空を見上げて |
ゲーム「風色サーフ」の二次創作です。 お客様のpom様より素敵なイラストをいただきまして僭越ながら、文章をつけさせていただきました。 時期はアレックさんED後。結婚後２ヶ月くらいの設定となります。 いつものように「アレックさんがんばれ！アレックさんを幸せに！」 と気合を込めて書いていたのですが……少ししょっぱくなったのもまたいつもの仕様です。 ゲームはすべてのキャラクタールートをクリアしましたが、製作者様の独自裏設定は存じ上げませんので、オフィシャルとかけ離れております。また、ネタバレ満載ですので、ご注意くださいませ。また、ゲームをクリアしていない方にはわからない部分が多々あるかと思いますがご承知置き下さい。 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ |
小鳥が囀っている声が聞こえ、アレックはゆっくりと目をあけた。すると、寝床の中に新妻は既に居らず、既に着替えを済ませてそうっと足音を立てないように抜き足差し足しながら扉へ向かっているところだった。そんな必要はまるでないのに、小川にかかっている細い丸太の上を歩くように、両手を横に広げ、バランスをとっている風にも見える様子に思わずふきだしたくなったのを辛うじて堪え、眠ったふりをする。かちゃり、と小さな音をさせてドアノブを回し、居間へと姿を消したエリカを確認してからふーうと息をついて微笑む。 エリカがユーティライネン姓を名乗るようになって二ヶ月。もう二ヶ月、と思うこともあるが、基本的には「まだ二ヶ月」だ。平日は軍務に追われ、新居でゆっくりする暇もなく、かといって、休日は休日で、不足している雑貨などを買いに出たり、役所に届けを出しに行ったり……実際、今日のように「何も予定がない一日」というのは初めてかもしれなかった。なので、エリカはアレックをゆっくり寝かせておいて、早起きして朝食を整えてちょっと吃驚させようとしているのかもしれない……いや、十中八九はそうだろう。 アレックは早起きの方なので、エリカよりも早く目を覚ましていることが多く、そうでなくても、エリカが目を覚ますと気配を感じてすぐに起きてしまう。……今日エリカが早起きしたのは今まで４度ほど整備の仕事の疲れでぐったり寝こけてしまい、アレックに朝食の準備をさせてしまったことをとても済まながっていたことも関係しているかもしれない。 と、ゴーンと音がした。飛び起きて扉の隙から居間を見ると、居間の向こうのキッチンの床に空のフライパンが転がっていた。エリカに怪我がなさそうなことを確認し、ほっと息をついたアレックだったが、エリカがこちらに慌ててやってきたのを見て慌てて寝台に上って寝たふりをする。エリカは細く扉を開け、アレックの様子を確認すると、また足音を忍ばせて出て行った。 ――フライパンを置いている台所の棚は、小柄なエリカには高すぎるのだろう。もう少し棚を低くするか、上りやすい踏み台を作るか……いや、フォンク亭の厨房のようにフライパンの柄をかけるフックをつけた方が使いやすいかもしれない。大家である家具職人の親方に早目に相談してみよう。 そんなことを考えているうちに、ジュウッとベーコンを炒める音がし、いい匂いが漂ってきた。パタパタ、パタパタ、というかすかな音はスリッパがたてる音。 寝床の中で朝食が出来上がるのを待つ……こんなことはほぼ30年ぶりだろう。子供の頃はこういったことはよくあって、最後は必ず母親が優しく声をかけてくれたのだったっけ。『アレック、起きなさい。お寝坊さんね、朝ごはんよ。』昔を思い出し、本当にうとうとしかけた頃、食事の支度を終えたエリカが部屋に戻ってきた。そして、カーテンをシャッと勢いよくひき、窓を大きく開いた。 「アレックさん、起きてください！朝ですよ。今日は凄くいいお天気ですよ。雲ひとつなくて……きゃッ！」 窓から外を見ているエリカを後ろからきゅっと抱きしめて、耳元で『お早う、俺の奥さん』というとエリカは叫び声を上げて顔を真っ赤にし、ジタバタジタバタと手を動かし、体を捻ってこちらを見上げるようにしながら上ずった声で言った。 「お、お、お早うございます、えと、あの……アレックさん！」 可愛い……犯罪的に可愛い。所帯を持つ以前、ナカジマから、『ずっと年下の嫁さんってぇ奴はひたすら可愛いぞ。』と冷やかされ、『わかっていますよ』と惚気たことはあるが……これは…… 予想を遥かに上回る可愛らしさに40過ぎの男の頬にもさっと血がのぼった。 「……………………あー、エリカ、うん、よく晴れているね。」 「で、ですよね！洗濯物が素敵によく乾きます！そりゃあもう恥ずかしいくらいに」 「そうだね、恥ずかしいくらいに……え？恥ずかしい？？」 二人は顔を見合わせ、涙が出るほど笑い、アレックが身支度を整えるとすぐに朝食が始まった。手の込んだメニューではないが、セルジュにコツを教えて貰ったというオムレツは、少し形が崩れていたが見事にとろりと半熟で、おいしいよ、というとエリカはエプロンを両手でくしゃっと握って笑顔を綻ばせた。 朝食が済むと、エリカは洗濯にとりかかり、アレックは台所の洗い物と掃除を始めた。自分達が空から帰還してから時には長時間整備にかかりきりになり、結果睡眠時間が相当削られること、整備の仕事が女性にとって激務であること、をよく承知しているアレックは、家事をエリカに任せることをよしとしなかった。また、どこからどこまでがどちらの仕事、と線引きすることも嫌った。 『帰ってきて疲れて居ない方、手が空いている方が、家の仕事をするようにしたらいいよ。二人とも手が空いていたら一緒にやればいいし、二人とも疲れていたら、少しさぼって最低限のことだけなんとかやればいい。整備士とパイロット、どちらか一方でも倒れたらもともこもないからね』 実際、この年になるまで、身の回りのことはひとりでやってきた彼にとって、家事というものは日常生活の一部であり、伴侶を得たからといって自分がそこから撤退する理由というのはこれといって見当たらなかったのだ。 アレックが床掃除を始めるころにはエリカは小物を窓から吊るし、シーツはよく絞って大きな金盥に入れて玄関から出ると階下に下っていった。それを追ったアレックは、高く張られた洗濯ロープにシーツを綺麗にかけようと難渋しているエリカを手伝い、いともやすやすと洗濯ばさみでシーツをとめた。風に翻るシーツの向こうに青空がある。二人してそれを眺めているのを大家の老人は家具屋の店の中から目を細めて見守っていた。 やるべきことを終えると、エリカは製図机に図面を広げ、アレックはソファーにゆったりと座って読書を開始した。少年の頃に大好きだった物語は今新たにページを開くと若い頃には想像すらしなかった苦さにも気づき、しかしひたすら懐かしく優しく彼の心に沁みこんでいく。時折顔を上げ、エリカがカリカリと図面に鉛筆を走らせているのを見るのも嬉しく、穏やかな時間がゆっくりと過ぎていった。 しかし、何度目かに顔を上げたとき、エリカは机に突っ伏していた。 「エリカ、どうしたんだ!?」 慌てて駆け寄れば、エリカはむくっと体を起こし両手で髪を掻き毟った。 「す、すみません、なんてもないんです。詰まっちゃっただけで……」 覗きこんだアレックに、図面の一点を、短く切った人差し指の爪で弾く。 「オズウェルに出された宿題なんですけど……」 エリカは腕のよい整備士であるが、技術学校に通っていたわけではない。整備のイロハも飛行機の設計も、本からの知識と実地の経験だけから身につけたものだ。……そのため、工学の専門知識に大きな穴があることはエリカも認めていたが、今更学校に通うわけにもいかない。悩んでいたところにオズウェルが助け舟を出してくれたことをアレックも知っていた。オズウェルが工学と設計についての課題を出し、それに対してエリカが纏めてくる……そうやって勉強を重ねてきたのだ。 エリカの指の先には翼の図面があった。オオルリとは違い、ごく普通の位置にエンジンを搭載した標準的な型である。 「……具体的にどこが詰まったんだい？」 「……私、実際の飛行機はオオルリしか見ていないんです。エンジンを翼の上に積むためにどのような工夫がされているかはオオルリＢの図面をひいたとき、それなりに判ったんですが……こういう型の場合、翼と機体胴体の接合部と翼のラインがどうにも納得できなくて……どこがどう、というか全体的に。」 呻くエリカの横でアレックは鉛筆の線に目を走らせる。アレックは昔、この図面のようなタイプの機体、マーティンを乗機としていた。そのため、細かな知識はなくとも、図面上の欠陥はすぐにわかった。 「……この辺りじゃないのかな。」 問題の箇所を具体的に指摘するのではなく、彼はわざと大きく丸を描く様に図面をなぞった。エリカは答えを教えて欲しいわけではないのだ。その場を切り抜けることではなく、自ら試行錯誤し失敗を重ねながらも確かな知識を身につけることを目的としている。……だから、アレックもヒントは与えても甘やかしはしない。これ以上のことを教えるのは自分ではなくオズウェルや親方の役目だ。 エリカは示された範囲をじっとみつめ……再び髪を掻き毟った。その乱れた髪を大きな手が優しく梳く。 「君は熱中するとすぐに根を詰めすぎてしまうね。行き詰ってしまったら気分転換も必要だよ。……折角の休日なんだし、ね。太陽も随分高くなったよ。」 開け放たれた窓からは青い空と街路樹の緑が見えた。エリカはうん、とのびをして、夫を見やる。 「朝と同じにとってもいいお天気……」 「そうだね、外を歩いてみるかい？」 夫の提案に、エリカは両手をパン、と合わせて椅子から立ち上がった。 「あ、じゃあ、あの丘に行きませんか？この時間なら、あの子たちがきっとよく見える…」 はしゃぐエリカにアレックが微笑む、その微笑にエリカが顔を赤らめ……ほどなく二人は家の鍵をかちゃりとかけて散歩へと出発した。 途中、フォンク亭に寄るとさささっとセルジュがすぐにやってきた。 「いらっしゃい、エリカ姉ちゃん、アレックさん。えーっと、お昼の定食でいいかい？」 「いや、今日はちょっと外で食べようと思ってね。軽食を包んでくれるかな？」 「前にセルジュが教えてくれたあの丘に行こうと思うの。」 「そっかー！うんうん、今日は天気いいしな。サンドイッチでいいかい？母さーん、アレックさんたちピクニックに行くんだって。サンドイッチ二人前よろしくー！う〜んと精のつくもの山盛り挟んで……いってっ！」 頭に衝撃を感じたセルジュが振り向くと、トレイを振り上げた姿勢でふんわりと微笑んでいるサラがいた。 「うふふ〜セルジュ、お昼から精のつくもの挟んでどうするのよ。……こういうときに必要なのはそんなものじゃなくって『ロマンチック』なお弁当なのよぉ、ね、アレックさん、すぐ作るからちょっと待っててねぇ。」 同意を求められても二人は顔を見合わせるしかなかったが、セルジュもサラも厨房に飛び込んで作業を始めた。ほどなく手渡された昼食は洒落た籐の籠にあれやこれやと色々入っていた。サンドウィッチは勿論、林檎に、葡萄に……ジュースの瓶にコーヒーのポットまで……。こんなに沢山は申し訳ないと言うと、おかみさんは、いいのいいの、常連さんにはサービスよ。エリカちゃんがうちのセルジュの姉さんなら、あなたたち二人はあたしの子供も同然なんだから。と多くの金額を受け取ろうとはしなかった。 セルジュたちに送り出されて丘への道を歩く。エリカは籠を下げたアレックの右へ、左へ、まるで大好きな主人と一緒に外出した子犬のように彼のまわりをくるくると歩き回りながら坂を上っていった。 もとより何か目的があるわけではない、ゆったりとした時間。草の上に座り、コップを取り出し、林檎ジュースを注ぐ。時折サンドウィッチを摘みながらどうということのない話をし、頬に風を感じ、青草の、湿った土の香りを鼻腔に吸い込む。やがてアレックは小さなスケッチブックと綺麗に削った鉛筆、それに消しゴムを取り出し、丘から見えるロランドの街の風景を写生し始めた。エリカは絵を描いているアレックが好きだった。教導官として、パイロットとして日々の軍務に携わっているときの、穏やかながら凛とした表情も好きだが、こうして鉛筆を走らせているときの彼は、時折見せることがある苦悩のようなものはなく、ひたすら優しい表情をしている。……それがエリカ自身の顔も和ませた。 自分の描くスケッチに見入っているエリカに気づいたアレックは、照れたように紙面を左手で隠した。 「ごめん、見つめられているとちょっと照れくさいね。……あ、エリカ。空をご覧。」 ３機のオオルリが空に現れた。先頭を飛ぶコリン機について飛ぶ二機は、まだ少し位置取りに苦心しているようだが、それでも立派に編隊を組んで、空を行く。エリカはじっと空を見上げる。 「不思議です……小隊のドック近くでも同じようにオオルリの飛行を見ているのに、なんだか、ここで見るあの子達はいつもよりもずっと気持ちよさそうに飛んでいるように見えます……お天気がとってもいいからでしょうか。」 アレックはゆっくりと頷いた。平時に空を飛ぶ青い機体はほんとうに美しい……飛ぶ目的が軍事訓練であると知っていても、今、ここから見る彼らはエリカの言う通りに見えた。 と、エリカを見、彼は微笑んだ。オオルリの飛ぶ姿は美しいが、オオルリを見る彼女の表情はそれより余程美しい。……描きたい……描いて残したい……しかし、描けるのだろうか。ゆっくりスケッチブックを取り上げ、鉛筆を持つ。……そう。鉛筆の先を紙にあて、輪郭をとり……だが、紙に引かれた線は不可思議に乱れていた……左手で右手首を取ると、指先が小刻みに震えているのがわかる。……体は正直だ。人を描こうとすると反射的にこの反応が起こる。……もう俺は空に戻れた……もう俺は飛べる……目を一度閉じ、そう念じると震えは徐々に収まったがその代わりに動悸を覚えた。どくんどくん……体そのものが心臓になってしまったように大きな拍動をこめかみの動脈に感じる……その重苦しい空気を溶かしたのは愛する伴侶の笑顔だった。空を見上げるエリカをじっと見つめているうちに動悸はすっと溶けるように消えた。 大丈夫。描ける……柔らかな頬のラインも、滑らかな髪の流れも……暖かな陽だまりのような笑顔も……最後に頭の後ろにちらっと見えるリボンを描きこんで、スケッチは完成した。 と、エリカが空から目を下げてこちらを見た。……先程まで空を舞っていたオオルリは姿を消している。予定ではこのあと暫くして、第二班の二機を加えた五機編隊での訓練が行われるはずで、今はその小休止だ。エリカは広げられたスケッチブックを見、頬を紅潮させた。 「まあ！……これ、さっきオオルリを見ていたときの私ですか？」 「うん。……急いで描いたからできはよくないけれどね。」 「そんなことありません！……素敵に描いてもらえて嬉しいです。」 スケッチブックをきゅっと胸に抱きしめるエリカにアレックは笑いかける。 「いや、実物の方がずっとずっと素敵だよ。……エリカはいつだって俺の女神様だからね。」 「え、ええええええ？？」 何気なく言われた物凄い言葉に顔を赤くしているエリカにアレックはコーヒーを注いで渡した。 「はい、一口飲んで落ち着いて。そんなに驚かないで。本当のことなんだから。」 自分も一口コーヒーを飲むとアレックは草の上に仰向けに横になった。エリカはその横に座り、空を見る。 「……何度も言うようですけれど、本当に綺麗な空ですね。……あ、あの子達、また来ました！」 「……少し編隊が乱れているね。……コリンも彼らの技量を測りきれて居ない。飛ぶのが速過ぎる。」 「んもう、今日はお休みなんですから、アレックさんは訓練のことに口出ししちゃ駄目ですよ。」 「そうだね。……あとでやんわりと注意喚起するだけにするよ。」 二人は空を向き、揃って機影を追う。 オオルリが降下したとき、視線を下に落としたエリカはアレックの顔を見た……穏やかにまっすぐに空を一直線に見つめる顔…… ……そして、エリカは、空になりたい、と思った。大好きな人が安らいで見上げることができる空に。……自分という人間は小さくてまだまだ成熟していなくて、とてもあんなに澄み渡った空のようにはなれそうにないけれど……せめて自分の中に『空のようなもの』を持ちたいと思った。 オオルリが上昇したとき、視線を上に上げたアレックはエリカの顔を見た。……先程からと変わらず、眩しいほどの笑顔で平和な空を見上げる顔…… ……そして、アレックは、空をエリカに与えたい、と思った。彼女の頭上に広がる青い平和な空を。……自分は空にはなりようもない。底のない暗いものを胸の内に抱えてしまっているから……しかし、彼女がこうして無邪気に空を見上げることができる日々を創ることに身を捧げることはできるだろう。 |
 |
……二人は暫くそうしていた。オオルリは軽やかに舞う。青い海の中を泳ぐトビウオのように、そしてその名のとおり、小鳥のように…… 再びエリカの顔を視界に入れ、アレックはスケッチブックを手にして起き上がった。 空を見上げ、嬉しそうに邪気なく微笑むエリカに、彼は記憶を揺さぶられた……同じ茶の髪、緑の瞳……空への憧れ……軍人であるには純粋すぎるほど飛ぶことを愛していた青年。彼はパイロットとして他者の追随を許さない天性の才能を持っていたが、謙虚で、頑張り屋で気持ちのいい青年だった……あのときには、まだ十代の若さで…… “准尉殿！” 彼は言った。 “自分は、パイロットになったこと、准尉殿のもとに配属されたこと、オオルリで飛べることを幸せに思います。” ……いつか、描かねばならない。…………エリカと同じように飛行機を愛し空をまっすぐに見ていた彼のことを……それは今なのかもしれない。……描けるだろうか…………おそらく、彼を描けるようになるまで今でも時々みる悪夢からは逃れられない。アレックはスケッチブックをめくり、鉛筆の先を紙につけた。そのまま鉛筆を握る手に力を入れる。骨格を描き……ユクトランド国軍の軍服を描き……顔の輪郭を描き…… 脳裏に浮かんだ青年の笑顔が崩れる。 准尉殿、と彼は叫ぶ。なぜですか、どうしてですか、何故、何故………… 何 故 自 分 は 死 な ね ば な ら な か っ た の で す か 血、血、大量の血、おびただしい血……そしてすべてが反転する。光は暗闇となりあたたかな空気は凍りつき見上げた空は青ではなく血の色だった。 「アレックさん！」 遠くで誰かが名前を呼んだ。 「アレックさん！大丈夫ですか！」 反転は元に戻っていた。強い力で押し付けられた鉛筆はぽっきりと折れ、ぎざぎざの無残な断面を見せている。 色の反転はもとに戻り空は青く穏やかに広がっている。アレックは折れた鉛筆をさっと掴んでポケットに隠すようにしまった。 「大丈夫ですか？顔色が真っ青です。」 「ああ、……すまない、恥ずかしいところを見せてしまったね。」 エリカは首を横に振った。 「そんなことありません！……恥ずかしいだなんて。人が苦しんでいることが恥ずかしいなんてことありません！」 エリカは鉛筆を強く押し付けられてひどく凹んだ画用紙を見た。そこには未完成の肖像画が描かれている。彼女は不安げにしていたが、それが誰なのかを聞かなかった。……『あの事故』に関係がありそうなことをエリカは決して自分からは質問しようとしなかった。結婚前も、結婚してからも……だから、アレックは自分から話した。 「彼はね……もうこの世には居ない人間なんだ。……生きていた頃……もう十年近くも前になるけれど、彼は空と飛行機を誰よりも愛していた……」 夫の腕が震えているのを目ざとく見つけたエリカは、しかし、それ以上追求はせず、そっと彼の手をとった。……彼女にはもう青年が誰なのか想像がついていた。 「……曇りのない目で空を見る人間だったよ。……君に似ている……俺はそう思っている。」 「……だったら……」 随分と考えてから、エリカは決然とした声で言った。 「私、この人の分まで、この青い空を、オオルリを見ます……私はこの人のことを知りませんけれど、……空を見るたびにこの人を思い出すようにします…………私が、私なんかがそうしてしまってもいいですか、アレックさん…………」 そう言われたアレックはゆっくりと頷いた。 スケッチを描き続けることはできなかったが、もう、手は震えていなかった。二人は微笑みあい、……エリカは背を夫に預け、アレックの手をぎゅっと握り、二人は同じ向きに視線を揃えて改めてオオルリを眺めるのだった。 |
| pom様、素敵なイラストを有難うございました！ 美麗なだけでなく、隅々までこまやかな気配りが感じられ、初めて拝見したときに、震えがきました。アレックさんが描いたエリカちゃんのスケッチは、それだけでも作品として成り立つ完成度で、もう、こんなに素敵なものをいただいてしまって、いいのだろうか。イラストに話をつけるなどと気軽にお約束してしまったけれど、できるかしら、と、喜びと畏れ多さが頭の中で脅威のコラボレーション状態となり随分お待たせしてしまいました。 幸せな二人のイラストに触発され、前半部分は一気に書き終え……あとから読みかえしましたら完全バカップル状態で憤死しそうになりましたが、この二人はこれくらいデレデレさせてあげてもいいかしらと思い直しましてそのまま突っ走りました。で、最後まで突っ走れるかと思いきや、その後、私の悪い癖が出まして、しょっぱい話になってしまいました。空に戻ったアレックさんですけれど、あの事故のことは一生背負っていくに違いありません。そして、エリカちゃんにはその詳細を中々教えそうにない気がします。(彼女を必要以上に悩ませないために)。空に憧れ、空から離れられない二人ですが、所帯を持って落ち着いてきたら、「空を飛びたい」というよりも「大好きな人の為にその人が好きな空のような存在になりたい・そんな空を作りたい」という考えが出てくるのじゃないかなと思います。 事故で死んだ青年のことはエリカちゃんと同じ茶の髪に緑の瞳、そして、相貌はルカにちょっと似たキャラクターだと設定しています。彼の肖像画を完成させることができたとき、もしかしたらアレックさんは「ほんとうのこと」を話せるようになるのかもしれません。……最愛の人と一緒になったからといって、それだけですべてが解決するなんてこと、あり得ないはずですから…… それではpom様、どうにも甘い幸せなお話に終始できませんでしたが、どうかお納め下さいませ。 |
戻ります |