目次に戻る 「さあ、頑張って行きましょう！」 ランディが勢いよく手に持った紐を振り回しながら元気よく言った。その先にはいつもの金色のハンマーが結び付けられている。一振りで気狂いの野犬が昏倒し、二振りで二頭目の野犬が昏倒し、瞬く間に数頭の獣が山になって倒れ伏した。これが精霊神の子供の力というものだろう。もう隠す必要もなくなったせいでのびのびとその力を開放している。ラルたちは呆気にとられながらもランディのあとについて森を歩く。 「おい、あまり無理するなよ。」 カナンが声をかけた。 「無理はしてませんよ。八百年の間、経験だけは積んできていますから。」 カナンが若葉色の長い髪をかきあげた。 「そうではなくて・・・・」 精霊神の子は立ち止まって微笑んだ。 「カナンは優しいんですね。でも大丈夫です。空元気ってわけじゃありませんよ。あなたたちが僕と同じ時間の流れの中に生きているのではなくても、僕は今がとても楽しいんですから。」 カナンは竪琴を抱えるといくつか和音を鳴らした。不思議だ、と彼は感じた。今まで出せなかった音色を自分は奏でているような気がする。何か新しい曲を生み出すきっかけをつかみつつあるように思う。 それからランディははしゃいで歩いていったが、森の出口が近付くと妙に無口になった。 「さあ、森を出ますよ。・・・・驚かないで下さいね。」 薄暗い森を抜けると、この国の王都へと続く緑の平地が彼らを出迎えるはずだった。 しかし、 リースはその光景をみてペタンと座り込んだ。 緑の草原はそこになかった。火矢を放ったのだろうか、木立は立ったまま炭と化し、投擲武器から放たれた大岩がいくつも転がっている。主のいない槍が地につきささり、馬が、人が、・・・・いや、馬だったもの、人だったものがあちらにも、こちらにも野ざらしになったまま骨だけになって倒れているのだった。カナンすら手で口を押さえ目をそむけるほどの惨状だった。 ランディは黙祷してから静かに言った。 「あなたたちがこの地を離れてすぐに大きな戦いがあったんだ。・・・・この国に攻め込まれていた西の国が最後の力を振り絞って総攻撃をかけたのさ。かれらはここで負ければ自分たちは隷属させられると承知していた。あらゆる武器が使われたらしいよ。弓矢、剣、槍、火、爆薬、毒・・・・多くの命が散った。この国は勝利した。勝利したけれど民の数は戦の前の半分にも足りない。女も、子供も、年寄りも、たくさんの数が死んでしまった。城壁の中でも、逃げる途中でも、たくさん殺された。・・・・西の国はある意味では勝ったんだ。なぜってこの国は、もう、西の国を従えるだけの力をもっていないもんね。今、戦は終わったはずなのに、城壁の中で、争いが続いているらしい。今日処刑された人の敵が次の日に処刑される。・・・・火の精霊神が殺したのよりずっとたくさんを自分たちで殺しあっている・・・・おやじさんは、・・・かあさんもだけど手を出せない。精霊は精霊にかかわりのないところには手をだせないからって・・・・。」 小さな嗚咽が聞こえた。ラルが耳を疑った。 泣いているのはリースだった。いままで泣き言一ついったことのない、その彼女がぽろぽろと大粒の涙を落としながら肩を震わせている。 彼女は焦点のあわない目を前方に向け、泣き続ける。 「どうして？人間は暖かくて優しいものではないの？どうしてこんなことをしたの？どうしてこんなことができるの？人間を信じるのは間違いなの？・・・・どうして？」 ラルはどうしてよいかわからなかった。いつも自分はリースに慰めて貰っていた。リースは彼を力付けてくれた。彼女はいつだって強くて前向きで・・・・ 助けを求めるようにカナンを見やると、カナンも戸惑っているようだった。ラルは泣きそうになりながらも座り込んだリースの隣に跪くと、無言で彼女の頭を自分の胸に抱き締めた。リースの肩の震えが納まるまで彼はそうしていて、それからそっと腕を放して女武人の顔を覗き込んだ。 「リース、立てる？歩ける？火の神殿に一緒にいける？」 リースは無言で小さく頷いた。 カナンが彼女に肩を貸して立たせるとランディに目で合図した。精霊神の子はゆっくりと歩き始めた。ラルはまだしゃくりあげているリースを気にしながら山への道を歩んでいった。 以前に歩んだ道と同じ道のはずなのに、以前より重苦しい空気が立ち篭めていた。ランディも軽口をたたかなかったし、いつも明るいリースはうつむいたまま全くの無言だった。逆にいつも辛辣な口調でしか話さないカナンが皆を気遣って励まし続けていた。 「やあ。」 彼のまわりを舞い踊る火の妖精に彼は声をかけた。 「俺のためにあんなに仲間が焼かれたのに、まだ俺を慕ってくれるのか。俺はお前たちに何一つしてやっていないのに。」 自分の中を流れる血がどんなものであっても彼はそれがどんな意味をもつのか知らない。しかし、妖精たちはそれを知り、それが非常に重いものであると認識している。そんな妖精たちの姿が彼には哀しく思われた。 「盟約とは何なんだ？お前たちは誰と約束したのだ？」 白亜の神殿が見えたとき、カナンは身構えた。リースはまだ魂が抜けてしまったようにぼうっと前を見ており、ラルは以前に彼を焼いた炎の熱さと痛みを思い出して震えを止められなかった。そんな三人を制してランディは前に出た。そして、いつもの明るい笑顔を見せると大声を張り上げた。 「火のおっちゃん！こんにちわ！」 張りのある男の声が返ってきた。 「大切な妹をたぶらかした下賎で無能な人間の子供が何をしにきたのだ。」 ランディは大げさにため息をついてみせた。 「大切な甥っ子にその言い方はないでしょうっ。それに、前にも言ったけど、おやじさんは下賎でも無能でもないし、おやじさんがかあさんをたぶらかしたんじゃなくておやじさんがかあさんにたぶらかされたんですってば。僕と違っておっちゃんは大きな力をもってる。僕のいうことがほんとうのことだってわかっているくせに認めたくないなんて、おっちゃんも人間みたいだね。おやじさんよりずっと人間臭いよ。それに僕はあなたの”大切な妹”の息子ですよ。話くらい聞いてくれてもいいのに！」 「・・・・用件をいえ。」 ランディは手招きして三人を呼んだ。 「人間か！」 火の精霊神はラルたち認めるとすぐ、火の奔流を輪にして四人を囲んだ。地獄のような熱さがすぐさま彼らに襲いかかる。 「水よ！」 ランディが叫ぶと、彼が腰に下げていた水筒から勢いよく水が吹き出して皆を包む霧の珠ができた。 「大地よ！」 続いて叫ぶと地面がせり上がり、炎の上へと上がった。 「おっちゃんの悪い癖だ。すぐに炎でねじ伏せようとする。炎は変幻自在、変化を司る元素でもあるはず。それがどうしてこんなに頑ななんだろう。少しはこの人たちを見てくれてもいいのに。・・・・この人たちは以前に一度ここに来ているよ。おっちゃんに酷い目に合わされたのにまた性懲りもなくやってきた。それがどういうことだかわかるだろう？彼らを受け入れるのも盟約のうちに入るのじゃないかなあ。怒りに我を忘れている今のおっちゃんを見たらかあさんは嘆くに違いないよ。」 火の輪の勢いが弱まってきた。そして、ランディが地面を下ろし、水の珠を水筒に戻すと同時にあたりの全ての火の妖精がカナンのまわりに集まった。 神殿から大きな火の玉が飛び出し、四人の前で弾けて、若い男の姿となった。燃えるような赤い鎧に身を包んだ戦装束の火の精霊神は長く赤い髪をなびかせて近付いてくる。ラルははっとした。彼の顔はカナンに生き写しだった。 「・・・・ランディ。久しいな。」 ランディはまっすぐに精霊神を見据えていたが、はっとしてうなだれた。 「・・・・ごめんなさい。おじさんはこの人たちを待っていたんだね。顔をみればわかるよ。」 精霊神はその端正な顔にほほ笑みを浮かべていた。 「・・・・謝ることはない。以前の私は人間たちの狂気に危うく感化されかけていた。その際にこの者たちに過剰な試練を与えてしまったことは確かなのだ。私の狂気を目の前にしてもひるまなかったその時にすでに試練は終わっていなければならなかったのだ。少年よ。もう体はよいのか。」 優しい言葉をかけられてラルはかえって緊張した。 「は、はい。メレイさん、いえ、地の精霊神様にすっかりなおしていただきました。」 「・・・・あいつがか。ここのところ毎日のように大地の妖精が何かを訴えるように私の前でちょろちょろと踊っていたが、まったくお節介を焼く奴だ。・・・・私は盟約を結ぶとき、やってくる人間に試練を与えると宣言した。四人の精霊神の中で、私はもっとも”盟約者”に近い考えを持っていたからな。ラルフィス、それにカナン、お前たちがここに戻ってきたことにより私は己れの封印を解こう。」 ラルはその手に精霊の花のペンダントを握りしめていた。 「僕は心が壊されてしまった姉のためにここまできました。そして四人の精霊神様全てにお会いしました。これで精霊の花は咲くのですか。どこに咲くのですか。」 武人は首をふった。 「花はまだ咲かぬ。これから先はお前たちにかかっているのだ。我が母なる精霊の故郷へと道を今こそ開こう。」 精霊神が右手を上げると風が起こった。次の瞬間に風の精霊神がその優しい姿を表した。そしてこの間別れたばかりのメレイと水の精霊神もまたその横に現われた。 「四つの封印はいま解かれた。そして最後の封印が現われる。」 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 目の前に光が溢れ、目が眩んだ。涙を流しながら目をこすっていると徐々にあたりが見えてきた。 そこは不思議な世界だった。柔らかな青草が地面を覆い、優しい色の花が咲き乱れている。雪の積もった険しい山稜があたりを囲み、しかし肌に触れる空気は春のそれのように暖かい。タンポポの綿毛のようなものが光輝きながらあたりを舞っている。その光が耳の横をかすめたとき、ラルは笑い声を聞いた。それは小さな妖精だった。 「わあっ！」 ラルが手を差し伸べると妖精は指先に腰掛けて仲間を呼んだ。彼は光の妖精に囲まれて、暖かく満ち足りた気分にさせられた。何人かの妖精が指をさす方を眺めると、人間の大きさをした光輝く美しい精霊達が小さな妖精と一緒に楽しく語らっていた。その姿はラルが小さな頃に出会ったあの精霊の花の精霊に生き写しだった。思わず駆け出して彼等の前に行くと、ラルを歓迎するように微笑んでくれた。よく見ると、あの花の妖精とどこか違ってはいたが、美しい容姿、透き通るように白い肌、輝く金の髪は全く同じ装いだった。振り返ると、竪琴を手にしたカナンがラルと同じように小さな妖精たちの歓迎を受けているところだった。 「カナン！リー・・・・」 もう一人の道連れの名を呼ぼうとしてラルは立ちすくんだ。リースは確かにそこにいた。しかし、光の妖精たちは彼女のそばにはおらず、むしろそこから遠ざかろうとしているのだった。そして、ラルの目の前にいた人の大きさをした精霊たちも、まるでいやなものに出会ったかのように彼女から目をそらすのだった。 「リース。」 幸せな気分は一瞬で吹き飛び、ラルはリースの側に駆け寄った。 「リース、この光の妖精たちはリースの目に見えているの？」 リースは固い表情のまま頷いた。 ラルは小さな妖精と大きな精霊に呼び掛けた。 「どうして？どうしてリースを嫌がるのです。リースは僕達の仲間です。ここに来るまでに僕のことをずっと助けてくれました。優しくて強い人です。」 大きな精霊の一人がラルの側に来て、優しく髪を撫でた。 「あの子は汚れていますから。」 「どうしてです。リースがどうして汚れてるんです！」 「・・・・あの子は、大切なことを捨てたのです。」 何人かがそれに加わった。 「清いものを捨てて地上のものを選んだから。」 「剣を手にしたから。」 「獣の肉や血を食べたから」 「命を育てずに殺したから。」 「・・・・あの子を慕う小さな命をないがしろにしたから。」 リースは何も言い返さずに青ざめていた。 かわりにカナンが怒気を含んだ声で言った。 「こいつが汚れているわけはない。異形のものから身を守るためには剣を手にして戦わねばならなかった。獣を狩ってそれを食わねば生きていけない。俺はこいつの何倍も汚れている。生きるためだとはいえ、何人もの娘を騙して金を手にしてきた。そんな俺を受け入れ、なぜこいつを受け入れないのだ！」 妖精は静かに言った。 「人間は不完全な生きものです。私たちはその弱さを受け入れ、そして導いていきます。でも、あなたの横にいる存在は人間ではありません。」 それはカナンやラルにとっては初めての言葉ではなかった。しかし、リースにとっては、それがラルたちに知られるのが初めての言葉だった。彼女の頬に涙が一粒こぼれ、次の瞬間、彼女はだっと走りだしていた。 「リース！」 ラルとカナンはすぐに追ったが、俊足の彼女をすぐに見失ってしまった。 「手分けして探すぞ！」 「うん。」 この清浄な楽園で、本来ならばやることは他にあるはずだが、リースを放ってはおけなかった。沢山の小さな妖精が歓迎してくれるのを心ならずも無視して二人は走った。そしてやっとカナンが彼女を捜し当てたとき、彼女は小さな小川の岸でじっと水面を眺めていた。彼女はカナンを見付けると怯えて逃げようとしたが、カナンに語気荒く呼び止められた。 「止まれ。メレイ様からなんとなくは聞いている。俺はもう疲れた。走りたくない。逃げるな。」 ほんとうに疲れていたカナンはびくびく震えているリースの隣にどっかと腰を降ろした。 「お前は汚れちゃいない。精霊達がなんと言おうと俺よりは汚れちゃいない。それにお前が人間だろうとそうでなかろうと関係はない。ここにいる奴らより、ずっと長い時間俺達はお前と一緒だった。お前のことはあんな奴らよりよくわかっているつもりだよ。リース。・・・・俺を信じろ。何を怯えているのかわからないが、こんどは俺とラルがお前を守ってやる。」 リースは泣き笑いのような表情を見せた。 「ごめんなさい。私にはわからないの。私はラルもカナンも大好き。でもわからない。もう、人間を信じてよいのかわからなくなってしまったから。私がしたことが間違っているとわかったから。」 そこにラルが息をきらせてやってきた。 「カナン！リース！」 するとまたぽろぽろとリースの目から涙がこぼれた。 「ラルフィス、ごめんなさい。私は知らなかった。あなたと山の上から見た、街を包んだ大きな火がどういうことなのかを。あそこではたくさんの人間が殺しあっていた。麓で見た恐ろしいことと同じことが起こっていた。あなたのお兄さんたちはあそこにいたのに。・・・・知っていたらあなたをつれていったりしなかった。あそこの命を助けるために妖精たちと一緒に働くべきだった。」 リースが小さな子供に見えた。ラルはリースの片手をとり、両手でそっと包んだ。 「リース。・・・・リースはあのときの精霊様なのでしょう？小さな僕をなぐさめてくれた、そしてペンダントをくれた精霊様なのでしょう？」 リースは顔をあげた。 「どうしてそう思うの？見かけも何もかも似ているところなどないのに。」 「リースは村でのファナ姉さんのことや僕の家族のことをよく知っていた。・・・・ランディにこの間言われたんだ。リースが人間じゃないって。だから僕は考えてみた。そうしたら思い出したんだ。僕が初めてリースに会ったときのことを。全然似たところがないのに、僕はリースを精霊様と間違えた。僕はあのとき姿を見てそう思ったのじゃなくってきっと何かを感じたんだ。僕の心が同じ人だって感じたんだ。リース。違う？精霊様なんでしょう？」 リースは小さく頷いて肯定した。 「どうして僕と旅をしてくれたの？」 「・・・・ここは私の故郷。・・・・そして、十六年前、私は土地の守護精霊として、ラルフィスの村がある地方に向かったの。私はまだ生まれたばかりで何も知らない子供だった。兄弟たちの中には、もうすでにここを出て仕事をしてきたものもいたから、外の世界のことは少しだけ聞いていた。鳥や虫の歌う美しい音楽や、小さな妖精の愛らしさや、私たちによく似た姿の人間のことや・・・・人間については、警告されてた。精霊の世界に脅威を及ぼす唯一の生きものが人間なのだと。 私は風にのってわくわくしながら任地に向かっていた。みどりの丘、森、川、全てが美しく見えて幸せだったわ。途中からは妖精の子供たちも私のそばにまとわりついて楽しい話を聞かせてくれた。 そうしたら、今まで聞いたこともないとても素敵な音楽が聞こえてきたの。」 「音楽が？」 「ええ、それがフレイス村のあなたの家からだった。まっすぐに家に入ると、目にはみえないけれど私たちには感じることのできる幸せがそこに溢れていて、あなたがお母さんに抱かれて泣いていた。私の聞いた素敵な音楽はあなたの産声だったの。私が任について初めにしたことがあなたに祝福を与えることだった。本当は私が護る土地全体に祝福を与えることが先でなければいけなかったはずだのにね。・・・・それから時々様子を見にいったけれど、あなたは幸福そうだった。いろいろな妖精に愛されて、家族も互いに信頼しあっていた。・・・・私が守護する土地は、あのような幸福が満ちていて欲しい、そう私は願ってた。そんなときあなたのお父さんが海でなくなって、いてもたってもいられなくなって、私はラルフィスを慰めにいったわ。それから先も、風と一緒にあなたと追いかけっこしたり、夏の草原を朝に歩くとき、冷たい露をおいてはしゃぐ様子を眺めたり。私の力のおよばないところで何か恐ろしいことがはじまりそうだったけれど、私が祝福を与えたこの子だけは守るんだって誓いをたてていたの。精霊が初めに祝福を与えるということは絶対の誓いをすることと同じなの。 でも、守れなかった。黒い霧が、世界の果ての方からやってきていて私が守護する土地の一角に異形のものを飛来させた。・・・・その怪物にラルのお姉さんが襲われた。あなたの涙が私にはつらかった。お姉さんのことは、異形のものを侵入させてしまい、それに気付きもしなかった自分のせいだったから・・・・だからあなたが精霊の花を捜すのを手伝おうと思った。でも、わたしは守護する土地を離れてしまうとほとんど何も力を発揮できない。だから・・・・」 「だから私に願いを託したのでしたね。」 優しい声がした。三人はそこに、光り輝く美しい女性を見付けた。 「この子は故郷に戻り、精霊の母である私に頼みました。人間にしてくれと。人間の中でもっとも優れた体と、様々な技能と、強く、他のものを守れる力をくれと。・・・・それは精霊としてでも大きすぎる望みでした。その代償にこの子はは精霊としてのすべての力を消されました。いいえ、それだけではなく、守護精霊の友である妖精と一切のかかわりができなくなったのです。」 リースはうな垂れて泣いた。 「幼い精霊よ。どうして泣いているのです。後悔はしないとあの時にあなたは言ったではありませんか。」 「わからなくなりました。人間はやはり恐ろしいものなのかもしれません。私は命を紡いで回す力をもった精霊の体を捨てて人間になりました。それが正しかったのかどうかをこんなに悩んでいます。あの土地に留まって妖精の子等と共に本来の役目、命を紡いで回す役目をしていればよかったのではないかと恐れています。そして、守り通すと誓いをたてたラルをこんなに心配させています。」 輝くの精霊はリースを立たせるとそっと彼女の髪を撫でた。 「可哀相な子。傷つき、壊れかけている。・・・・一度精霊としての命を捨てたあなたにはもうここに居場所はありません。しかし、あなたが選んだ人間としての存在も捨てたいのであれば、道は一つ。・・・・今の命を捨てて、輪廻の輪にはいりなさい。つらい想いをすべて忘れ、数百年ののちに浄化されて新しい精霊として生まれかわるのです。・・・・それまで私があなたを見守っていますから。」 精霊がこっくりと頷きかけたとき、ラルはリースの体を抱いて輝く精霊からもぎはなした。 「いけない！」 リースはもんどりうって倒れた。それを守るようにラルは輝く精霊との間に入って抱き締めた。 「リースは精霊として間違いをしたかもしれない。でも、僕を守ってくれた。今度は僕が守る！」 輝く精霊は微笑んだ。 「幸せ者ですね。」 光の精霊が誰に向かってそれをいったのかがわからなくてラルはカナンを振り返った。光の精霊は微笑んだ。 「小さな子、あなたは幸せ者。こんなにあたたかな強い命が近くにいるのにどうして人間を信じられないの。」 リースは目を閉じた。そしてラルの胸に頬を寄せた。 （あんなに小さかった子供が、私を支えている。私が抱き締めた小さな体が今は私を守ってくれている。・・・・ほんとうに暖かくて汚れのない命。私よりもずっと精霊に近い命・・・・） ごし、と彼女は手で涙をこすり、笑った。 「母さま。私は誓いを果たします。ラルと共に行ってラルの願いを叶えます。」 輝く精霊は頷いた。 「あなたは誰なんです？」 カナンは光の精霊に向かって問うた。 「もしかして・・・・」 輝く精霊はカナンの心を読んだようだった。 「ええ。私は光の精霊神です。すべての精霊の母といわれています。」 古い古い歌。歌詞も旋律も断片しか残っていない歌に光の精霊が唄われている。その短い旋律はどうということもないもののはずなのにカナンははっきり覚えている。 「精霊の母なる精霊神・・・・それはあなたが最上位の精霊であるということですか。」 吟遊詩人の問いを精霊神は否定した。 「私はただ、母であるだけです。あなたたちのいう母とはまた違いますが、子供たちを育てるのが私の役目。子供たちは成長し、やがては母となる者もありましょう。母と子、どちらが上位であるはずもありません。」 小さな光の妖精たちが再び舞い始めた。やはりリースの周りに行こうとするものはなかったが、リースはラルに身を寄せたまま、今度はしっかりと顔をあげていた。そしておだやかな眼差しを、自分を忌み嫌う妖精に向けていた。人の大きさをした精霊たちが自分を見てひそひそと話しているのも目をそらさずに見た。 「母さま。教えて下さい。私たちの進むべき道を。どうしたら花は咲きますか？何がまだ足りないのですか？」 母なる精霊は遠く険しい山稜の向こう側に目をやった。 「・・・・私の双子の兄があそこで待っています。彼が盟約の主人となり、四人の精霊を封じた本人です。・・・・盟約は賭けでした。そしてあなたがたはその賭けに打ち勝ってここまできたのです。来るはずだったのは屈強な戦士であり、人間としての知恵を集積した老いた魔道士だった。彼らだったらすぐ来るはずだった。でも長い間誰もこなかった。容易いはずなのに誰も来なかった。来たのはあなたたち。世界を救おうとする勇者ではなく、姉の命を救うために花を求める少年と、自分に与えられた枷で仕方なく詩を集め始めた吟遊詩人。そして、ただ一人の子供を守ると誓ってしまった幼い精霊。あなたがたは兄と対峙できるでしょうか？・・・・私の言っている意味があなたにならわかりますね、カナン。ここは平和で穏やかです。ゆっくり休んでいきなさい。そして決心がついたら、あなたたちがやってきた場所に来なさい。」 精霊は消えてしまった。 カナンは大きくおおげさに息をついて、仰向けに寝転がった。 「リース、お前が元精霊だからって、何かがかわるわけじゃないからな。・・・・いつまでもラルにしがみついているなよ。ラルも震えがきそうなほど心細かったんだからな。」 リースはそろそろとラルから離れて、逆にラルを軽々と抱き上げて近くの大木によりかからせた。 「嬉しかった。ラルが守ってくれたこと。」 かあっと血が顔に昇ってラルはどぎまぎした。今のリースははかなげで、綺麗で・・・・ カナンが欠伸をした。 「・・・・ラル。一応釘刺しとくが、こいつ、人間じゃなくて精霊なんだからな。ところで、リース。光の精霊神様の双子の兄は伝承に出てくる通りやはり闇の精霊神なのか？」 リースは頷いた。 「闇の精霊神様？カナン、その方は何を司っていらっしゃるの？」 カナンは竪琴で哀しげな旋律をつまびいた。 「俺達の身近にあるものさ。どこにでもあるもの。”安らぎと死”さ。」 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 光の精霊神は、三人がすぐにやってきたことに驚いた。 「だっていかなくてはいけませんから。ファナ姉さんが僕を待っているから。」 「俺は五人の精霊神に会った。残る一人に会って、それでも精霊の花の詩が歌えなかったら、故郷の村の人間に文句の一つも言ってやらなくてはな。」 「あたしはラルを守る。ついでにカナンも。」 ”死”を司る精霊神。四人の精霊神を盟約のもとに封じていた精霊神。この若者たちは恐れはあっても引き返そうとなど微塵も考えてはいない。 光の精霊神はカナンの竪琴に手を置いた。竪琴が淡く光る。 「これから進む地は暗い場所が続きます。その光は消えることがありません。あなたが先頭を行って下さい。森の妖精に愛され、火の精霊神と同じ血をひく子。ラル、あなたは真ん中に。守られているからできることもあるのです。リースという名をなのる精霊の子、あなたは大切な人たちの背中を守りなさい。送り届けたら私にはお手伝いができませんから。」 精霊神の発する光が三人を取り巻いた。暖かく懐かしい空気が体を包む。 「行きなさい。頼みます。兄を・・・・」 精霊の言葉は途中で聞こえなくなった。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 三人が飛ばされたのは、荒涼たる荒野だった。空に太陽はない。月も、星もない。だからといって雲があるわけではなかった。闇夜ではないがかなり暗い土地に、幹がねじくれた低木がそこここに生えている。鳥も虫もいない。しかし、何かの気配が辺りに満ち満ちていた。 「何だ。ここは。普通の場所じゃないな。」 リースがカナンを制して前に出、剣のつかに手をやった。 素早く剣が一旋される。 ザシュ。 彼女の剣で、小牛ほどもあるぬめぬめした肌のなめくじの形をした”異形なるもの”は絶命した。 「気をつけて。変だよ。なんだか霧を切っているみたい。」 カナンは呪文を唱える準備をし、ラルは槍の穂先の鞘を外した。 どのくらい歩いただろう。 どちらに進めばよいのかもわからない中で、三人は三十を越す異形のものを屠った。 「休むか？」 カナンが言った。 風景は変わらない。時間感覚もはっきりしない。それでも疲労と空腹の具合から、もう夜の時刻だとそれぞれが感じていた。苦労して薪を集め、火を燃やし、食料を荷から引っ張りだす。 腹が満たされるとカナンが竪琴を弾き始めた。ラルが歌う。リースは笑って軽くステップを踏み始めた。と、小さな姿が地面から頭をもたげた。黒い小さな丸い目をした大地の妖精がたった一人だったけれど現われたのだ。どんなにねじくれて枯れそうな木でも、そこに動物でも植物でも命があれば妖精が住んでいる。現われた妖精はひょろりとして生気がなかったけれど、楽しげにカナンの琴にあわせて踊り始めた。カナンとラルははこの痛々しい孤独な妖精を見つめていたが、やがて顔を見合わせた。踊りを続ける妖精がみるみるうちに元気になっていく。ビーズのような目が輝き、がくがくしていた足もしっかりとなった。そして仲間も加わった。風の妖精と、何かわからないが大きな帽子を被った妖精。彼らは先客の大地の妖精に混ざって踊り始めた。 元気になった妖精たちは、カナンの竪琴が発しているのと同じ光を発し始め、彼らが歩いた場所だけが、昼の明るさになった。妖精が見えないリースもラル達に何が起こっているのか知らされて歓声をあげた。 が、妖精たちは瞬時にいなくなった。 重苦しい空気が三人を取りまいていた。黒い霧が四方から迫り、襲ってこようとしている。大きく虚ろな一つ目の黒い球体がこちらを見つめている。 （哀しい） リースは感じた。 （殺気じゃない。悲しみだ。） ラルとカナンも感じていた。これはいつか、ラルとカナンが二人でいたときに彼らを静かに囲んできた、あの”異形のもの”と同じ感触だ。 カナンが琴を鳴らした。 黒い霧は、その輪を縮めるのをやめた。 カナンが合図し、ラルが歌った。それにリースが踊りをつけた。 ”異形のもの”が楽の音をじっと聞いている。リースの舞をじっと見ている。信じられないことだったが本当のことだった。カナンが突然琴をやめた。と、”異形のもの”は急に咆哮をあげて襲ってこようとした。カナンが再びひき始めるとまたじっと聞き入る。 彼らに攻撃をさせないためにはずっと奏で続けるしかなかった。 どれくらいたったろう。カナンの琴の弦が一本切れた。彼は残った弦を鳴らしながら弦を張り替えた。ラルの喉ががりっと嫌な音を感じた。どれだけ攻撃をしようとしたかわからない。しかし周りに集まった”異形のものの密度の濃さがそれを思い止まらせていた。これだけの数がいては、カナンの火球とリースの剣技をもってしても勝算は小さい。 ラルの喉が完全に枯れた。カナンはラルに伴奏させて自ら歌った。ラルが弾けるのはフレイス村で習った曲がほとんどだ。カナンは童歌を歌った。素朴な、奇も衒いもない曲。単純な歌詞がはりのあるカナンの声に乗って薄暗いこの世界に響いていく。漁の音楽、祭りの音楽、結婚式に弔いの音楽。日常を歌いあげた生活の歌。ゆっくりとリースがふりをつける。感じたものがそのまま動作になる。だからリースの舞は生きている。 「あ・・・・」 リースが小さく声をあげた。 ”異形のもの”が変調をきたしていた。彼らはその触手や手足が動かなくなったかと思うと、次の瞬間には砂になって崩れ落ちていく。あちらでも、こちらでも。そして三人のまわりには、大量の砂が残っているだけになった。リースは砂を一掴み手に握り、指の間から落とした。 （哀しくない。喜んでいる？） 砂がギシ、と音をたてた。ぎくっとする三人の前でゆらりと淡い光るものが何十も一斉にのびあがった。 それは人間の霊だった。多くは兵士たちだった。兜をかぶり、鎖帷子を身につけ、体には戦場で受けた傷が生々しく刻まれている。彼らの他に女や子供、老人たちもいた。彼らの体にも刃物の傷が刻まれている。火傷で皮が剥がれてしまったもの。毒でも飲まされたのかどす黒い斑点ができているもの。彼らはしばらくすると薄れていって消えた。 「異形の者は死んだ人間のなれの果てなのか。」 カナンが呟いた。先程見た霊魂の身につけていた服は、驚くほど多様であった。国も、時代も様々な、ただ一つの共通点を持った・・・・ 戦で殺された。 ただそれだけが同じ魂達。 先程消えた妖精たちが戻ってきた。彼らはラルの持っている竪琴にしっかりとしがみついた。 「カナン・・・・僕らが怪物だと思っていたものが、本当は怪物でなかったのだとしたら・・・・あれが本当は人間なのだとしたら、どうすればいい。どうやったら救える？」 吟遊詩人は目を閉じた。さやさやと音がする。再び異形の者が集まりつつあった。 「試してみたいことがある。リース。もしも奴らが襲ってきたら、襲ってきた奴だけ追い払ってくれ。」 そう言うと、彼は伴奏なしで歌い始めた。 それは先程までとうって変わった古い英雄譚（サーガ）だった。悪辣な王を追い、平和を打ち建てた英雄。蛮族の侵略から、自分の剣をもってして自国を守り騎士たちの物語。知略をもって難攻不落の砦を陥落させた賢者。 （違う。） 誰かが言った。 （彼こそが悪。無意味な粛清で数百人の命が失われた。） （違う。） 別の誰かが言った。 （彼らは殺した。敵国の私たちを。私たちも殺した。彼らの民を。たくさん死んだ。平和などなかった。骸だけがあった。） （違う。） また別の誰かが言った。 （唯一の水源に毒が流された。体中から血が吹き出して止まらなくなった。あの苦しみ。あの痛み！） 異形の者達の怒気を肌で感じながらもカナンはサーガを歌い続けた。 （・・・・忘れない・・・・） 初老の女性の霊魂が凛と背筋をのばして立っていた。彼女は服装から見て聖職者であった。 （私は、開城すれば、命は取らないという彼らの言葉を信じました。民のためだと思ったからこそ彼らを導き入れました。） カナンには女性が誰なのかわかった。彼女こそが歌に歌われてきた”嘆きの聖女”であった。攻め込まれた時、為政者であった彼女は敵の言葉を信じて開門した。しかし征服者はいとも容易く約束を破り、男たちをすぐに殺し、女たちはなぐさみものにした挙げ句同じように殺した。聖女はその首を落とされ、一月の間城門の上にさらしものにされ、嘲笑われたという。 （信じるべきでなかった。彼らを。） 彼女の声に唱和するように声達が重なった。 （信じられない。もう。） （過ちをまた繰り返す。） （滅びてしまえ。） （そうだ。滅びてしまえ。） （お前たちには生きている資格がない。） （殺してやる。） （我らと共に消えてしまえ。） カナンにはわかった。彼らは人間だった。そして人間に殺された。殺されたとき、彼らは人間に絶望した。人間を憎んだ。そして、その想いが醜い姿で異形の者として彼らを生まれ変わらせたのだ。そうラルとリースに説明すると、ラルは首を振った。 「カナン。まだこの人達は信じようとしているよ。人間の中にある美しいもの、善いものを捜そうとしているよ。でも、なかなか見つからなくて、そして見付けても手が届かなくてだからきっと・・・・僕にはわかるよ。母さんから貰った妖精の血が僕に教えてくれてるよ。」 だがしかし、霊魂たちは醜い異形の者の姿に戻り、理性を失った。唸り声をあげた。虫のようなもの。蝙蝠のようなもの。ありとあらゆるおぞましい形がそこに陳列されていた。霊魂はラルたちを羨んでいた。そして憎んでいた。 （哀しい） 精霊の力を全て失っているリースと名乗っている精霊は俯いた。 （どうすればいい。） 精霊はラルを守るという誓いのために自分が守るべき土地と小さな妖精達をないがしろにした。しかし、精霊の心は汚れてはいなかった。命を紡ぎ、命をまわす。それが精霊の仕事。それが精霊の存在する意味。 カナンがサーガではなく森の歌を歌った。 異形の者が止まる。 ラルが伴奏を付ける。必死に指を動かしてありったけの技を使って弾き続ける。 リースは俯いたまま首を振る。 これじゃ駄目だ。また幾つかの霊魂を救えたとしてもいつまでもカナンとラルの体力がもつ訳はない。このままじゃ守れない。カナンもラルも守りきれない。 （どうか。どうか、精霊としての力を一度だけ！） リースは立ち上がり腕を広げた。 フレイス村の近くの野に立って呼ぶと可愛い小さな妖精たちが自分の元に集まったものだった。小さな、でもそれぞれに魂を持った無数の存在が。その妖精たちを彼女は捨てた。精霊を慕っていたのに捨て去った。 またここで 同じことはできなかった。 リースは言った。 「哀しい魂。こっちに来て。抱き締めてあげるから。暖めてあげるから。」 彼女の、子供のように無垢な魂が無防備に差し出された。と、異形の者達の意識が先を争うようにその清浄な場所に飛び込んできた。彼らは平穏が、清い場所が欲しかった。そして彼らの持っている哀しい記憶を吐き出そうとした。はむせ返るような血の匂い。正視できない数々の光景。 だが、暗い混沌の魂達はリースの魂を食らうことはしなかった。いや、できなかったのだ。彼女には人間の感情が欠けていた。憎しみや絶望や欲望が。真っ白すぎて食らいつく場所が捜せなかった。 霊魂たちを取り入れてリースは倒れた。 「連れていって・・・・あげるからね。母さまのところまでいけば、もう恐がらなくても悲しまなくても大丈夫だから。必ず連れていってあげる・・・・」 精霊だったならそれは可能なことだった。しかし、今の彼女の人間の肉体がそうすることの邪魔になっていた。魂を運ぶには精霊のような霊的存在にならなくてはならない。 そう。肉体を滅ぼせば人間も霊となる。 リースは苦しさに脂汗を流しながら、剣を支えにして身を起こした。そしてすらりと剣を抜いて切っ先を自分の喉に向けた。 「馬鹿！」 カナンが渾身の力をこめて、剣を奪った。 リースは懇願するように彼を見上げる。 「時間がない。・・・・どんどん大きくなっていく。私の心じゃ押さえられない。こんなに大きな哀しみ。こんなに大きな怒り。私の心が知らない黒い何かで破裂してしまいそう。そうなったらまたさっきと同じ・・・・私が魂だけになれば私が狂う前に母さまのところにこの人たちを運べる。眩しい光で浄化して貰える。ああ、もう私は・・・・なんだか・・・・私が私でなくなっていく・・・・お願い、カナン。私を殺して。この人達を助けるために、そして私があなたたちを護れるように。だからお願い。」 ラルは震えていた。震えていたが指は正確に弦を弾いていた。 フレイス村の子守歌。 小さな時にシーラに歌ってもらった歌。それはリースと名乗る精霊が一番初めに耳にした曲だったはず。だって幼い精霊はいつだってラルのそばに居ようとしたのだもの。 さっき、歌で異形の者達は浄化された。だから、他に何も考え付けない今は歌ってみるしかなかった。 守る。絶対に守る。 真珠は貝に守られて大きくなる。貝が砕ければ真珠も砕ける。リースが砕けるなんて考えたくない。 この曲ならリースの心に届くでしょう？届くでしょう？聞いて。壊れないで。僕が護るから。 カナンが澄んだ声で歌を被せた。 波が寄せ、波がひく。貝が揺れる心地よく。揺りかごはゆっくり揺れる。揺すっているのは母親か。優しい眼差しは子供に向けられている。 彼女はこの小さな命を待ち焦がれていた。そしてこの小さな命に幸あれと祈っている。この世の中には無駄に生まれた命などない。命は紡がれ回っていく。精霊がするのと同じように人も命を回していく。 そう、だれもが護られていた。誰に？母親に？そう。でもそれだけではない。そよ風に、せせらぎに、暖炉の火に、豊かな大地に。そして陽光に更に夜の静寂に。そういったものに囲まれて誰もが生きている。それはあたりまえのように与えられている幸。意識されないが人は世界に護られて生きていく。 聞いて。聞いて。護ってあげる。 だから、だから・・・・ そして何かの気配がすうっと消えた。 カナンはぎくっとして大きく目をあけた。 「リース？」 リースは目を閉じていた。 「リース？リース！」 叫ぶと死んだように目を閉じていたリースが起き上がって微笑んだ。そのリースに背を叩かれて、ラルはきょとんとして必死で続けていた演奏をやっと辞めた。 「皆眠ったよ・・・・」 それが彼女の中にいた霊魂のことだとわかるのにしばらくかかった。 ラルが安堵で泣き始めるとリースは乱暴にその頭を撫でた。 「何で泣くの？恐いことは終わったじゃない？・・・・カナンとラルの歌が聞こえたよ。そしたら苦しかったのがすうっと楽になって・・・・楽になったら、私の中の人たちが驚いているのがわかった。」 「何で驚いて居たんだ？」 リースはくすっと笑った。 「私の心がとても暖かくて静かになったのよ？そんな場所にいるなんて、あの人たち久しぶりだったんだから！そして思い出したのね。今はこの世界を滅ぼそうとしている自分たちが、昔はこの世界が大好きだったってことを。」 と、びろうどの黒いドレスを纏った妖精たちが一斉に出現した。ラルが叫ぶ。 「何？何が起こったの？」 その目の前にすうっと漆黒のマントをはおった黒髪の青年が現われた。 「それは安らぎの妖精。私の友。」 闇の精霊神は抑揚無くそう告げた。 ラルは進み出て深々と一礼した。 「精霊神様！私たちはここで何をすればいいんですか？精霊神様は、なぜ死んだ人たちの魂を異形のものにしたのですか！」 黒づくめの青年は首を振った。 「私が異形のものをつくったのではない。・・・・あれは我ら精霊の意志に反してこの世界に生まれ出てきた。人間を滅ぼそうとする人間の意志。清いものを求めながら、汚辱に走る愚かな命・・・・お前たちに聞きたい。なぜあのようなものが生まれるのか、と。」 神は無感情に語り続ける。 「私は彼らを私の庭であるこの地に囲いこんだ。彼らを浄化することは容易かった。しかし、私は疑問を持った。血塗られた行為を繰り返し、挙げ句にこの世界の全ての命の脅威になるようなものを生み出すもとになる「人間」の存在そのものを。 私は四人の精霊神と盟約を結び、人間を試すことにした。・・・・私の庭まで来て、更に異形のものに立ち向かう意志ある人間が現われなかったなら、囲い込んでいる異形の者をすべて解放することを。そしてそのとき人間が滅びていくのなら、それが運命だったとただ静観するということを。 風は人間を信頼しておらずしかし滅ぼしたくなくて反対していたが折れた。大地と水は人間を信頼して受け入れた。火は信頼しているわけではなかったが受け入れた。 ・・・・そしてお前たちが来た。 お前たちはやってきて、立ち向かった。立ち向かったのみならず、浄化したのだ。それがどんなに大きなことなのかお前たちにはまだわからないだろう。小さな子供たち。お前たちは人間の身でありながら、精霊とおなじことをしたのだよ。 私はこの私の庭で彼らを浄化することにしよう。しかし、この庭の外にいる異形のものをすぐに私や私の妖精たちが浄化できるわけではない。だからここを去ってもお前たちは立ち向かわなくてはならない。」 ラルは首を傾げた。 「・・・・終わったのですか？僕の旅は。」 精霊神は頷いた。 「少年よ。今回のお前の旅は終わったのだ。」 「咲くのですか？精霊の花は。」 「盟約は解かれた。四人の精霊の力が揃えば、花は咲くべき季節、咲くべき場所に現われるだろう。」 少年は歓声をあげ、リースがそれに抱きついた。カナンが一人精霊神を睨み付けていた。 「神よ。私たちは確かに至らない生きものかもしれません。しかし、他の生きものと同じように精一杯生きています。」 「ああ。わかっているつもりだ。・・・・私の仕事はすべての生きものに安息を与えることなのだから。さあ、帰っていくがいい。お前たちが何をしたのか、誰も気付かないだろう。お前たちが帰っていっても世界はまた争いをおこすだろう。しかし私は誓う。今しばらくはお前たちを信じてみると。少年よ、故郷に帰りなさい。そして幼い精霊だった者よ。少年を故郷に送り届けなさい。お前の仕事はまだ終わっていない。・・・・お前はお前の土地にいってするべきことがあるはずだ。」 あたりが淡い光で満たされた。そして、大きな手で掬いあげられたと思ったら、三人は明るい日差しの中に立っていた。 そこは火の神殿の前だった。三人は呼び掛けてみたが、火の精霊神も、ランディも現われることはなかった。火の妖精だけが嬉しげにカナンに寄ってくる。 吟遊詩人は気取って竪琴を鳴らした。 「どうやらここが帰り道の出発点らしい。そして、精霊神達は送ってくれる気持ちはないらしい。ラルフィス、行くぞ。まっすぐ行けば花の季節にはお前の村につけるだろう。」 三人は以前と同じように旅を続けた。やるべきことはやった。そして行くべき場所は決まっている。些細なことでリースとカナンが喧嘩しラルが仲裁する。そんなのどかな旅がまた始まった。戦が終決した今、中央街道の往来は安全なものとなり、乗り合い馬車が通っていた。路銀を殆どはたくことになったが、その大きな六頭だての馬車に乗ると、何週間もかけて歩いたその道を瞬く間に通過して行くのだった。野宿した場所。老人を弔った場所・・・・馬車を下りて旅を重ね、水の町ウァスタに着いたのはもう冬であった。ここでも精霊神には会えなかったが、水の妖精はラルをよく覚えていて歓迎してくれた。 前の領主はその地位を失っていた。前の領主に追放されていたその弟が現在の領主であり、町は以前より住みやすくなっているようだった。 雪の積もった山は越えられない。三人はこの町に逗留し、雪解けと同時に出発することにした。カナンは酒場で日銭を稼ぎ、リースは山に仕掛けたウサギ罠を毎日見て回った。ラルはカナンを手伝ったり、リースを手伝ったり、木を削って細工して細々ながら収入を得た。 雪が融けた。 旅の終わりはすぐそこだった。風の神殿を通り、王都に続く森へと入った。 そこでカナンは王都への道ではなく西へ抜ける道を取ろうと提案した。もしも王都がひどい有様であったら、それをラルに見せたくはなかったし、一刻も早くフレイス村でラルを待っているはずの母親と病気の姉に会わせてやりたかったからである。 春は森に満ちていた。ラルが出発したときと違って風も空も生き生きとしている。そこここに春を告げる小さな花が咲いている。 ラルはドキドキしていた。闇の精霊神は、花は咲くべき季節、咲くべき場所に現われる、と言った。そしてラルの旅は終わったのだと請け負った。この西に続く森の道はフレイス村のそばでなだらかな丘陵地へと抜ける。きっとそこにあの精霊の花が咲いているに違いない。そうだ。そしてその花を持っていけばファナ姉さんは元どおりになれるんだ。・・・・でも、もしも花がなかったら・・・・？ 不安と期待で胸ははりさけんばかりだった。 ・・・・そして、実際に丘陵地の有様を見たラルはペタンと座り込む羽目になった。 リースが涙した光景ほどではないが、ここにも戦火のあとがありありと残っていた。気持ちのよい柔らかな緑の草がその傷跡を覆うようにまばらに生えてきていたが、精霊の花どころか、花は一つとして咲いていなかった。 「おい、気を落とすな。もう少し歩けば花の一つ位きっと見つかる。それに、お前の村はまだまだ先だろう。村そのものは無事に違いない。」 カナンの目の前を小さな妖精が飛んでいた。彼は両手でそっと捕まえると尋ねた。 「教えてくれないか。精霊の花はどこに咲いているんだ？」 妖精は首を傾げた。 「精霊の花？どこにも咲いていないわ。」 カナンは他の妖精も捕まえてみたが、答えは同じだった。妖精は悪戯者だが嘘はつかない。ラルはうなだれた。 「咲くべき季節、咲くべき場所って、ここじゃないのか？昔はどこにだって咲いていたっていうのに。この土地では精霊の花の種は死んでしまったのか？そんな・・・・僕は何の為に旅をしたんだ？これじゃ姉さんを助けられない。一体何の為に・・・・」 リースが後ろからラルの肩に両手を置いた。 「大丈夫、大丈夫。」 にっこり笑う。 言聞かせるように話す。 その言葉は、今までのリースのものと口調が変わっていた。 「闇の精霊神様は、お別れするとき、私の仕事はまだ終わっていないとおっしゃいました。きっとこれが私の仕事です。ラル、聞いて下さい。死んでしまった命はもとにはもどらないのです。でも、新しく命を作ることはできます。私、花をつくります。精霊様の力が世界に戻ったのですから。花を咲かせる準備はできているのです。花をつくったらお姉さんは助かるしラルは笑ってくれるでしょう？私は誓ったのですから。ラルを護るって。その誓約は私が精霊の体を捨てた今でも生きています。」 ラルはリースの手に自分の手を重ねた。ひやっと冷たい感触がした。嫌な感じが胃の奥から昇ってきた。 「リース、どうやって花をつくるの。そんなことができるの。」 リースはラルの首からペンダントを外した。 「楽しかったですよ。ラル。本当に楽しかった。」 不安はますます強くなる。 「どうしたの？だってこれからだって一緒だろ？もうリースは人間なんだからフレイス村で暮らせばいいじゃないか。きっとみんな歓迎するよ。」 リースはくすっと笑った。 「もう人間でいる必要はないのです。だって人間になったのはラルを護るためだったから。もう旅は終わります。最後にラルに花をあげる。命は何もないところからは生まれない。動物でも植物でもね。私は生きています。命があります。だから花をつくることができます。わかるでしょう？」 ラルはリースの肩をとらえて揺さ振った。 「嫌だ！そんなのは嫌だ！」 リースは目を丸くした。 「どうしたの？お姉さんが助かるんですよ？それに私だって消えるわけじゃない。私の命は花の中にずっといて、大地が清さを保っている限りは毎年花を咲かせていくのですよ。」 ラルは首を振る。 「そんなの駄目だ。一緒にいてくれなくては嫌だ！いいのか？もう話せなくなるんだ。見えなくなるんだ。それでいいの？リースはそれでいいの？」 リースは戸惑った。 「お姉さんが助からないほうがいいの？そんなのラルらしくないですよ。」 「そんなこといってない！姉さんの命もリースの命も僕には大切なんだ。一緒にいようよ。フレイス村で暮らそう。僕だって漁師だ。もう少し大きくなったらリースの一人くらい楽に養える。ずっと、ずっと一緒に暮らそう。僕と一緒に。」 リースは笑っていた。そして草の上に座り、寝そべると大地に頬をつけた。 「私はこれからもずっとあなたと一緒・・・・」 それきり彼女は動かなかった。体が透き通って行き、空気に溶けていく。やがて、草の上には彼女がいたことを示すものは何もなくなってしまった。 ラルは泣いた。カナンも立ったまま涙を落とした。 「・・・・何を泣いているのかしら？」 すずやかな声がした。カナンもラルもあっけにとられたが、そこには水の精霊神自らが美しい姿を現していた。横には大地の精霊神が寄り添うように立っている。 「リースが、自分の命と精霊の花を引き替えたんです。」 メレイのそばに風の精霊神と火の精霊神がいきなり現われた。 「それは困りましたね。まだ仕事が残っていますのに。」 風の精霊神が言うと、水の精霊神が空に向かって呼び掛けた。 「起きなさい。起きなさい。小さな精霊。」 すると、いきなりポンと精霊が現われた。空中に浮かび、何がなんだかわからないという顔をして。 「・・・・自分の守護する土地を捨てて全くあなたはいけない精霊です。罰として、この荒れた土地を妖精たちの力を借りて豊かなものにしていきなさい。それがあなたの仕事です。命を紡ぎ、命を回す。わかりましたか？途中で仕事を投げ出して許されるほど精霊の世界は甘くはないのですよ。」 「え？は、はい。でも、花は？」 リースと名乗っていた精霊は困って言った。 「ファナさんを助けなくては旅は終わりません。」 メレイの後ろからランディがひょいと顔を出した。 「まったく妙なことを言うなあ。ほら、こっちにきてよく見てごらん。」 とととと駆け出して彼は丘を上がった。 「ほら！」 そこには一面に花畑が広がっていた。緑の柔らかな葉の上にはそれぞれ輝くように白い蕾がついている。 さきほどカナンが花について尋ねた妖精がひらりとやってきた。 「まだどこにも咲いてはいないの。これから咲くのよ。精霊様のお手伝いをして私たちが咲かせるの。」 妖精はリースと名乗っていた精霊に微笑みかけた。 風の精霊神が精霊を促した。 「何を躊躇っていますか？あなたの初めの仕事ですよ。」 精霊は両手を広げた。と、幾百幾千の小さな花の妖精達が精霊のもとに一斉に集まってきた。そして何事かを囁かれるとそろって蕾の上を飛んだ。すると精霊の花は一斉に開花した。柔らかく暖かな白。仄かな甘い香り。あれだけ求めて得られなかった花が丘を埋め尽くしている。ラルは顔を花に埋めて陶然としていたが、背筋をのばして水の精霊神に問うた。 「これを薬にするにはどうすればいいのですか？花を煎じるのでしょうか。それとも根を？」 メレイが頭を掻いた。 「ラルフィス。昔からの伝承は誤りがあります。確かにこの花は勝れた薬草です。体の内側の病には煎じて飲めばいいのです。だけれど心が壊れてしまったときに、この花を薬にしても何の効き目もないのです。ああ、なんていう顔をしているんですか。続きを聞いて下さい。精霊の花は精霊の力がバランスよくはたらいたときに咲く花です。愛、信頼、平和、そういったものが咲かせる花なのです。そして心の病は愛や信頼こそが癒すものです。もう、あなたの想いは伝わっていたわけですですから、この花が咲くということはこの土地に平和が訪れたことであり・・・・すぐにわかりますよ。それより、あなた。」 メレイは幼い精霊を指差した。 「あなたはいつまでも旅の仲間と一緒にいてはいけません。妖精たちがあなたを待っているのですよ。お別れをしなさい。」 花の妖精と嬉しげに語らっていた精霊は頷いた。そしてラルを見つめてさよならを言おうとした。が、胸がつまってしまったようで何もことばが出てきてくれなかった。 （カナン、ラルフィス、私は・・・・） 精霊は二人の耳元で何事か囁いた。 （それが私の真の名です。それを呼べば私はいつでも駆け付けますから。） これには精霊神一同驚いてしまった。真の名前を唱えられれば精霊は束縛される。死ねと命じられれば即座に死ななければならない。自分から人間に真の名を告げた精霊など初めてであった。 ただ、メレイだけはゆったりと微笑んでおり、魔法のように空中から指輪を二つ取り出してみせると一つは自分のポケットにしまい、もうひとつを精霊に渡した。 「贈り物ですよ。」 このとき、精霊神達は心の声で会話しあっていた。 （メレイよ。あんなものを贈るとは乱心したか？） （・・・・火の兄弟。あれはじきに必要になるものです。私は光の姉上にあれを渡すように頼まれていたのです。） 水の精霊神が微笑んだ。 （では、大団円はまだ先ということですね。不安ではありますが、素敵なことでもありますわ。） （水のお姉さまったら・・・・あの幼い精霊に託されているのはどういったことなのでしょう。この世界が大きく変わっていくのでしょうか。） 「メレイ様、この指輪は？」 「お守りです。決して外さないように。」 土の精霊神はリースと名乗っていた精霊の右手の中指に白銀に輝く指輪を嵌めた。 ラルにはその会話が聞こえていなかった。 丘の向こうから５つの人影がこちらに向かって近づいてくる。二人は女性、三人は男性。そして顔がやっとわかるくらいまで近づいたとき、女性の一人が叫んだ。 「ラル〜っ！」 久しぶりに聞いた声。でも間違いのない・・・・ メレイは笑った。 「ああ、やっと来ましたか。いいタイミングです。ここにくるように私から報せておいたんですよ。」 「姉ちゃん！ファナ姉ちゃん！」 姉、母、二人の兄、そして父、ラルは駆け寄ってかけがえのない家族達に飛びついて行った。妖精たちは嬉しそうに飛びまわり、吟遊詩人は竪琴でお気に入りの旋律をかきならした。 水の精霊神が夫の袖を引いた。 「訂正しますわ、あなた。私はさっき大団円はまだ先だと言いましたが、ひとまずこれで大団円ですわ。」 「はい。そうですね。」 精霊神たちは、まだこれは一つの始まりなのだとわかっていたが、 皆、ゆっくりと頷いたのだった。 精霊の花 終り |