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| ９ 光と闇と |
「姉上っ！」 リーフが嬉しそうに胸をはる。 「どうしたのです？」 「背がのびました！ついにフィンの肩のところまで達しました！」 アルテナが並んで微笑む。 「フィンの肩なら、私を抜くまであともう少しですね。」 まだ抜いていなかったのかとリーフは肩を落とした。 商業都市ペルルークは中立の立場を保っている数少ない都市であった。戦乱のなか、帝国に掌握されていたが、セリスたちに開放され、町も、戦士達もお祭りムードでしばらくぶりの平和を謳歌していた。 「そんな小さなことを気にするなんて・・・・」 「僕にとっては大問題なんです！」 「・・・・ナンナよりは高いのでしょう？」 「どうしてナンナがそこに出てくるんですか？」 「・・・・彼女にはなにかとお世話になっているでしょう？髪飾りでも二人で見にいっていらっしゃい。」 そんなものかとリーフが出ていくと、入違いにフィンが入室し、礼儀正しく一礼した。 「アルテナ様、もしよろしければ、槍の鍛錬にお付き合いいただけませんでしょうか？」 「槍の・・・・鍛錬ですか？」 訓練用の木の棒での打ち込みだったが、槍騎士の槍使いはアルテナを寄せ付けなかった。トラキアで訓練を積み、父と兄を除いては模擬戦で誰にも負けたことのなかったアルテナは聖戦士の血を全くひいていないフィンに敵わぬことに少なからぬ衝撃を受けた。背中から転倒したアルテナを助け起こし、フィンはアルテナを石積みに座らせて自分は跪いた。 「何故勝てないのか不審に思われますか。」 自分の力に傲っているわけではなかったが、アルテナは首を縦に振った。 「理由はふたつです。・・・・アルテナ様の槍の握りは私が教えたもの・・・・つまりレンスターのものですが、槍術そのものはトラキア流です。・・・・トラキアの槍術は竜に乗って戦うことを前提とするものです。・・・・レンスターの槍術は違います。レンスターの槍術は騎馬、あるいは地上に降りて戦うための流儀です。これが一つ目。二つ目は・・・・アルテナ様の今の槍術には幼いときのようなのびやかさがありません。・・・・あなたは槍を恐れていらっしゃる・・・・」 アルテナは槍先を突き付けられているような気がした。やめて欲しかった。この人だけは自分が甘えられる逃げ場所になっていて欲しかった。アリオーンを殺した日の夜、泣き続ける彼女をただじっと見守っていてくれたのはこの槍騎士だった。この人にだけは責められたくなかった。 「あなたのお父上であるキュアン様はよくおっしゃっておられました。・・・・『私は、戦のない世の中を作り出すためといいつつ槍をとって戦っている。半島の民が手を取り合い進む世を夢見つつ、自国のことを思うあまり、南のトラキアへの富や穀物の流出を制限している。悲しいことだがそれが現実だ』・・・・と。私はキュアン様の槍の後ろから世界を見てきました。ずっとキュアン様の槍に守られて見習い騎士をしてきたのです。・・・・レンスターの槍は攻め込む槍であり、護る槍です。・・・・もし、ご迷惑でなかったら・・・・私にレンスターの槍術をアルテナ様に伝えさせて下さい。私には妻も息子もなく、技を教えるべき騎士もまだ育ってはおりません。キュアン様の心を・・・・どうか・・・・」 「フィン、顔をあげて下さい。」 アルテナは自分も跪いた。 「今日から私はあなたの弟子です。よろしくお願いします。いえ、あなたはずっと私の先生だったのです。・・・・・あのころと同じように、教えて下さい。」 姉にはっぱをかけられてナンナを誘うと、彼女は嬉しそうにリーフについてきた。庶民の服を着、飾らない話し方をするリーフは王子とは思えない。小さな銀線細工の髪飾りを買い、焼き菓子を一袋買って海を望む丘の上で二人して座っていると、懐かしいレンスターのことが思い出された。 「ねえ、ナンナ。・・・・」 「え？なんです？」 「姉上、大丈夫だろうか。・・・・フィンは”大切な人を亡くされたのだから、元気になられるまでには時間がかかります”といってた。・・・・私たちの前では普通にしているけれど、ときおりふっと悲しそうになさるんだ。・・・・僕では代わりになれないんだろうか。」 「・・・・リーフはアリオーン様になれないわ。私たち、一人一人がかけがえのない人間なのだもの。私だって例えばアルテナ様のかわりにはなれないわ。」 「ナンナはナンナなんだものね。・・・・ナンナ。レンスターに戻ったら、戦で枯れてしまった林檎の木を植えなおそうね。きっと姉上も喜んで下さる。」 ナンナはふっと笑った。 「・・・・リーフ。私はアグストリアの人間です。レンスターには戻らないかも。」 「そんなのは駄目だぞ！ナンナはずっと一緒にいてくれなきゃ・・・・ナンナの故郷はレンスター。アグストリアなんかじゃない！絶対、絶対だよ。」 ナンナは嬉しかった。自分が必要とされている。これほど幸福なことはない。フィンにとっては自分は娘かよくて妹にすぎないが、リーフとは引き合うことができるのかもしれない。ナンナはそっと王子の肩に自分の頭を乗せた。 セリスたちもまた、市井の人々に混ざって町を歩いていた。セリス、ラクチェ、スカサハ、ラナ、デルムッド、レスター、そしてユリア。イザークで戦いを始めたごくごく初めのメンバーが揃っていた。 「ユリア。何か欲しいものは？あまり高いものはレヴィンに叱られるけれど、普通のものなら・・・・」 ユリアは首を振った。 「セリス様・・・・」 「ん、どうしたんだい？」 「・・・・少しの間目を瞑っていて下さい。」 「こうかな・・・・」 素直に目を閉じたセリスを見、ラクチェはラナの目を手で目隠しした。だが、ラクチェの心配したことは起こらず、ユリアは何か魔法をセリスにかけただけだった。 「これは・・・・なんだか心がふうっと暖かくなった・・・・」 「マジックシールドの魔法です。」 「・・・・それは・・・・術者に危険が及ぶという・・・・？」 「・・・・なんだか嫌な予感がするんです。これから、きっと魔法使いたちが沢山待ち受けています。一緒にいられるうちにセリスさまの力になりたくて・・・・」 ラクチェはドキドキしていたが、ラナは微笑んでいる。平和な風景にみえたが、ラクチェは乱暴にスカサハの襟首を掴んだ。 「な、何するんだ？」 「・・・・ユリアさんと町をひとまわりしてきなさいよ。・・・・これは命令だ。ほら！」 ラクチェはスカサハの体をぐいとユリアの方に押し出した。デルムッド達のにやにや笑いの中、スカサハはユリアの手をひいて逃げるように広場に向かってかけだした。走りなれないユリアが息を弾ませる。スカサハはふわりとユリアを抱き上げた。ユリアは目を大きく開いてスカサハに齧り付く。二人は沸き返る町を走り回った。帝国からの開放が人々の顔を明るいものにしている。その笑顔をもたらしたのが自分たちだと思うとスカサハは誇らしかった。 石段をかけあがり、かけおり、城壁の上を走り・・・・・ 「はあ、さすがにちょっと疲れたな。」 城壁の上でユリアを下ろすとスカサハは雲ひとつない青空を眺めた。 ユリアも横で気持ち良さそうに深呼吸をしている。軽く閉じた目蓋を飾るまつげが長く美しい。 「あの・・・・ユリア・・・」 ユリアはぱっちりと目をあけ、紫水晶の瞳できょとんとスカサハを見つめ返す。 「俺、気の利いたことばなんて知らないから・・・でも、あの、ユリアと会えて本当によかったと思っている。」 ユリアは笑顔を返した。 「私もです。スサカハ。」 「あの・・・・俺、スカサハ。」 ユリアはくすくす笑う。 「わかってます。わざとです。わざと間違えてあなたの戸惑う顔がみたかったの。」 「・・・・悪い子だっ！・・・・あ・・・・ユリア？」 ユリアはスカサハにそっと身をよせた。 「死なないでください。いなくならないで下さい。」 「俺なら大丈夫。ラクチェと二人、母上譲りの剣技でラクチェと一緒にいままでだってずっと生き残ってきた。これからだって・・・・約束する。最後まで生き残るって・・・・・・・・」 スカサハはきゅっとユリアの手を握り、二人は揃って目を閉じた。風は二人の髪を同じ向きになびかせる。 「ずっと一緒だよ。」 「伯母さまが・・・・」 夜、町で噂を仕入れてきたパティから話を聞いていたティニーは顔を曇らせた。ティニーの母ティルテュをいじめ殺したというヒルダは、この先のクロノス城でバーハラに送る生贄のための子供狩りに精をだしているという。その冷酷さたるや、子供たちをむりやり奪い、泣き叫ぶ母親をその子供の見ている前で平気で殺すのだそうだ。集められた子供たちは数百人は下らない。このペルルークで子供が見当らないのはそのためだ。人々はセリスを歓迎しながらも、親であったものたちは涙を流している筈だ。ティニーは細い指が白くなるまでぎゅっと拳を握った。ヒルダは母親の仇ではあるが、育ての親であることも事実である。 「・・・・ティニー。ヒルダは魔道士だそうだが、どんなわざを使う？」 オイフェが尋ねると、心配そうなアーサーとセティに見つめられティニーはぽつりぽつりと話しだした。 「伯母はファラの傍系の血筋です。魔法は炎魔法。・・・・近衛としてつれているものは、帝国からの暗黒司祭がほとんどでした。伯父の亡くなった今、伯母は帝国での自分の立場を確保するのに躍起になっていると思われます。・・・・子供狩りに執心するのはそのためなのでしょう。でも、伯母のそばにはイシュタル姉様がいるはずです！・・・・伯母はともかくイシュタル姉様までが、なぜこんなことに手を染めるのか・・・・私は信じられません。」 シャナンは神経質にヒルダの居城であるクロノス城のあたりの地図を指で叩いた。 「魔道士部隊か・・・・魔を切る剣・・・・これはミストルティンの出番だな。」 少し離れたところで壁によりかかっていたアレスが頷いた。 セリスはクロノス城から西のラドス城までの街道をなぞり、そこから北上して一つの町を指差した。 「・・・・私たちがペルルークの港を手中にした今、子供たちは北のミレトスから陸路でバーハラに送られるに違いない。・・・・全員とはいかないかもしれないができるだけ子供たちを開放してやりたい・・・・夜明けを待って進軍を開始する。それまでゆっくり休んでくれ。」 寝所への通路をたどりながらセリスは思案していた。生贄の子供たちを殺すようなことはないだろうが、そこに護衛がついていることは確実だ。小さな子供たちに、こちらの動きを見て自発的に行動させるのは難しいだろう。 スカサハの声がする。剣の稽古のようだ。それを眺めているらしいラクチェが手招きした。 「ラクチェ？」 月明かりの中木刀でスカサハが模擬戦をしている相手はパティだった。スカサハの連続技を見事に躱し、まわりこんで後ろをとろうとする。 「・・・・スカサハの重い剣を受けとめることはできないけれど、このごろほぼすべて躱せるようになった。・・・・たいした子だ。そこら中青痣だらけになっても自分から稽古をつけにやってくる。」 ラクチェが窓からスカサハを呼んだ。スカサハは手を振り、パティもラクチェとセリスに気付くとにこにこしながら手を振った。 「・・・・パティは、役にたちたいと必死なんだ。もう十分役にたっているのに。」 と、パティがいきなり二人のそばに立っていた。窓を飛び越えてきたらしい。 「セリスさま、聞いて下さい。」 セリスはパティの言うことを黙って聞いた。それは納得できるような申し出ではなかったが、セリスは結局受け入れた。 クロノス城の王座の間から銀色の髪の娘が遥かに続く草原を見渡していた。少女の視線はペルルーク、ラドス、そしてミレトスへと移り、さらにその先にあるはずのシアルフィのあたりで止まった。小さなため息が形のよい唇から漏れる。 「それで、ユリウス様とのことはうまくいっているんだろうね。」 母親の声に、イシュタルは振り向いた。ヒルダは探るような目付きで伺っている。 「そんな、お母さま・・・・私は・・・・」 ヒルダは険しい顔になった。若いころは美しかったのだろうが、寒気を催させるような一種の残忍さがその白い顔に浮かんでいる。 「そんなことでどうするんだい。しっかりおし。・・・・お前は小さい頃からのユリウス様のお気にいり。父親はフリージ家の当主、このあたしも傍系とはいえヴェルトマーの血筋のもの。そしてトールハンマーの魔道書を操る聖痕がお前には現われている。新しい帝国の王妃になる資格は十分にもっているんだからね。その昔、レプトール卿はシグルド公子の軍に殺され、その息子であるうちの人はシグルドの子であるセリスとかいう若造に殺されてしまった。フリージ家の未来はすべてお前にかかっているんだ。・・・・うまく気にいられてお手つきになればしめたもの。お前の方から誘いをかけてでも、あの方の御子の母親になるんだよ！」 イシュタルは黙っていた。母は目先の利益しか考えていないのだ。ユリウスが作ろうとしている帝国がどんな性質のものかを知っているはずなのに・・・・ イシュタルとユリウスは幼なじみだった。イシュタルの知っている幼いユリウスは、控えめで優しい王子だった。・・・・それが突然変わってしまったのはいつだっただろう。小さな生きものを苦しめて遊び、自分の気にいらなければ、身内の人間でも殺していった。・・・・それでも幼い日の優しい笑顔が現われることが瞬間的には存在した・・・・このごろはそれも全くみられない。 イシュタルはユリウスを愛していた。しかしそれは絶望的な愛だった。真の意味でユリウスはイシュタルを愛することはないだろうし、イシュタル自ら自分の抱いている感情は過去の愛情の残渣のようなものであるとわかっていた。でも、彼女は闇の公子から離れられないのだった。・・・・ 「お前は早くバーハラにお行き。ぐずぐずしていたら他の女に取られてしまうかもしれないよ。・・・・あたしはあの憎いセリスをここで地獄に送ってやることにする。ふっ、今までいい気になって進んできたようだが、そうはいかないさ。どうやら子供達を開放したいようだ。いざとなりゃあラドスに集めてある子供を盾にすりゃあいいからねぇ。ユリウス様への献上が遅れちまうのは残念だが、例え死んでも子供はまたどこかから連れてくればすむことだ。・・・・さあ！お行き！」 イシュタルは印を結ぶと母親の前からすっと姿を消した。 アレスの剣が一旋し、暗黒司祭がまた一人倒れた。 「ここにもロプトの司祭か・・・・ロプトの宗徒そのものが急速に増加しているようだな。」 彼に護られるようにして進んでくるセティが頷いた。 「悲しいことですが、民は力あるものに惹かれるもの。そして、苦しい状況にあるときほどその力に魅入られやすいものなのでしょう。」 アーサーはティニーと同じ馬にのり、顔色の悪い妹を気遣いながら頭を振った。 「ティニー、無理はしなくていいぞ。もしなんだったら今からペルルークの町に戻っても・・・・」 ティニーは泣きそうな顔をしていやいやをした。 一同は突然散開した。闇の”気”を察したのだ。気配通り、暗黒魔法が今まで一同のいた場所を襲い、息苦しさがあたりを蔽う。シャナンとセリスが突撃し、少しして無事な姿を一同に見せた。 セリスは強くなった。本来なら、軍の総大将が前線に出ることなどありえない。だが、この青年は今は欠くことのできない戦力であり、なにより彼がいるとあたりの兵士は能力以上の働きをするのだった。光の皇子は人々の心に安定を、そして生きる力を与える不思議なものを持ち合わせているようだった。 「もうすぐ森を抜けるな。・・・・フィーはどのあたりだろう。」 シャナンのその言葉をまっていたかのようにペガサスがふわりと舞い降りた。 「セリスさま、お待ちしておりました。暗黒司祭の一団が街道沿いの宿場に置かれています。クロノスにぎりぎりまで近付いてみましたが、城壁にスナイパーが十人ほど配置されています。城付近には騎馬隊。外からは魔道士部隊はみかけませんでした。現在ラドス城にアルテナ様が偵察に向かっています。」 「ああ、ありがとう。・・・・フィー、あのことは・・・・？」 「はい、打ち合せの通りにしました。」 「・・・・そうか。まず、宿場に置かれた暗黒司祭たちを叩く。アレス、セティ、アーサー、そしてシャナン。頼んだよ。第五部隊以下は私に続け。大きく迂回してクロノス城の南にまわり敵の出方を確認する！」 セティはセリスの隊に加わっているレヴィンを一瞥してからアレスの馬を追った。気紛な風のように現われてはセリスに助言をする父が、今回は珍しく戦いの場に加わっている。どういった心境の変化なのか・・・・ 「雷神の娘、イシュタルよ。久しぶりだな。」 黒いローブの老人がラドス城を訪れていたイシュタルに声をかけた。その声は嗄れていたが、なにかこう、人間をぞっとさせるような響きを帯びていた。アルヴィスをそそのかしかつてシグルドをはじめとした人々を殺害した張本人・・・・ロプト復活のためにすべてを捧げる暗黒司祭の頂点にたつ男・・・・それがこのような無力に見える老人とは想像できまい。 イシュタルにはこの男の恐ろしさが十分に理解されていた。それでもこの娘は冷静を保って優雅に会釈した。 「マンフロイ様、お久しゅうございました。」 「ふふふ・・・いつ見ても美しい娘じゃ。ユリウス様がご執心なのも当然のことだな。・・・・して、ここに何の用じゃな？」 「贄の子供達の様子を見に。ユリウス様は汚れのない健康な子供を御所望です。・・・・母は子供を狩ることには熱心でしたが、あの人に任せておいては立派に贄の役を果たす前に酷い扱いで衰弱してしまうかもしれません・・・・それはユリウス様の御意に反します・・・・」 「そうか。・・・・・セリス軍が近付いているようだな。」 「はい。ペルルークからの進軍の途上にあると思われます。」 「・・・・奴もご苦労なことだ。・・・・ユリウス様の望み通りに暗黒神が復活すればすべては終わるというのに。今のところは遊ばせておいてもいいが邪魔にならぬよう叩いておくべきかもしらぬ。・・・・ではな。イシュタルよ。」 マンフロイは消えた。 イシュタルは窓から下を見下ろした。騎馬隊が編成され、大きな馬車が準備されている。彼女は部屋の天井から下げられた飾り紐を引いた。ベルがなって兵士がかけつける。 「あの騎馬隊と馬車は何ですか。」 「はい、クロノス城への援軍です。馬車へは子供を二十人ほど乗せていきます。」 「マンフロイ司教の命令ですか？」 「いいえ。ヒルダ様からのご指示です。」 そのころ、地下の牢屋にはパティが潜入に成功していた。彼女にかかればここまでの警備はとんでもなく緩いものであったし牢番の兵士も決して仕事を忠実に遂行していると言い難かった。現にこうしてパティが鍵をあけて牢に入っても気付きもせずに居眠りしている。子供達は見慣れない少女が入ってきたことに大騒ぎしたが、パティが口に指をあてると静まり返った。彼女は目ざとくこの集団のリーダー格の少年を発見し、彼に語りかけるような調子で子供たちに喋った。 「お姉ちゃんは、光の皇子っていわれているセリス皇子のところから来たの。いい？静かにしててよ。あたしの言うとおりにしていたら、きっとみんなをお家に帰してあげられる。」 パティは説明した。解放軍が近くに来ていること。子供たちはこれからバーハラというところに送られることになっていること。バーハラに送られてしまったらおそらく帰ってはこられないこと・・・・ 「ここにいるから外のことはよくわからないわ。もしもセリスさまがこの城を早く制圧してくださったら、そのときに助けてもらえるわ。見張りは二人だけだもの、お姉ちゃんがやっつけてセリスさまのところに連れていってあげる。もし、セリスさまここまでくるのが遅れても、ミレトスの町に着く前に見付けてもらえるわ。セリスさまのところには空とぶ馬にのったおねえさんがいるの。空から見付けて知らせてくれる。ね、だからもう少し辛抱していようね。」 いざ、というときになって、この子供たちを思う通りに動かすことができるだろうかと不安になりながらもパティは子供たちの前では胸を張った。 がちゃり、がちゃりと鎧を鳴らす音と共に兵士が一人降りてきた。居眠りしていた見張りが慌てて目を覚ます。 「何だ？交替の時間はまだ先だろう。」 「いや、ヒルダ様からのご命令だ。子供たちのうち二十人をクロノス城に送れだとさ。反乱軍をおびきよせる餌に使うらしい。」 見張りは大きく背伸びをすると大欠伸した。 「やれやれ、あの女の趣味の悪さにはうんざりするぜ。・・・・ま、このガキたちも生贄になるよりはここで殺される方がマシかもな。」 パティは飛び上がった。こんなことは計算外だ。とにかくなんとかしなければ。兵士は牢の鍵をがちゃりとあけて手近な子供から牢の外へと送り出していく。そこにはなんの感情もなく、ただ命令に従って機械的に動作しているにすぎなかった。パティはばれることを承知で前に出た。衿の辺りを捕まれて引きずりだされる。身を縮めていたせいか、気付かれずに済んだようだ。 「よし、お前ら、階段を登れ！これから馬車に乗るんだ！さっさと歩け！」 べそをかいている女の子の背をさすりながらパティは階段をあがる。小突かれて、大きな木の扉をくぐると、明るい日光が差し込んできた。眩しさに目が眩む。更に屋外への金属の扉をくぐると、遠くに騎馬隊が待ち構えているのが見えた。 ”まずい、まずいよ。これ。このままこの子達がクロノスに連れていかれたらセリス様にも迷惑がかかるわ。セリス様が足止めを食いでもしたら残りの子達も助からなくなる！・・・・この子達を逃がすまではいかなくても、なんとか時間を稼がなくちゃ。” パティは懐の小さな弓に手をやった。素早く引抜き、すぐ前を歩いていた兵士の足に発射する。 「みんな！おとなしくしてて！」 足の腱を傷つけられた兵士は起き上がることができない。 驚いた二人の兵士が立ちすくむうちパティは素早く先程と同じように足を切射抜き動きを止めた。騒ぎに気付いた騎馬隊の兵士が数人駆け付けてくる。たかが子供の騒ぎだと誤解していた兵士がパティの構えた弓を見て抜刀する。 「お姉ちゃん！」 子供の一人が悲鳴をあげた。パティは笑顔を返す。 ”ううっ・・・・笑っている場合じゃないんだよねえ。” しかしパティはよくやった。スカサハの剣技を躱しつづけることのできるパティである。相手に致命傷を与えるようなことはないが、ひたすら足に攻撃を与えて何人もの男たちを座り込ませていた。弓兵が矢を射た。矢はパティの頬ぎりぎりのところをかすめたが逸れた。 ”ラナちゃんの言うとおりだ。” ラナは言った。自分たちは聖戦士ウルの血を受け継ぐものだと。弓の血筋に生まれたものは半端な矢にあたったりはしないのだと。 だが、一人の兵士の攻撃を避けるときに足がふらついた。疲労で動きが鈍って、くらくらしてよろけた。もう次の瞬間には彼女は一人の兵士にはがいじめにされていた。 「捕まえたぜ。よくもやってくれたな、このガキ・・・・」 兵士はパティをまじまじと見つめ、げびた笑いを浮かべた。 「ガキはガキでもなかなか美味しそうな娘じゃないか。生娘か？え？」 兵士は怯えている子供たちの前でパティを押し倒すとその上に体を重ねた。 パティは何もできなかった。悲鳴をあげることすら。ぴり、と着衣が破ける音がした。と、上にかぶさっていた男のからだが急に横に転がった。パティは起き上がり、あたりを見渡した。自分の上にかぶさっていた男はもちろん、騎馬隊の男たちがすやすやと眠っていた。子供たちも眠っている。 「？」 破れた服を直しながら、尚も見回すと、銀色の髪の娘がこちらにやってくるのが見えた。 「あなたはきっと魔法防御の力が強いのね。」 パティは震える手で弓を構えなおした。 「あなたは帝国の人でしょ！」 イシュタルは構わず近付くと、自分のマントを脱いで、片肌が脱げてしまっているパティの体を包んでやった。 「もうここにはいないほうがいいわ。牢から出された子供たちと馬車を使ってどこへなりともいきなさい。」 イシュタルは少しだけ微笑んだようにみえた。 「・・・・のこりの子供たちのことは私がなんとかしましょう。・・・・信用できないという目ね。でも、あなた一人では何もできないわ。・・・・私は今、なんの命令も受けてはいない。あなたがどこの人間であるかは私には関係のない事。さあ！」 パティは子供達を急き立てて馬車に乗らせると馬に鞭をくれて急発進させた。 宿場の暗黒司祭を殲滅させたアレスたちが合流するのを待ってセリスはクロノス城攻略を実行に移した。弓隊と魔法部隊で揺さぶりをかけ、陣形が乱れたところに騎馬隊が傾れ込む。ヒルダは憤怒の形相で部下を怒鳴り散らした。 「援軍はどうした！囮にする子供たちはどうしたというんだい！」 彼女は実の娘に邪魔をされたことをまだ知らない。セリス達は押し気味に戦闘を続けていたがヒルダの軍の兵士たちも必死だった。ここで失態をみせたならヒルダに叱責され下手をすれば死刑を含めた処罰を受けるのだ。 ティニーはセリスとリーフが敵をけちらしている後ろに、アーサーやセティと並んで魔法を使っていた。伯母の前に出て、まともに戦うことができるか、それは彼女にもわからなかったが、とにかくここは進むしかない。 ヒルダはテラスに出た。 「ふむ・・・・どうやらここは負けのようだね。・・・・どうせ辺境の出城。ユリウス様の叱責は覚悟の上で、フリージ本城まで決戦は控えるとしよう。あーあ、しかし、少しはいじめてやらないと気がすまないよ。」 彼女は残忍な笑みをうかべると印を結んだ。 「何？」 大きな火の玉が飛んでくる。火の玉はセリスたちの前にいるヒルダの兵を吹き飛ばし地面を抉って迫ってきた。セティがすっと前に出て、フォルセティの魔道書を詠唱しはじめる。彼が風の最強魔法を火の玉にぶつけると、その魔法力の大きさに火は威力を失い四散した。ヒルダはそれを見ると悔しそうに歯軋りし、長く呪文を唱えると彼女の本城であるフリージに転移していった。 クロノスでの戦いは終わった。目の前にはヒルダに焼かれた敵の屍が転がっているだけだ。 後方からは司祭たちが到着し、怪我人の手当てを始めている。 セティは仰向けに倒れた。 「お兄ちゃん！」 フィーが駆け寄り、彼の頭を自分の膝に抱き抱えて杖を掲げ、彼に教わったばかりの治癒の呪文を唱えた。セティは微笑む。 「少し魔力を使いすぎたようだよ。少し休めば大丈夫だからそんなに心配しないで。」 「うん。でも、お母さんだったらこうしただろうな、って。」 二人の様子を見て、敵側の惨状に顔をしかめていたセリスが表情を和らげた。 と、黒い霧が漂い、小柄な老人が忽然と現われた。 「ヒルダめ、しっぽを巻いてにげおったか。・・・・どうやらここで貴様等を叩いておいたほうが安全のようだな。」 もの凄い魔力を感じる。魔法を使えないセリスにもその邪悪な空気で肌がピリピリと震えるのがわかった。アレスが前に出る。まだ回復していないセティもおぼつかない足取りだがアレスに並ぶ。 「ほほう。魔剣ミストルティンに風の魔法フォルセティか。・・・・私の暗黒魔法に勝てるとでも思っているのか？」 マンフロイは印を結んだ。 早い！ 黒い霧がすべてを貫く槍になりアレスとセティに襲いかかる。 だが、槍は二人には届かなかった。 「セティ！伏せろ！」 レヴィンが後方から風の魔法を放ったのだ。セティはあっけにとられた。風の最強魔道書は現在自分の手にある。父は威力の劣る魔法であの霧を打ち消した。なんという魔力だろう。 レヴィンの出現はマンフロイを驚愕させた。 「貴様！シレジアのレヴィン！お前は確かに私の闇魔法の前に倒れたはず！・・・・死人がなぜここにいる！」 レヴィンはからからと笑った。 「そんな昔のことは忘れたな。・・・・とにかくオレはここにいる。」 レヴィンが素早く放った魔法が油断していたマンフロイの左肩をざっくりと切り裂いた。 「お・・・・おのれ・・・・」 と、マンフロイの両眼が異様な輝きを帯びた。 「お、おう、おう、やっと捜し当てたぞ。」 マンフロイの視線のさきには、スカサハと彼の無事を喜ぶユリアの姿があった。横で二人を冷やかしていたラクチェが邪悪な視線に気付き剣を抜いた。 「探したぞ、ナーガの娘！」 マンフロイは自分の足元にできる血だまりに頓着せず印を結んだ。 レヴィンは声を限りに叫んだ。 「スカサハ！ユリアを放すな！」 反射的にスカサハはユリアのか細い体を抱き締める。しかし、いきなり手応えがなくなったかと思うと自分の腕の中から彼女の体は消えていた。そしてマンフロイが自分の血みどろの腕に気を失ったユリアを抱き抱えているのだった。 セリスが、シャナンが突撃するが、マンフロイは満足そうに目を細めて、そのまま消えた。 「ユリアーっ！」 スカサハの叫びは宙に吸い込まれて消えた。 シャナンが屑折れるように膝をつき、地面を握り拳でドンドンと叩いた。 「同じだ！あのときと！私はディアドラを助けられなかった・・・・また・・・・あの男に・・・・」 「レヴィン、どういうことなのですか。」 制圧したクロノス城の王の間で、がっくりとうなだれている軍師にむかい、セリスは問い詰めた。 「あなたは知っているはずだ。」 緑の髪の吟遊詩人は疲れたような目をしていた。 「・・・・すまぬ。・・・・セリスよ。ナーガとは、光の究極魔法の名。代々グランベル王家に伝えられている。その力は強力にして、闇の魔法ロプトゥスを葬ることができる唯一の武器・・・・ユリアはその血をもっとも濃くひく人間・・・・」 「ユリアがクルト王子の血筋のものだというのですか。」 「・・・・ユリアは闇の王子ユリウスの双子の妹。ユリウスは祖母シギュンの闇の血をうけつぎ、ユリアは祖父クルトの光の血を受け継いだ。セリス。ユリアはお前の異父妹なのだ。」 セリスは目を開いて瞬きひとつせず、レヴィンを見据えた。 「・・・・そうだったんですか・・・・不思議な気持ちがしていました。・・・・ユリアといるときの不思議な安堵感、以前にどこかで出会ったような既視感・・・・なぜ話してくれなかったのです！」 「・・・・マンフロイがナーガの血というまで確信はなかった。ユリアは本当に何も覚えていなかったのだからな。・・・・それにもしもユリアがナーガの血筋であるならそれは誰にも悟られるべきではなかった。・・・・セリス、兄であるお前にさえも。・・・・」 「どうして！どうしてなんだ！・・・・もっと注意してやればよかった。もっと一緒にいてやればよかった。・・・・約束したのに！ユリアのことを守ってやると約束したのに！」 「ならば、守ってやれ、救ってやれ。」 こともなげにガラスのような目をしてレヴィンは言い放った。 「マンフロイはユリアを殺しはしない。・・・・ユリアはロプト帝国の再興にとってのいちばんの障害だが、同時に、闇にとりこむことができれば最大の力だ。・・・・救ってやれ。お前にそれができるのなら。・・・・怒り、悲しんでいるだけでは何も変わらない。・・・・きついことをいうようだが、今はバーハラに向かうしかないのだ。・・・・」 横で聞いていたオイフェが黙って頷いた。 落ち込むスカサハの頭をラクチェが剣の鞘でこつこつと叩いた。 「オレがあのときもっとしっかりしていたら！」 ラクチェはさっきより強く叩いた。 「スカサハは魔法に弱いんだから、しっかりしていてもどうにもならなかったよ・・・・」 「ラクチェ、お前！」 スカサハは気の強い妹の目に涙が溜まっているのを見て絶句した。 「・・・・マンフロイは私が斬る。あの子は私の義妹になる子だからな。・・・・スカサハには半分だけ斬らせてやる。」 「セリス様？」 怪我人の手当てに奔走していたラナがリーフと一緒に傷心の皇子の前に現われたのは夜が深まってからのことだった。セリスは椅子に腰掛け顔を手のひらに埋めていた。目の前には夕食が手付かずのまま冷えきっていた。 セリスは二人がはいってきたことにも気付かないようだった。リーフは何をいったらいいのか思いつかなかった。こんなことに不器用な彼は、フィンだったらどうするのかと考えた。フィンならきっと自分をじっと見守っているだろう。そして自分は安心するだろう。しかし、今、見守るだけで自分がセリスを癒してやれるとはリーフには思えなかった。自分はフィンではない。ラナは優しい言葉をかけていたがセリスは無反応だった。ユリアの失踪。自分に少しだけだが流れている闇の血。いままでセリスは挫けず立派にやってきた。だからこそ、こんなときに大きく折れてしまうのだとラナにはわかっていた。 彼女は前に回ってパンの固まりを手にとった。そして大きく息を吸い込むと、彼女の精一杯の大声で怒鳴った。 「セリスっ！ご飯が冷めちゃったじゃないのっ！ちゃんと食べないと大きくなれないわっ！しっかり食べなさいっ！」 セリスはぴくりとした。目に表情が戻った。 「ラナ？」 それにリーフが破れかぶれで畳み掛ける。 「そうだ。食物は粗末にしちゃいけない！僕は三日間水だけで過ごしたことがあるけど、あのときほど食物の有り難みを感じたことはあとにも先にもない。食物を食べないのは悪いことだっ！そんな奴、許しておけないぞっ！フィンだって許さなかった！嫌いなタマネギを食べられるようになったのだってフィンが許さなかったからだ。いまじゃ、ぼくはタマネギは大好きだ。だから食べろ。人間、食べられることがいちばんの幸せだ。」 これにはセリスもラナも目をぱちくりさせた。 「まだこれからじゃないか。僕だって、十七年待っていたらやっと姉上に会えたんだ。僕が会えたくらいだから、セリスみたいないい奴が会えないわけないじゃないか。待ってろ！」 リーフはラナの持っていたパンをひったくり、半分に割った。 「大体、一人で食べても美味しくないだろ！僕がここで一緒に食べてやるから、一緒に食べろっ！」 セリスは目を細めた。リーフ王子はいつだって一生懸命だ。どこかずれているような気もするが、いつも暖かな気分にしてくれる。 「私、お茶をいれてきますね。」 ラナがローブの裾を翻して出ていった。 「あのシスターはいい子だね。」 リーフが言う。 「うん・・・・小さな頃からずっと一緒だったから私が悩んでいるときはいつも励ましてくれる。」 「・・・・ふうん。ナンナみたいなものかな。」 「きっとそうだよ。」 暗いことばかりがクロノスで起こったのではなかった。夜半を過ぎてから、戦が終わるのを離れた村で待っていたパティの馬車が到着し、ついで、偵察に出ていたアルテナが、山岳部をさまよっている子供たちを発見し、何回かに分けてクロノスに運んできたのだ。子供たちは皆元気で、ペルルークに帰れるのだときいてたいへんにはしゃいでいた。 「あのお姉さん、約束を守ったんだ・・・・」 パティがイシュタルのことを告げると、ティニーは胸の前で手を組み、目を閉じて従姉の為に祈った。自分に優しかったイシュタル。その心は全く変わってしまったわけではない。もしかしたら味方に・・・・そうした淡い希望が見えたような気がした。 パティは子供たちのために厨房に入ってお腹の膨れるようなものをでっちあげて食べさせた。リーンが手伝ってくれ、真夜中には片付けも終わった。 「ご苦労様。パティちゃん。今日は大活躍だったわね。」 と、パティがリーンにすがって泣きだした。リーンはマントの下からのぞく破れた服を見、すべてを了解した。彼女はダーナで地獄を一度見た。話を聞いて、パティの受けた屈辱はまだそこまでいっていなかったと知ったが、踊り子には盗賊の恐怖が痛いほどわかった。わんわん泣くパティを宥めていると、すらりと背の高い姿が厨房を覗いた。 「な、何だ？どうしたのだ。」 シャナンだった。 パティはぐっと涙を拭くとにこにこ笑った。 「あ、あはは、ちょっとタマネギ切ってて泣けちゃった、ははは。」 リーンは盗賊の強さに感心した。そして切なくなった。 「こんな時間になんです？お腹すいたんですかぁ？」 シャナンは、当初の目的を思い出してパティを立たせるとお説教した。 「何故、あんな危険なことをした！前にも言っただろう、お前のような子供が戦場に出るなどとは！生きて帰ってくることができたのは、ただの幸運だ。戦は私たち大人に任せておけばいいのだ。」 「あはは、でも今回も役にたちましたよっ！」 「だから、それがただの幸運だといっているのだ・・・・おい、どうしたのだ？」 パティはへらへらと笑い・・・・同時に泣いていた。笑っているのにぽろぽろと涙がこぼれている。リーンがシャナンに耳打ちした。パティは涙を止めようとしていた。でも涙はとまってくれなかった。 ”もう恐くないのに。帰ってきたのに。みんなの前でいつでも笑っていたいのに。どうして涙が出るんだろう。・・・・どうして・・・・” シャナンはひょいと作業台の上に腰掛けると自分の膝の上にパティを座らせた。 「無理するな。泣きたいのなら泣け。」 パティはわんわんと泣き・・・・泣き止んだ。 「もう・・・・いいのか？」 こくこくと頷く。 無理して作った笑顔が痛々しい。彼はこつんと自分の額とパティの額を合わせた。 「パティ。すべてがおわったら、イザークへくる気はないか。・・・・お前に、イザークの城の台所をとりしきってほしい、と私は思うのだが。」 パティはきらきらと目を輝かせ、しかし頭を掻いた。 「う〜ん。素敵なことだけど、孤児院のこともあるし、第一あたしは城の人が食べるような気取った料理はつくれないです。それに取り仕切るだなんて！あたしみたいな子供は厨房のおばさんたちのお手伝いをするのがやっとやっと！」 シャナンは頭をガンと殴られたような気がした。この盗賊は天真爛漫にも何もわかってはいない。 「・・・・・あ〜、そうではない。台所を取り仕切るというのはだな・・・・」 「え〜、こういったところだからあたしの田舎料理でも皆美味しいっていってくれるけど、やっぱり無理！でも勿体ないなあ・・・・大きな台所で働けるのなんて素敵だなあ。シャナン様、ちょっと考えさせて下さいね。あはは、また迷惑かけちゃった。それじゃ、お休みなさい！」 ・・・・・やはりこの盗賊はまだまだ童女だ。子供相手に自分は何を言おうとしたのだ、と剣聖はため息をつきつつ髪を掻き揚げた。 先に厨房を出たリーンはアレスを捜して声をかけた。アレスが抱きすくめると、リーンはそのまま頭を胸にもたせ掛けた。 「どうした？今日は逃げないのか？」 「少しだけアレスさんと一緒にいたいんです。ご迷惑でなかったら。」 「・・・・お前を抱いていいのか？」 「いいえ。神様が見ていらっしゃいます。」 「神・・・・か。このごろ、その神という奴もまんざら戯言ではないような気になってきた。」 背後に海を従えたミレトスの城で赤い髪の毛の青年が遥か遠くで起こっている戦闘の土煙をつまらなそうに眺めていた。青年の顔ははっとするほど美しく、同じくらいに冷たかった。 「イシュタル。」 彼は傍らの銀髪の娘に柔らかな口調で語りかけた。 「何でしょう、ユリウス様。」 「どうも退屈だ。何かして遊ぼう。」 「遊び・・・・ですか？」 ユリウスは目を細めた。 「せっかく反乱軍が来ているのだから彼らと遊ぼう。・・・・競争だ。セリス軍の兵士をなるべく早く一人殺した方が勝ち。普通の人間ではだめだ。脆弱すぎて面白くない。傍系でも構わないが聖戦士の血筋のものでなくてはね。どうだ？やるかい？」 「・・・・はい、お言葉の通りに・・・・」 |