉上！姉上の輿入のほうを先にお願いします。」

　とたんにアルテナの顔が曇った。・・・・結ばれたい相手・・・・アリオーンが敵方にいる今、このことは考えたくないのだろう。

　「姉上くらい美しかったら、相手なんかわっと集まりますよ！私も兄弟でなかったら立候補したいくらいです！」

　兄弟・・・・話題として特に良くない。フィンはリーフを立たせると城の中を指差した。

　「確か、レスターさんに弓をならっていらしたのでしたっけね。・・・・いってらっしゃいませ。」

　「え？・・・・あ、そうだね。じゃ！」

　王子を見送ってふうと息をつくフィンの背にアルテナがとん、と頭を寄せた。

　「・・・・優しいのですね。・・・・私がまだ乗り越えていないのを知っているのですね。」

　「・・・・アルテナ様は私よりずっとお優しい・・・・だから私は心配なのです。」

　そういった槍騎士の言葉の意味を尋ねようとしたときに、ばたばたと三人の兵士が上の物見台から走ってくるのにでくわした。

　「どうしたのです！」

　アルテナが問うと、一人が立ち止まって告げた。

　「手旗信号が到着しました。竜騎士の一団が、我らの開放した地域を襲い、尚、シアルフィ城に向かっています。シアルフィに残した隊から援軍要請が届きました。皆様もすぐに軍議の間にお越し下さい！」

　アルテナは気丈にもしっかりと立っていた。ただ、その目には決意のようなものがはっきりと浮かんでいた。




　アルテナの老練な褐色の竜はふわりと舞い上がった。

　「アルテナ王女！頼みましたよ！」

　セリスが手を振る。
　魔法による転移以外では、敵の竜騎士がシアルフィに到着するまでに先回りできるのはアルテナの竜だけだった。ゲイボルグが陽光に輝ききらりと光る。説得できるのかどうか、そして、アリオーンの前で平静でいられるのか、それはアルテナにわからなかった。ただ、悲しかった。兵の報告では、竜騎士達は戦い手の全くいない村を襲い、多くの住民を殺戮したという。そんな仕業にアリオーンが加担していたとしたなら・・・・・いや、報告が間違いである可能性はほとんどない。アリオーンが、彼女の思い人が悪魔の業を成したのだ・・・・その人を説得する？・・・・それは正しいことなのか？トラキアの王女であり、レンスターの王女でもある彼女が、ただ、己れの恋情に突き動かされて行動してよいものだろうか・・・・兄は・・・・殺しすぎた・・・・許されは・・・・しない。
　アルテナの瞳に暗い蔭がさした。哀しげに、しかしきっぱりと彼女は言った。

　「セリス皇子。私は全力を尽くします・・・・この槍にかけて私は・・・・！」

　それ以上アルテナは言葉を続けず、竜を全速でシアルフィの方角に飛翔させた。セリスは続いて、セティを呼んだ。彼ならば一人で複数の竜騎士を相手にできる。トラキアのときのようにラナが杖で風の魔道士を転移させる。あとはシアルフィに残してきた部隊との連携で城は守ることができるはずだ。
　人々はそれぞれの持ち場に戻っていった。あとはよい報せを待っているしかない。人々は勝利を確信していた。アルテナのゲイボルグとセティのフォルセティ。伝説の武器が二つあれば半端な数の竜騎士は実際問題ではなかった。アリオーンにしても、竜騎士の他に戦力がなければ、シアルフィ城を落とすことは不可能だと皆考えていた。
　しばらくの時が流れた。胸騒ぎがし、どうにも我慢できなくなったナンナがそっとフィンとリーフに耳打ちした。レンスターの槍騎士は深く頷いた。ナンナと同じことをフィンもまた考えていたのだ。リーフが前に出る。

　「セリス、どうも姉上が心配なんだ。どうか僕をシアルフィに転移させてくれ。」

　フィンが珍しく、リーフを押し退けてその前に出た。

　「私を送って下さい・・・・リーフ様、これは、あなたの仕事ではありません。家臣の仕事です。」

　そしてセリスをまっすぐに見つめる。
　槍騎士の脳裏には、救えなかった主君と彼の憧れであったその奥方の姿があった。今度は救ってみせる。今の自分には戦うだけの、護るだけの力がある。

　「アルテナ様は暗い考えに取り憑かれていらっしゃるようです。・・・・私がお護りいたします。」

　レンスターの人々の真剣さにセリスは即座に許しを出した。
　ナンナが、ラナから杖を借り受けて呪文を唱えた。

　竜騎士達は、捨身でシアルフィに進攻してきた。もはや和議を提案するどころではない。セティはバルコニーから、城下町を襲う竜達に魔法を放った。竜は風に巻かれ、切り刻まれ、くるくるとまわりながら落下していく。シアルフィに配備させておいた弓兵達もそれぞれに力を発揮し、竜は一頭また一頭と消えていった。ただ、それらの攻撃すべてを躱した竜が一頭だけあった。・・・・その背にはアリオーンの姿があった。まだ、人の赤い血が滴っている天槍グングニルを構えた彼は、悠然とシアルフィの上空を円を描いて飛んでいた。竜騎士を一騎地上に落としたアルテナは兄に近付いていき、背筋を冷たくした。曾て自分が愛した男は、まったくの無表情であった。感情が死んでしまったようなうつろな瞳・・・・だが、アルテナが更に近付くとそれは殺気を帯びた鋭いものとなった。

　「兄上！どうしたのです！あなたはトラキアの王としての誇りまで失ってしまったのですか！人々や祖国への愛情は枯れてしまったのですか！」

　そのうち、アリオーンはシアルフィ城の屋上にすっと着陸した。アルテナも竜を下方に向かわせる。
　グングニルとゲイボルグ・・・・本来騎乗用の武器を構えた二人が向き合った。二つの兄弟槍は戦いの空気を感じ、血を求めてびりびりと共鳴しあう。

　「兄上！何も話してはくださらないのですか！」

　アリオーンは答えない。ただ、残忍ににやりと笑った。

　　「わかりました！せめて私がこの手で！」

　レンスター流の槍の握りでアルテナは突っ込んだ。アリオーンは躱し、そして打ち込んだ。アルテナの二の腕に傷が走る。

　「兄上！」

　アルテナは泣いていた。しかし、彼女の握るゲイボルグの切っ先は一直線にアリオーンの心臓に向かってのばされていた。
　アルテナとアリオーンが接触する直前、

　「アルテナ様！なりません！」

　レンスターの槍騎士が二人の間に割って入った。そして、くずおれた。腹に槍を深々とうけ、血が石畳を染める。
　アルテナが声を失って立ちすくんだ。槍騎士の体を貫いたのはグングニルではなく彼女の持っていたゲイボルグだった。

　「フィン！どうしてです！なぜこんなことを！」

　槍騎士は微笑んだ。

　「・・・・お二方は私達の希望なのです。・・・・・それに・・・・アリオーン様を殺してしまわれたら、アルテナ様は、壊れてしまいます・・・・愛する方を・・・・殺してしまわれたら・・・・あなたは・・・・優しい・・・・から・・・・私は・・・・・・今度こそ・・・・・・・救い・・・・た・・・・」

　「嫌です！嫌です！嫌です！」

　グングニルを手に、アリオーンが倒れているフィンに近寄る。アルテナはフィンの首を抱き守るようにアリオーンとの間に入った。

　「駄目！近寄らないで！私は・・・・私は・・・・！」

　ゲイボルグとグングニルが共鳴して発していた戦いの波濤はいつしか収まっていた。それに代わってゲイボルグから、何か今までとは違ったものが発せられている。切なく、暖かく、悲しく・・・・・・
　アリオーンを見つめるアルテナの必死の茶色の瞳から涙が溢れていた。いつもアリオーンに向けられていたその瞳。淋しいとき、悲しいとき、涙をためて自分に齧り付いてきた可愛い妹・・・・


　アリオーンの目から、邪悪なものが消えていた。最後の竜騎士を倒して駆け付けたセティには、なんらかの呪縛がかけられていたのだとすぐにわかった。

　「その男は・・・・？」

　「レンスターの騎士です。幼い頃の私を知っている優しい人です！この人だけは殺させない！」

　アルテナはフィンを引きずり遠ざかる。
　アリオーンは叱った。

　「その人を助けたいのならそのように動かしてはいけない！」

　彼は屈みこむと布をあて、応急手当した。事態を見守っていたセティが駆け寄って回復の魔法を唱えるが首を振る。

　「私の手には負えません。コープルくんに早く見せなければ！」

　アリオーンはフィンを抱き上げて竜に乗った。

　「二人を乗せて飛ぶのなら、力の強い私の竜のほうがいい！アルテナ！案内しなさい！お前の先導がなければ、私は到着する前に落とされてしまう！」

　アリオーンはアルテナがよく知る、聡明な兄に戻っていた。しかし、彼女にそれを喜ぶ余裕はなかった。・・・・彼女は飛ぶ。フリージに。

　　＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊

　ぐったりした血塗れのフィンをかかえたアリオーンが到着し、解放軍は騒然となった。

　「フィン！どうしたんだ！フィン！」

　リーフが突進するように、広間の床に横たえられた槍騎士の体にかじりつく。
　すぐさま呼ばれたコープルは、槍騎士のそばに膝をついて様子を見たが、首を振った。
　リーフはいきりたった。滝のように涙を流しながら、静かに立っていたアリオーンの胸ぐらを掴む。

　「お前がやったんだな！お前が！よくも・・・・よくも！」

　槍騎士に寄り添っていたアルテナが叫ぶ。

　「リーフ、違うのです！・・・・私が！私が・・・・私が・・・・ゲイボルグで・・・・」

　言葉は涙の中に埋もれていった。

　「姉上・・・・が・・・・？」

　信じられないといったふうにたちつくすリーフの胸にナンナが飛び込んで泣き始めた。
　ごめんなさい、ごめんなさいと小さく繰り返すアルテナの声だけが広間に響いていた。それにリーフの叫びが加わった。王子は羞かしげもなく槍騎士の遺体にすがって泣いた。

　「どうしてなんだ？なんでフィンが死ななければいけなかったんだ？何でこんなに静かな死に顔で死んでいられるんだ・・・・言ったじゃないか、私より先に死んではいけないって・・・・私が今まで生きてこられたのはフィン、あなたのおかげなのに・・・・」

　お父さま、と叫んでナンナがアルテナの横に泣き崩れた。
　オイフェが、シャナンが、古くからの友の死に衝撃を受け、しかし、動揺する人々の支えになろうと二人とも涙を堪えていた。
　コープルはうなだれていた。もう自分にできることは何もない。槍騎士の魂が天上で祝福されるのを祈ることしか。と、彼は自分の目を疑った。ヴァルキリーの杖が優しい光を発している。

　「ブラギ神・・・・あなたのみこころなのですね？魂を呼び戻すことをあなたが命じられるのですね？」

　少年司祭は、とっとっとと駆け寄り、アルテナに呼び掛けた。

　「アルテナ様。リーフ様。僕に場所を譲って下さい！」

　コープルは跪き、左手を槍騎士の心臓にあて、右手で杖を掲げた。きらきらと光る粒子が空気の中から現われ、杖に吸い込まれていく。杖の光はコープルの体を取り巻き、フィンの体に移動していった。そして一際まばゆく輝いた。あるものはその光の中に天使を見たと思い、あるものは亡くなった自分の知り合いを見たと思った。直後、光は収まり、コープルは腕をおろした。彼はアルテナの右手をとり、槍騎士の左胸に置いた。動きを止めていた鼓動が頼もしく打ち始めていた。アルテナが信じられない面持ちでコープルを見ると、コープルは優しく頷いた。

　「ブラギ様が、この騎士様の命がこれからも必要だと僕に命じられたのです。・・・・看病してあげてください。とてつもなく消耗しているはずですから。」

　アルテナはフィンの手をとり微笑んだ。男たちが担架でフィンを運び、アルテナも、ナンナも、リーフもそれに従っていった。

　「アリオーン様。」

　忘れられたように立っている竜騎士に、セリスが呼び掛けた。

　「セティ王子が、あなたは呪術の力を受けて自分を失っていらしたとシアルフィから伝えてきました。・・・・本当ですか？」

　「・・・・確かにそうだが・・・・ユリウスにつけこまれるほど心が弱かったのは確かです・・・・」

　「もしも可能なら、今からでも私たちの力になって欲しいのです。」

　「私は一度死んだ男。あなたのもとで働くことがきっとこれからの使命なのでしょう・・・・」

　
　昏々と眠り続けるフィンをレンスターの三人は見守っていた。血塗れの鎧のまま、フィンの手を握って離さないアルテナに、ナンナは”目を覚ましたとき、お父さまが驚かれますから”と呼び掛けて無理に湯浴みして着替えて貰ったが、そのとき以外は三人揃って祈り続けていた。
　コープルが入ってきて様子を見、包帯を替えて回復の杖を一度使った。そして槍騎士のための新しい服を枕元に置く。

　「だいぶ落ち着かれたようですね。・・・・明日の朝にはいつもと同じように目をさまされるでしょう。・・・・皆さんももうおやすみになって下さい。もう大丈夫ですよ。フィンさんは少し朦朧とされるでしょうけれど休息が癒してくれます。」

　ナンナがリーフを立たせた。リーフは一心に祈っている姉に声をかけようとして止めた。
　アルテナはナンナやリーフが出ていったことに気付かなかった。彼女の心には、自分がフィンを殺してしまったことに対する恐れが澱のように存在していた。ゲイボルグ・・・・悲劇の槍・・・・自分がその使い手として選ばれたのはどうしてなのか。どうしてフィンを刺さねばならなかったのか・・・・コープルは大丈夫といってくれたが、アルテナは槍騎士の命が、また消えてしまうのではないかと不安でならなかった。

　日は暮れ、月はなく、暖炉の火だけが、その部屋で得られる光だった。フィンは目をあけた。・・・・自分はまだ生きている。あのとき確かにゲイボルグは自分の腹に深々と刺さったはずだのに。体は悪寒を感じ、心臓の鼓動と共に痛みが脈打っている。その痛みすらも生きている証と思えて彼には嬉しかった。寝台の横にはアルテナが座り、眠っていた。顔には涙のあとがあった。ゆっくりと立ち上がる。ふらつくが倒れるほどではない。自分には早いうちにしなければならない仕事がある。
　誰が用意してくれたのか枕元には新しい軍服が置いてあった。それを持ち上げたときに後ろから声がした。

　「フィン！」

　「アルテナ様。すみません。起こしてしまいましたか。」

　椅子から立ち上がったアルテナの顔は青ざめていた。

　「いけません！フィンは死にかけたのです！まだベッドの中にいて下さい！・・・・いえ、一度死んだのです。コープルがヴァルキリーの杖で復活させてくれなかったら、あなたは私が殺していたのです。」

　「私はもう大丈夫です。」

　歩こうとして槍騎士はよろけた。アルテナは肩で支え、彼から軍服を取り上げた。
　ああ、王女はこんなにもか細いのに、こんなにもしっかりと私を支えてくれている。あの小さかった方が何時の間にこんなに大きくなって・・・・

　「お願いです！ベッドに戻って下さい。この真夜中に何をしようというのですか？」

　ベッドに腰をおろしたフィンは静かに言った。

　「アルテナ様。アリオーン様はこの城にいらっしゃるのですか。」

　「はい。あなたをここに運んでくれたのは兄上なのです。」

　「・・・・私はシアルフィで、アリオーン様との戦いの中、傷を・・・・いえ、死んだのでしたね・・・・とにかくそのことを軍の兵達は知っていることと思います。このままでは、軍の中でのアリオーン様の立場が危ういものになってしまいます。私はなるべく早く部下達に顔を見せ、また、アリオーン様とお話しなくてはなりません。」

　アルテナはその言葉に愕然としたようだった。しかし、直ぐ様堰を切ったように話しはじめた。

　「城の人たちは、フィンが目を覚ますのは朝だと思っています。それに兄上もきっとお休みになっています・・・・無理はやめて下さい。アルテナは嫌です。もう誰も失いたくありません！」

　いうなりアルテナはフィンに取りすがった。その背をフィンがさする。

　「アルテナ様。・・・・落ち着いて下さい。私はもう大丈夫ですから・・・・」

　アルテナはいやいやをするように首を振った。

　「あなたが死んだとき、体が冷たくなって心が空っぽになって・・・・あんな思いをもうしたくありません。」

　嗚咽が体を通して伝わってくる。長い睫毛が涙で濡れている。・・・・小さな頃、悲しいことがあると、ちょうど今のようにフィンに齧り付いて泣いていたアルテナ。・・・・エスリンが不在のとき、夜中に怖い夢にうなされてフィンの寝台に潜り込んできたこともあったっけ。キュアンと槍の稽古をしているときには、きちんと畳んでおいておいたフィンの青いマントにちゃっかりくるまって楽しそうに眺めていたこともあった。・・・・
　槍騎士は王女を隣に座らせた。
　指でアルテナの睫毛にたまった涙を拭う。

　「ご心配をおかけして申し訳ございません。しかし、一兵士の生死で動じていてはなりません。あなたはレンスターの、そしてトラキアの王女でいらっしゃるのですよ・・・・」

　「そんな悲しい事をいわないで下さい。・・・・今だけ弱音を吐かせて下さい。明日からは強くなりますから。レンスターの、そしてトラキアの王女としての務めを立派に果たしてみせますから・・・・」

　槍騎士は嗚咽する王女の体を優しく腕で支えた。

　「私でよろしいのでしたら・・・・どうぞ、この胸一時の間お貸しいたしましょう。」

　雲間から月が出、青白い清い光が差し込む。

　「・・・・私はこうして生きております。・・・・ゲイボルグの悲しい伝説はもう終わったのです。」

　アルテナは、頷いた。
　しばらくしてから王女は顔をあげて微笑んだ。

　「ありがとう。もう大丈夫。心配かけてごめんなさい。あなたがゲイボルグの運命に立ち向かって乗り越えて下さったのですから、私が私の生き方をもってしてあなたの恩に報いなければなりませんものね。フィン、ゆっくり休んで下さい。」

　そういって槍騎士の体を横たえると包むように毛布をかけた。
　目を閉じた彼の横で、アルテナは先程取り上げた新しい服を畳んだ。枕もとには、彼が倒れた時に身につけていた服の中から出てきた持ち物が固めて置いてあった。傷薬、丸薬、非常用の糧食、部隊の人員確認に使う札・・・・その中に、四角い羊皮があるのに彼女は気付いた。２枚が重なった間からは林檎の花が見えた。

　この間の花だ。

　王女は、彼女の決意を騎士が大切に保管していてくれたのに胸を打たれた。取り上げて両手で包むように持つと暖かなものが伝わってくるように思えた。と、その枝の隣から、茶色に変色した古い林檎の枝が覗いていた。
　これは何時の花？

　”思い出して”

　優しい声が頭の中に響いた。

　”一緒に砂漠に出発するときのことを。お馬さんが大好きで、あなたははしゃいでいたっけ。”

　砂漠？お馬さん？

　”キュアンがあなたの頭を撫でたら、林檎の花があなたの髪から膝の上に落ちたの。それをあなたはフィンにあげたのでしたね。”

　王女は息を飲んだ。霧が晴れるように幼いときの記憶が蘇ってきた。薄紅色のドレスを着た優しい母、エスリン。よくたかいたかいをしてくれた父、キュアン。アルテナ、と自分を呼ぶ暖かな声。・・・・・はっきりと、はっきりとわかる！あの時の思い出！父と、母と、優しい槍騎士と・・・・・

　かけられていた呪いはすべて解けた。
　ああ、私は戻ってきた。やっとレンスターのアルテナとして本当に帰ってきた。
　先程までの涙と違った涙が頬を濡らした。

　”思い出せたのね。・・・・嬉しい。思い出せたらいつでも会えるのだもの。また・・・・また会いましょう。キュアンも私もずっとアルテナのそばにいますからね。・・・”

　エスリンの気配が消えた。

　「お母さま！」

　部屋は静寂に包まれ、槍騎士のかすかな寝息が聞こえてくるのみだった。
　アルテナはそっと彼の髪をなでつけた。もはや目の前に横たわるこの騎士は、自分が甘えるだけではない者へと変貌していた。
　王女はそっと槍騎士に囁いた。

　「もう私は迷いません。私は二つの国の王女です。レンスターと、トラキアを繋ぐため、この身を捧げましょう。だからあなたは見守っていてくださいね。貴方がいてくれればきっと私は頑張れますから・・・・・・・フィン、アルテナはあなたが大好きです。決して一人で逝かないで下さい。・・・・」

　寄り添うように立てかけられたゲイボルグとフィンの愛用の槍は暖炉の火に照らされて暖かな色に染まっていた。



　やがて朝日がうすく鎧戸の隙間から射し込んだ。
　フィンが目覚めたとき、アルテナはそばの椅子に腰かけて彼の顔を覗き込んでいた。

　「おはよう、フィン。顔色もだいぶよくなりましたね。よかったわ。」

　王女は微笑んだ。

　「私、リーフ達に報せてきますね！あの子もナンナも一睡もしていないはずです。フィンはゆっくり休んでいて下さい。」

　アルテナは走っていった。
　槍騎士は立ち上がった。王女の言葉に甘えて休んでいるわけにはいかない。
　彼が軍服を身につけて扉を開けると、そこにはアリオーンが立っていた。
　すっと跪くフィンの腕をつかんでアリオーンは彼を立たせた。

　「跪かねばならないのは私の方だ。レンスターの槍騎士殿。あなたはアルテナを、そして私を救ってくれたのだから。」

　差し出されたトラキア王の手をフィンは固く握った。

　「フィン！」

　大きな声がしてリーフが物凄い勢いで走ってきた。　それに少し遅れはしたがナンナも嬉し涙を浮かべてフィンに飛び付く。ナンナの横にいるアルテナは無言で弟を見守っていた。
　レンスターの、そしてトラキアの新たな歴史への一歩がこの朝に始まったのだった。

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