呼び声
彼女は、一人、荒野に立っていた。 まばらな草が生えた平原が地平線まで広がり、土埃の匂いを含んだ風が、夜の色をした髪をなぶって吹きすぎていく。 曇天のまま暮れていった一日は、どこからが夜の始まりなのか判然とせず、天を見上げても星の瞬きは見えず、時折風に飛ばされた雲間から半月がちら、と顔を覗かせる。 誰も……誰一人いなかった。 孤独が胸に突き刺さり、そこにぽっかりと開いた穴から凍るように冷たいものが体に染み込み彼女の瞳からはらはらと涙を流させる。 どうして自分は一人なのだろう。抱きしめてくれるあたたかな腕を見つけたはずだのに。あれは夢だったのだろうか。……そう、夢だったのだろう。あのような幸せを自分が手に入れられるはずがないではないか。自分は呪われているのだ。強い魔力を持ち、負の感情の高まりによって怖ろしい怪物をこの世に呼び出す女など、小さな幸せすら与えられるわけがない。 “ソウダ。オマエトズットトモニアルノハタダワタシダケダ。” 誰かが頭の芯のところで低く柔らかな声で言った。 “ワタシヲヨベ。ツネニワタシハオマエノソバニイル。” 少女は柔らかな唇でゆっくりと言葉を紡ぎだす。彼女に語りかけている者の名など知らぬはずだのに、その名を口にしようとする。 “ソウダ。ハヤクヨビダスノダ。ヨビダセバオマエモワタシモカンゼンナモノニナル。 声は続けた。 “ナゼナラワタシハオマエノハンシンダカラダ。” 頭の横の空間が黒くなり、巨大な獣が飛び出してきた。獣はしなやかな体を躍動させ大地を飛ぶように走る。少女の意識は獣と同調し荒野を駆けていく。…心臓が早鐘のように打つ。苦しい。でも快い。風をきる爽快感、体を宙に泳がせる開放感。もっと速く、もっと速く！そう、この世界は私達の猟場。すべての生き物は私達の餌食。 ………そして、目の前に銅（あかがね）色の髪をしたがっしりした体躯の青年を見つけ…獣はなんのためらいもなく、青年が大剣を抜くより早くその体を爪で引き裂いた。 次の瞬間、黒い獣は消え、少女だけが立っていた。爪から鮮血を滴らせて。だって獣は少女そのものであったから。 自分が手にかけて命を奪った青年の骸を見て少女は長い悲鳴をあげた。 少女は頭を激しく振って叫び続けた。その肩に誰かが手を置いた。少女が我に返って瞬きすると、夢で彼女が殺した銅色の髪の逞しい青年がろうそくの明かりの中で心配そうにこちらを見ていた。……獣はいなかった。彼女は寝台の上に起き上がり冷や汗をかき、がたがたと震えている自分を発見した。 「……ローン様…？いったいどうしてローン様がここに？」 ローンはミラの体をあやすようにゆすりながら小さな声で言った。 「君の叫び声が聞こえたので走ってきた。」 ローンは夜着のままで部屋履きすら履いていなかったが、帯剣していた。彼の部屋は５部屋ほど先にあったはず。そのローンを起こして剣を持って駆けつけさせてしまうほど自分は酷い悲鳴をあげたのだと思うとミラは恥ずかしさで顔が上げられなかった。 「悪い夢を見たのだね。」 コクン、と頷く異国の姫の頭に手を載せ、ローンはぐりぐりと撫で回した。 「ミラ。私が育ったフレイス村では『夢は逆夢』と言ってね、悪い夢を見れば見るほど実際には幸せになると言われているんだよ。ミラは物凄く悪い夢をみたらしいから、物凄く幸せになるに違いない。…どんな夢だったんだい？」 ローンに言われ、素直に夢の内容を話すとローンはにっこり笑った。 「ああ、そりゃあ全くもって現実に起こりようのない夢だな。考えてもごらん。私がそんなに易々と殺されるわけはないからなぁ。……ああ、いや、慢心はいかんな。いや、うーむ。これはもっと剣の鍛錬をしろという神からの啓示かもしれないぞ。啓示だったら私の夢に出てくればいいのに、よりによって君の夢で啓示をするなんて神様も人騒がせなお方だ！よーし、明日からもっと研鑽を積み、今度君の夢に出てくるときには、怪物なんて瞬時に一刀両断してしまえるように頑張ろうじゃないか！」 瞳を覗き込まれるようにして言われ、ミラも微笑んだ。 「よし。いい笑顔だ！その顔が私は好きだぞ！」 ぎゅっと肩を抱くローンにミラが顔を赤くして息をつめるとローンも赤くなってすっと離れた。気持ちが通じ合っているとはいえ、まだ夫婦ではない。ミラはもちろん、普段は豪放なローンもこの少女の前では純情な青年であった。 「でも…私の中に黒い魔物がいるのは確かなことです。いつまたあの獣を呼んでしまうかと思うと私は…」 「平気さ。万一出てきてしまってもどうにかなる。私だけじゃない。父上も弟のシェンスも剣の腕はたつ。安心したまえ。」 そのとき、ローンと同じくミラの悲鳴に気づいて複数の人々が部屋に入ってきた。ローンの父であり国王であるウェンス。その妻であるシーラ。今では家族同然の北方の国の王女フレア。廊下には番兵も来ているようだ。ローンはミラの肩に大きな手を置くと、母親の方にそっと押し出した。シーラは了解し、羽織っていた大きなケープを外すとミラをすっぽりと包んだ。フレアは冷えていたミラの手を包み込むように握ってくれた。 ああ、この人たちはどうしてこんなに暖かいのだろう。 シーラの肩に額をつけ、ふうっと息をつきながらミラは今ここにいる幸せを噛み締めていた。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 故国では彼女は暖かな家庭というものを知らなかった。王宮に仕える女官だった母は国王のお手つきとなり、ミラを生んですぐに亡くなった。家臣たちは彼女を皇女として扱い一定の枠から中には入ろうとはしてくれず、王家の者達は下賎の女が生んだ娘として彼女を愛そうとはしなかった。父王は彼女が驚異的な魔法力を発揮してからは、その力を利用しようとし、しかしまた、力を恐れてさらに彼女から遠ざかった。ミラは泣きもせず自分を哀れみもしなかった。毅然としていることが、自分を護る唯一の手段だったからだ。毅然としていられるうちは、まだ大丈夫だ、と自己確認できるのだった。 しかし、今ミラの周りに居る異国の人々は、故郷の人々と全く違っていた。 彼らはミラの生い立ちや、内に秘めた魔法力のことを聞き出そうとはせず、ただ、静かに傍らに居てくれた。共に裁縫をし、料理を作り、時にはダンスをし、竪琴を弾いて歌い、談笑し……子供の頃の自分が得られなかったものがここにはあった。ミラは泣いた。嬉しくて切なくて泣いた。そして、自分が抱えている様々な事どもを優しい人々に告げた。シーラも、フレアも、そして国王や、二番目の王子のシェンスも、長い時間、じっとひたすら聴いてくれた。 でも… 最も心安い相手であるはずローンには身の上を話したことはない。彼女の気持ちを引き立てようと、明るく、時には冗談交じりに話しかけてくれるローンの前では、ミラ自身も明るい娘で居たかった。それに、自分のことは、彼の家族経由できっとローンに伝わっているはず。そうなのならば、改めて深刻な話をする必要もないように思えた。 ＊＊＊＊＊＊＊＊ 次の日、午後のお茶の時間にミラが降りていくと珍しく国王一家が勢ぞろいしていた。ローンは誇らしげに大きな箱をミラに向かって掲げた。 「ローン様。なんでしょうか。」 「いや…喜んでくれるといいのだが…。さあ、こちらに座って。」 ローンはミラをソファーに掛けさせると、膝の上にその箱を置き、縛ってあった紐を解いた。急かされるままに蓋を開けると、軽やかな薄紅色のドレスが出てきた。襟元には繊細な花模様のレースがふんだんに使われている。目を見張るミラをフレアが立たせ、ドレスを拡げると彼女の体にあてた。シーラの足元では一番下の王女のティナが嬉しそうにパチパチと手を叩いた。 ミラはドレスの色に戸惑っていた。今までずっと黒か、紺色、明るくても紫のドレスしか着たことがなかったのだ。漆黒…夜色の髪にはそういった色が似合うと女官たちは言い、彼女も確かにそうなのだと納得していた。これは…この色は明るすぎる。 「なるほど。…こちらの色の方がやはり似合うのだな。シェンスの意見に従ってよかった。」 「え？」 神官衣を着た銀の髪の次兄はきょとんとするミラにくすりと笑いかけた。 「いや、兄さんは『深紅のドレスをミラにさんにプレゼントしたい』と強行に主張ていたんですが、私はミラさんにはこちらの色のほうが似合うと進言しまして…やあ、でも本当によく似合っていますよ。」 フレアがミラの髪を一房手にとった。 「髪に同じ生地のリボンを編み込んだらきっと映えますわ。」 ローンが得意そうに胸をはった。 「因みに衿のレースは母上の手製だ。どう？気に入ったかな？」 ミラは紫水晶の瞳をぱちぱちさせた。 「あの……このドレスはいったいどうして……」 彼女の戸惑いの様子を見て、国王夫妻、シェンス、フレアの視線がローンに突き刺さった。王が言った。 「まさか…まさかとは思うが、ミラさんに何も言っていなかったというのではないだろうね。ローン。」 ローンは首を傾げた。 「いけませんでしたか？…ミラを驚かせようと思いまして。」 国王ははあ、と言って天を仰いだ。 「…ローン、お前は子供の頃から少々大雑把なところがあるとは思っていたが……いいかね。こういうことはお前一人ですることではないのだから…」 会話に置いていかれたミラは少し心配そうな顔になった。この城に迎え入れられるときに、歓迎の宴はすでに開いて貰った。この服を着て、どんな宴に出ろというのだろうか。 「あの…一体……」 ローンが頭を掻いた。 「婚約の儀というのをそろそろしてもよいのではないかと思って。…というか、父上たちに言われて私も、そうか、そうだ、と思ったのだが。」 「え？」 まっすぐに自分を見つめるミラの視線にローンは慌てた。 「いや、ええと…まだ早いと思うのなら…ああ、そうだ、いくらでも待とう。君はまだ十七だ。……とはいえ…正直な気持ちとしては…その、なんだ。あまり長くは待ちたくないが…」 大剣を持たせたら鬼神の如き戦いをする男に遥か上から見下ろされつつつっかえつっかえ言われ、ミラはくすっと笑った。 「この国に迎えていただいたときから、私の心は決まっています。」 そう微笑まれて、長兄の顔が真っ赤に染まるのを次兄は楽しそうに眺めた。 「おやおや、兄さんの方がずっと子供に見えますよ。」 「うるさい！求婚をしたことがないお前のようなひよっこにからかわれるなぞ心外だ！」 年甲斐も無く追いかけっこをする公子兄弟を、女たちは笑って見ていた。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 婚約の儀が開かれる日どりは決まり、平穏な時が流れていた。 そんな折、東にある岩山に、黒竜が出現した。竜は何十年かに一度、必ず現れる。竜は血肉を持った獣ではあるが、この世界の負の「気」が集まり竜の形になると伝えられている。歴史書は、そのたびに、勝れた剣の使い手が竜を屠ったと伝えている。報告を受けた王は、自分の息子の一人…ローンを岩山に派遣した。一部隊を率い、王都を出発する時、ローンはミラの手を取って言った。 「少し時間はかかるかもしれないが、必ず戻るから。…妖精を母として生まれた私にとって、竜を退治することは、きっと天命なのだから。」 そうしてしっかりと握ってくれた手は大きくて暖かだった。 あの日から何日たっただろう。 ローンは戻っては来なかった。 伝書鳩が持ってきた報せでは、ローンは竜を崖縁に追い詰め、見事に仕留めたが、最後の力を振り絞った竜の爪にかけられようとする兵士を助けるために自分から、落ちていく竜に飛び掛り、竜もろとも谷底に落ちて行ったという。 嘘。 嘘だわ。ローン様が死ぬなんて。 嘘ではないとわかっていながら、ミラは嘘、嘘、報せなんて嘘、と頭の中で繰り返すことしかできなかった。 星空の下、彼が消息を絶ったという山稜の方角をバルコニーから見つめていると、嘗て夢で聞いた声がした。 “サア、ワタシヲヨビダスノダ。トキハキタ。” ミラはぴくりと夜色のドレスを纏った肩を震わせ、声に向かって言った。 「“時”とは何？どうして私に向かって話しかけるの？」 “オマエハワタシヲホッシテイル。ワタシハソレヲシッテイル。ナゼナラワタシハオマエダカラダ。カナシミヤイカリハワタシノカテ。オマエノソノカンジョウハワタシヲヨビヨセル。サア、ワタシヲヨブノダ。ワタシヲヨベバワタシハオマエヲアノヤママデヒトハシリデツレテイク。サア、ワタシヲヨブガイイ。” 「ダメ！あなたを呼んだら…私は私でなくなってしまうわ。私はあなたに乗っ取られてしまう。…私の中にはいつもあなたがいる。それはわかっています。でも、決して私はあなたを外に出したりはしない！」 “イキタイノダロウ？ナラバワタシヲヨベ。” 「嫌！絶対に嫌です!!」 “ワタシハオマエダトイウノニ！” ミラの周りを黒い靄のようなものが取り巻いた。それは体温を奪うように冷たかったが、その冷たさが妙な心地よさを彼女に与えた。 “サア、ワタシヲヨビナサイ。……モウコンナセマイトコロハゴメンダ。” 靄の中から鋭い爪の生えた黒い前足が覗いた。そして頭が現れた。 …金色の目をした黒豹。リースティア王女を引き裂こうとしたのと同じ形の獣。ミラは頭を振った。 「違う！私はあなたなど呼ばない！」 ミラはぎゅっと目を閉じた。シーラの、ウェンスの、フレアの、ティナの、シェンスの、リースティアの、ラルフィスの、そしてローンの笑顔。…私はあの人たちに護られている。だから私は護る。乗っ取られなどしない。呼びなどしない。 「私は闇など呼ばない！私はもうあなたなど必要とはしないのですから！私が呼ぶのは…!!」 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ ローンはゆったりと揺れる感覚に気付いて目を開けた。崖から落ち、足を痛め、水もなくただ死を待つばかりだったはずだのに…ここは？馬の背か？ 「ローン様、お気づきになりましたか！」 手綱を握り、片鞍乗りしていたミラは、そっとローンの髪に触れた。 「これは夢か？黄泉に旅立つ前に神が夢を見せてくれているのか？」 「いいえ、夢ではありません。…私、ローン様のところに行きたいと願いました。…その願いが叶ったのです。…私、闇しか呼べないものと思っていました。闇だけがずっと私と共にあるのだと思っていた。でも…そうではなかったのです。」 ローンはミラの片手を握った。 「夢でもいい。君に会えたのだから。いや、これは夢に違いないじゃないか。谷底まで降りてこられる馬などいるはずがない。」 ミラは少し笑った。 「夢ではないのです。ローン様、ゆっくりと足元をご覧下さい。驚かないで下さいね。」 ローンは言われたとおり、視線を下に落とし…あっ、と小さく声をあげた。緑の木々に覆われた山塊が遥か下に見えた。雲を映した湖が、山を縫う川の流れが、どんどん足元を過ぎていく。 傷ついた勇士を乗せた天馬は、その大きな白い羽を力強く羽ばたかせ、朝の光の中を王都に向かって飛んでいった。 |
| 異国から来てやっと心の平穏を得たミラ王女の話です。彼女は強い魔力を持っていますが、それを制御しきれてはいません。師となる人間も居ない中でどうやって御し方を学ぶかというと、自分自身が強くなるしかないわけで…。これまで、彼女の強さは孤独であったからこそのものだったのですが、「独りではない」ことが生み出す強さを身につけて行って欲しいものです。 |