敬礼！ |
「けーれー！」 小さな女の子が右手を庇のように頭にあてて、にこにこと笑う。女の子の目の前にしゃがんでいる体格のいい男は、目を細め、その小さな柔らかい手を指でそっと掴んで向きを変える。 「エリカちゃん、敬礼はこうするんだ。掌は自分の方に向けるんだよ。」 女の子はうん、と元気良く頷いた。頭に結んだ大きな赤いリボンが頭の動きに合わせてひらりと揺れる。 「けーれー！」 女の子はまた敬礼をする。今度は男に言われたように掌を自分の方に向けて。 「そう。ああ、でももっと肘は上に上げるんだ。」 女の子はひじをぐぐぐぐっと上に上げた。 「クーおじさん、もっとうえ？」 「ああ、もっと上だね。」 女の子はもっと肘を上げる。 「これくらい？」 「まだ、もうちょっと。」 「これくらい!?」 「そう、それくらいだね。」 女の子は一度腕を下ろし、気を付けをしてから男の顔をあどけない緑の大きな瞳でじっと見つめる。男はしゃがんでいたが、それでも小さな女の子の視線は少し斜め上を向いている。 「クーおじさん！けーれー！……これでいい？」 「うん、上手になったね。」 わしわし、と大きな掌で女の子の髪を撫でると、女の子は蕩けるような笑顔で“クーおじさん”に抱きついた。そこに、女の子の母親がトレイを持ってやってきた。その上にはミルクティーなみなみと注がれた大きなマグカップが乗っている。すると女の子はクーおじさんから離れ、母親のところに走っていってくい、とスカートを引っ張った。 「あのね、おかあさん、クーおじさんにけーれーをならったの。けーれーって、くーおじさんがあいさつするときにつかうの。ほら、みて、みて、けーれー！！」 さっき男に習ったとおりに女の子は母に向かって敬礼してみせた。リズはテーブルにトレイを置くとよくできました、とわが子を褒めてから、クラウスに笑いかける。 「エリカのことを見ていてくれて有難う、クラウス兄さん。」 クラウスは幼なじみの笑顔に、わざとコホンと咳払いしてみせる。 「子供の扱いは慣れていない。正直どう対処していいのかここに来るたびに困っている。」 「あら、困らなくていいわ。エリカは兄さんのことが大好きなの。今日だって朝からクーおじさんはまだ？いつ来るの？ってはしゃいじゃってはしゃいじゃって。整備工の皆のところを一人ずつまわって、今日はクーおじさんが来るのよ、ってそりゃあもうたいへんだったんだから。」 そんな母親の足元で、またエリカはクラウスに敬礼してみせる。クラウスは律儀に正式な型で敬礼を返した。 「……あら、本当にあなたとそっくり同じように敬礼ができるのね。」 「…………軍のたるみ気味の連中よりもよほど気合の入ったいい敬礼をしているよ、リズ、君の娘は。」 うん、そうね、エリカはいつだって気合が入っている子なのよ、とリズは嬉しそうに言ってクラウスに椅子に座るよう勧めた。 「うちの人、もう少しで上がってくるからこれを飲んで待っていてね。……あらあら、エリカったらまたお母さんに敬礼してくれるの？…………ふふ、いっぱしの兵隊さん気取りなのかしらね。」 するとクラウスは眉間に皺を寄せた。 「エリカちゃんのような子が軍に入るなんてことはあってはいけない……」 リズは笑う。 「もう、クラウス兄さんは真面目なんだから。……あたりまえでしょう。この子は軍人になんてならないわ。大きくなったら……きっと……うちの人のあとを継いで自動車整備工になるんじゃないかしら。そうだったら嬉しいわ。」 クラウスは紅茶を吹きそうになった 「……普通、母親というものは、娘を身持ちのいい男のところに嫁がせたいと思うものじゃないのか。自動車整備工……女の子がかい？」 「あら、この子は自動車がとっても大好きなのよ。もう、アントニーの傍でお手伝いしているわ。アントニーも少しずつ自動車のことを教えていて……子供が親の仕事を継いでくれるのは、そりゃあ嬉しいことなのよ。」 「……整備は汚れ仕事で、女の子のやる仕事じゃない。……だのに、それが嬉しいのか。変わっているな、君も。」 リズはくすくすくすっと笑い、髪に被っていた三角巾を外し、ウェーブのかかった豊かな茶の髪を手櫛で整えた。 「そりゃあ、この子が男の子だったら……って思ったこともあったけれど、自動車をいじっていることがこの子にとって楽しいのなら、あたしなんかががその楽しみを奪っちゃいけないと思うわ。大丈夫よ。いつかは機械いじりが大好きな女の子を好きになってくれる人が現れて、その人がエリカをお嫁さんにしてくれるわ。この子の『機械いじりが大好きなところ』もまるごと好きになってくれる人がね。……誰かが手を汚してしなければいけない仕事があるなら、私は手を汚して皆のために働く人を尊いと思うわ。……そして、自分の娘は手を汚す側であって欲しいの。……うーん、綺麗好きよりお掃除好きになって欲しい、そう言えば判ってもらえる？」 クラウスは、判る、とも判らない、とも答えなかった。 エリカは大好きな母とクーおじさんの両方に向かって 「けーれー」 と、大きな声で言ってぴしっと手を構えてみせた。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 目の前には2人の若者が居る。士官学校から来た青年は、慣れた様子で敬礼をした。 「ルカ＝フォルゴーレです。航空分隊、第一航空班パイロットとして着任しました。」 うむ、と答えた男は不機嫌と思えるほどに厳しい顔をしたまま、傍らの少女に目を移した。 「そちらは？」 「は、はい、エリカ=アレーニアです。支援分隊、第一整備班整備兵としての着任になります。」 男は冷たい視線を少女に向ける。 「敬礼の型が違う」 少女の目が少し見開かれ、さっと顔色が変わる。 「こうだ。腕はもっとしっかり上げ、肘を張れ。手のひらは相手に見せるな。」 「は、はい。すみません」 ………………小さな頃に教えたことを覚えているはずもないだろうが、言われて慌てて直した少女の敬礼は、初めてにしては妙に整っているように見えた。 あの小さな手は母親が言ったように汚れ仕事を厭わない手なのだろう。年頃の娘達は香水をつけるものだろうが、あの子はエンジンオイルの匂いを纏う。 ……だがしかし、軍人に向くとは思えない。彼女は自動車整備工であって、軍人として育ってきたわけではない。数多の苦労を背負い込むことは必至だ。……少女が優しい子であることを男は知っている。……彼女はここに来るべきではなかった。老いた父の代わりに軍務に就く……その心情は痛いほどわかるが、やはり来るべきではなかったのだ。 男にできることはあまりない。……ただ……その小さな手を血で汚すことがないよう、軍務に励むことしか…… 『けーれー！』 彼に向かって無邪気に敬礼の型をしてみせたあどけない幼児の姿が彼の脳裏を掠めて……すぐに消えた。 「よし。」 男は緊張しきっている少女の顔を見、軽く頷いた。 |
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