風よ、風よ。(後編)

「…」 　不思議な気配を感じて床の中に居たフュリーは瞼をあげた。暖炉の火はもうすっかりと熾火になってしまっていたが、それでも部屋の中は暖かだった。ゆっくりと身体を起こし、燭台の蝋燭に燐寸で火を灯し、違和感の原因に想いを巡らす。耳を澄ませても物音は一切聞こえない。粉雪は音もなくしんしんと舞い降りているのだろう。胸に手をあて、一度瞼を閉じる。 　(風の精霊よ。何が起こっているのですか) 　夫のレヴィンは竜より力を与えられし聖戦士の血筋であり、子供の頃より風の精霊達に愛されていた。フュリーにはそのような特別な血は流れていなかったが、レヴィンと結ばれて共に暮らしているうちに、精霊を見たり感じたりすることがたびたびあった。見えない物が見えるなんて私はおかしくなってしまったのかしら、と夫に相談すると、レヴィンは笑ってこう言った。 　『俺は血でもってあいつ等から愛されている。お前はあいつ等が愛している俺が愛してるんだし、俺より性格もいいんだからあいつ等が見えたとしてもなんにも不思議はないだろう。』 　一心に精霊に呼びかけると、精霊からの答はあったが、それは明確なものではなく、ただただ彼らが何かに驚き騒いでいることだけがフュリーにも伝わった。 　枕元に置いた上着を羽織り、部屋靴を履き二度、三度と大きく息をつく。病は少しずつ身体を侵していって、半月前までは苦もなくできたことが今はできなくなっている。そして彼女は枕の下から懐剣を抜き出して鞘から抜いた。その細身の刀身が弱いろうそくの炎で鈍く光るのを見ながら、娘のフィーがここにいなくてよかった、と思う。何か悪しきものが来たのであれば、あの子は私を救うために命だって投げだそうとするだろう。そんなことはさせたくない。……そして、母親の最期など絶対に見せたくはない。 　こんな病身の女でも、シレジア王家に繋がる者であれば、人質として価値はある。そして、そうなってしまったら、レヴィンの枷となっていまう。あの人は大事の前の小事、などと割り切れるような人間ではないのだから。だから、そうなる気配を少しでも感じたらフュリーは己の身を捨てる覚悟だった。力はすっかり衰えているとはいえ、頸動脈を切ることくらいはできるだろう。それがレヴィンに仕える天馬騎士として、伴侶としての最期の仕事だ。 　……と、物音がした。とさり、と何かが雪の上に降りる音。そして、雪を踏みしめて歩いてくる音。 　(ペガサスが降りた？……フィーではないわ。あの子は友達のところに泊まっているはずだし、あの子の身の軽さではあんな音はたてない。そして、雪の中でも必ず戸口に向かって駆けてくる。お母さん、ただいま、って叫びながら。) 　雪を踏みしめる音は近づき、戸口の前で止まった。フュリーは息を飲む。そして、ノッカーの音が響いた。 　コン、コン。コンコココン。 　フュリーは信じられない、というように目を見開いた。だって、あの音は！ 　コン、コン。コンコココン。 　ここで暮らすようになったとき、レヴィンは茶目っ気たっぷりに言った。 　『お客なんて殆ど来ないけど、俺たちだけの合図を決めとこうぜ。戸を開ける前にわかるようにさ。俺の決めた合図が聞こえたら、お前は走ってきて扉の前でキスされる準備をしといてくれよ。』 　今、耳から聞こえているのはまさにレヴィンが決めた合図だった。それでも懐剣は抜いたまま、ろうそくは消して、鎧戸から漏れる僅かな月明かりを頼りにフュリーは戸口に近寄り閂に手をかけた。物音からして、扉の向こうにいるのは、一人だけ。それが悪意あるものだとしても、暗い室内に入ってくる瞬間に虚を突けるだろう。得意の得物であった槍を操る力がもう無いのを悲しく思いつつもフュリーは閂を外し、素早く扉の脇に張り付いた。 　そして、入ってきた人物の姿を見て、彼女は叫びそうになって自分の口を押さえた。そんなことがあるはずはない。マンフロイを討つために出発したあの人がそれを果たさないで戻ってくるわけはない。もしもマンフロイを討ったのならば、レヴィンが帰ってくるより前にだれかからそれは知らされるはずではないか。 　しかし、その姿は、自分が子供の頃からよく知っているレヴィンに相違なかった。 　その男は、なんと言うこともなしに、小さく呪文を唱えると自分の持っていた杖の先に灯りを灯した。部屋の中は真昼のように明るくなり、男は懐剣を構えるフュリーの姿を視野に入れた。 　その瞳に何の感情の揺れも認められなかったシレジアの天馬騎士はさっととびすさってレヴィンの姿をしたものに対峙した。 　「あなたは何者です！何の目的でレヴィンを騙るのですか!?」 　男は怒鳴った。しかし、それはフュリーに対してではなかった。 　「俺の嫁を怖がらせるな！そこを退け！」 　風の竜、フォルセティは驚愕した。意識を封じ込めていたはずのレヴィンがいきなり自分を押しのけて『表』に出てくることなどあり得ないはずだった。人は矮小で脆弱で……しかし、あり得ないはずのことをやってのけた人間の振る舞いをフォルセティは制止せず、見守ることにした。 　レヴィンはフュリーに駆け寄ってぎゅっと抱きしめ、そのまま抱き上げ、ぐるぐる回ってフュリー、フュリー、俺のフュリーと優しく耳元で囁いた。 　「あ、あ、あの、あなた、私、何がどうなっているのか、さっぱりわからなくて、あの。あの今のあなたはあなたですけれど、さっきのあなたは一体。それに、どうしてあなたはここに。」 　レヴィンはフュリーを床に下ろし、しっかりと腰に手を回したまま下を向いて額をこつんとつきあわせた。 　「あー、ちょっと込み入ったことになっててな。すまん、申し訳ない。フュリー俺は死んじまった。カンベンな。」 　「は!?」 　元気な声でそう言われれば、呆然とするしかない。幼いときからとんでもない話をごく普通にすることが度々あった王子だが、今回のは悪質すぎる。 　「あの、あなた、今、ここにいらっしゃるじゃないですか。」 　「そうだ。だが、俺はマンフロイの爺さんに殺されてしまってな。……すごくかいつまんで言うが、今は風の竜の気紛れで仮初めの命を与えて貰ってこうしてお前の所にやってきている。」 　「ああ、でも、あなた、そんな。…・いつだって私のことを驚かせてばかり……」 　「俺の名前を呼んでくれ。お前の声で呼ばれないと、ここに戻ってきた気がしない。」 　「レヴィン様……」 　「様はなしだと何度も言ったはずなんだがな？」 　「レヴィン、お帰りなさい！！!」 　改めて飛びついてきたフュリーが旅立った時よりもずっとずっと痩せてしまっているのにレヴィンは一瞬表情を曇らせたが、すぐに笑顔に戻り、キスを返した。初めはそっと優しく、それから今までの不在と、これからの不在を謝るように何度も何度も… 　「フィーは？」 　場所を移動して寝台の上に座り、フュリーを膝の上に載せたレヴィンは、病身の伴侶が寒くないように毛布を広げて身体に巻き付けた。薪を足された暖炉はあかあかと燃えている。 　「とても元気よ。あの子の相棒のマーニャも冒険が大好きなものだから、ここから北の谷の方まで、あの子達が知らない所はないくらいになったの。今日はフィー、私の薬を取りにいっていてくれて…帰りはカリンちゃんの所に泊まりなさいって私がいったの。あの子、優しいから、お母さんを一晩でも一人にしてはいけないっていってくれたけれど…私の為に愉しいことを我慢してほしくはありませんもの。」 　「セティは……ここから出て行ったのか。」 　「私の病気があまり良くないのをを見て、『父上を捜してここに連れてきます！』って。私、止めたのですけれど、駄目でした。」 　「そうだろう、そうだろう。あいつはお前に似て生真面目で一本気だから。」 　「そして、一度決めたら梃子でも動かないのはあなたにそっくり。……でも、セティが連れてくる前に、こうしてあなたは来てくれた。約束しましたものね。必ず帰ってくるって。……私、もうあなたに会えないと覚悟していました。……今度の春まで、雪融けまでも保たないかも、なんて。」 　フュリーを抱く腕に力が入った。レヴィンは自分のうちに在る龍神の魂に語りかける。彼女は相当悪いのか、と。龍神は答える。命の灯火は小さくなっている。もう永くはないだろう、と。何もしてやれない自分を歯がゆく思い、ただただ抱きしめていると、自分の手のひらが仄かな光を帯びているのに気づいた。それは、雪の中に斃れていた時に見たフォルセティの発していた光と同じ暖かな色だった。この一時だけでも、と思いを込めると光は輝きを増し、苦しそうな浅い呼吸をしていたフュリーの胸の動きががゆったり落ち着いたものに変わった。 　「……寒くないか、どこか痛いところはないか、苦しくはないか。我慢はするなよ。お前は真面目で堅すぎるんだ。俺の前でくらいうんと甘えていい。」 　「いいえ、寒くも苦しくもありません。……さっきまでは我慢していましたけれど、なんだか不思議なほどに具合がよくなってきました。どうしたのかしら、きっとあなたの顔を見たせいね。」 　いや、それは多分俺の中に居る風の龍神の力だ。そうだ、今だけならば。いいだろう？とフォルセティに乞い、龍神は承諾した。 　レヴィンは勢いをつけて立ち上がり、抱いていたフュリーをそっと立たせた。 　「フュリー！飛ぶぞ。お前の相棒と一緒に！！」 　「え？でも、私は…」 　レヴィンは自信ありげににやりと笑った。 　「大丈夫だ。空を駆けて此処に戻ってくるまで、お前は元気でいられることを俺が保証する。……覚えていると思うが、俺はお前の天馬にに乗っけて貰って初めて空を飛んだんだ。あの日のことは一生忘れなかった。あれが始まりだったんだ。今度は俺がお前を空に連れて行く番だ。いいや！嫌っていっても俺は担いででも連れて行くからな。いつもみたくお前の剣帯に捕まって飛ぶんじゃなく、格好良く手綱を操ってみせるさ。」 　いつもと変わらぬレヴィンの様子に、フュリーは微笑んで差し出された手に自分の指を絡めた。本当に不思議だった。レヴィンが触れたところから、体中に力が漲ってくる。まだ病を得ていなかったあの頃のように… 　箪笥の中にしまわれていた騎乗服に袖を通し、身支度を調えて外への扉を開くと、そこには彼女の相棒が控えていて待ちくたびれたというようにブルル…と鼻をならした。その首筋を愛おしそうに抱き、何度も撫でてやりながら、あなた、今日はこの子と喧嘩しないのですね、と首を傾げる。そこはそれ、こいつが遂に俺の真の魅力に気づいたもので、とレヴィンが説明すると天馬はレヴィンの翠の癖っ毛をがぶ、と前歯で噛んだ。 　「この期に及んで随分な仕打ちだな！」 　レヴィンが恨めしそうに見上げれば、天馬は馬鹿にしたように嘶く。それらすべてが自分を元気づけようとしてのことだとわかっているフュリーはクスクスと笑った。天馬は騎乗しやすいように前足を折り、関節を地につけた。先にレヴィンがすっと跨がり、手を差し出してフュリーを引き上げ自分の前に乗せる。 　「さあ、行くぞ！フュリー、俺にしっかりつかまってろよ！」 　ファルコンはレヴィンの手綱の合図で一気に上昇する。大きく羽ばたき螺旋を描いて空の高みへと駆け上がる。ずっと暮らしていた小屋が瞬く間に小さくなり、月明かりの中、シレジアの雪の峰がどんどん近くなってくる。ああ、もう二度と会えないと思っていた愛する人の腕の中で、風を感じながら故郷の空をまた飛べるなんて！北に輝く一際明るい星を見て、フュリーはわき上がってきた涙を片手で拭った。 　「どうした、フュリー。」 　心配そうな伴侶の声が頭の上から聞こえて、フュリーはあまり厚くはないが暖かな胸に頬をすり寄せた。 　「……幸せすぎて、死ぬかもしれません。」 　レヴィンは顔をあげさせ、流れ続けている涙をキスで拭った。 　「お前はまだ俺のところに来るんじゃない。……もう一度シレジアの春を見てくれ。シレジアの雪も美しいが、春は格別だ。お前は春が一番好きだろう？…さあ、お姫様。どっちに飛びたい？」 　問われてフュリーはぐるりを見渡す。そして、そこに無数の風の精霊達が舞っているのをはっきりと目にした。精霊達は笑い、フュリーの髪を撫で、くすくすと笑っている。フュリーも笑った。世界は命に満ちている。 　「もっと高く！ずっと高くまで連れて行って下さい！」 　「合点承知！」 　二人と一頭の夜の散歩は夜明け近くまで続いた。 　　＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 　フュリーを寝床に寝かせ、眠りに落ちるまで見守っていたレヴィンは音を立てぬように注意して立ち上がり、家の外に出た。 　「待たせたな、フォルセティ、有り難う。」 　次の瞬間、レヴィンは身体をフォルセティに明け渡していた。 　人の身を借りた龍神はすっと頭を上げた。昨夜はわからぬことばかりだった。なぜ、卑小な人間風情が、龍神たる自分の意識を押しのけて『表』に出ることが可能だったのか。この世界の在るべき形での存続が危ういというこの時に、何故病を得て永くは保たない一人の女…竜の血をひいてさえもいない人間に拘るのか。フォルセティにはひとつも理解できなかった。しかし、理解できないがその中に何かまぶしい物を感じ、それは彼にとって善いと感じる物であったのだ。 　「空飛ぶ馬よ、風の眷属よ。」 　フォルセティは彼の名のついた魔道書を、革袋に入れ、しっかりと鞍に括り付けた。 　「この家に満ちていた『継承者の気』をお前に授けましょう……案ずるな。心配せずとも『風』がこの魔道書の真の持ち主のところへとお前を案内するでしょう。さあ、頼みましたよ！」 　天馬は一度嘶き、舞い上がった。そして名残を惜しむように二度、三度と主の住む小屋の上を旋回していたが、一路南を目指して飛んでいった。 　（風よ、風よ。彼の者のところへ、年若き風使いのもとへと我が眷属を導き給え。） 　　＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 　遙かトラキア半島へと続いている街道で、旅装束の青年が空を見上げた。そこに認めた白い影はまっすぐにこちらに降りてきて青年の傍らにそっと降り立った。 　「お前は母さんの…!?もしや母さんに何かあったのか！」 　そのとき、暖かな風が吹き、鞍の上にしっかり縛り付けられていたはずの魔道書が浮き上がった。青年の翠の髪が風になびき、青年が幼いときからよく知っている風の精霊達が周囲を舞い踊る。両腕を高く差し上げると、フォルセティの魔道書は居場所を見つけたように手の中に収まった。 　(セティ、それはもうお前の物だ。あとは頼んだぞ…俺はまだ旅を続ける) 　「父さん？……」 　空の上から敬愛する父の声がしたような気がして、セティは陽の射す方を眩しげに見上げた。が、そよ風がまだ柔らかさが微かにの残る彼の頬を優しく撫でただけで、気づけば懐かしい天馬の姿も幻のようにかき消えていた。 　セティは左手でたった今継承した魔道書を抱きかかえ、風の精霊に呼びかける。 　「風よ、風よ。…風使いは暖かな風を吹かせることが使命なのだと、私は父に教えられました。……今此処で魔道書を使うことで私は父の教え通りにすることを誓いましょう。」 　ゆっくりと印を結んで初めて放った風の最強魔法は、敵を切り裂く為ではなく、春を告げる南風となってシレジアの白い山稜へと吹き上がっていった。

セティが『フォルセティ』を継承するまで。竜族は「世界の均衡を保つ」ことが最も大きな関心事なのだと思います。「人と共にあることを選んだ唯一の竜」であるフォルセティといえど、人間の感情の動きを理解はできていない、と我が家では設定しています。「聖戦」本編で、軍師レヴィンがセティに辛くあたったことも、無知故の行動のなせる技です。我が家のレヴィンはご覧の通りの「市井にいるようなお父ちゃん」で、嘘だとしても本編の台詞「私はシレジアを発つときに妻も子もないと決めたのだ」などとは決して言いません(そこは絶対に絶対です)。 内容としては、このサイトの長編やシレジア組の短編ともリンクしておりますので、お暇な折りに目をお通しいただければ幸いです。

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