目次に戻る | バルザックはゆっくりと視線をマーニャに向けた。オーリンが一年前につけた傷が頬に醜いひきつれをつくっている。その濁った瞳には明らかに驚愕の色が浮かんだが、一瞬の後には落ち着きを取り戻していた。 「誰かと思えばエドガンの娘二人と間抜けな弟子か・・・・・私に殺されたくてここまでやってきたのか？」 彼は、豪華な刺繍がなされた自分の服を、埃を払うように撫でた。脂ぎった顔に浮かんだ笑いは、袋小路にネズミを追い詰めたときの猫のように残忍だ。 マーニャはミネアから鉄の扇を渡してもらい、構えると目をぎらぎらと光らせた。 「バルザック・・・・一年前、弟子だったあなたは師匠である私達の父を無残な手段で殺した。・・・・・・あれからずっとこの日を待っていたわ！あなたを私達の手で地獄に送ってやる！」 ミネアも一歩前に出た。 「バルザック！死んで父に・・・お父さまに詫びをいれなさい！」 バルザックはじっと立っていた。 「詫びる？私がなぜそのようなことをしなければならんのだ？私の心を見抜けず命を守る手段を講じられなかったエドガンが馬鹿だったのだ。・・・・ここまで来たことを誉めてやらねばいけないかな？しかしここが貴様等の墓場だ！」 バルザックは片手を上へ上げ、ついで前に押し出した。マーニャの呪文など足元にも及ばないほどの凄まじい熱気を帯びた火球が三人を襲った。 「きゃーっ」 オーリンは二人を突き飛ばした。マーニャとミネアは床に転がった。オーリンは立ち上がった。直撃ではないが服からずぶずぶと黒い煙が出ている。ひどい火傷をしているにちがいない。 「オーリンよ。お前はまったく師匠思いの奴だな。そうでなければここで死ぬこともなかったろうに。お前は田舎で獣を狩っていればよかったのだ。」 「黙れ！エドガン先生の仇は必ずこの場で取ってみせるぞ！」 「・・・・私の顔に傷をつけてくれたせめてもの礼だ。お前から楽にしてやろう。」 バルザックはもう一度火球を投げ付けた。今度はオーリンが攻撃をかわすことができた。彼は槍をしっかりと握り締めるとそのままバルザックに突っ込んだ。 ミネアは胸の中に鋭い痛みを感じた。 ”ミネアお嬢さま！早く静寂の玉を！” オーリンの心の声が彼女に届いたのだ。 走ってくるオーリンを嘲り笑いながら見つめ次の呪文を繰りだそうとするバルザック。憎い仇にミネアは首から下がっている澄んだ青い色に輝く静寂の玉を両手で掲げた。 「神よ！邪悪なる者の言葉を封じ給え！」 途端に玉から炎にも似た青白い光が発せられ、バルザックの体を取り巻いた。バルザックは丁度オーリンに火球を投げ付けたところだった。が、火球は光のなかで消えてしまった。 「馬、馬鹿な！」 呆然とするバルザックの目前にオーリンは迫っていた。バルザックは急いで身を踊らせたが、槍はバルザックの左腕を刺し貫いた。尚もオーリンは攻撃を加えようとしたが、それまで戦いを静観していた大臣のギースが後ろから切り掛かり、オーリンはその場に膝をついた。マーニャはギースに火球をぶつけ追い払い、ミネアがオーリンを抱き起こして火傷と刀傷の手当てをした。バルザックは三人から離れたところに身を移していた。部屋から逃げる様子はない。 「静寂の玉か・・・・随分と用意周到だな。しかしこれで勝ったと思うなよ。私は昔のままの私ではないのだ。進化の秘法でより素晴らしい生物に生まれ変わった私の力を思い知るがいい！」 バルザックは高らかに笑うと仁王立ちになり全身に力を入れた。と、むくむくと体が膨れ上がりはじめた。三人は寄り集まりバルザックに起こった変化を直視した。 ”これは・・・悪夢だわ！” マーニャが震えだしそうになる自分を励ましながら呪文の構えをした。 バルザックはもう人間ではなかった。腕と足の筋肉は膨れ上がり鋭い真っ赤な爪が生えている。服はとうに破れ、熊のような茶色の毛がごつごつした体表をおおっている。額からは二本の角。裂けるばかりにひらかれた口には磨ぎ澄まされた牙が覗いていた。 怪物は口を開いた。そこから聞こえてきたのは紛れもないバルザックの陰険なつぶやきだった。 「さあ、来い。来て私に殺されるがよい。」 オーリンは先頭をきってバルザックにに立ち向かった。だが、次の瞬間、空をきって伸びてきた鋭い爪で払い除けられ王座の後ろの壁に叩き付けられた。ぐしゃりと鈍い音がして赤いものが床に流れている。 「オーリン！」 マーニャの体が一瞬オーリンの方に行きかけた。バルザックはそれを見逃さなかった。マーニャは背中に激しい痛みを感じ、オーリンの近くに崩れ落ちた。 ミネアは二人を気遣いながらも、バルザックから目を離そうとしなかった。今、二人を助けに行ったら自分も同じように攻撃を受けるに決まっている。 「さあ。どうする。お前の姉もオーリンももう動けないぞ。」 ミネアは胸に水晶玉を抱き締めて仇を睨み付けた。その気迫に一瞬だがバルザックが怯んだ。動きが止まる。 ”空気の精霊たち・・・・” ミネアの口が呪文を唱えるために動いた。 彼女のまわりから激しい空気の渦が生まれ、高速で吹き荒れながらバルザックに襲いかかった。ばりばりと空間が引き裂かれる音がしてバルザックの体にも無数の傷が走った。人間の姿をしていたときにオーリンが与えた左手の傷からはだらだらと赤い血が滴り落ちた。 バルザックはますますいきりたった。 「何時の間にこのような呪文を！」 「一年前、あなたが父を殺してから、私達はあなたを倒すことだけを支えにして魔物たちと戦ってきました。私は最後まで諦めません！」 ミネアはもう一度呪文を唱えようとしたが、バルザックがその機会を与えなかった。ミネアの足元に右腕が振り降ろされ床に敷きつめられた石が砕け散って飛んだ。ミネアはスカートを翻して逃げた。逃げながら呪文を唱える。しかし、眠りの呪文は効かず、かまいたちの呪文も逃げながらでは大きな効果を与えることはできなかった。自分の身を辛うじて護る役にしかたたない。 「ギース！邪魔だ！」 バルザックは、縮こまって様子を見ていた大臣を掴み上げ、勢いに任せて胴をねじ切ってしまった。ミネアは目を覆いたくなった。さっきまで生きてい動いていたギースがもう命のない肉片となっている。 バルザックは呪文を唱え続けるミネアを部屋の隅に追い詰めていた。ミネアは服をかぎざきだらけにして、肩から血を流し、それでも口を動かし続けている。 「どうした。もう終わりか？何を唱えている？お前の呪文は全く効かないようだな。」 バルザックは牙を剥き出した。 その時だ。 「ミネアの呪文が効かないなんて、なーにほざいてんのよ！」 マーニャの元気のよい声が響いた。バルザックが振り向くと、マーニャが鉄の扇を手にすっくと立っており、横ではオーリンが槍を構えている。 「!?お前たち、半死半生のはず・・・」 「だっから何ほざいてんのよ。あたしの妹がずっと回復呪文を唱えてたのに気付かなかったの？もうすっかり元気なんだから！」 背後からミネアがかまいたちの呪文を浴びせかけた。左腕の傷からの出血がますます激しくなった。バルザックは振り向いた。代わってマーニャがバルザックの頭上で爆発を起こさせた。バルザックは再びマーニャに向き直る。またミネアがかまいたちの呪文を唱えた。二人に代わる代わる攻撃され、バルザックは翻弄されてはいかんとマーニャに狙いを定めた。 マーニャは軽々と跳んで、バルザックの爪をかいくぐった。バルザックはむきになってマーニャを追う。しかし一向にマーニャは捕まらない。 「図体が大きくなったぶんだけのろいわね！あたしの職業何だと思う？踊り子よ！身軽な動きはお手のもんだわ！」 実際には、マーニャはかなり疲労してきていたのだが、自分に目を引き付けさせることによってあとの二人を攻撃から護ろうとしていたのだ。 ミネアはかまいたちの呪文を唱える。バルザックの体には縦横無尽に傷が走っているが倒れる様子は全くない。マーニャを追いながらもときどき鋭い爪の一旋がミネアたちを襲う。 マーニャが逃げ回っている隙にオーリンはバルザックの背後にまわり槍で切り付けた。だが、怪物となったバルザックの皮膚に傷を付けることはできない。それを見て取ったミネアはマーニャに走りよりめくばせした。そして挑発するようにバルザックに近付いた。マーニャは妹がめくばせした意味を了解し、呪文を唱えた。 「親愛なる火の精霊よ！いま少し我らに力を貸し給え。悪しき者より守りの力を奪いたまえ！」 バルザックの体がぼんやり光った。途端にオーリンの槍による攻撃が威力を発揮するようになった。脇腹に槍は深々と刺さりどくどくと血が流れる。バルザックはオーリンに掴み掛かろうと一歩踏みだす。その足にミネアは毒蛾のナイフを突き立てた。傷は小さいがバルザックは呻きをあげ、足をもつれさせて俯せに転倒した。刃に塗られた毒が足を麻痺させたのだ。倒れてじたばたするバルザックをオーリンが槍で突き、ミネアがかまいたちで引き裂きマーニャが鉄の扇で何回も殴り付けた。 「父の、父の無念さを思い知れ！」 オーリンが二人を呼び寄せ、槍を握らせた。三人は渾身の力を込めて槍をバルザックの背中から心臓目掛けて突き立てた。バルザックは小さく縮んで人間の姿に戻った。 血がじわじわと床に広がっていく。それを眺めながらミネアもマーニャも涙を堪えることができなかった。一年間の苦労、悲しみ、恨み・・・・・嵐のように頭のなかに浮かんでは消えた。ミネアは姉の肩に頭をもたせかけて泣き、オーリンは二人の背中に手をあててゆっくりと頷いた。 「とんだ騒ぎだな。バルザック。」 空気をびりびり震わせて太い声が響いた。 三人が顔を上げると、先程までは確かに誰もいなかったはずの王座にふさふさした頬髭を厳つい顔に貯えた王が金の冠を戴いて悠然と腰掛けていた。そばには黒いローブを纏った細身の男がすっぽりとフードを被って立っていた。腕には黄金の腕輪をはめている。 ローブの男は穏やかな声で言った。 「愚かな男だ。進化の秘法はこの黄金の腕輪があって初めて完全なものになりうるのだと私はいったはず。」 キングレオ王は赤い髑髏のついた王錫を振った。 「自分の力を過信しすぎた男の血でわしの王座の間を汚したくはない。」 黒いローブの男が小さく呪文をつぶやくと、瞬く間にバルザックの傷は癒え、血は完全に止まってしまった。ミネアが呆然とした。 ”あの男は何者？完全な治癒の呪文を唱えられるのは神に仕える者だけのはずなのに！” バルザックは傷はふさがったもののその場に倒れたままでいた。そして呻くようにつぶやいた。 「キングレオ・・王様・・・・お許しを・・・」 王は王座から立ち上がった。 「練金術師エドガンの娘達と弟子か。・・・・進化の秘法の一端を見てしまったお前たちをこの城から生きて出す訳にはいかん。」 王は獅子のように吠えた。いや、獅子そのものだった。頬髭は伸びてそのままたてがみとなり黄色い獅子が王座の前に居た。 「これも進化の秘法？」 マーニャが冷汗を流す。 キングレオ王は自ら答えた。 「そうだ。望んで手に入れた強大なこの上なき力だ。もうすぐ地上は我が契約を結びし魔族が支配するようになる。さあ、己れの無力さを思い知るがよい！」 獅子は三人に向かって雄叫びをあげた。 耳からその吠え声が入ってきた途端、マーニャは体のなかのすべての血が凍ってしまったように思った。体の一番深いところにまで侵入していって、人間の持つ弱さや愚かしさを掘り起こし、恐怖の感情を引き出す・・・・手足・・・・いや、瞼さえ動かすことはできなかった。目は開いており、キングレオがゆっくりと近付いてくるのがわかるが、逃げることもできない。驚き竦み上がりミネアやオーリンのことを考える余裕もない。 キングレオはじわじわと近付いてきて、ごろごろごろと満足そうな声を喉で転がすと、やおら前脚でマーニャの胴体を薙ぎ払った。痛みは感じず自分の体が人形のように崩れ落ちていくのを幽かに残った感覚が受け止めただけだった。倒れていく途中に、自分の横のミネアが同じように倒れていくのを何の感慨もなく視覚が捉えた。 仰向けに倒れたマーニャの目には、天井しか入らなくなった。 どこか遠くで声がする。 ”バルザックよ。かたはつけたぞ。今回のような茶番はもう沢山だ。しかしお前の練金術師としての魔力の強さは捨てがたい。・・・許してやろう。” ”はっ、有り難き幸せ。必ずお役に立ってみせます。” ローブの男の柔らかな声が加わる。 ”この娘たちの始末はどういたしましょう。” ”さて・・・どうするかな。このまま殺してしまうのはなんだ。他の娘たちと同じように、わしが精気を食らい尽くしてやるか、進化の秘法の実験台にするか・・・・” バルザックの憎々しげな声が王に答える。 ”王様、もしよろしければ実験台に。自分の父親が見付けだした業で、奇怪な姿に変えてやりたいと存じます。” キングレオ王の含み笑い。 ”よし、お前に任せた。せいぜい楽しむがいい。” このとき黒いローブの男・・・・・闇の魔道士・・・・・は眉をひそめて倒れている三人のうちミネアとマーニャを観察した。 （何故だ？あの娘たちの存在が私にはひどく気に掛かる。・・・・呪文を使うとはいえたかが知れたものではないのに。・・・・まあいい。どうせバルザックの手によって最終的に命をなくすのだからな。そして・・・・世界はこの黄金の腕輪の力によって闇の名のもとに制圧されるのだ！） 三人は、奥からやってきた魔物によって地下牢へと運ばれていった。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 先に気が付いたのはマーニャだった。太い鉄棒がはまった石づくりの牢。身体中が痛くて寝たまま体の向きをかえるのだけで一苦労だった。もしかしたら肋骨が折れているのかもしれない。 牢の隅に、ミネアが倒れていた。ミネアは全く動かない。マーニャは名前を呼んでみたが返事はない。気が遠くなるような長い時間をかけて這いずっていって首に手をあてると、脈はとくとくとしっかり打っていた。マーニャは安心して再び気を失ってしまった。 次に目が醒めたときには、マーニャの横にミネアが座っていた。マーニャは起き上がろうとして顔をしかめた。ミネアは優しくそのまま寝ているように諭した。 「姉さんの傷の方が私よりずっとひどいの。さっきから呪文をかけてはいるけれど・・・・無茶はしないで・・・・」 マーニャはコクンと頷いた。さっきよりずっと痛みは薄れている。ミネアのおかげだ。 「ミネア・・・・・オーリンは・・・・・」 「・・・・隣の牢よ。さっき話をしたわ。でも今は疲れて眠っているみたい。」 ミネアはしくしく泣き始めた。 「どうしたの？ミネアなぜ泣いているの？」 「だって・・・・せっかくバルザックを倒したと思ったのに、結局は仇を討てなかったわ。そしてお父様の発見した”進化の秘法”があんなに邪悪なもので魔物たちに利用されているなんて！」 マーニャは冷たい石の床からゆっくりと上半身を起こした。 「・・・・また、一から出なおそうよ。また、仇を討とうよ、ミネア。」 自分の言っていることがほとんど不可能なことであるのをひしひしと感じながらもマーニャは微笑んでみせた。 「仇も討たなきゃいけないし、いい男も見付けなきゃ。ね。ミネア。泣かないで、泣かないでよ。姉さんも悲しくなっちゃうからさ。」 二人は疲れ切っていた。もしも体力が少し回復しても、逃げられる自信がない。牢の看守は魔物たちでしかも屈強なものばかりだ。 ミネアのすすり泣きが地下牢に広がっていった。小悪魔の姿の魔物がやってきて嬉しそうに覗き込む。 「お前たち、自分がどうなるかわかっているかい？進化の秘法の実験台になるんだぞ。そりゃあ面白い実験だ。鱗を生やされたいか？翼が欲しいか？この間この牢に入っていた娘は体じゅうから目玉が出てきてそれきり死んじまったなあ。より強い生き物を作るのにお館様はご執心だから楽しみに待っていろ。」 普通のときならば憎まれ口をたたくマーニャにも言い返す元気はなかった。隣の牢からオーリンの声が伝わってきた。 「お嬢さまたち。希望を捨ててはいけません。最後の最後までがんばるんですよ！こうして俺たちはまだ生きているのですから！」 強靭なオーリンの精神力は姉妹にも伝わって少し勇気づけられた。 どれくらいたったろう。何日かが過ぎた。おそらく時刻は夜だ。不思議なことに、看守の魔物たちは、三人の傷の手当てをしてくれ、栄養のある食事も運んできてくれていた。三人が体を横たえて休んでいると、小さな声が聞こえてきた。 「マーニャちゃん・・・・マーニャちゃん・・・・・・・」 聞き覚えのある声だ。マーニャは耳を澄ました。少しハスキーな、だが可愛らしい特徴のある少女の声。 「ローゼ？ローゼなの？」 ”お姫さまになるの！” と言ってキングレオに向かったモンバーバラでの踊り子仲間、剽軽もののローゼ。マーニャは確信した。 「よかった！ローゼあんたまだ生きてたのね！・・・・・ミネア、あんたも会ったことがあるでしょ？明るい栗色の髪の可愛い子よ。ローゼ待っててね。今妹のミネアに水晶玉を使ってあなたの様子を調べてもらうわ。」 ミネアはしっかりと懐にしまいこんでいた水晶玉を取り出して、ローゼを捜した。近くに居るのならば姿が映るはずだ。 「やめて！」 鋭いローゼの叫びにミネアは作業を中断した。 「御免なさい。そんなことより、マーニャちゃん。あなたは元気なの？」 「うん。ここに放りこまれたときには体がメチャクチャだったけれど今はとりあえず立って歩けるわ。バルザックは私達を進化の秘法の実験台にすると言っていたけれど、食事にも気を使っているようだし、へんなの。」 ローゼは溜息を洩らした。 「・・・・進化の秘法の実験台は健康であることが必要なのよ。初めの処置で怪我人や病人は死んでしまうことがあるから・・・・あっ！看守が来たわ！魔法の薬を持ってる！あれが初めの処置なのよ！あれを飲んだらおしまいだわ！」 看守は水差しから緑色の液体をなみなみとついで二人の口元に突き付けた。 「さあ。飲むがいい。これを飲んでそのあとバルザックに呪文をかけてもらえばお前たちの体は変化を始めるのだ！」 ミネアの唇にコップが押しつけられる。マーニャは暴れたが、看守に二人がかりで押さえられているのと、まだやっと立てるくらいの力しかないため逆らえない。 「さあ！飲め！」 看守の声が響いた。 地下牢のどこかでみしみしと岩の砕ける音がした。ついで鉄の棒が触れ合ってきんきん鳴る音。そして何か大きなものが猛然と突き進んできた。 「マーニャちゃんを怪物にさせるもんか！」 天井につかえるほと大きないやらしい姿の二本足の牛の化物が、角でマーニャとミネアを捕まえていた魔物を引っ掛けると床に叩き付けた。 「あ・・・・ローゼ・・・なの・・・？」 マーニャは牛の化物を見上げた。化物は”見ないで！”とローゼの声で叫びながら後ろを向いている。 「ローゼでしょう？」 「違う！もう私はローゼじゃない！私は醜い牛の化物だわ。」 楽しい音楽に合わせて踊るのが大好きで冗談を言っては仲間を笑わせていたローゼ。そのローゼが進化の秘法のためにこんな姿になっている。マーニャは牛の後ろ足に抱きついた。 「ううん。あなたはローゼよ！あたしの友達のローゼだわ。姿形が変ろうともあなたはあなたよ！」 地下牢の入り口が騒がしくなった。ローゼは力を振り絞ってオーリンが入っていた牢の鉄格子をねじ切った。 「逃げて！魔物がやってくるわ！」 オーリンが牢から出ると、ローゼは天井に頭突きを何度も何度も食らわせた。牛の眉間からは血が流れ、目も腫れ上がっている。天井板は壊れ、上から土がばらばら落ちてきた。そして満天の星空が遥か上に見えた。ローゼは一回屈んで三人を頭のう上に乗せると外の世界に逃がした。そこは初めにマーニャが娘たちと一緒に通された美しい庭であった。 「ローゼ！一緒に逃げよう！」 マーニャが叫んだが牛は首を振った。 「この姿で逃げだして、これから先どうしろというの？ローゼは・・・・踊り子だった人間の娘のローゼは当の昔に死んだのよ！でもよかった。マーニャちゃんを助けることができて。私、生きていてもどうしようもないって思ってた。でも、生きていてよかった。マーニャちゃんのために鉄格子を破って天井を壊すことができた。化け物になっていたからマーニャちゃんを助けられた。・・・・逃げて！早く！」 ローゼの足元では、魔物たちが攻撃を加えていたがローゼはその場を動かずマーニャたちと魔物を隔てる壁となったまま息絶えた。 三人は体を支え会うようにして城門を目指した。四人の人間の番兵が剣を抜いてやってくる。 「ミネア・・・・呪文は使える？」 「ええ・・・やってみるわ。」 しかし、オーリンは姉妹が無理をしすぎているのを見抜いていた。こんなときに攻撃呪文を使ったらその場で倒れてしまうだろう。それは死んだエドガンの望みでもオーリン自身の望むところでもない。 オーリンは槍を振り回し、一人で兵士たちに向かっていった。 「お嬢さんたち！逃げなさい！」 二人は立ち止まったまま逃げようとしなかった。 「何をしているんだ！逃げろ！逃げのびていつかお父さんの仇を討つんだ！」 「でも！」 マーニャが叫ぶ。オーリンは片手で槍をぐるぐる回しながら怒鳴った。 「マーニャお嬢様は言ったでしょう！人数がいれば何人かやられても仇は残りが討てるって。・・・・俺は死にゃあしませんけどね！さあ！行け！行ってくれ！俺の分までがんばってエドガン先生の無念を晴らすんだよ！」 「嫌！オーリンさん！」 オーリンはミネアの方をちら、と見て小さく微笑んだ。 マーニャは唇をかみしめ、ミネアの腕をぐいと抱え、オーリンを残して城門を突破した。 暗い荒野をとぼとぼと二人は歩いた。キングレオからの追っ手はやってこなかったが、荒野に住む魔物が二人を襲ってきた。疲れ、絶望の淵に沈んだ二人にとっては、以前には簡単に倒していた魔物も手強い相手だった。バルザックとの戦いで痛んでいたサンダルは千切れて使いものにならなくなった。裸足で歩く二人の足に小さな石が食い込んだ。爪は割れ、剥がれ、血が流れた。果物のなっている木を見付けて飢えをしのぎ、小川を見付けて渇きを癒す。ミネアの心を絶望が支配し、水晶玉にはなにも映らずもうどこをどちらに向かって歩いているのか全くわからなくなっていた。姉はそんな妹を気遣って声をかけ励ましたがマーニャ自身もこれからどうしたらよいのか途方に暮れていた。 夕方近く、マーニャは灯火の揺れるのを見付けた。小さな明かりだったが、姉妹にとっては天の救いと言っても過言ではなかった。 やっとのことで辿り着くとそこは本当に小さな村だった。村人が痩せた牛を引いて歩いている。二人は安堵感からその場に倒れ込んでしまった。 目が醒めると、心配そうな顔をした娘がマーニャを覗き込んでいた。 「大丈夫ですか？」 「ここは・・・・」 「テールス村ですわ。アッテムトとハバリアの丁度中ほどに位置しています。あまり喋らないほうがよろしいですわ。あなたは二日の間眠り続けていたのです。」 マーニャはミネアを見付けようと首を巡らせた。 「大丈夫。妹さんはすっかり良くなって今は別の部屋で寝ています。・・・・・心配しないで。お忘れかもしれませんが、私はキングレオの城からあなたに助けて戴いた娘の一人です。私が必ずあなたを良くしてみせます。」 手足に巻かれた包帯が取れたのは二日後だった。村娘が塗ってくれた薬草と、元気を回復したミネアの呪文がマーニャを元どおりの体にした。 二人は、水桶で井戸から水を汲み、炊事場の覆瓶を一杯にしおわると、気持ちの良い風の吹く、村の共有地の畑の柵にもたれかかり、これからのことを話し合った。 「ミネア・・・・どうする？」 ミネアは肩を落としている。 「お父様の仇を討つ決心は変らないわ。・・・・でも、姉さん、あの強大な力を持ったキングレオを殺さないとバルザックも殺せないわ。・・・・いいえ、進化の秘法を葬り去らないかぎり、真の意味での仇討ちは終わらない。」 「そうね・・・・」 「・・・・・姉さん・・・・私達にそれができるかしら。・・・・・」 マーニャは柵の上に腰掛けた。 「やらなきゃいけないよ。ただ、このまままたキングレオにとんぼがえりしても勝てっこない。奴らはあたしたちを今度はすぐに殺そうとするだろうし、静寂の玉も取り上げられてしまった。・・・・オーリンも今はいない。・・・・もっともっと強くならなけりゃ。」 「・・・・強くなるにはどうしたらいいの？」 「ミネア・・・悲観的になるのはやめなさい。あんたがいつまでもそうだからこのところ水晶玉に何も映らなくなってるのよ。」 ミネアが言い返そうとしたときに、東の方から小さな乗り合い馬車がぽこぽこやってくるのが見えた。四頭立ての馬のうち一頭がびっこをひいている。村人たちは野良仕事を中断して馬車のまわりに集まった。 御者が降りてきて説明をした。この馬車はハバリアから出発してアッテムトまで行く予定だったが、途中で魔物に襲われて馬が怪我をしたという。村で馬の治療をして欲しい、この後は三頭だけを使ってアッテムトにいくつもりだ。・・・と。 これには村人が反対した。距離的にはハバリアもアッテムトも村から同じくらいの距離だが道はアッテムトへいく方が険しく魔物も多い。重い乗り合い馬車を三頭だけでひいていったらきっと魔物から逃げ切れずに危険な旅になるだろう。 御者と村人の議論を聞いていた乗客たちが馬車からぞろぞろと降りてきた。アッテムトに金を求めてやってきた男たちがほとんどだがその中に小柄な娘と小さな男の子がぽつんと混じっていた。男の子は娘にかじりついて大人たちの言い合いを聞いていたが、心配そうに娘に訊ねた。 「お姉ちゃん。僕たちアッテムトには行けないの？お父ちゃんには会えないの？」 娘は弟の頭を何度も何度も撫でた。 「わからないわ。でも、なんとかしてお父さまに会いに行きましょう。この馬車が駄目ならば他の馬車を使えばいいのよ。ピピン。」 マーニャは、アッテムト鉱山の世話焼き小母さんの言葉を思い出し、ミネアと顔を見合わせると姉弟を人垣から離れたところに引っ張っていった。 マーニャは家の蔭に姉娘を引っ張りこんで話を始めた。弟のピピンはひだまりのなかで、ミネアに水晶玉を見せて貰って太陽に透かしてみては歓声をあげている。 マーニャに父親の死を告げられた娘はしばらく声を出せなかった。大事そうに抱えていた包みは地面に落ちて、父への贈り物だろうか、男物のシャツが転がり出て散らばった。ピピンは水晶玉に夢中で今度は光を集めて木の葉を燃やす遊びを発明していた。が、姉が啜り泣いているのに気付き、ミネアに水晶玉を押しつけるとすぐに走っていった。 「お姉ちゃんお姉ちゃん、なぜ泣いているの？なにか悲しいことがあったの？」 姉娘はピピンを連れて日溜まりの中に出た。そして涙を拭った。 「ピピン、よく聞くのよ。このお姉さんはアッテムト鉱山に行ったことがあるの。そこでね。お父さんにあったのですって。」 ピピンは心底不安そうだ。 「お父ちゃん、怪我でもしたの？病気なの？」 姉娘は首を振った。 「それがね・・・・・お父さんはアッテムトを出て、他の土地に移っていくって・・・・このお姉さんに伝言を頼んだの。もうお父さんはアッテムトにはいないのよ。」 幼いピピンにはそれだけで充分に大きな衝撃だった。 「何故？僕たちひと月もかけてお家からここまで来たのに何故お父ちゃんは待っていてくれなかったの？お父ちゃんはどこに行っちゃったの？」 「・・・・私達の手紙が届く前に遠いところに行ったのよ。心配ないわ。お父さんの行ったところは何も苦しい目に会わないですむ素晴らしいところですもの。あんまり遠くて手紙はそうそう出せないかもしれないけれど・・・・ピピン。お父さんはお前が悲しむことを一番残念に思うと姉さんは考えるわ。・・・・・・さあ、お家に戻ろう。そしてお父さんが帰ってくるのをしっかりいい子で待ってるの・・・・いいわね。さあ、姉さんはこのお姉さんとちょっとお話があるからピピンは馬車のところで待っていて。そして御者のおじさんがなんていってるか聞いていてね。」 ピピンは納得がいかぬようだったが、父親が自分のことを気遣ってくれているのを姉の言葉から感じて言われたとおり馬車に戻っていった。 姉娘はミネアとマーニャに深々とお辞儀をした。 「有難うございました。・・・・ピピンにはもう少したってから・・・・あの子が父親の死を受け止めることができる年になってから本当のことを告げようと思います。」 ミネアが控えめに声をかけた。 「・・・・これからどうするつもりです？」 娘は微笑んだ。 「・・・・一生懸命に生きていくしかありませんね。父の死は私達にとって確かに大きな悲しみです。しかし私達に神様から与えられているのは過去にしがみつくことでもなく、未来を思い悩むことでもなく、現在をよりよく生きていくことだと思っています。今までの望みが打ち破られたからといって世界が終わる訳ではありません。私達は生きているのですから。・・・・・・・」 娘の目は悲しみで濡れていたが、それと共に、運命に立ち向かっていく確固とした決意の意志に溢れ、神々しいような気配さえ感じられた。 乗り合い馬車は村人に見送られて、結局ハバリアに戻ることになった。マーニャとミネアも御者に頼み込んでハバリアまで便乗することになった。ただし座席はない。荷物と一緒に馬車の屋根の上だ。 二人は先程の姉娘の様子をみて、不思議と心が軽くなっていた。 ミネアを見ながらマーニャは微笑む。 ”そうよ。世界が終わる訳じゃなし。・・・・・・・・・” ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 一週間の後、エドガンの娘たちはハバリアの港を出航した大きな帆船に乗り、甲板で遠ざかっていくリオレラ大陸を眺めていた。 二人の心にはもう打ち拉がれた気分はなかった。 「ふふふ・・・・あたしがキングレオからかっさらって来たルビーのネックレスを売り払ってお金になったけど、馬車賃を払って新しい服を買って武器を買って・・・・船賃を払ったら一文なしになってしまったわね。一から出直しだわ。」 ミネアが笑う。 「一年前にコーミズ村を出たときとほとんど同じ状態じゃないかしら。お金はまた稼げばいいわ。私が占いをして、姉さんが踊って・・・・」 「同じじゃないわよ。前はバルザックの奴がどこで何をしているかわからなかったけれど今ははっきりわかっているじゃないの。大きな進歩よね。」 それきり二人はしばらく黙り込んだ。 ミネアが水晶玉を取り出して覗き込んだ。そして安心したように胸に抱き締めた。 「何を占ったの？」 「・・・・ピピンたちのこと。故郷の町に無事につけるわ。そして・・・きっと幸せになれる。水晶玉が告げているもの。」 「・・・・・あんたの占いなら確実でしょうね。・・・・・・ねえ、この船旅が何事もなく済むかも占ってくれる？」 「はいはい・・・・大丈夫。順風満帆言うことなし。」 マーニャはイアリングをつけ直すと、あっけらかんとした表情で訊ねた。 「ところでさあ、ミイちゃん。この船どこに行くの？」 ミネアはぎゃふんとなった。 「ね・・・・姉さん・・・行き先も気にせず乗ったの？・・・・この貿易船はエンドール行きよ。」 マーニャはけらけら笑う。 「ははは、冗談よ。からかってみたくなっただけ。・・・あそこに行けば魔物についての詳しいこともわかるかもしれない。だから行くんだもん。エンドールといえば平和な大きな都だって言うけど、どんなかな。」 「大きな綺麗なお城があって、王さまが居て・・・・・」 マーニャは顔をしかめた。 「貴族だの王族だの真っ平ごめんよ！・・・・ミネア、あんたもう落ち込んでないわね？」 「ええ。落ち込んでいても仕方がないし・・・・私はエンドールで素晴らしい出会いが待っているような気がするの。」 「ふぅーん。あたしもよ。・・・・きっときっと・・・・・いい男に会えるわ 」 「姉さんっ！私が考えているのは、おばばさまが言っていた仲間のこと。勇者と、七人の仲間・・・・私達はその内の二人。もしかしたら仲間達と一緒にバルザックやキングレオを倒すことになるのじゃないかしら・・・・・」 「そういうこともあるかな。・・・・・仲間がいい男なら言うことないんだけどな。年端の行かない坊やや、太ったおっさんや爺さんや、朴念仁じゃなきゃいいなあ。」 「もう、ねえさんったら！・・・・それに王族や神官さんも嫌なんでしょ ？」 二人はくすくすと笑った。 リオレラ大陸はもうそろそろ見えなくなってきていた。 「帰ってくるわよね。姉さん。」 「ええ。強くなってね。・・・・・・・・・・・・お父様のために・・・・ハバリアの牢でバルザックのことを知らせてくれたおじさんのため、ローゼとオーリンのために・・・・」 風が吹いた。 手を取り合って海を見つめる姉妹の傍らを風はエンドールに向かって吹き抜けていった。 |
| ４章のラストはせつなさでいっぱいでした。 でも、この二人には笑顔で船出して欲しくてピピン姉弟の話を強引に挟んでしまいました。 仲間達は、自分達の思いはもちろん、他の人々の思いも背負って旅をしていくのですよね。 さて、やっと５章です。年端の行かない坊や、おっさん、爺さん、神官、王族、朴念仁の順に出会っていくわけです。 |