ありがとう
(Happy Ending Synthesisの場合)
（あれれれ？） 展開溶媒混合用のメスシリンダーを見、刈井は首を傾げた。 （あれえ？これ、口の所が欠けてたよね……っていうか、昨日の夜、俺が割ったはずだよね？？） パイレックスのメスシリンダーは、涼しい顔ですっくとその場に立っている。刈井はうーん、と唸る。 （あれえ？それとも割ったっていうのは俺の勘違い？ヘンだなあ。あ、でも昨日は３年で取れなかった単位の勉強やっててヘロヘロしてたから……ま、いいか。あ、でももしかして） ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ ＮＭＲチューブの入っている引き出しをあけた吹田は中を見つめてしばし動きを止めた。 （昨日よりずっと増えている……） 昨日の夜19：23の時点で、この中に入っていたチューブは12本であった。そして、さきほどＮＭＲ室の記録ノートからすると、昨日夜から今日にかけて使用されたチューブは７本。実験室でチューブを使って試料の準備をしている者はみあたらないため、都合5本のチューブがあるはずだ。……しかし、ここには17本のチューブがある。 （ついに野澤君が刈井に溜まっていた洗い物をさせることに成功したのか？) 毎日のように器具を洗えと言っても刈井はそのときだけ顔色を変えていくつかの器具を洗うのだが、持続力がなく、そばにつきっきりでいないと途中で飽きて結局洗わずじまいになる。 吹田は大きく息をつくと、チューブを一本手に取り、引き出しを閉めた。 (４年になってなお、自覚を促さねばならんとは、恥ずかしいことだ。それとも刈井以外の誰かなのか。だったら……) ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ (あら？) 綾香は談話室の流しに置かれている各自のカップを見て目をみはった。 （綺麗になってる……) 茶渋がついて茶色くなっていたカップがぴかぴかになっている。おそらく漂白剤を使ったのだろう。大掃除のときには、野澤の号令ですべての食器を漂白するが、……確かに随分長い間漂白はかけていなかった。漂白剤を使えない刈井のアルミマグカップも綺麗に磨かれて置かれている。 （誰がやってくれたのかな。けみちゃん？それとも……今度は声かけてね、私も一緒にやるから。) 心の中でそういって、綾香は電気ポットに水を入れて今日のおやつの時間の為に湯を沸かし始めた。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ (あれれれ？) 恵美花は机の上のミニ試験管を見た。キャピラリーがびっちりつまっている。 （あっれー？いつ引いたんだっけ？……む、無意識のうちにこんなにキャピラリー作っていたなんて……私、ストレス溜まるとキャピラリーひく傾向があるけど……近頃そんなにストレスためてたかったっけなぁ？いやいやいやいや、やっぱりおかしいよ。でも、何で？キャピラリーが分裂して増えた??いやいやいやいや、そんな馬鹿なことがあるわけが……？） ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ （おや、これは……!!） 掃除機のスイッチを入れた美弥子はその吸引力に驚いた。 （……そろそろゴミパックの替え頃だとは思っていたけれど、誰かが替えてくれたんだねぇ。立派立派。誰だろう。吹田さん……はゴミパックの在り処を知らないからあたしに聞くだろうし、二瓶君は『まだ吸えるなら勿体ないからぎりぎりまで替えるな』って言いそうだし、あの破壊大魔王が替えるわきゃないし、……女の子コンビかな？それとも……おおー、しかし、この吸引力は素晴らしいー!!) ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 「久世。」 実験台に向かってＴＬＣに試料をスポットしている久世の背後から二瓶は声をかけた。無口なガラス細工の名手はぴくっと体を動かした。肩越しに二瓶を見上げ、ずれた黒縁の眼鏡を片手で直す。慌てて体の向きを変えると無言で会釈した。 「いやいや、別に注意をしようとかそういうことじゃない。有難う、と言っておきたくてな。」 久世は眼鏡のレンズの向こうで細い目をぱちぱちとさせた。 「……昨日の夜やってくれたことだ。お前、泊まったんだよな。チューブ洗浄、掃除機紙パックの交換、キャピラリーひき、メスシリンダー修理、カップの漂白。」 「……反応待ちで暇があったので。」 二瓶は大きな手でバン、と久世の背を叩き、久世はゲホ、と咳をした。 「ああ、悪い悪い。暇があったからといってああいうことをやってくれる奴ばかりじゃあないだろうが。刈井だったらマンガ読むかパソコンゲームするかってところだ。……いや、刈井もたまには気をつかってやってくれることもある。悪し様にいっちゃあいかんかな。……とにかく有難うな。」 久世は何か言いたそうに唇を動かしたが声を出せないでいた。二瓶は久世が話し出すまでじっと待つ。久世は頭の中で言うことを整理したのか、次に口を開いたときには声が出た。 「どうして、僕だと、わかったん ですか。」 ああ、そんなことか。と二瓶は笑う。 「メスシリンダーをあそこまで綺麗に直せるのはお前だけだ。キャピラリーも、あれだけ揃った奴をひけるのはやはりお前だけだろう。そして、その他のものも、久世がやったのだとすれば、無理なく納得できた。有難う、久世。」 久世の頬がちょっと赤くなった。面と向かって褒められることには慣れていないらしい。 「…………ありがとうございます。」 二瓶の顔に訝しげな色が浮かぶ。 「…………気付かれなくて、いいと、その方が、気楽だと、思っていましたが、嬉しい感じがします。気付いて下さって、ありがとう、ございます。」 考えながら話すため、時々単語と単語の間に間があくが、それは久世に似合っている話し方だった。 「いやいや、俺が一人で気付いたわけじゃあない。……俺はたまたま皆から別々に話を聞いて、話からそう考えただけだ。皆、久世かもしれないと言っていた。お前のことをちゃんと見てるのさ。」 「……そうですか。……でも、ありがとう、ございます。」 少し頬を赤くしたまま、俯いた――まだ人の顔を真正面から見ることができない、人との付き合い方にとことん不器用な――久世の背をもう一度ポン、と叩き、二瓶は廊下へと出て行った。 |
| 「ありがとう」その１ マイナーコンテンツですが化学部屋の面々。久世君への「ありがとう」。そして、久世君からもありがとう。 ありがとうっていうのは一方方向の気持ちではなく、実は双方向なのではないかと思います。 このあと、皆からバラで、久世君へ「ありがとう」の言葉があるはず。 |