「アレックさんの姓、ユーティライネンだったの」

　エリカ=アレーニアの声が意識の底から聞こえる。
　ユーティライネン……ユーティライネン……大陸大戦の英雄にして撃墜王、アレック=ユーティライネン准尉!?しかし、そんなわけない。英雄殿がトラック運転手をしていた理由が全く思いつかない。

「ユーティライネンって……あのエースのか？」

　再びぶっきら棒なオズウェルの声が聞こえた。

「他に誰がいるっていうんだ」

　そうだ。彼以外に先程の、奇跡のような操縦ができるわけがない。でも、だが、しかし、納得できない。

　「……なんの冗談だ、これ」

　いや、冗談で済まされるものではないだろう。……夢……それが最も相応しい。自分は撃墜されて、死ぬ直前に長い夢を見ているのだ……そうでなければ……どうやってそれを信じればいいのだ？…………ユーティライネン准尉……オオルリを乗機とした大陸大戦の英雄が……あの穏やかなトラック運転手の伍長が？

コリンは頭を振り振りいま聞かされた話を整理しようとしている。

　「ははっ！なるほど！オオルリ乗りのエースだとしたらあの腕前も納得だ。」

　目の前で人が倒れているのに不謹慎だとわかっていたが、笑い声を抑えることができない。やがて、アレックが担架で運ばれていき……コリンはまだ笑っている自分に気づいた。いや、笑いではない。横隔膜が不自然に痙攣するのを止められなかったのだ。

　「大丈夫か。」

　オズウェルの声がすぐ近くで聞こえ、やっと小刻みな震えは止まった。

　「ああ……大丈夫だ。」

　「機体に異常は？」

　「後部に数発喰らった。……翼にも。…………オズウェルは知ってたのか。」

　それがアレックのことを言っていると理解し、オズウェルは視線をあわせるでもなく、空を向いたまま答えた。

　「なんでそんなことを聞くんだ。もうどうでもいいことだ。あの人は飛んだんだからな。」

　てきぱきと指示が出され、オオルリはドックに運ばれていく。コリンは飛行服の襟を緩めた。あまりにも非現実すぎて、しかし、それは紛れもない事実で……食事を取り、頭の整理をつけるためしばらくカーテンを引いて薄暗くした自室で過ごし……
　足はいつしか医療室へと向いていた。ゆっくりと歩いていくと、アリサに出会った。

　「アリサちゃん……アレックさ……ユーティライネン准尉の具合は？」

　アリサは微笑む。

　「大丈夫ですよ。ドクターは、いきなりあれだけのことをやったので、体と心に負担がかかったからだとおっしゃっています。……まだ眠っていますから、お見舞いに行ってもわからないと思いますよ。……エリカちゃんがずっとついているから心配しないで下さい。」

　「うん。ああ。……そういうことか。そうだね。……じゃあ、というのもなんだけれど、今、いいかな。」

　コリンが指差したのは、隣の部屋。重傷者達が眠っている病室への扉だった。

　「構いませんよ。静かにしていただけるのなら。」

　コリンは頷き、そっとノブを回し、暗い部屋に入る。消毒薬の強い匂いと、けが人の発する特殊な匂いが鼻に入ってくる。コリンはまっすぐに、年若い後輩パイロットが眠っているベッドに歩み寄り、近くに置かれた三本足の丸椅子に腰掛けた。

　「ルカ。……」

　身動き一つしないで横たわっている同僚。返事が返ってこないことはわかっている。しかし、コリンはいつもよりこころもち低い声でゆっくりと話しかける。

　「……アレックさんがオオルリで飛んだんだ。……アレック=ユーティライネン准尉。あの人は、英雄殿だったんだ…………アハハ、俺、びっくりしちまってさ……頭真っ白になって…………凄くさ、凄く綺麗な飛行だったんだ。格闘戦だってのに、この上もなく空を軽やかに飛んで……お前にも見せたかったよ。……。…………」

　そっと毛布越しにルカの肩に触れる。

　「俺たちのすぐ近くに居たんだよ…………大陸大戦の激戦の中、僚機を全く失うことのなかった、『英雄』が。……どうして飛ばなかったんだろう。…………飛行機乗りが空から離れられるはずなんてないのに…………何か、あったんだろうな。俺達が想像もできないこと、翼をもがれるようなことがさ。でも、あの人は空に戻ったんだ。…………俺……あの人が居なかったら、確実に死んでた。…………俺はお前を守ってやれなかった。でも、あの人は俺を見事に守ってくれた…………ん？ルカ？」

　ルカが少しだけ身じろぎしたような気がした。そして、口元には確かに微笑みらしきものが浮かんでいた。

　「……なんか、お前…………すごく楽しい夢、見てるみたいだな。」



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　その翌日から、ロビュ小隊にはパイロットが一人増えた。コリン一人で行っていた哨戒任務は、嘗ての救国の英雄、アレック=ユーティライネンにも委ねられた。


　その日、アレックは初めてコリンに一緒に哨戒に飛ぼう、と持ちかけた。

　「アレックさ……」

　呼びかけて途中で止めたコリンに、アレックは以前からの呼び名でいいよ、と飛行服のベルトを締めながら笑った。

　あれからコリンはコリンなりにアレックのことを調べようとし、まず、ドゥニに声をかけた。ドゥニさんはアレックさんのことを知っていたんですか、といつもの軽い調子で問いかけたコリンに、ドゥニは、まーな、あいつがなんかのついでに喋ってくれたもんでよ、といつものおどけた調子で言い、それだけ言い終わるとそれについては一切触れなかった。
　それ以来、コリンは、自ら詮索するのをやめた。ドゥニはアレックに断りなく、秘密を告げるような男ではない。そして、コリンもまた、好奇心はあっても、興味本位に秘密を暴くことはよしとしなかった。しかし、オズウェルと話し、エリカと話しているうち……彼は多くのことに気づいてしまった……彼は頭のいい男であり、他人の感情の動きにも敏感であった。アレックが飛べなくなったのが、どうやら過去に起こった事故であることも、それがオオルリに泥を塗ることに繋がったこともわかってしまった。エリカが彼に寄せるまっすぐな深い想いも、オズウェルが彼に寄せる複雑な感情も……

　「アレックさん。哨戒なら、俺一人で行きます。……二人で飛んでも一人で飛んでもあんまし変わらないでしょ？もしかのときには来てもらいますけどー。いらん仕事させて、重要任務の前にアレックさん疲弊させたら、俺、司令と副司令に確実にボコられますって！一度くらいなら司令のヒールで踏まれたいって思わなくはないですけどー！」

　アレックは俺と一緒じゃ嫌かな、と微笑んだ。その顔を見てしまうとコリンには何も言えない。それに……アレックと飛びたい気持ちは強くある。

　「哨戒は俺がする。コリン、君は俺についきてくればいい。…………もう何年も飛んでいなかったからね。傍で見ていて変な癖がついていたら、後で指摘して欲しいんだ。」

　自分に指摘などできるのだろうかと訝りながら、コリンはオオルリに乗り込む。……アレックが帝国に飛ぶための特別な乗機を作るのにかかりきりで、オズウェルもエリカも通常の整備には関わっていない。……ゴーグルを下げ、コクピットから合図を送る。

　アレック機がふわりと空に浮き上がる。コリンはあとを追う。急上昇、鋭角的な旋回……楽しい……空を飛んでいて、楽しいと思ったのは久しぶりだった。滑るような横への滑空。それに……ターン！三回目のターンまで、コリンはついていけたが、四度目は諦めた。彼の目の前でオオルリは舞う。……敵機を沈めるための技術だと判っていても、それは美しい。そう……士官学校でこの人の飛行を初めて見たときと同じように、美しかった。しかし……
　コリン機は減速し、ゆるゆると下降していった。アレックが前方を横切り、そのあと横に並んで翼を振って合図したとき、我に返って操縦桿をひき、再びアレックの後ろにつく。……それからは型どおりに哨戒のために飛び……しばらくして二人は帰途についた。



　「コリン、さっきの減速はどうしたんだい。何かオオルリに不調でもあったのかい？」

　穏やかに、心配そうに声をかけてきたアレックに、コリンは呟くように言う。

　「俺はこんなのは嫌です。」

　え？と目を見開くアレックにコリンは頭を振りながら言う。

　「俺はこんなの嫌なんです。…………どうしてあなたは、准尉殿は、こんなやり方であなたの飛行技術を逐一俺に教えようとするんですか。……これじゃ……これじゃまるで遺言じゃないですか。」

　何か言いかけたアレックに話す機会をコリンは与えない。

　「それは帝国から帰ってきてからでいいんです。それまで、ここは俺が守ります。…………俺は准尉殿の飛行を士官学校時代に一度見ました…………そのとき、俺はオオルリに恋したんです。青く広がる空の舞踏会ホールをすべるように踊っているオオルリに。……あまりに綺麗で、いくら手をのばしても届かなくて……自分がオオルリに乗るようになってもそれは変わらなかった。あのときの俺の天使は、いくら追いかけても俺のずっと先にいて、俺のことを振り向いてもくれなくて……とどかないからこそ恋焦がれて、追いつこうとして……だから、俺のために振り向いて、微笑んだりしなくていいんです……このことだけについては、俺は永遠に片思いしていたいんです。……盗めるだけの技術は准尉殿が任務につくまでに盗みます。……だから……今みたいな飛び方はしないで下さい。俺はどうしていいのかわからなくなってしまう。」

　すると、アレックは少しだけ瞑目してから微笑んだ。
　
　「……俺は、ただ、君と飛んでみたかったんだが。……大陸大戦のときにそうだったように…僚機と共に飛ぶ感覚を思い起こしてみたかった。……そして、コリン、オオルリは君の遠くにいるわけではない。もう、君のごく近くにいるはずだ。」

　多分……多分この人は自分とは違うのだ。自分は、前にいるものを追い求めていく。彼のように、近い場所から見守るような器用さを持ち合わせていない。…………横に並ぼうとは思わない。…………もしも追い求めていかないのなら、並ぶより、いっそ自分が先に立ち、突っ走っていくのが性に合う。

　「…………あはは」

　コリンはいつもの軽い口調に戻っていた。

　「俺、女の子追っかけすぎたのかも。……未だに『運命の子』は見つけてないのは並んで貰うのが苦手で誰かしら追っかけていないと気がすまないっていうか？………無事に帰ってきて下さい。そうしたら俺はアレックさんが嫌だって言っても“僚機”にさせて貰いますから。」

　アレックは、その言葉の裏側までもきちんと読み取り、ああ、そのときにはね。と言ってコリンと握手した。

　「でも、盗めるだけのものはしっかりと盗んでくれ。……俺がもしも無事に帰ってくることができたなら、そのときに、この小隊の皆、ロランドの町が無事であるように……コリン、頼んだよ。」


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　アレックが帝国へと飛び立ったのは、それからしばらくたった早朝のことだった。コリンは連日の哨戒任務で疲労はしていたが、アレックを見送ることは不可能ではなかった。が、彼は離着水桟橋へと足を運ぼうとはしなかった。行くのはオズウェルとエリカだけでいい。……エリカは整備士として帝国へと共にいくつもりでいるようだが、アレックが彼女をここに残していくことは、昨晩アレックから聞いて知っていた。そして、オズウェルがエリカをどう思っているかもコリンはよく承知していた。……だから自分は居ないほうがいいのだ。居なくても、死地への旅立ちを見送る気持ちは英雄殿には届いているはずだ。






　彼は病室にいた。相変わらず目を閉じて眠っているルカのそばに、三本脚の木の椅子に座って。


　と、かすかな音が聞こえてきた。

　「聞こえるか、ルカ？准…………いや、アレックさんが飛び立った音だよ。……いい音だろ？エリカちゃん達が作ったアレックさんのための新しいオオルリだ。航続距離は格段にのびた。スペックはアレックさんが大陸対戦のときに使っていたオオルリに似せ、しかもなにもかも上回っている。……そして、とても綺麗な機体だよ。俺たちの乗っているオオルリと同じ青い綺麗な……美しい機体だ。……早く良くなれよ。アレックさん、すぐに用事を済ませてシュレスベルクから戻ってくるからさ。………………そしたら、お前はすぐに空に戻らなきゃいけないんだからな。……約束したんだ、俺。俺はさ、アレックさんの僚機になるんだ。……俺がアレックさんの右を飛ぶ。お前は左だ。…………楽しいぞ。……ただ追っかけるのより楽しいかもな。………………それまで、俺は持ちこたえる。ここを守る………

　………今度こそ、すべてを俺が守る。」


　オオルリは一路敵国へと向かい、コリンはカーテンを引いた病室の中で、ゆっくりと目を閉じ、アレックが目指した方角へと顔を向けた。