| 1 逃げて逃げて逃げて |
| タッタッタッタッ・・・・ タイルを敷き詰めた堅い灰色の長い廊下を一人の男が軽快に走っていく。途中から足元は打ちっぱなしのコンクリートへと変わった。男の足取りは軽く、リズムは狂わない。 彼は軽装で銃は持っていない。長身の細身の体にぴったりとフィットしたモノトーンの服には何本かの鎖が下がっており、走るのに合わせてしゃらしゃらとごく小さな音をたてた。 ややあってから同じ場所を十人の兵士が男を追ってきた。こちらは全員ヘルメットをかぶり銃を構え完全な戦闘装備だ。 一人対十人。どう見ても追われている男は不利だったが、数で勝っているはずの深緑のいかつい戦闘服に身を固めた兵士は一様に厳しい表情をしていた。 追われている男は建設中でまだ骨組みだけの螺旋階段の手摺りを長い足で乗り越え、勢いをつけて高低差四メートル弱を飛び下りた。癖のある固い黒髪がかすかに揺れる。 「止まれ！マリオ リベラ！」 階段の上から兵士の一人が叫んだ。様子からすると部隊長といったところ。叫んだ兵士の後ろでは一斉に九個の銃口がマリオを狙う。 マリオは足を止めた。切れ長の鋭い目が兵士を見据え、冷笑的な口が開く。 「止まれと言われて止まる逃亡者がいるか？好みの女に呼ばれたんなら非常時でも止まってやるけどなぁ・・・・しかし大げさな奴らだぜ。銃を持っていない俺にレーザーガンにライフルとはな。俺は建造物損壊専門で人殺しでも強盗でもないんだが？」 「うるさい！」 威嚇するために一人が発砲した。レーザーは天井に焼け跡を作った。 マリオは慌てない。額に下がってきた前髪を長い指でさっと掻き揚げた。 「あ〜あ。新品を汚しちまいやがったな。このビルは完成すれば政府の最高会議が開かれるいとやんごとなき建物なんだぜ。・・・・・あんたら、大げさな上に悪い奴なんだな・・・おれがもう少し多忙でなかったら政府のためにあんたらを訴えるところだ。俺が多忙でよかったな。」 兵士たちの顔が怒りで赤黒く変わった。引き金にかけた人差し指がピクピクと震えた。怒るのも無理はない。この建造中の高層ビルはシティから少し離れた更地にそびえている。そびえているのだ・・・が・・・六十階まで一度は組み上げられたビルは現在五十階までしかない。その上は爆破されて消しゴムで消したように綺麗になくなっている。それは兵士たちの目の前にいるマリオ一人のせいなのだ。 兵士の一人がレーザーガンについているつまみを操作した。光線をパラライズ（マヒ）領域にパワーダウンさせている。それは威嚇以外で撃ってくる証拠だ。初めてマリオの瞳が真剣な光を帯びた。彼は胸ポケットに付けられている大きめの鎖を引きちぎって投げ付けた。先にはボタンがついている。ボタンは床に落ちると即座に高速度で回転しはじめもうもうたる煙を発生した。すぐ先も見えない。その隙にマリオは素早く駆け出した。 口では大きなことを言っていてもマリオは焦っていた。爆破の現場でこんなに長時間追われてしまったのは過去十回を越える犯行で初めての経験だった。 ”今回のヤマは罠だったか？” 逃げながらマリオは考えた。 確かに警備は緩かった。しかしまさか自分のような人間一人の捕縛の為にビルを一つ破壊していいと政府が考えたはずもない。 いや、実際マリオが考えたとおり罠だったのだ。ただ、政府はマリオに爆破をさせる前に捕える計画だった。マリオがそれを出し抜くほど巧妙に行動していただけの話だ。 ”・・・・ったく、ドジな話だぜ。” マリオは自分に悪態をつくと工事中のエレベーターの扉を小さな爆薬で破壊し、ケーブルに飛び付いて五階ほど下まで下がった。 しかしそこには別の兵士達が待ち受けていた。肩に付けられたコスモ・アーミー（宇宙連邦正規軍）のコバルトブルーの階級章がまだガラスのない窓から射し込んでいる直射日光で反射して意地悪くきらりと光った。 「マリオ！お前はもう包囲されている。じたばたせずに止まれ！射殺されたいのか！」 ”射殺だと？その方がいい。・・・・捕まればグロ星の強制労働キャンプ送りだ。死んだ方がマシだぜ！” マリオはベルトのバックルについている小さなボタンを押し、目を押さえて投げた。今度は光弾だ。まばゆい光があふれ出る。 兵士は目が眩んでうずくまった。彼らが視力を取り戻したとき、マリオの姿はなかった。 爆破屋はふうっと息をついた。が、ほっとしたのも束の間、またもや別の兵士が現われる。逃げ、追い付かれ、逃げ、追い付かれまた逃げ・・・・・逃げる狐は身軽で知恵があったが、いくら追っ手が愚鈍な狸でも数で狐を凌駕していた。 マリオの呼吸は荒くなってきた。走ろうとするが足がなかなか前に出ない。と、視野に入る建物の天井や壁が酸欠のためかぐらっと歪んだ。冷たい灰色のコンクリートの上に足がもつれて彼は転んだ。顔面が床に当たり、口の中が切れた。 ゆっくりと立ち上がると、彼は文字どおり兵士に取り囲まれていた。彼は唾を吐いた。血液の混じった唾液が床に飛び、彼は黒いブーツでそれを踏み付けた。兵士たちは薄笑いを浮かべながら近寄ってくる。マリオはそっとブーツの止め金を外し、爪先で床を打った。・・・・・・彼の靴には強力な爆薬が仕込んである。あとのことはともかくそれを兵士に対して使えばこの場は突破出来そうだった。 しかし、彼はそうしなかった。 その爆薬を使えば、兵士たちは体を引き裂かれて死ぬことになる。それはマリオのポリシーに反することだった。 ”・・・・美しくねぇからな。人間が粉々になると。” マリオは”しゃ〜ないか。”といったように肩をすくめると、ブーツの止め金をしっかりとかけなおし、座り込んで兵士の来るのを待った。 「ほら、来いよ。俺は追いかけっこにはそろそろ飽きちまったぜ。」 ”よく考えりゃ、死ぬより強制収容所の方がマシかもしれねえ。逃げだせる可能性もなくはないからな。” ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ そこからかなり離れた惑星リマン中央情報処理センター。 きっちりと四角い窓の無い建物の中には目に優しい人工光源の柔らかな光が満ちていた。エアコンからのそよかぜがときどき・・・・それが自然の風であるかのように吹いてくる。 淡い緑色で統一された部屋。水平線と垂直線だけで構成された室内は塵一つなく気持ち良い。 大きな部屋の中には独立したブースが十個ほど三方を壁に囲まれて設置されていた。それぞれのブースには真四角な白い机があり、その上にはコンピュータのキーボード。 コンピュータ技術者達は無言で自分の課題と取り組んでいた。 ケイン ソーンダイクは暇だった。与えられた処理すべき仕事はすべて済んでしまった。いつもならばその次の仕事が初めから用意されているのだが今日はそれがない。仕事を与えた上司はソーンダイクがこんなにも早く仕事を終えると考えてはいなかったのだ。 他にすることもないので、彼はキーボードの上のホームポジションに指を軽く乗せ、入力待ちの印の出ているディスプレイを濃い茶色のサングラスを通してボーッと眺めていた。 ブースを離れて休憩室に向かう技術者が 固まったまま動かないソーンダイクに気付いた。 「ソーンダイク？」 ソーンダイクは答えなかった。・・・・いや、彼はソーンダイクの声を聞いたことがなかった。業績からすると非常に有能な技術者であるらしかったが無口で極めて人付き合いが悪かった。悪いどころの話ではない。誰かに言われなければロボットと間違ってもおかしくはない男なのだ。 だからソーンダイクに声をかけた男も、ソーンダイクの血色の悪い表情のない顔、ひょろ長い体躯が呼吸をし、生きているのを確認すると出ていったのだった。 まわりからキーボードを叩く小さな音が音楽のようにひっきりなしにソーンダイクの耳に入ってきた。 久しくこんなに暇になったことはなかった。画面を見つめるソーンダイクの目がサングラスの後ろで糸のように細くなって笑った。 何かができそうだった。 彼は子供の頃からコンピュータの使い手だったが、自分がどれくらいのことができるのか今ここでやってみたくなった。人はこういう動機を ”知的好奇心をくすぐられて” と評するかもしれない。 ・・・・とにかくソーンダイクはやってみたかったのだ。 何をやろうか？ 先程までやっていた仕事は銃の特許に関する検索だった。それをぼんやりと眺める。 ソーンダイクはやることを決定し、機関銃のごとくキーボードを叩き始めた。 二時間後、彼は満足した。終業時間が来たので、ソーンダイクは部屋を退出した。彼のしたことの結果はプリントアウトされ、机に積み重なっていた。 その夜遅くなってからセンターの地下にあるソーンダイクの私室を二人の人物が訪れた。一人は情報処理センターの責任者。もう一人は公安委員会の制服を着た大男だった。 責任者が訊ねた。 「ケイン ソーンダイク研究員。これは君が打ち出したものか？」 彼の手にはソーンダイクの机に重ねてあった紙が握られていた。 灰色のデスクチェアに背筋を伸ばしてきちんと腰掛けたソーンダイクは頷いて肯定した。 「馬鹿な！このセンターの末端からどうやってプロテクトのかかったコスモ・アーミーの軍事機密を引き出せた？何のためにこんなことをした。」 ソーンダイクは黙って総裁を見つめていた。馬鹿といわれても現に印刷結果を握っているではないか。それを認めないという総裁は論理性に欠けると考えられる。それにこの男にプロテクト外しがいかに楽しい作業だったか伝えようとしても口下手のソーンダイクにはできそうになかった。ゆえに彼は沈黙を守り続けた。 公安委員会の男が電磁手錠を懐から取り出した。 「ケイン ソーンダイク。君を危険人物として連行する。これ以降君の身柄は公安委員会が拘束する。」 そのときやっとソーンダイクは自分が捕えられるのだとわかった。いくら感覚が一般人とかけ離れている彼でも捕えられるのは嫌だった。彼は、キーボードをひたすら打ち続ける毎日の生活を気に入っていたのだった。彼は私室の入り口から奥まで四メートルの距離をゆっくりと歩いて逃げ・・・・すぐに捕まった。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 市街を抜け、気持ちの良いＢ級市民の住宅が建ち並ぶ地域を、灰色のジャケットを着た男が歩いていた。 ごみごみした胡散臭いロフトもなければ、近寄りがたい豪邸もない。ここは穏やかな生活の匂いがある。 吹きわたる風は爽やかで糸杉の並木をさやさやと揺らした。どこかからキャッキャッとはしゃぐ子供の声が聞こえる。男は三十代後半、胸板厚くがっしりした体躯。彼は良き夫、良き父であった。コスモ・アーミーの大尉であり、上官からも部下からも・・・・特に部下から信頼されていた。 そう、つい五日前までは。 また子供の声がした。男の横にある児童公園で赤いスカートをはいた女の子がよちよちと若い母親に近付いていくところだった。男は目眩を感じ、左手の甲で瞳を拭った。彼は先程、諜報活動に絡んで殺されてしまった妻と小さな娘を自ら庭に埋めたのだ。彼以外は誰も・・・・軍の者もそのことを知らない。 彼の髪と同じ色のグレイの瞳は潤んでおり、手の甲には一筋濡れた跡がついたが、そのあと立ち止まって空を見上げた彼の目には決然とした意志の輝きがあるばかりだった。 何者かの気配がした。 おそらく追っ手だ。 男は住宅地に続く雑木の茂る丘陵地帯へと走った。追っ手とはいずれ対決せねばならないと彼は判っていた。それが避けられないものならば場所くらいは自分で選択しておきたかった。 一時間ほどして、人気のない雑木林の中で男は追っ手と対峙していた。追っ手はレーザーガンを構えた。コスモ・アーミーのエムブレムがレーザーガンには彫りこまれていた。 「これで終わりだ、ロマノフ。俺の他に何人かの仲間がここに向かっている。・・・・お前のパートナーはどこに逃げた。」 ロマノフは首を振った。 「・・・・知らない。知っていても私は教えなかっただろうが・・・・」 「なにをふざけたことを・・・・いいか、あいつは諜報活動して得た情報を政府の敵に売り渡した裏切り者だ。何故あいつをかばう！何故あいつの逃亡を幇助した！・・・・おまえ自身も犯罪者になったのだぞ。」 「・・・・我々人間は自由なはず。・・・・私はしたかったことをしただけだ・・・・。」 追っ手はロマノフの足を撃って動きを止めようとした。その瞬間、追っ手の銃は跳ねとばされた。ジャケットの懐から小型の拳銃を取り出したロマノフが驚くべき正確さで引き金を引いたのだ。 追っ手は呆然と木々の間に転がっている自分のレーザーガンを眺め、弾がかすって血が流れている手を押さえた。そして土の上に膝をついて呻いた。 「おまえがコスモ・アーミー随一のスナイパーというのは噂だけではなかったようだな。・・・・しかしこれほど抜くのが速いとは思わなかった。さあ、殺すなら一思いにやれ。」 ロマノフはポケットから白い大きなハンカチを取り出して相手の手にしっかりと巻いて血を止めた。 「何の真似だ？」 追っ手の顔には心の底からの驚愕が浮かんでいる。 「・・・・・もう時間は十分に稼げた。私が成すべきことはみな成し終わった。私が逃げていては迷惑を被る者も多くあるだろう。・・・・・もう私に失うものは何もない・・・・・逃げる必要はないのだよ。さあ、私を連行していってくれ・・・・・・。」 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 赤道付近の環礁で少年と何頭かのイルカが疲れた体を休めていた。空はあくまで青く、雲はひたすら白く、太陽はギンギラギンに照っていた。少年は珊瑚が砕けてできた砂の上に座り、紺色の海水パンツ姿で、防水の背負い鞄をかぼそい肩に背負っていた。 一頭のイルカが苦しそうな声をあげた。 「どうしたの？ファイ？」 少年はざぶざぶと海に入ってイルカの傍に近寄った。イルカはしきりに何事かを訴える。少年はイルカの言葉がわかるらしく心配そうにファイの胸びれを調べた。 「逃げる途中ですりむいちゃったんだね。ちょっと待って。」 少年は肩かけ鞄から救急セットを取り出し、慣れた手つきで消毒して保護の絆創膏をペタンとはりつけた。イルカは少年の手に口をすりつけると海に戻っていった。少年は波打ち際に戻り、右足で爪先立ちになりコンパスのようにぐるりと回った。 東・・・・一面の海 北・・・・一面の海 西・・・・一面の海 南・・・・一面の海 少年はそのまま倒れて大の字に寝転んだ。 三頭のイルカが跳ねパシャンと水の音がした。同時に少年のお腹が大きくグウと鳴った。 少年に近い位置にいた、大きな白いイルカが鋭く鳴いた。 ”クククケ！クエッ！クククケ！” 少年は身を起こした。素直な黒い髪からさらさらと砂が落ちる。 ”ケケケケ！ク、ケッケック！ケケックククククェッケケケケケ” ・・・・・うっとおしいので人間語に翻訳しよう。 ”ねえ！ねえったら！カイユン！” 「何？え、どうしたの？」 他のイルカはともかく白いイルカには、人間の言葉がわかるらしかった。 ”どうしてってって！呑気だな！ここにいちゃだめだよ！” 「うん・・・・・でもみんな休ませなくちゃ。ファイは怪我をしているし、他のみんなのお腹だってぺこぺこだろ？ここにはみんなのご飯になるような魚がたくさんいるよ。」 ”僕たちはいいけど、カイユンの食べるものはないだろ？それに陰もないよ。いくらカイユンだってこのままじゃお日さまで参っちゃう。” 「お日さまはともかく・・・・確かに・・・・・お腹すいたなぁ・・・・でも、みんなが食事をするまで待ってるよ。少しくらい大丈夫。父さんが言ってた。”大丈夫って思えるうちは絶対に大丈夫だ”って。」 カイユンはもう一度引っ繰り返った。 引っ繰り返って雲を眺め、カイユンは眉を下げた。 ”父さん、母さん・・・・僕のしたこと間違っていたかなぁ・・・・” 彼はそもそもの初めを思い出した。 カイユンは惑星リマンの海洋生物学研究所のイルカ担当の研究員見習いだった。 その日、コスモ・アーミーの兵器開発者がやってきた。そして無理遣りにイルカの体に奇妙な機械を巻き付けたのだ。それは海中を逃亡する犯罪者を殺傷するためのレーザー光線発射装置だった。 試しに機械を巻かれたイルカは鳴き声をあげた。 ”いやだよ、いやだよ！こんな冷たくて固い機械！こんなに怖い機械！” 人間語ではないが、そんな意味のことをイルカたちは叫んだ。 しかしその言葉は聴覚が並の人間よりも鋭くなぜか超音波が聞こえ、幼いときからイルカと遊んできたカイユン以外にはわからなかった。 結局兵器開発者は機械に改良の余地ありということで帰っていったが、イルカ達は不安がっていた。彼らは自分達の主人である人間という生きものを信頼しきっていた。人間は優しく、自分達の保護者であり、自分達の言葉を研究するのも、自分たちを訓練するのも双方がわかりあうためだと思っていた。人間が自分たちを利用するとしても海洋調査や海洋牧場の見張りどまりだと思っていた。・・・・・それが戦闘のためとは・・・・ カイユンにはイルカ達の気持ちがよくわかった。ゆえに彼は一団のイルカを引きつれて海へと逃げだしたのだ。”人を傷つけるようなことは絶対してはいけない”と故郷の星の父や母や兄弟は繰り返し彼に教えていたし、なにより悲しむイルカたちの姿を見たくなかったのだ。 逃げ出してもう三日たつ。 イルカの半数は捕まってしまった。訓練を施した頭の良いイルカは貴重なものだった。黙って逃がしてはくれないのだった。 イルカ達は麻酔弾をうちこまれ、泣き声をあげ捕まっていった。カイユンはそれを聞きながらどうすることもできなかった。助けるために引き返せば彼自身も捕まってしまう。だから泣き声がずっと後ろに遠ざかるまで必死に泳いで逃げ続けたのだ。 ここまで一緒に逃げてこられなかったイルカたちのことを考えるとカイユンの黒い大きな瞳からポロポロと涙がこぼれた。 ”どうしてこうなっちゃったんだろう。みんなどうして仲良くできないんだろう。悪いことする人がいなったら悪い人を捕まえる為にイルカを使わなくていいのに。だいたい、悪い人だって怪我させたり殺したりしちゃいけないよ！ああ、どうしてこうなっちゃったんだろう。” カイユンの父、惑星マーリナの漢字学者、金 文仙（キム ウェンシェン）は七番目に生まれた子供に良い運が巡ってくるように”カイユン”（開運）と名付けた。どうも名前にこめた父の願いは現実にはならなかったようだ。 さっきから眉毛がハの字になりっぱなしのカイユンに白いイルカが鋭い声を投げ掛けた。 「御免御免、ホワイティー。うじうじ悩んでいてもどうしようもないものね。父さんもいってた。”悪いことがあっても笑っているんだよ。悲しい顔や怖い顔は新しい悪いことを呼んでくるっ”て。・・・・考えてみりゃ、これ以上悪くなることってそうそうないかもしれないね。よーし、ご飯も済んだようだから出発しようか！」 カイユンが大声で叫ぶとイルカたちは次々にに環礁を離れて東に向かって泳ぎだした。 「見付けよう！僕らの島を！みんなが楽しく暮らせる島を！」 カイユンはホワイティーの背びれに捕まるとかなりの勢いで水面を滑るように泳いでいった。 異変に気付いたのはホワイティーだった。白いイルカは泳ぐのをやめて空を見た。彼らはあまり視力がよくない。空を見るには見たが、主として空からやってくる音波を捕えてのことだった。それに続いてすべてのイルカが空を見た。 耳に優しくない音が空の上からやってくる。カイユンも立ち泳ぎをしながら不思議な音の源を確かめようと耳をすませながら目を懲らした。 何が来たのかわかったのはカイユンが一番先だった。彼は慌ててイルカたちに合図して海中に潜った。 ”なんでコスモ・アーミーの戦闘機なんかが！僕がやったことって戦闘機に追われるほど凶悪なこと？？？？？” わけはわからなかったが、カイユンは海中深く潜り、息の続くかぎりとどまっていた。 しかしカイユンもイルカもは魚ではない。身体中の細胞が”酸素！酸素！”と要求しはじめ、水面に上がっていかざるを得なくなった。 ”一回息を吸ったらまた潜らなくちゃ！” とは思ったが、実際にはゼエゼエハアハアゼエゼエハアハアゼエゼエハアハアと何回かやらずにはいられなかった。 そのときカイユンは初めて気が付いた。戦闘機は二機飛んでいて、一方がもう一方を追っていることを。 要するに誰もカイユンを追っていたわけではないのである。 だいたい戦闘機でイルカを捕まえにいくバカがどこにいるだろうか。魚釣りに拳銃をもっていくくらい変である。それに気付かなかったカイユンは、やたらにおめでたい奴である。 カイユンは潜るのをやめてポカンと二機の追っ掛けあいを眺めていた。 二機とも全く同じ形の飛行機だ。ライトブルーのコスモ・アーミーのマークが尾翼にくっきりと描かれている。明らかに後ろの戦闘機は前を行く戦闘機を追っているのだが、必死で逃げているはずの戦闘機は非常に優雅で面白い飛び方をしていた。 宙返り、急速反転、きらきら輝く太陽をバックにして錐揉みから急上昇。まるで追っ手をからかっているとしか思えない。 「わあ。凄い！」 まさに無料の航空ショー。カイユンは戦闘機のカタログには興味がなく、”海の生きもの図鑑”の方がずっと好きだったが、今、目の前で展開されている華麗な飛行には芸術ともいえる優美さがあり、心をぐっと引き付けられた。 追っ手がミサイルを撃ちはじめても、逃げ手の飛行はほとんど変わらなかった。ぎりぎりで避け、”撃つなら撃てよ。でもあたらないぜ”とばかりに接近する。海面すれすれにおりてきてまた上昇。戦闘機がおこした風がカイユンの頬を撫でた。衝撃波というよりそれは爽やかな海風で、カイユンは気持ちよさそうに目を閉じた。イルカたちも周囲ではねまわる。 カイユンは逃げ手がミサイルを回避するたびに拍手をした。どちらにどういう立場の人間が乗っているのかは知る由もなかったが、カイユンの判断では、ミサイルを撃ってくるほうが逃げているほうより悪者なのだった。 「ねえ、みんな、あの、逃げているほうの戦闘機、凄いね！」 そうイルカに呼び掛けたカイユンに降り注いでいた太陽の光がいきなり翳った。肌で感じた涼しさに太陽の方角を見上げると、光を遮断している物体が急速接近してきていた。 空中で破裂したミサイルの残骸。 残骸といってもカイユンの体と同じほどの大きさだ。 カイユンは飛び退こうと大きく水を腕で掻いた。 間に合わない！ 破片が右足の付け根を直撃した。痛いを通り越した焼けるような感覚が襲う。肉が裂け、赤い血が青い海にぱあっと広がった。頭も水に没してしまい空気がごぼっと口から吐き出された。空気の泡は海面に昇っていく。 ホワイティーが、ファイが、その他のイルカたちが一斉にカイユンのまわりに集まった。彼らは鼻先でカイユンを支え、海面に押し上げた。ホワイティーが”しっかり！カイユン！”と呼び掛けた。だが、少年の体からはどくどくと血が流出し、失血のショックで息もできないようだった。 イルカたちは自分たちの胸びれが止血をするのに役にたたないことを呪った。 カイユンの意識はどんどんおぼろになっていた。瞳は青い色を捕えていた。しかしもうそれが海の青なのか空の青なのかわからなくなった。・・・・ 上空を飛んでいた戦闘機のうち逃げていたほうが、イルカたちすれすれのところまで降下してきた。そしてパイロットは瞬間的に一人の少年が重傷を負い、イルカに支えられて辛うじて生きているのを認識した。 パイロットはもう一度降下し、キャノピーを開けて海に飛び込んだ。乗っていた戦闘機は少し離れた海面につっこんで沈んだ。 パイロットは邪魔な靴を脱ぎ、黒いパイロットスーツのまま力強いストロークでカイユンに近付き、腰の物入れから出した細いロープで少年の足の付け根をしばって止血した。戸惑うイルカ達を軽く叩きながらパイロットは追っ手に悪態をついた。 「早く捕まえにこい！早くしないとこの坊やが死んじまう！」 生死の境にあったカイユンは、追われていたパイロットが、自らが捕まえられることを承知の上で彼を助けてくれたことを全く知らなかった。 イルカたちだけが、この場の目撃者であった。 ・・・・以上のように、逃げていた者たちはすべて惑星リマンの軍及び公安委員会によってすべて捕えられたのであった。 この物語は彼らがこのようにして普通の社会からドロップアウト（脱落）したところから始まる。 |