守る者達
「ラクチェ様ー！こちらですー！」 少女らしい甲高い声が森の中に響く。いつもの小間使いの服ではなく、裾にフリル飾りのついた可愛らしい木綿のエプロンドレスを着たミハルは、両手に一つずつ持った大きな籐のバスケットをぐるぐる振りまわして森の入口の木に馬を繋いでいる自分の主人を呼んだ。 「ミハル、そんなに走っては転……」 ラクチェが呼びかけると同時に、ミハルは木の根に躓いてステン、と転んだ。あとから走って来たラクチェが片手を掴み、腰を抱いて助け起こす。 「ほーら、言わないこっちゃないわ。」 少女はすみません、すみません、と何度もお辞儀をし、でも、私、嬉しくて。ラクチェ様と一緒にイチゴ摘みに出かけられるなんて、ねえ、サレナ、と傍らに居る長身の少女に笑いかける。ミハルとは対照的に黒を基調にした少年の装束をしたサレナは、ミハルのスカートについた草をはたき落としながらこっくりと頷いただけだったが、いつになく頬は紅潮しており、この無口な少女も今日の外出がとても楽しいのだとミハルにもラクチェにも判った。 ラクチェは微笑んだ。自分付きの小間使いとしてこの二人の少女と出会った時に、ラクチェはいつか一緒にイチゴ摘みに行こう、と約束した。その懸案事項がやっと叶ったのだ。イチゴの季節を迎え、ラクチェがこれこれしかじかなので、城外に出たい、とヨハンに言うと、ドズル王に私も一緒に行きたいところだが、駄目だろうか、と尋ねられたので、ラクチェはダメだ、今回は男子禁制で行こうと思うのだ、というと、ヨハンは笑ってそれならば仕方ない、けれど、護衛は付けるよ。君達には見えないようにさせるけれどね、と快く送り出してくれた。 「ラクチェ様、ラクチェ様、ほらほら、凄いでしょ！イチゴが鈴なり！あっちにも、こっちにも！」 ミハルの指す先を見れば、緑色の茂みのそこここに、木イチゴが生っている。 「ふーん、これは凄い。私も小さな頃にイチゴ摘みをしたものだけれど、こんなにたくさん生っているのは初めてみた。……城下からは少し離れているが、ミハルはここに良く来ていたの？」 「いいえ。以前私がお話した場所はもっとお城の近くの森でしたけれど……以前宿下がりさせていただいたとき、親類と話をしていた折にこの場所を聞いたのです。私が小さな頃によく遊んでくれた叔父でして。で、一度木イチゴの花の頃下見に参りまして、これならば、と目星をつけておりました!!」 ラクチェはミハルから籠を一つ受け取り、摘み始める。 「よし、今日の目標はタルト3つ分ということでいこうかな。」 ミハルが腕まくりする。 「３つ分ですか！では頑張りましょう。」 その傍らで、サレナは辺りに目配りしながらすっと立っていた。 「サレナ？」 ミハルが問いかけ、ラクチェが微笑む。 「サレナ、今は私の護衛の職務から離れていい。……というか、ヨハンが信頼できる護衛のものを私達につけてくれている。ミハルがここで私の護衛に精を出せば、その者の仕事がなくなってしまう。……サレナ、何事も経験することが大事だ。私達二人ではタルト３個分のイチゴ摘みは困難だ。サレナの力を貸してほしい。」 すると、サレナは年相応の笑顔を浮かべ、ミハルの隣でイチゴを摘み始めた。 「……明るいオレンジと……暗い赤と……どちらがいい？」 「種類が違うのよ。明るいのはそのまま食べて美味しくて、タルトの上に飾るのにもいいの。暗いのはカスタードクリームの中に入れるといい感じ。サレナは背が高いから明るいのを取って。それは高い所に実がつくから、私じゃ届かない実があるわ。ほら、」 サレナは『食べてみて！』というように目の前に差し出された二つのイチゴの実を、こわごわ齧って目を細めた。 「ね、おいしいでしょ！さあ、頑張りましょう！」 アサシン(暗殺者)の子として生まれたサレナは、イチゴ摘みなど初めてするのだろう。プチプチプチと勢いよく鼻歌交じりに摘んでいくミハルの横で、おっかなびくり一つ一つを見定めるように摘んでいっている。ラクチェはミハルの様子にティルナノグでのラナの姿を重ね合わせていた。ラナもイチゴ摘みが大好きで、ラクチェとよく競争した。ラクチェは摘む速さでは誰にも負けなかったが、つまみ食いする量も多くて横で摘んでいるスカサハやセリス、そしてミデェールやエーディンを苦笑させたっけ。……サレナは……サレナのような子供はティルナノグにはいなかった。皆、愛情込めて育てられ、人を愛するより前に殺める方法を教えられて成長した者などいなかった。ラクチェは二人の間に突っ込んでいく。 「よし、では、三人で競争しよう！誰かの籠が一杯になったらそれで終了。いいわね？」 ミハルがはい、と大声で答え、サレナがはいッ！ときりりと答え……ラクチェと少女二人は楽しくイチゴ摘みに興じた。 そこからそう遠くない草原にドズル王たるヨハンは遠乗りに出かけて来ていた。政務は忙しいが、ずっと城内にいては体がなまる。今すぐ何かことが起こる状況ではないが、竜から血を賜いし聖戦士の末裔、ネールの斧騎士として圧倒的な技量を保っていかなければ、有事の際には驚くほど簡単に王の座から追い落とされてしまうだろう。幸い、信頼のおける文官と騎士が育ち、このように城を留守にしても危険が無いまでに政情は安定してきた。……火種は数限りなくある。しかし、ヨハンはそれを片端から消して行こうとは思わない。国が極端な道に走らず少しずつ安定していくことにより、それらのいくつかは自然に鎮火していくだろう。逆に、粛清と言う名のもとに火種を潰していくならば、熱のもとを根絶やしにしない限りはそれは遺恨を生み、小さな消し炭が大火を起こすこともあろう。 だから、ヨハンは、どこにどういった火種があるかは掴んでいても、徒に斧を手にとったりはしないのだ。 「お殿様。」 供に連れて来た小姓の言葉に馬を早駆けで一周させてきたヨハンは答えた。 「何だい？」 「本当に宜しいのですか？奥方様はここからほど近いところに居らっしゃるはず。」 「ああ、いいのだよ。たまには女性だけで羽をのばしたいこともあるだろうからね。私の出番は今日はなしだ。」 「あ、いいえ。逆です。奥方様が、『今日はついてくるな、絶対来るな、近くに来るのもダメだ、斬り捨てるぞ、』とおっしゃっていたので……」 ヨハンは笑った。 「いやいやいや、馬がこちらに来たがったのだから仕様が無い。私としてはこちらにくる気などなかったのだよ♪いやあ、困った馬だ、なあ、お前。」 首の辺りを叩かれて、ヨハンの乗馬は不機嫌そうに鼻を震わせ小姓は天を仰いだ。 「護衛の方も、お殿様がここにいらっしゃることはご存じないではありませんか。ああ、私はまた大臣様に叱責されてしまいます。何故お殿様を止められなかったのか。と。」 「いやいや、ラクチェの傍に在ろうとする私を止められるものなどこの世には存在しないのだよ。そのように打ちひしがれた顔をするものじゃない。君にもじきに色々とわかってくるだろう。」 私はわかりたくありません、と小姓はまた天を仰いだ。 その平和な空気を小さな悲鳴が壊した。小さな……そこからでは殆ど聞きとれるかどうかの悲鳴であったが、それは確かにまだ年若い少女のものだった。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ それより少し前、ラクチェたち三人は、森の中、別々の方角に別れてイチゴを摘み続けていた。ミハルの楽しいおしゃべりに合槌をうちながら摘むのは楽しかったが、勝負することも面白く、勝負に勝つには、よりたくさんの実をつけている株を探すことが必要だったからである。サレナは明るい色の木イチゴを探してどんどん森の奥に入ってラクチェとミハルの視界から消えた。ラクチェからは、暫くの間はミハルのラナやパティに良く似たはちみつ色の金髪が見え隠れしていたが、少し前からそれも見えなくなった。ラクチェの籠にはおよそ4分の3までイチゴが入っている。そのうち一つを摘まんで口に運ぶ。 (やっぱり、こうしてつまみ食いするのは美味しいわ) ヨハンも誘えば良かっただろうか。……いやいや、ヨハンはイチゴを摘みながらとんでもない歌をとんでもない旋律でとんでもない声量で歌いあげラクチェと二人の小間使いを辟易させるに違いない。 (まあ、それも楽しくはあるけれど……) 二つ目のイチゴをつまみ食いしたとき、ラクチェは人の気配に気づき、身構えると森の奥を見た。 「！」 投げナイフが彼女のこめかみの横、掌をを拡げた分くらい離れた場所を飛んで行った。ラクチェは茂みに飛び込み、息を潜める。 「誰だ！」 また、ナイフが放たれる。それより前にラクチェは低い姿勢のまま移動し、初めの投擲で地面に落ちたナイフを手に取る。それはサレナの得物と同じ形だった。ラクチェは混乱する。何故、サレナが？いや、サレナではない。あの子のナイフ投げの腕はよく知っている。あれはラクチェに当てようとして放たれたものではない。いくらラクチェが素早く、動物的な勘で攻撃を避けるすべを持っていようとも、サレナならばもっとナイフはラクチェの近くを通ったはずだ。それくらいあの子はナイフ投げに長けていた。……これはなんだ。威嚇なのか？なんのために？……誰が？ とても微かな足音がする。聞きなれない足音だ。ミハルではない。彼女は足音の殺し方をしらない。サレナは……ラクチェは聴力を研ぎ澄ます……サレナは……サレナは斜め前から来る。足音と言うより、ラクチェは黒髪の少女の気配を感じ取った。おそらくは、彼女も異変を感じ取り、護衛として未知の相手に気取られぬようラクチェに近付いているのだ。……さあ、どこから来る？ と、見知らぬ気配がラクチェから離れた。それが向かう先は……。そして、剣を鞘から抜く音がした。 「サレナ！」 ラクチェはサレナの前に飛び出し、切りかかって来た男の剣を居合抜きした細身の剣の鍔もとで受け止めた。咄嗟のことで防ぎきれず、相手の剣の切っ先がラクチェの肩に刺さっている。ラクチェは動じない。痛みを感じている風もなく、相手を鋭い眼光で射ぬく。 相手はフードで顔を隠した身軽そうな痩せた男だった。 「奥方殿、私はヨハン様より護衛の命を受けた者。……その黒髪の少女があなたを殺そうとしたのです。」 「……笑止！……私はナイフがサレナの居た方から投げられたものではないことを知っている。……私が知っていることを護衛であるあなたが知らぬはずがない。……ならば、答えは一つ。……あのナイフはあなたが投げたのだ。……しかし、あれは私を殺そうとするものではなかった。なぜ、こんな茶番をした。余興ではあるまい。もしも私が間に入らねば、あなたの剣はサレナの頸動脈を切断していただろう。言え。何が目的だ。……それとも、嘗て『死神』と言われた女と剣で勝負をしたいのか。」 そこに、ミハルが現れ、肩から出血しているラクチェを見て悲鳴をあげた。一瞬ラクチェの気が逸れ、男は森の出口へ走ると、ミハルとサレナが一緒に乗って来た馬を奪って逃走した。ラクチェも急いで後を追う。 ヨハンは森から走って来る騎馬を認め、手綱を牽いた。騎馬はこちらを認めると方向を変えた。ヨハンはその後ろからラクチェが追っているのを認める。しかし様子がおかしい。乗馬にまだ慣れないラクチェであるが、それだけではない。左腕は手綱を握らずただ下に向かってたらされ……その腕に血が一筋流れているのを彼は見逃さなかった。 「！」 ヨハンは速力をあげる。護衛の少女が乗って来た馬など、ヨハンの駿馬にとっては駄馬に等しい。あっと言う間に追いつき、肩口への斧の一旋で相手は馬から転がり落ちる。ヨハンは下馬し、起き上がった男に戦斧を向ける。 「私のラクチェに何をしたのだね？」 男は答えず、剣を構える。 「もう一度、聞く。何をした！貴様は私が最も信頼をおく護衛の一人だった。その貴様が何をした！」 男はヨハンに切りかかり、次の瞬間、剣に対しては圧倒的に不利な得物であるはずの戦斧が、男の脇腹を薙いでいた。 ラクチェが馬から飛び降りる。 「ヨハン、その男を殺すな！」 ラクチェは地面に跪き、男の腹に手巾をあてる。男は笑っていた。 「ヨハン……様……。」 「…………」 「…………どういうお積りかは存じませんが、あの黒髪の少女は、ブリアンの手先であったアサシンの家の者……生かしておいては……火種と……なります……あの一族は……今もヨハン様を……」 「わかっている。」 「わかっていて、……なぜ……」 「……なぜだろうな。……これは性分と言う物だ。説明は難しい。」 男は喉の奥でくっくと笑う。 「……あなたは……頼もしいが、もっと冷徹にならねば……なりません…………ああ、でも……あなたは私を……こうして殺せ……た。そうで……す……為政者は…………そうで……なくては…………心配、無用…………私達の側は……私が……死んでも……あなたに……忠誠を……誓……」 「間違えないでほしい。温情ではないのだ。ただ、殺してしまっては始まる物も始まらない、そういうことなのだ。……私が王である限り、家臣が暴走して己の命を差し出す忠誠心は欲しない。それは私には不必要なのだ。頭の中に思い描く未来図に支障をきたすからね……このように見上げた忠誠心をばっさりと切り捨てるところが私の冷徹さなのかもしれないね。きっとそうだ。」 そのとき、新たな蹄の音がした。ラクチェが怪我をしたのを見たヨハンの小姓が、森まで行って癒しの杖が使えるミハルをサレナと共に連れてきてくれたのだ。杖をしっかりと握りラクチェに駆け寄り治療しようとするミハルに、この人を先に、とラクチェは横たわる男を指さす。そのフードの中の顔を見て、ミハルは叫ぶ。 「叔父様!?」 森のことを教えてくれた、小さな頃から可愛がってくれた叔父が、ヨハンに対して絶対の信頼と忠義を誓っていた叔父が横たわっている。 ヨハンは左手、血に染まっていない方の手でミハルの頭を撫でた。 「急所は外れている。……ミハル、叔父さんはサレナを殺そうとした人、ラクチェを傷つけた人のためにこのような怪我をしたのだ。……大丈夫、曲者は私が向こうで既に斃した。この斧でね。もう私達に害を成すことなどない。」 ヨハンに見つめられた小姓は賢明にも何も言わなかった。 「……大丈夫。……君の力があれば、大切な叔父さんは助かる。」 ミハルは頷き、一心に祈った。傷の辺りがポゥ、と仄明るくなり、傷は徐々に塞がっていく。ラクチェは、何か言いたそうにしている男の耳に呟いた。 (……ヨハンはこのような掛け値なしの馬鹿なのだ。……そして、ヨハンには私が居る。どのような火種があっても私がヨハンを守る。……いいな。) 男は一度頷いたように見え、それから安心したように意識を手放したが、心臓はしっかりと打ち、呼吸も落ち着いた。ヨハンは彼をマントでしっかりと包み、馬の上に抱えあげた。そして、ラクチェの肩の治療をするミハルに呼びかける。 「して、君たち、イチゴは摘めたのかな？」 ああ、たっぷりと、森に置いてきてしまったが、とラクチェが朗らかに答えると、ヨハンは大きく頷く。 「ならば、取ってきたまえ。彼の見舞いにミハル特製の木イチゴタルトが作れるようにね。」 はい！とミハルが元気よく答える。何かを不審に思っている風なサレナも頷いたが、ヨハンに向かって静かに言った。 「……ヨハン様。」 「ん、なんだね？」 サレナは、返り血を受けたヨハンの右袖口をじっと見つめる。 「……私は……守られた分だけ、強くなります………………今日も私は守られました。ですから、…………、もっともっと強くなります。自分以外の誰も傷つけさせないように。」 ヨハンはまっすぐにサレナを見降ろし、頷く。 「…………ラクチェ、私は彼を連れて一足先に城に戻る。……ミハルとサレナを頼んだよ。」 ああ、後から籠一杯の木イチゴを持って帰るぞ、とラクチェは夫の背中に向かって手を振った。 ヨハンと馬を並べる小姓は、一つ大きく息をついた。 「どうしたね？」 主に尋ねられ、小姓は正直に言う。 「私は、とんでもなく凄い方のお傍にいるのだなあと思いまして。」 するとヨハンは一度きょとんとしてから笑った。 「なんだね、今頃気づいたのかね。この世の至宝たるラクチェの夫であるということは凄まじく素晴らしいことであるのだよ。」 「いえ、そういうことではなく。」 「んー？それでは毎日ラクチェをたたえる歌を作り続ける詩人としての私に感嘆したのかい？」 「……も、もういいです！」 はは、君は面白い子だなあ、と笑うヨハンは、怪我人をなるべく早く城に送り届けるべく馬を全速で走らせた。 |
| ヨハンとラクチェの少し辛い話。二人の小間使いの出自については「この旗の下に」で説明していますが、サレナが親ブリアン派、ミハルが反ブリアン派の家に生まれています。反ブリアン派だった人々は、基本的にヨハンに忠誠を誓っていますが、親ブリアン派を粛清しないヨハンのやり方に対してはじりじりしている設定です。サレナは何があったのかほぼ気づいていますが、ミハルには話しません。自分が血塗られた道を行く覚悟を固めていますが、ミハルには、よいもの、美しいものだけを見せていきたい……サレナはそんな子です。今回チョイ役で出て来たお小姓君は、基本的には不憫属性です。ヨハンのあれやこれやで思い切り振りまわされて右往左往する予定。 |