金色の目をした巨大な黒豹はリースティアに向かって突き進んだ。口を大きく開け、そこから咆哮を発しながら。鼻に寄せられた皺はミラが抱いた憎しみそのものを映しているかのようだった。
豹は回廊の床を蹴った。
しかし、その牙も爪も、光の王女には届かなかった。瞬間的に前に出たラルがその攻撃を代わりに受けたのだ。槍で牙を払ったものの、豹の爪はラルの脇腹の肉を深々と抉った。スレイとローン、二人の剣士が剣をふるったが、豹はしなやかに体を捻って難なくそれをかわすと遠く離れた位置に飛び退る。
ミラは見た。
大きな黒い獣が自分の方から向こうへ踊り出たのを。光の王女を殺そうとしたのを。それを助けようとしたラルフィスは血を流し、がっくりと膝をついている。血は回廊に敷かれた石を赤く無慈悲に染めていく。
・・・・・・・私だ・・・・・・・
私があの獣を呼んだんだわ。
海の向こうの国でもそうだったに違いない。あの国には妖魔などいなかったはずだのに、私があそこに行ってから妖魔が現れ始めた。私の憎しみや、怒りや、そういった闇の感情が妖魔を呼んだのだわ。
黒豹は尚も襲い掛かろうとしている。剣士が腕をふるい、カナンが火球を投げつけるが身軽な獣は二度、三度、と攻撃をかわす。白い僧服の青年が、胸のかくしから短剣を出して投げつけたが、それは豹の耳の先を掠めたに過ぎなかった。獣はその跳躍力で撹乱し、リースの周りから戦う力のあるものを巧妙に引き離していった。もはやリースの周りには、うずくまっているラルと、必死にラルの手当てをしているフィスとレムしか居なかった。そしてミラは見た。傷ついて動けないラルフィスの前にリースが守るように大きく手を広げて飛び出したのを。
あの子は何をやっているの？あの獣が狙っているのはあの人なのに。だって・・・・だって私が一番憎んでいるのはあなたなのよ？どうして、どうして？
「だめええええっ！」
ミラは駆け出していた。自分でも何をしているかがわからなかった。
そんなことさせちゃ駄目。私なんかの為に血を流しちゃ駄目！だって、あなたは沢山の人が守ろうとしている人なんですもの。そして、守ろうとしている人の為に盾になることを厭わないひとなんですもの！
スレイの斬戟をかいくぐり、黒豹が再びリースへ突進して行った。もう獣を阻むものはリースとの間に存在していなかった。獣は飛び、血飛沫が飛んだ。
しかし、それはリースティアの血ではなかった。横合いから飛び出てきた夜色のドレスの少女がリースの前からゆっくりと地面に崩れ落ちた。標的を傷つけられなかった獣はトン、と地面に降りると、また襲い掛かる。
ミラは血だまりの中から身を起こした。父王から渡されたワンドを必死に掲げる。
「そんな・・・・こと・・・・・・させ・・・・・・・・・・・・ない・・・・・・・・・」
空中に飛び上がった豹は、ワンドから発せられる不可思議な“気”の中に捉えられた。ピンと体を伸ばし、浮遊したまま動きを止める。
スレイの剣が縦に、ローンの剣が横に獣を両断したのは、その直後のことであった。
その光景を闇の王女は網膜に焼き付け、その後目を閉じた。
家族も家臣もいないこのような場所で果てていくなどと想像したこともなかったが、不思議と心は安らかだった。最後の望みは・・・・あの健気な光の王女を守るという望みは果たされたのだから・・・・
「しっかりしてください。王女、しっかりしてください！」
虚無に落ちていこうというのに、あの光を纏った王女の声はなんとはっきりと聞こえるのだろう。
鼻から空気を吸う。ずきん、と鈍い痛みを左の肩に感じたが、先程までの意識が消えていくような感覚はない。そっと目をあけると、リースティアが心配そうに覗き込んでいた。
ミラはローンに抱えられ、リースティアの右手が左肩にあてられていた。他の人々もまわりに集まっており、そこには自分が連れていた兵士達の顔も見えた。
「よかった！気づかれたのですね！本当によかった！」
リースティアはぎゅっとミラを抱きしめた。
ミラは顔を背けた。
「どうしたのですか。傷がまだ痛みますか？」
「・・・・・・あなたとはお話できません。」
「どうしてです。私・・・・・私、なにか気に障ることをしたのでしょうか。私、お礼がいいたいのです。あなたは私の恩人です。命を救って下さいました。」
「違います・・・・・・恩人なんかではないわ。私は、私は貴女を殺そうとしたの！」
一瞬リースは驚いた顔をしたが、首を大きく横に振った。
「そんなこと嘘です。」
「嘘ではないわ。」
尚もリースは首を振り、もっと強くミラを抱きしめた。
「あなたはとても優しい人ですもの。私、知ってます。海の向こうの国で、夜会の時、ラルフィスに優しくしてくれました。船の上でもラルフィスを心配してくれました。そんなあなたが私を殺そうとしたなんて嘘です。」
あなたは。と問いかけようとしてミラは息を飲んだ。自分の目の前にいる同い年くらいの少女に、海の向こうで出会った、ラルの守護精霊だという、あの精霊の面影を感じ取ったからだ。
リースは尚も続けた。
「もう何も言わないで。私はまたあなたに会えて嬉しいの。」
ね、と微笑まれて、ミラは声をあげて泣き始めた。
重い傷を負っていたラルフィスもリースの不思議な力で癒された。ミラは立ち上がるとラルの横に屈んでいるリースに告げた。
「リースティアさん。ここに居てはいけないわ。王はあなたを殺そうとしている。」
リースは哀しそうに頷いた。
「私・・・・・この国を壊そうとしているわけではないのに・・・・・」
「ええ。私もそう信じてます。でも・・・・・・王は考えを変えようとしないでしょう。」
そして兵士に向き直る。
「あなた方に最後の命令をします。私達がこの場を去るまではここを動かないで下さい。あとはお父様に報告するなりなんなり、自由に・・・・・」
兵士の一人が跪いた。
「王が私達を王女様に同行させたのは『共に死ね』との命令が下されたも同じ。・・・・私たちは捨て駒なのです。心配なさらないで下さい。私たちが時間稼ぎを致します。その間に王女様はその方々をご案内下さい。
驚くミラに、リースは顔をあげて微笑んだ。
そのリースを見、ラルフィスは息を飲んだ。自分の手当てをする彼女の手が一瞬透き通って見えたのだ。
「リース。手が・・・・・・・」
リースは何もいわずに綺麗に笑った。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
「は〜あ、疲れた。」
灰色の倒木に腰掛け、レムは足をぶらぶらとさせた。
一行は北の森に入りミードが封印されているという地を目指していた。目指す場所はもうすぐのはずだ。・・・・・・持てるすべての妖魔を吐き出してしまったのだろうか。この森に入ってからは一匹の妖魔にも遭遇しはしなかった。日がすっかり落ちてしまったところで、ローンは尚も前進しようとする者を止め、野営をすることを宣言した。小さな焚き火をし、そのまわりに腰を下ろす。
「ミラ王女・・・・・・一緒に来てしまってよかったのかい。」
隣に座ったラルフィスに訊ねられ、ミラは目の高さまでワンドを掲げてみせた。
「先程伺った話によれば、すべての元凶は私たち王家の祖先がしたこと。・・・・・ここに来ることは私のつとめなのです。」
レムがぶんぶんと首をふった。
「思いつめちゃだめだよ。おいらなんて、役に立つかどうかわかんないけど一緒に来てるんだし。つとめ、とかなんとかおいらは難しくってわかんないけど、できることがあるときにやればいいんじゃないの？」
ミラはラルの口から、リースティアとスレイたちの不思議な物語を聞いたのだが、それでも信じ難い気がしていた。
「でも、それでもこれは私しかできない仕事です。私の命を賭けてでも、妖魔を滅ぼさなくてはなりません。」
リースがやってきてミラの逆隣に座った。
「ミラ。妖精が死ぬ時にはね、必ずどこかで一人生まれているの。一つの命が回ってもう一つの命になるの。それが“いのちが回る”ということ。命はこの世界が続く限り回っていって途切れることがない。・・・・・・・一つの命を終わらせるために、別の命を消してしまうなんて、それはとてもいけないこと。・・・・私はミードさんを助けにいくの・・・・・約束して下さい。そのワンドは命を滅ぼすためではなく生かすために使うってことを。」
ミラは曖昧に頷いた。レムは倒木からひょいと飛び降りるとあちこち飛び回るようにして旅の中間達とお喋りを始めた。・・・・・が、しばらくすると座り込んで黙ってしまった。疲労や眠さの為ではない。いつもはよく動く緑の瞳はちろりと燃える焚き火の火をじっと見つめている。
レムだけではない。フィスも、鶫も、そして、これはいつものことであるがスレイも一言も発しなかった。皆、等しく焚き火を見つめている。リースも無言であった。彼女は一人離れ、枯れかけた木々の間に立って彼女に近寄ってきた妖精たちと何やら話をしている。
カナンが静かな曲を弾き始めた。
と、レムがいてもたってもいられなくなったように立ち上がるとリースの方にかけていった。そして彼女の細い体に齧り付いた。
「レム？」
驚いたリースが見下ろすと、レムは泣いていた。
「レム・・・・・・」
リースはそっとレムの赤い髪を幾度も撫でた。
「リース。・・・・・・おいら・・・・・・おいら、なんかヘンなんだよ。・・・・・なんだかとっても苦しくって寂しくって・・・・・・おいらがおいらでなくなっていくみたいで・・・・」
リースはこっくりした。
「もうすぐ私たちは消えていくのですものね。」
レムはぎゅっとリースのえんじいろのスカートを握り締める。
「やっぱりそうなの？森に入ったときからなんかヘンな感じがしたんだ。おいら、消えちゃうんだ？・・・・・そうだよね。おいらたち、一度死んだんだもんね。ここに居ることの方が不思議だったんだよね。でも、でも、おいら・・・・」
「レム。・・・・・消えてなくなっても、それは終わりじゃないはず。新しい始まりのはず。」
リースの瞳は静かで優しかったが、レムはぶんぶんと首を横に振った。
「おいら・・・・・おいらは・・・・・・・司祭様やフィス姉ちゃんやスレイのおっちゃんと違って、特別なことは何にもできない子供だよ？おいら、どうして呼ばれたの？どうして生き返ったの？・・・・・・また消えちゃわなきゃいけないんなら、おいら生き返ったりしたくなかった！」
二人の様子を遠目に見て心配したラルがやってきたのはまさにその時だった。
レムは真っ赤に泣きはらした緑の目でラルフィスを見、飛びついて胸をどんどんと叩いた。
「おいら、皆が大好きだよ。ラル兄ちゃんのことも大好きだよ。さよならなんてしたくない！おいら、おいら怖いよ。・・・・・おいら、死んだはずだけどこうやって生きてる。ずっとこのまま生きて兄ちゃんといっぱい話したいよ。もっともっと話したいよ。おいらが昔暮してた村のこと、聞いて欲しいよ！兄ちゃんの漁の話を聞きたいよ！おいら・・・・おいら、おいら！」
後ろからそっとリースが抱きかかえると、レムは再びリースにかじりついてわあわあと泣いた。彼女が木の根元に座るとレムはリースの膝の上で一頻り泣き、そしてしゃくりあげていたが、それが止んだとき、涙の跡を頬に残して眠っていた。
とん、とん、と母親が子供をあやすようにリースがレムの背を叩く。ラルは少年を起こさないようにそっと抱き上げるとマントで包んで地面に横たえた。
「リース・・・・・・レムの言っていたことは一体・・・・・そして、司祭様達が黙りこくっているのは何故・・・・？」
リースは頷いた。
「それは、皆がここでのことが終わったら、自分達が消えていくことを感じているからなんです。」
そんなことは初耳だった。リースは手をかざしてみせた。王宮の回廊でのときと同じように、少し透き通って見える。
「私たちは一度死んだの。だから、本当は今ここに生きていてはいけない存在のはず。・・・・・今までこうして生き返っていたのは、きっとこの世界が私達を必要としていたから。・・・・・・だから、きっとすべてが終わったら消えていきます。私も感じています。自分の体が希薄になっていることを。」
ラルは目を見開いた。
「そんな・・・・・・・！・・・・・・・・消えるって・・・・・・」
「・・・・・・・もう一度、死ぬ・・・・・・・のかもしれません。哀しまないで下さい。だってもともと私たちは死んでいたのだし、この世界に妖精たちが完全に戻ってくれば、新しい幾千幾万の絆が結ばれていきます。・・・・・それはとっても嬉しいこと。レムは小さいから納得できないかもしれないけれど、他の人たちはきっとわかっています。・・・・・・・・ラル？」
ラルは歯噛みしていた。
「俺と・・・・・・・俺とリースの絆は・・・・・・これっきり切れるの？・・・・・・リースは生まれた時からずっと傍にいてくれた。姉さんを助ける旅に出て、仲間をもっとも必要としているときには、女剣士の姿で守ってくれた。五年前、俺はリースと永遠に別れてしまうと思っていたけれど、リースは精霊の体で蘇った。今度、この土地に来る時、リースはきっとあの大地の妖精に姿を変えて守ってくれていたはずなんだ。・・・・・・大地の妖精は僕を守って砕け散ってしまった。・・・・・その後俺は君に出会ったんだ。精霊のリースのもとになったっていう君に。リースの中にいたという４人に・・・・また・・・・また別れるのか？今度はいつ会えるの？いつ、どんな形で会える？」
リースは伸び上がるようにしてラルの頬に手をあてた。
「・・・・・・・・私もいつかまた会いたい。だって私、あなたのこと大好きですもの。・・・・・はっきりとはわからないけれど、やっぱり私は知っている・・・・・私・・・・・あなたの守護精霊だったんですものね。・・・・・・・消えること・・・・・考えると・・・・・・やっぱり・・・・・やっぱり怖くて・・・・・・私、レムと一緒ですね・・・・・やっぱり、怖い。」
王女は手を下ろし、その手で顔を覆ってしまった。ラルはぎゅっとリースを抱きしめた。王女はラルの服を握り締めた。
「ラルのこと、忘れません。私っていうものが無くなってしまうまで、絶対に忘れません。」
ミラはぽつんと一人、カナンの竪琴を聞きながら座っていた。ローンが声をかける。
「ミラ王女。どうなさいました。」
ミラはリースを気遣って席をたったまま戻ってこないラルの荷物をちらっと見、小さな・・・・・わかるかわからないほどの小さなため息をついた。
「私は・・・・・・なんていう嫉妬をしていたのでしょう。・・・・・私はラルフィス様に好意を持っていました。そして自分があの方の“特別”になっているのだと錯覚していたのです。・・・・・あの方の優しさを勘違いして・・・・あの優しい二人の間に割り込もうとしていたなんて・・・・」
ローンはミラからこのような心の弱さを露呈するような言葉が出るとは思わず、二、三度瞬きした。そしてゆっくりと言った。
「兄の私が言うのも何ですが、弟は確かに優しい男です。そして、リース殿は弟にとっては特別な存在です。・・・・・・・守護精霊であり、神に近い存在であり、頼れる仲間であり、姉であり、弟であり、そして妹。恋したこともあるかもしれません。しかし、わかっていて下さい。弟があなたを気遣う気持に嘘偽りのかけらもないことを。・・・・・・・ミラ王女。あなたは強い方だ。しかし。いつも毅然としている必要はない。・・・・・あなたは強い孤独を感じていた。あの黒い妖魔を招いたのはそのせいだ。しかし、私は知っています。あなたの兵や、家臣や、市井の人々の多くがあなたを慕っていることを。それは王女としてのあなたであってあなた個人を知らない者かもしれない。しかし、あなたは一人なのではない。・・・・・少なくとも今ここにいる者たちはあなたを好いている。そしてあなたはここでは王女である以前に、一人の掛け替えのない仲間です。」
大きな掌で頭を掴んで揺さぶられミラは紫水晶の瞳を上に向けた。
「え・・・・あの・・・・・ローン様。・・・・・・・あなたのお国ではこのように頭を揺さぶることはよくあることなのでしょうか？」
ローンはさっと顔を赤くして手を放した。
「失礼！わ、私は長兄でして、下の兄弟達から泣き言を聞かされ、元気付ける時にはよくこのようなことを！・・・・・・あ・・・・・重ねて失礼！王女のご発言は決して泣き言ではない！失言をお許し下さい！」
ミラは柔らかく笑った。
「私の兄弟達は・・・・・私と手を繋いだこともありません。・・・・・・そうですね。三番目の兄が私の頭を撫でてくれたことがありました。でも、私はその兄を軟弱者だと馬鹿にしていましたっけ・・・・・・今度、謝らねばいけませんね。・・・・・・・私は、王女などに生まれなければよかった。」
ローンは首を横に振る。
「ご自分を否定することをお考えにならぬように。あなたが王女でなかったら、今、ここに居る私たちとは出会うことがありませんでした。それだけでも、あなたが王女として生まれたことには意味があります。」
カナンは一人、ひたすらに竪琴を弾く。彼が最後の和音を響かせ、体を横にしたとき、見張りを続けるスレイを残し、仲間たちはぐっすりと眠りについていた。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
「この感じは・・・・・・」
翌日、最後の行程を歩き始めたミラは体全体を塞がれたような重苦しさを覚えて呟いた。その隣でリースティアが頷く。
「きっと、“封印”に近づいたせいなのでしょう。でも・・・・」
ミラは蜂蜜色の髪の旧王家の王女を見た。最も強い魔力を持つ、現王家の漆黒の髪の王女は頷く。
「ええ。封印は解けかかっているようです。」
どちらからともなく二人の姫は手を繋いだ。二人それぞれに感じていた震えはそうすることで収まった。
二人の前、最前列で、邪魔になる蔓を剣で薙ぎ払っていたスレイが立ち止まり剣を上げると無言で向こうを指した。
そこには、上に大人が50人ほども乗ることができるかという巨石があった。表面を鏡のように滑らかに磨かれた黒い岩・・・・・岩の表面に映った自分の姿を見つめながらミラは言った。
「この岩は一度封印をしたあと、それを完全なものとするために置かれたものでしょう。」
ごと、と音がした。狂気に満ちた、しかし懐かしい気配を感じ、リースが呼びかける。
「ミードさん？」
再び音がした。ローン達にも、それが巨石が一度小さな息をするように上下動して生じたものだとわかった。やがて、その音は間断なく続くようになり、地震の如き揺れが一行を襲った。
「来るぞ！」
カナンが掌に火球を宿らせる。『鶫』は背にフィスを庇い、竪琴の弦に指をかけた。
バキ！
黒い巨石に縦にひびが入り、黒い霧が四方に飛び出した！それは巨石の何倍もの大きさに膨れ上がり、そこから幾百もの触手が伸びてその場に居たすべてのものに襲い掛かった。スレイが、ローンが切断した触手はすぐにまたそこから新たな芽を伸ばす。カナンの火球は触手を燃やしたが、細い鞭のようになった触手が急激に伸びてきて彼に絡みつき、その体を上へと持ち上げる。
「カナン！」
ラルが槍で立ち向かおうとするのを見たローンは、腰に下げた予備の剣を弟に放った。
「それを使え！」
ラルは受け止め、すぐに触手を切り落とした。落ちてくるカナンを受け止め、彼を立たせてすぐに体勢を調える。
『鶫』は歌った。妖魔を妖精に立ち返らせた優しい歌を。フィスは舞った。見られるかどうかわからぬ清めの舞を。
「リース王女！あとのことはお願いします！」
ミラはワンドを掲げた。魔の力を秘めた杖は彼女の精神力を増幅し、触手の怪物へと封印の力を投げかける。
剣士たちに切り裂かれても火球で灼かれても勢いの衰えなかった触手が、杖から発せられる波濤に当たると怯えるように縮んだ。穴から這い出た蛇がもとの暗がりに戻るように、満潮の海の水がひくようにそれが噴出してきた場所へと押し戻されていく。・・・・・・・しかし、最後の最後で、黒い霧はその存在を消さずに、別のはっきりした形をとった。そして、黒き魔法がワンドを掲げるミラに向かって放たれた。
「危ない！」
レムと一緒に必死にワンドを掲げるミラを支えていたリースが咄嗟に体を倒し、二人して地面に転がった。今までいた場所には大きな穴が開いた。リースは精神を消耗し、はあはあと息をするミラを少年に託すと自分はすっくと立ち上がって、黒き魔法が放たれた方に向かって歩き出す。
「ミードさん・・・・・・・」
そこには一人の青年が居た。若葉色の髪に若葉色の瞳、白い衣を纏っていたはずの彼女の愛しい精霊は、今は漆黒の衣に身を包み、白い顔は昔と同様に美しく整っていたが、ぽっかりと空いた黒い目は瞳がなく、まるで世界の終わりがそこから覗けるようであった。精霊だったものは巨石の残骸の上に浮き上がっている。
「ミードさん。私です。あなたが守って下さっていたリースティアです。」
ラルが、カナンが、スレイが・・・・戦う力をもった者たちがその背後につく。
ミードは近づいてくる少女を無表情に見下ろしていた。
（お前はリースティアではない。）
精霊だったものは言った。
（私の愛しいリースティアは私だけの物。リースティアを守るのは私一人。私以外の物に守られているお前はリースティアではない。）
リースは哀しげな顔をした。
「ミードさん！・・・・・・私のことがわからなくても構わない。でも思い出して下さい。あなたが慈しんだ妖精たちのことを。あなたに寄せられた妖精たちの愛情を。そして、私などに縛られてしまう以前にあなたがこの世界に寄せていた優しい気持ちを！」
精霊だったものは表情を変えなかった。そして掌を前に突き出すと黒い魔法を放った。その魔法をリースは彼女自身の掌で受け止めた。光の粒子をそこここに輝かせた白い障壁がミードとの間に出現する。ミラがリースの肩を抱く。今度は彼女が支える番だった。
黒き魔法はどんどんと力を増し、障壁に襲い掛かった。リースの白い顔はますます白くなり青ざめてさえいた。・・・・・・そして、とうとう壁は敗れ去った。
誰しもが自分達を黒き魔法が貫くのを予期していた。しかし、実際には自分達を取り巻いたのはきらきら光る光の奔流だった。いや、光そのものではない！妖精が・・・・・・この大陸の妖精すべてが集まったのではないかと思われる妖精たちの集団がラルたちの前に飛来したのだ。・・・・・・細々と生き残っていたもの、妖魔がはじけて現れたもの・・・・・妖精たちは微笑んでいた。黒き魔法をその身にうけて、瞬時に命を落とし、存在を消して行ったが、それでもあとからあとからリースの前に現れ、そしてミードに向かってつき進む。
魔法をかいくぐって一人目の妖精がやってきてその体に触れたとき、ミードは激しい痛みを感じた。妖精は消えて行き、そこには小さな傷ができた。
二人目の妖精がやってきたとき、ミードはもっと激しい痛みを感じた。また妖精は消え、傷が深くなった。
妖精は囁く。
“精霊様”
“私たちの優しい精霊様”
“待っていました”
妖精達がミードに触れていくに従い、彼はその姿を変えていった。黒い液体がぼとり、と地面に落ち、黒い衣が裾の方から塵となり風に吹かれて消えていく。
そして、ミードはやっと耳から優しい音楽が入ってくるのに気づいた。目にした舞が体を清めていくのがわかった。体は縮み、黒かった髪は一瞬若葉の色に変わったが、その色は抜け、白くなった。
すべての妖精が死んでいったとき、そこには黒い衣の青年の姿は無かった。そこに居るのは白い髪をした細い手足の小さな少女。
ミードは泣いていた。
何故哀しいのかわからないけれど、白い髪の少女は涙をこぼさずにはいられなかった。そして少女は死んでしまいたいと思った。
彼女は自分の咽喉に手をあて、力を入れた。そのまま自分を縊り殺そうとして。
その手をそっと外す白い手があった。ここは、地面から少し離れた空の上だというのに、見知った顔が、ミードが愛した少女が傍らに居た。
空気に溶けそうに、半分透き通った体でリースは微笑んだ。
「ミードさん。・・・・・・・今度は私があなたを守る番です。」
ミードはリースに抱かれ、全てを思い出した。そして泣いた。リースのために。自分が殺してしまった妖精たちのために。
ラルが近づいてきたとき、リースはまだ空に浮遊していた。その顔はラルの良く知っている少女のようであり、それよりもずっと大人びた知らない女性のようにも見えた。
「・・・・・・・リースティア。お別れ・・・・・だね。」
リースはこっくりと頷いた。
「この大陸の妖精はすべて死に絶えてしまいました。・・・・・新しい妖精の子供たちが生まれてきた時、慈しみ育て、命を回していく存在が必要です。・・・・・・・それが・・・・・それが一度死んで蘇った私に課せられた使命だと思うのです。・・・・・私という人間の存在は消えますが、ずっと私・・・・・いえ、私たちはここで生きていきます。何百年、何千年かかるかもしれません。私たちと、妖精たちと、人間がこの大地と新たな絆を結ぶまでは。」
リースの横に、司祭とフィスが、やはり透き通った姿で浮かび上がった。リースに見つめられ、スレイは口元を歪ませた。
「お前はまだ俺を束縛するつもりなのか。」
「束縛はしません。・・・・・・・・ただ、一緒にいて欲しいのです。」
灰色の傭兵は面白そうに笑った。
「俺は傭兵だ。何を報酬として貰える。」
リースは微笑んだ。
「あなたが捜して下さい。・・・・・でも、あなたが欲するものは必ず見つかると思います。」
スレイはため息をついた。
「物好きな雇主だ。俺ならば、こんなに物騒な奴など雇いはしない。」
フィスが手を伸べ、レムを引っ張り上げる。少年は宙に浮いておそるおそるあたりの様子を見渡した。
「ミードさん。」
白い髪の少女は怯えた様子でかつて自分が守護していた少女を見た。
「あなたも一緒に。」
ミードは、顔をくしゃくしゃにした。
「リース。私などにその資格が？」
「・・・・・・・あなたはこの中で誰よりも優しい精霊になるでしょう。きっと。」
カナンもラルも、この“新たに生まれた者達”が、この先、自分達の大陸の精霊神たちと同じ役割をしていくことを信じて疑わなかった。
しかし、レムはぽーんと宙から飛び降りると、ラルの服の裾をぎゅっと両手で握った。
「リース！おいら・・・・・おいら・・・・・リースのこと大好きだよ！みんなみんな大好きだよ！妖精の子のことも大好きだよ！・・・・・・でも、おいら、精霊になんてなりたくない！何百年も何千年も生きるより、おいらにはしたいことがあるんだ。おいら・・・・・・おいら、ラル兄ちゃんの弟になりたい。フレイス村駆け回って、夏は海で泳いで、冬は暖炉の前でいっぱい話して、・・・・・・・おいら・・・・・・・おいら・・・・・」
ラルはすっとレムを抱き上げた。リースは少し困った顔をしたが、最後ににっこりした。
「ラルさえ迷惑でなかったら。」
「俺は大歓迎だよ。・・・・・・・・リースも知ってるだろ。あの家、一人で住むには広すぎるんだ。・・・・・・・レム、でも覚えて置けよ。俺のところにきたらいっぱい手伝ってもらうし、いけないことをしたら、びしびし怒るからな！」
レムはリースとラルの顔を見比べていたが、ひゃっほう、というような叫び声を上げるとラルの首にぎゅっと抱きつき、ついでカナンの手をとってぐるぐるぐる、と引っ張りまわした。
少年のそんな様子を見ながらリースは悲しそうにいった。
「私も・・・・・・・本当はあなたと行きたかった。」
どきん、とラルの鼓動が一つ強く打った。
リースは髪を縛っていたリボンを解いてラルに渡した。
「忘れないよ。リース。」
「私もです。ラル。」
リースはラルの額にそっとキスをした。
離れて様子を見ていたミラは肩を落とした。あの二人は別れていっても絆はずっと切れることが無い。
「ミラ王女、どうされました。」
「いいえ・・・・・・妖精たちがこの大地に戻ってくるのですから喜ばねばならないのですよね。でも、あの方々は精霊として私たちの前から姿を消し、異国からきたあなた方は帰ってしまわれます。・・・・・・・「王女」という肩書きなしで私に下しく接してくれた方がいなくなってしまう・・・・・・一人には慣れているのですけれど、それでも・・・・・少し弱音を吐かせていただけるのならば、私は寂しいのだと思います。」
ローンは昨晩と同じようにミラの頭に手を置いた。そして、いかんいかんと思ったのか、その手を赤銅色の自分の髪にやってがしがしとかき回した。
「そのことなのですが・・・・・・私は弟に比べると大分がさつな男ですが・・・・・ラルフィスの代わりはできませんでしょうか。・・・・・・」
ミラはローンが何をいっているのかわからなかった。しかし、遥か上から自分を見下ろす真剣に熱を帯びた瞳に出会い、自分も頬を赤くした。
「私は自分の魔力を制御することができません。また怖ろしい怪物を呼び込むかもしれません。」
「怪物が出てきたら私が斬って捨てます。それ以前に、あなたが怪物を呼び込むことなどないようにしてみせる。」
「・・・・・・父が許さないでしょう。あなたを殺そうとするかもしれません。」
「ひとまずはここであなたが死んだことにしてしまいましょう。戦闘に死者は付き物です。私の故国に着いたならあなたの近しい人に手紙を書いて生きていることを知らせればいい。」
「あの、でも・・・・・」
ローンは手を王女の頭に、今度はしっかりと載せた。そして二、三度撫でると今度は大きな体を小さくして跪いた。
「あなたを私の妻に迎えたい。・・・・・王女の位は捨てさせることになってしまうが、一緒にきてはくれないだろうか。」
ミラはくすっと笑った。
「王女の位・・・・・それは私が一番捨てたかったものです。」
ミラは異国の騎士に抱きつき、ローンは王女に接吻し・・・・抱え上げて一度空高く投げ上げたので、ミラに悲鳴を上げさせた。そして彼女は笑った。・・・・・ミラは嬉しかった。このように自分を笑わせてくれる人に出会えたことが。
（ミラ王女。幸せに。）
リースの声が聞こえた。爽やかな風がミラの長い髪を揺らした。ミラは急いで辺りを見渡したが、もうそこにはリース達精霊の姿はなかった。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊
「わああああ！イルカだ！１．２．３．４・・・・６頭もいるよッ！すっごいな！船と競争してるみたいだ！」
爪先立ちして船べりから海を見るレムのあげた歓声に船員達が笑い声を上げた。ラルがひょいと担ぎ上げて肩車する。それが嬉しくてレムはまた歓声をあげた。
そんな二人を、ローンとミラは寄り添って見ていた。この船に身分を隠して乗船してからミラの顔はずっと穏やかだった。ライスリート家の豪放な長男は、人の哀しみには人一倍敏感でミラが少しでも暗い顔をすると大きな手でミラの髪を梳き、彼女はその手を限りなくいとおしく思って頬擦りした。
レムは今度は手すりによじ登り、立ち上がった。
「ほら！ラル兄ちゃん！見て見てッ！」
「こらッ！あぶな・・・・・・」
ラルは船べりをあぶなっかしく歩いていた大地の妖精を思い出し、顔を曇らせた。カナンはそっとラルの肩に手をおく。年上の二人の悲しげな様子にレムは気づいたが、ことさらはしゃいでみせた。
「わかったよぉ！もうしないってば！ほら、ねえ、カナン！ね、ね、あれってお城だよね！もうすぐ着くんだ！あっちがフレイス村？」
「ん〜、フレイスはもっと向こうだ。あっちの入り江がそうだな。」
「ふ〜ん。じゃさ、兄ちゃんのお母さん達が住んでる家はあっちとお城の真ん中辺だっけ？」
「いや、真ん中じゃないよ。村よりずっとお城に近いところにある。丘の上だからここからでもよく見えるは・・・・・」
ラルは言葉を失った。急いでローンを呼ぶ。長兄も異変に気づき遠眼鏡で懐かしい父母の館を見た・・・・・・石造りの館は半壊していた。
一体何が、と訝るうちに、船は王都近くの港へと入港した。
・・・・・・港には正装した騎士団が整列していた。国使といえど、このような出迎えを受ける謂れはない。船から渡り板が陸に渡され、真っ先に乗船してきたのは、銀糸で精緻な刺繍がなされた白い僧服に帯剣したラルの次兄、シェンスであった。腕には小さな妹のティナを抱いている。ティナはにこにこしながら、“にいしゃま、おかえりなさい”と言ってラルにかじりついた。
「シェンス、このような出迎え、国賓の送迎でもする勢いではないか。・・・・・船から館が崩れているのが見えた。一体何が起こったというのだ！父上や母上はご無事なのか!?」
「父上も母上もご無事です・・・・・しかし・・・・兄さん。申し訳ありません。」
シェンスは俯き加減に言った。
「兄さん、兄さんが出立してから間もなく、大規模なクーデターが起こりました。館が壊されたのはそのときです。もちろん、私も父上も、戦火が広がることのないように尽力したのですが、・・・・・・力の入れ具合を微妙に間違えてしまったようです・・・・・・・・本当に申し訳ありません。」
「だから！先を言え、先を！」
「・・・・・・・父上は王となってしまわれました。・・・・・・兄さん、申し訳ありません。本当に不可抗力だったのです。あなたが王位の継承権第一位です。」
ローンはあまりのことに口をぱくぱくさせ、怒鳴った。
「この愚か者がッ！」
そして、ミラに向き直り、済まなさそうに髪を掻いた。
「聞いての通りだ。済まない・・・・・また王女ということになってしまった。許して欲しい。」
ミラは“王女であることには慣れていますから”と言って笑った。
「・・・・・・ついてはファナを伴ってきました。」
地味な灰色のマントを羽織ったファナが進み出た。
「ティナにはまだ母親が必要ですから王宮に残らざるを得ませんが、父上も母上もファナは王宮にいるべきでないと言いました。私もそう思います。カナン殿！」
まだ頭が兄たちの会話についていっていないラルの横で、面白そうに聞いていたカナンは、“俺に何か用か？”とばかりに前に進み出た。
「ファナのことをお願いできませんでしょうか。」
カナンは怒鳴った。
「何故俺があいつを嫁に貰わねばいかんのだ！」
シェンスはじろっとカナンを見た。
「・・・・・・・嫁に貰ってくれと誰がお話ししましたか！私はただ、ここからファナを逃がすのは、諸国を旅して回ったあなたが適任だろうと考えただけです！」
「すまん！勘違いだ。嫁にだなどとそんなに怖ろしいことを・・・・」
「・・・・・・・・私があなたのお嫁さんになるのはそんなに怖ろしいことですか？」
ファナににこやかに言われ、カナンは縮み上がった。・・・・・・よほどファナが苦手らしい。
「いや、まあ・・・・・・とにかく！・・・・・・ひとまずは船倉に隠れて下船のごたごたに紛れて逃げるか！ラル！また近いうちにフレイス村に寄らせてもらう。そのときに色々と話をしよう。レム、あまりいたずらはするなよ。」
ファナの手をひいて、船倉に降りる前、カナンはラルの耳に囁いた。
「忘れるな。リースはいつもお前の傍にいる。どんなことが起ころうとも。お前が悲しめばあいつも悲しむ。だから・・・・・・だから悲しむな・・・・・」
ローン王子のご帰還、万歳！の歓声の中、ローンがやれやれ、と、しかしミラをその傍らにしっかりと引き寄せて下船していくのを見送り、ラルたちは、一般の船員達と共に陸にあがった。荷を降ろす男たちの間を縫って港の外に出ると、もうそこは二人だけだった。街道に出た二人は乗合馬車に乗り、フレイス村に一番近い宿場町で馬車を降りた。ここからは徒歩だ。
「やあ。」
声をかけられると、そこにはランディが立っており、彼の真上には、彼の小さな妹と弟が浮かんでいた。
「おかえり、ラルフィス。」
「ランディ・・・・・ただいま。」
「君たちが居ない間も、この土地は平和だったよ。王都ではクーデターが起こったけれど、命は殆ど失われなかった。君の家は・・・」
「さっきシェンス兄さんから聞いたよ。ローン兄さんはカンカンになって怒っていたけど。」
「・・・・・・・・・・御免。僕も少しばかり手を貸してしまって・・・・・・君が第三王子になった責任は僕にもある。」
レムはランディの弟たちと遊び始めた。
「ランディ。あの子達がずっとこの土地の守護精霊の役目をしてくれていたの？」
ランディは頷いた。それは、リースがここにはいなかったということを示すことであった。大地の精霊神メレイの小さな子供たちは、キャッ、キャッ、と年相応にはしゃぎながら空中から降りてレムと追いかけっこをしている。二人はしばらくじっとそれを眺めていた。そよ風、草の匂い。妖精たちの気配。ここは平和だ。何事も無く平和だ。精霊たちが命を紡ぎ、命を回し・・・・・・
居ないとわかっている者のことを聞くのは意味がない。そう思っても聞かずにはいられなかった。
「リースは・・・・・ここで俺とずっと一緒に居たリースは？」
ランディは首を振った。
「今はいない。」
「今、は・・・・・？」
「わからない。でも、僕のおやじさンは、リースが死んだといってはいなかった。まだ物語りは続くのだと僕に話していた。・・・・・・・僕は半神。未来を見る力はない。御免、ラルフィス。僕にはわからない。」
「いや、いいんだ。レム！おいで！今から急げば真夜中になる前にフレイス村につけるよ。」
ラルフィスとランディは再会を約束して別れた。レムはあちこちはねるように歩きながら、飛んできた妖精と話したり、とんぼをきったりした。そして息をはずませながらラルに話しかけた。
「おいらさ。村にいったらいろんなことしたいな。」
「どんなことだい？」
「朝起きたら、まっさきに海に出て、お日様が上がってくるとこを見るんだ！それからさ、岩場にいってカニとかいっぱい見つけてさ。浜で漁師のおじさんたちとおしゃべりするんだ。それからさ、絶対やってみたいのが、兄ちゃんと一緒に船に乗って漁に出ることだよ！いっぱい魚を取って、家に帰って、ご飯を食べてお皿を洗って・・・・・」
「なんだ。それって俺が毎日毎日普通にやってることじゃないか。そんなことでいいのかい。」
「おいらはそういうのが好きなんだよ。もちろん遊ぶのはもっと好きだけどね！粉屋のランドンさんところで水車がまわるのを見たいな。セイばあちゃんから昔話をいっぱい聞いて、ミナ姉ちゃんが機織するのも見たい！ロカもラル兄ちゃんみたいに肩車してくれるかな。だったら肩車して欲しいな。」
「ああ、いたずらさえしなければ、あいつは肩車してくれるよ、きっと。でも凄いな。レムは村の人のこと、何でも知ってるみたいだな。」
レムは胸を張った。
「だっておいら、ずっとリースの中から村のこと見てたんだもん。」
言ってしまってからレムは後悔した。ラルの顔がリースの名を出したとたんに曇ってしまったから。
「・・・・・・・・兄ちゃん。リースの・・・・・砕けたリースの欠片、ちょっとでいいからおいらに持たせてくれる？」
ラルは、この小さな友人に心配させてしまったのだと気づき、明るく言った。
「大切に持っていてくれよ〜！・・・・そうだな。レムに持っていて貰うとリースもきっと喜ぶよ。」
ラルは懐から包みを取り出し、レムに差し出した。白い布に包まれ、リースティア王女から贈られたリボンで縛られた大地の妖精の欠片・・・・・・
レムは包みを自分の胸にあてた。
（あったかいよ・・・・・・・・・・とってもあったかいよ・・・・・・・）
熱病でふらつく自分が川に落ち、命を失っていくとき、輝く綿毛がレムの魂を拾い上げてリースの心の中に住まわせてくれた。おぼろな意識であったけれど、レムはそこからずっと外を見てきた。
レムは知っている。父親を亡くしたと思った小さなラルがリースにすがり付いて泣いたことを。何年か前の旅の時、光の精霊の住処でラルがリースの心を救ってくれたことを。そして・・・・・・王都の祭で共に踊った時の輝くばかりのラル笑顔を・・・・・
（おいら・・・・・・おいら・・・・・・）
日もだいぶ傾いてきたとき、レムはぽつりと言った。
「前にも言ったけど、おいら、ラルにいちゃんのこと大好きだよ。」
繋いだ手からレムが震えているのがわかった。ラルはレムの緑の瞳を優しく覗き込んだ。
「心配しないでいい。そうだ！村長様には明日報告に行こうと思っていたけど、今日行こうか！この時間だったら、村についてもまだ皆起きている時刻だから。村長様の所に行って、『これはレムです。俺の弟としてこれからずっとフレイス村で暮します。』って言おう。大丈夫。フレイス村は余所から来た人間を受け入れてくれるところだから。ね、そうしよう？」
集落に着いた時にはもう夜の帳がおり、外を歩いているものは居なかった。
「ほら、まだ村長様の家にはあんなに明るく明かりがついてる。さあ、行こう。」
ずんずんと歩くラルに手をひかれるレムは抱いている白い包みに話しかけた。
（リース。おいらさ・・・・・・・・消えちゃうの怖いよ。でもさ・・・・・・おいらのやぼーはラル兄ちゃんの弟になることじゃなかったんだよね。・・・・・・・だからさ、リース。おいらのやぼーの達成に力を貸してね。・・・・・あんまり長く待たせないでね。おいら・・・・・・おいら・・・・・・・・・・・・・）
村長は、勢い込んで入ってきたラルを驚きの表情で迎えた。
「村長様！夜分失礼します。ただ今戻って参りました！旅の詳細については改めてご報告いたします。今日はこの子を村の者として迎えていただきたくお願いにあがりました。旅で知り合った子です。」
「ラルフィス、無事で何よりであった。そう慌てるな。わかった。仔細はあとでゆっくり聞くとしよう。・・・・・・して、その子はどこの家に住むのかね？」
「どこ・・・・・って、私のうちに・・・・・」
村長は難しい顔をした。
「・・・・・・・・・共に住むというのか？もう祝言はあげたのか？・・・・」
「は？」
ラルがレムを見ると・・・・・そこにレムはいなかった。そこにいたのは一人の少女。リースティア王女に良く似た、しかし王女ではない少女。王女と、フィスと、スレイと、『鶫』と、そしてレムが中にいた、ラルを小さな頃から守ってくれた一人の守護精霊。少女はにこにこと笑った。
「ラル！おかえりなさい！」
ラルは歓声をあげて少女を抱きしめた。
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
それから五年後、フレイス村の若夫婦に男の子が生まれた。
その子が目を開けて、くるくるとよく動くつぶらな緑の瞳を見せたとき、両親は迷うことなく、その子に「レム」と名づけたという。
精霊の花II おわり
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