| 台風襲来 |
サントハイムの遥か南の海上で、大きく渦を巻いた雨雲が発生した。雲はどんどんその厚みと大きさを増し、北上していく。破格の雨量ととんでもない大風を伴って。そう、今のことばで言えば台風である。サントハイムに台風が上陸するのは珍しいことで、一度も来ない年もあるが、今回の台風は、五十年にあるかないかの勢力の強大な巨大台風であった。 サントハイム王宮では、台風の襲来に備え、家臣たちが右往左往していた。城壁の内部にある建物は皆、石造りの堅固な建物であったが、それでも強風に弱い場所はある。それに該当する窓や、扉や、柵を補強し、或いは板で打ちつけ、念には念を入れて準備をする。多数の兵達が城下町サランの保守や増水で被害の出る可能性がある、橋や、堤に派遣されており、残りの者たちも、命令が下ればすぐに急行出来るよう装備を整え待機している。自由に煮炊きができなくなることも考えて厨房の者たちはたくさんのパンを焼き、存の効くよう香辛料を利かせたスープを沢山の大鍋でぐつぐつと煮込んでいる。風雨が本格的に強くなったなら、下働きの者たちは台風がサントハイムを抜けるまで家族と共に聖堂に避難することになっている。そこでそのスープは配給されることになるのだ。誰もがそれぞれの持ち場で忙しく立ち働いており、城壁内はあたかも戦争のようであった。 ７歳になるアリーナ王女は不機嫌であった。 何故ならその日ずっと彼女は放って置かれていたからだ。朝起きて、侍女に着替えをさせてもらって、父王におはようの挨拶をし、朝ごはんを食べ、その後玩具や絵本が置いてある部屋に連れて行かれ……そのまま放って置かれたのだ。どうしてクリフトは来ないのだろう。今日は神官学校がお休みのはずなのに。絵本を読んでくれるって約束したはずなのに！絵本を読んでくれたあとに、一昨日できるようになった宙返りを見てもらうつもりだったのに！今度のは宙返りしながら捻りをする奴で、とっても凄い奴なのに!!それをするために、窮屈なドレスは脱いでしまって動きやすいチュニックに着替えてこうして待っているのに！小さなお菓子と飲み物を10時半にもってきてくれた侍女に、どうしてクリフトは来ないの、と尋ねたが、台風が来るので、忙しいのですよ。そば仕えのお仕事もお休みですよ、とそれだけ説明されて終わりだった。そもそもアリーナは台風が来たからといってどうしてクリフトが忙しくなるのかが理解できない。アリーナが知っている台風は、強い風がちょっと吹いて、強い雨がちょっと降って……それで終わり。それだけなのに、どうしてクリフトは来ないんだろう。雨も風もクリフトがどうこうできるものではないのに！クリフトが来ないときには侍女が絵本を読んでくれるが、今日はそれもない。きっとそれも台風のせいなのだ。 アリーナはテラスへ続くガラス戸を見た。折から強くなってきた風がガタガタとガラスを鳴らす。『お姫様、台風が来るのですから決してテラスには出てはいけませんよ。』と侍女は言ったが、言われるとますます出たくなる。七歳にしては小さな姫は、伸び上がってノブを回し、ぐっと外に押した。風のために扉は開かず、一度少し後ろに下がって体当たりするようにして押すと、テラスに飛び出る。 「わあ！」 外は既に強風が吹き、アリーナの赤みがかったハチミツ色の髪を大きくなびかせた。アリーナはこんな風をはじめて知った。たくさんの湿気を含んだ生暖かな風。台風を知る大人はやってくる脅威を思って不安を感じるだろう。しかし、小さなアリーナにとってはこの大風は純粋にワクワクする面白いものだった。遠くに目を移せば、大きな木が信じられないほど大きく風にしなっている。どうしたって、どうしたって…… こんな凄い風の日に、部屋に閉じこもってなんていられない!! 昼食の用意が整ったことを報せに来た侍女が、部屋の扉を開くと、突風が吹き込んできた。慌てて大きく開かれたテラスへの扉から走り出ると、カーテンを引き裂いて作ったロープがテラスから地面へとゆらゆら揺れていた。 アリーナはサランへ向かう道とは逆側の小高い丘に居た。初めは風に吹かれているだけで楽しかったが、ついさっき新しい遊びを発見して今はそれに夢中だった。雨避けに羽織ってきたマントの裾を持ち、風に向かって立つと、大風をはらんでパン、と膨らみ、アリーナの小さな体を後ろへと後ろへと持っていく。それだけでも随分と面白かったが、一度ぴょんと跳ねてみたところ、一瞬だが確かにアリーナは風を受けて飛んだのだ。じいも、クリフトも、人間は飛ぶことなどできないと言っていたけれど、それはきっとやり方を知らなかったのだ。風はどんどん強くなってきているから、ずっとずっと長く高く飛べる。もっと頑張って跳ねたらきっときっと鳥みたいに飛べる。 アリーナは既にぐしょぬれになっている袖をまくりあげ、マントの裾をしっかり握り何度も何度も飛び跳ねた。風はますます強くなり、思わぬ向きに煽られてアリーナは幾度も転げ、飛ばされた。だが、ちょっとした擦り傷きり傷は日常茶飯事で、受身の方法を知っている王女らしくない王女は、転がるたびに笑い声さえ上げてまた同じ遊びを続け……気付けば王宮からどんどん離れて行ってしまった。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 城の者達が台風に備え忙しく立ち働いている間、ぶらぶらしていた者が皆無…だったわけでもない。この国の筆頭魔道士ブライは、自室で暇を囲っていた。同じ魔力を持っていても神聖魔法を操る神官たちは、怪我人が出ることを想定して薬品や包帯の準備に余念ない。それに比べて魔道士たちは……彼らの補助系の魔法もあるにはあるが操るのは専ら攻撃魔法だ。炎魔法や氷魔法、更には爆発魔法なぞ台風襲来になんぞ役にたつことなどない。無論、魔法ではなく彼らは『知識』を頼られることもあるが、台風前にお伺いをたてにくるような用事は現在のところ発生していない。勿論、魔道士たちにも仕事は割り振られているのだが、魔道士筆頭で最高齢のブライには仕事が来なかった。直属の弟子から『今は書類運搬くらいしか仕事がありません。我々だけで十分です。足腰にきたら大事ですから老師はお休みになってお茶でも飲んでいらして下さい。』といわれて追い返されてしまった。 だからブライは私室の椅子に座り、古代神聖語で書かれた魔道書などを読みつつ、気に入りの甘菓子などをぼりぼり齧りつつ完全休業日を満喫していた。実のところ、書類運搬くらいしても足腰が立たなくなるような鍛え方はしていないのだが、自分が一歩退いて若手に陣頭指揮を取らせるのも勉強じゃろうと一人ごちる。 暫くページを捲る音と、菓子をもぐもぐやる音しかしなかったが、それが止んだ。やはり、皆が慌しく動いているときに自分だけ優雅に茶を飲んでいるというのはあまり気分の良いものではない。そういえば、とブライは思い出す。クリフトの奴めは避難所となる聖堂であれこれ準備をしていたな、ならば姫様はお一人の筈。あの小さなお転婆が外にも出られず一人遊びをしているとなれば、じきに癇癪を起こしてもおかしくはない。そうなったら、お付きの侍女の手には余るだろう。うむ、こんなときにこそ、教育係の出番かもしれぬ。やれやれ、と声に出して言いつつもなんだか嬉しそうにブライは椅子から降りると、魔道士の杖の端に嵌った宝玉で肩を叩きつつ王女の部屋に向かった。 すると、侍女が二人、扉の前に悄然と前途佇んでいた。顔色が悪く、涙目だ。ブライは一つ大きく咳払いをし、声をかける。 「どうした。大方、姫様がまた大暴れなすったんじゃろう。泣くことなどない。前にも言うたが、姫様はお前達のことを姉のように好いていらっしゃるのじゃぞ。ただ、女のお子様にしては武闘の真似事が破格に好きなだけなのじゃて。我儘を言うのもご母堂の居ない寂しさの裏返しで…」 言葉を続けようとするブライの前で侍女二人は顔を見合わせ、すぐにおろおろした声で口々に訴えた。 「違うのでございます。ブライ様。」 「アリーナ様はお部屋にいらっしゃらないのです！そしてテラスからカーテンを裂いて繋ぎ合わせたものがたらされておりました。」 ほんの少しブライの目が開かれる。 「なんじゃ、また脱走なさったのか。ならば、クリフトのところじゃろう。アレは姫様のお気に入りじゃからの。奴は聖堂で働いておるはずじゃ。」 「いいえ、私達もそう思って、聖堂まで探しに参ったのですが、姫様はいらっしゃいませんでした。」 「クリフト君も、朝から一度もお会いしていないと驚いていて、私達が説明するとすぐ、許可をとって姫様を探しに聖堂を出て行きました。私達、司教様に、あとのことは私が連絡するからあなた達は姫様の部屋で待っていなさいと言われて……でも、姫様のいなくなられたお部屋でお待ちするのは、なんだか嫌で……ああ……仕事の途中に姫様のお部屋を覗くくらいはできたのに。」 「私もです。お声をかけて、少しの間でも遊ぶことくらいはできましたのに！」 ブライの目が大きく開かれた。そして、お前達は悪くない、気に病むな、と言い置いて、廊下を走った。 既に、アリーナが居なくなったことは城内に広く知れ渡っており、兵がくまなく捜し歩き……しかしアリーナはみつからなかった。ブライはアリーナが行きそうなところを探すように指示を出し、自分自身でも心当たりを探し回った。散々探し回り、もしかして、部屋を出たとみせかけて、部屋の中に潜んでかくれんぼの真似事でもしているのではないか、とブライがアリーナの部屋に戻ったとき そこには手紙が置いてあった。そして、ブライには見慣れたクリフトの几帳面な筆跡でこう書かれていた。 『じいさま、僕は侍女さんに手伝って貰って、アリーナ様の服から雨よけのマントがなくなっていることを発見しました。アリーナ様はきっとお城の外にいます。お姫さまは丈夫で強い子だけれど、台風で飛ばされたらきっと怪我をしてしまいます。僕は今日アリーナ様と遊ぶ約束をしていました。台風のせいでそれができなくなったことを僕は知らせていませんでした。僕が知らせて、そのときに『今日一日お部屋に居てくださいね、台風はとてもこわいものなんですよ。』って、お話して約束したらアリーナ様は外には出なかったはずです。お転婆だけれど、約束は守る子ですから。だから、アリーナ様が外に出たことは侍女さんではなく僕に責任があるのです。だから、僕が探しに行きます。探して連れて戻ってきます。』 ブライは手紙を掴み、ローブの隠しにねじ込むと部屋を飛び出て自室へ走った。急いで雨具を身につけ、魔道士の杖を握り締め、階下へと急ぐ。風雨をついて捜索へと出発する兵の間を縫うように責任者のところにたどり着くと、クリフトがアリーナを追って出たことを告げる。そのまま出て行こうとするブライを当然のことながら兵達が制止する。ブライは小さな火球を杖に纏わせ、このおいぼれをを引き止めるのなら大火傷するぞ、とすうっと目を細くして凄んだ。怯み、どうすべきかと皆が躊躇する中、ブライは飛び出していった。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊ アリーナは大風をとても楽しんでいた。風に乗り、飛ばされ、ころころと転がっていく。走れば、一歩の距離がいつもの二倍以上あり、馬車よりずっと速い。多少は打ち身も作ったが、そんなことは小さなことだ。台風って凄い！凄い凄い!! はしゃぐアリーナの耳に、男の叫び声が入った。 「誰か、誰か来てくれ！」 そこには一軒の家があり、少し離れた場所に、一人の男が倒れていた。男は、何かの下敷きになっているようだった。小さなアリーナにも、男が身動きが取れないこと、怪我をしていることがわかり、なんとかしなくちゃ、と声の方に向かおうとした。ところが、先程までアリーナを楽しませてくれていた風がアリーナをそちらにあるかせまいとした。姿勢を低くし、地を這うように、疎らに生えた草の根を掴んで男に近寄る。 男の足は倒木の下敷きになっていた。アリーナは渾身の力を込めて倒木をどかそうとしたができなかった。それどころか風に飛ばされまいと枝に齧りついていることしかできない。男は、自分を助けてくれようとしているのが、年端も行かない少女であるのに気付いて痛みに顔を歪ませ、アリーナの手首をしっかりと握って目を見つめて言った。 「君には無理だ。ここを離れて誰か大人を呼んできておくれ！」 だって、おじさんは怪我をしているわ、とアリーナが叫ぶと、男はおじさんは大丈夫だから！と雨と風の音に負けないよう声をはりあげた。 「おじさんは大丈夫だ。でも、おじさんの家には、年をとったおじいさんとおばあさんと、すぐにも赤ちゃんが産まれそうなおじさんの奥さんがいる。この風と雨の中、歩くことはできない。でも、もうすぐおじさんの家は……」 男が指差す家は、煙突が突風に負けて崩れ落ち、既に骨組みが傾いていた。 「おじさんも助けを呼びに馬で出るところだった。そこにこの木が倒れてきて…馬は逃げてしまった……お願いだ、どうか、誰かを呼んできてくれ!!」 誰かを？どうやって？この凄い風の中、どうして報せにいけるだろう。第一、お城がどっちなのかももうわからなくなってしまった。 「ごめんなさいおじさん！私はどっちにいったらいいかわからないから報せにはいけないわ。でも、この木をどかすことはできるかもしれない。だから私はここに居るわ。」 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ クリフトはアリーナが風にのって移動していったとおりの方角へと足を進めていた。アリーナが遊びに出たとすれば、すぐに発見されてしまうサラン方面へは行かなかったはずだ。逆側も街道近くにはいないだろう。そして、アリーナが城を出てからしばらくして風雨が強くなりまともには歩けなくなった。そんなときにアリーナは風に逆らって歩くような子ではない。風を避けて森に避難することもない。アリーナは風に乗って歓声をあげながら走っていく。絶対に。 クリフト自身は何度も転び、手に擦り傷をいくつも作りながら突風の吹き渡る草原を息を弾ませながら走っていく。台風が通り過ぎればアリーナは何事もなかったように笑顔で帰ってくるかもしれない。しかし、どこかで怪我をして動けなくなっているとしたら…？雨でぬれた髪が目に入り視界を奪い、それを指で退けて進む。 雨と風でわかりにくかったが、明らかに新しい小さな足跡を土の地面に発見してクリフトは大きく息をついた。確かにアリーナはここを通ったのだ。このまま風に逆らわずに歩いていけばきっとアリーナに出会える。そう思って走る速度を上げようとしてまたクリフトは転んだ。肘から地に落ち、痺れるような痛みが襲う。倒れた姿勢のまま、ゆっくりと肘を動かす。大丈夫折れても居なければ腱も大丈夫なようだ。と、かすかな声が聞こえてきた。男の声だ。誰か、誰か、助けてくれ！ クリフトは歯を食いしばる。そうだ、こんなときに効力を発揮するかはわからないけれど… 「”いと高き所にある全能なる神よ。邪悪なる者から我らを守り不可視の盾となり給え。”」 守備力を上げる呪文を完成させた途端、体にかかる風圧は同じであるはずだが、クリフトは息をするのが楽になったのを感じた。この呪文は敵から身を守るためのものだと教えられたが、自然災害もまた、人の子を苛む敵であるらしい。とにもかくにも神官の卵は低い姿勢のまま、幽かに聞こえる叫びに向かってじりじりと進み続けた。 「クリフト!!」 男の声にアリーナの叫びが混ざる。 「アリーナ様」 クリフトが倒れた男のところにたどり着くと、アリーナはひっしとクリフトに齧り付いた。 「クリフト、クリフト！この人怪我をしているの。私、木をどかそうとしたけれど、できなくて！」 言われるより早く、クリフトは男の具合をざっと調べ治癒の呪文を唱えた。男は少し楽になったようであったが顔色は青く、おそらくはあばらが折れ、内臓にも不具合があるかもしれなかった。まだまだ駆け出しの神官学校で勉学途上の見習い神官の手に負える怪我ではない。 「姫さま、とにかく木をどかしましょう！」 「だから、できないのよ！びくともしないの！」 「でも、やるんですよ！」 クリフトが一喝し、アリーナが背をピンと伸ばす。 「……姫様、太目の枝を一本折ってきて下さい。姫さまにならできるはずです！」 アリーナは体をずらし、気合を込めて足を一旋し太さの枝を折り取ってきた。 「僕は力はありませんが、体重は姫さまの二倍はあります。……ここを……こう……差し込んで。アリーナ様、僕におぶさってください。」 言われるままにアリーナがクリフトに齧りつき、クリフトが梃子の原理で木を押し上げる。子供達の必死の働きを無にしまいと、男は感覚のなくなっている足を、上体に渾身の力を込めて前へと体を這いずりずらして足を抜いた。見習い神官の少年は一心に祈り、魔力が果てるまでは、と回復呪文を唱え続ける。心の中で、誰か、誰か、早く来てください！と悲鳴をあげながら。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ ブライは魔道士の杖をつき、一足一足前へと進んでいた。今居るのは城の裏手の小高い丘であった。雨よけの合羽は破格の雨と風の前に用を成さず雨で髪も髭もぐしょぬれとなり、見るからに酷い状況であったが、ブライはかまわず、でん、と丘の頂上で胡坐をかいて座った。 あの二人を失うわけにはいかないのだ。 クリフトは二親と妹を一度に亡くし、ブライが後見人となって手元に引き取った。非常に遠縁の親類であったが、ブライよりも近い位置にいるものは一人もいなかったのだ。それは取りも直さずブライ自身にも縁者が少ないことを表している。両親とは既に死別し伴侶も子もなく、ブライはクリフトに対し祖父としての役割を果たしていると自認している。クリフトは可愛い孫であるのだ。そして、アリーナ。教育係として姫が幼少の頃から面倒を見、彼女もまたブライにとっては孫のように思えていた。アリーナの父、ライル王にも教育係として仕えたブライは、不遜であるとはわかっていたが、王に対しても家族のような気持ちを抱いていた。その家族を悲しませるわけにはいかないのだ。そしてブライはアリーナの母とも約束したのだ。病に冒され、自分の命がそう長くは無いと悟っていた王妃は、ある日、ブライ一人を枕元に呼んで自分が遺して行かねばならない二人の家族のことをブライに委ねたのだ。 (アリーナは随分お転婆で危なっかしいところがあります。ブライ、よろしくお願いしますね。アリーナはあなたのことが大好きなの。お爺様のように思っているのですね。だからこそ我儘をいってしまうことがあると思います。悪いことや危ないことをしたときにははっきり叱ってやってくださいね。それからライル…陛下は豪胆なようで、悩みを一人で抱え込んでしまうようなことがよくあります。…私がいなくなってしまったら、陛下が弱さをさらけ出せるのは、聖堂のディルト司祭様とあなただけになってしまいます。ブライ、陛下とアリーナ……二人のこと、どうか、頼みます。) 痩せた面に微笑を浮かべてそう告げた王妃の姿が切なくて、ブライはその白い手を両手でしっかりと握り、はい、確かに、この爺、命が続く限りお守り申し上げます、と約束したのだった。 ブライは目を閉じ、座り続ける。丈夫といえどもブライは随分と齢を取った。闇雲に探しても疲れ果てるだけなのは目に見えている。…だから、それが万に一つの可能性でもこうするのだ。風の音も雨の音も頭から追い出す。そう、必要なのは音ではない。探すべきは気配。常人では掴みようがないが、魔道に優れたものならば感知できる気配。 随分してからピリ、と魔法力の開放された気配がプライの頭の中に響き渡った。暖かな日の光を思わせる気配は治癒魔法の気。そしてなにより、そのれは大切な身内、クリフトの、生真面目で優しい気を放っていた。 ブライは走る。クリフトが治癒魔法を使っているということは、怪我人がいるということだ。それはアリーナなのか、クリフト自身なのか、それとも…… 心臓は早鐘のように打ち、風に翻弄され足が縺れる。しかし、ブライは慌てない。このようなこと、現国王が少年の頃の冒険に使わされたときに何度も経験していたことだ。流石にこんな台風の中歩くことはなかったが。ブライは真っ向から風に向かうことなく、体の向きを斜めにとって、少しずつ自分を呼ぶ気配へと近づいていく。 見えた！ 今にも風で倒れそうな崩壊寸前の家。その前に倒れている大柄な男と、その男の脇に手を差し入れてその場から少しでも離れようとしているクリフト。クリフトはアリーナに逃げろといっているようだったが、アリーナはクリフトの上着の裾を掴んで放さない。 風で家屋の煙突がそのままの形で飛ばされていってアリーナのすぐ近くに落下した。た。もし、もし、あの家が倒壊したら、クリフトもアリーナも見知らぬ男も無事では済むまい。 ブライは歯噛みする。 サントハイム王国筆頭魔道士、王国の知恵袋などと畏怖されても自分は今何もできない！得意とする氷魔法も、敵を眠らせる魔法も、敵の守備力を下げる魔法も、攻撃力をあげる魔法も……50年以上学んできた魔道の中の何一つ役にはたたないではないか！学んできたのは破壊の魔法だ。守り、助ける魔法など何も身につけてこなかった。何も、何も成してこなかった！ また、突風が見舞い、家屋の物置小屋が吹き飛んだ。小屋は形を保ったままやはり三人のすぐ傍に落下し、衝撃で多数の木切れに分かれ、バウンドしながらそのまま風で転がってブライからそう遠く離れていない場所を飛んでいった。 もう…もう時間がない。時間が。 ！！ そのとき、ブライの頭に電撃のようなものが走った。 「クリフト！姫様！！地に伏せるんじゃ！！！ 風下からのその声は届かなかったが、クリフトが魔法力を徐々に開放しつつあるブライの気配に気付き、彼の姿を認めると、その身振りから肩を貸していた男の体を地面に横たえ、アリーナを守るように上に覆いかぶさった。 「……大自然の摂理を司る大いなる力よ。我に一時道を開き給え。変幻自在にその姿を変える水よ、我が命に従え！」 圧倒的な魔法力の開放に、クリフトは怪我をした男とアリーナに回した腕に力を込める。 ……と、全てが変わった。風が……狂ったように吹き付けていた風が止んだのだ。地面に手をつき、首を起こしたクリフトは、そこに出現したものに目を見張った。隣では立ち上がったアリーナがぴょんぴょんと嬉しそうに飛び跳ねている。 「凄いわ！……こんなことができるなんて、ブライ、爺、爺、居るんでしょう!?」 ブライは杖をくるりと回して腰を一つ打つと、ゆっくりゆっくり歩き始めた。そこにアリーナが駆け寄り飛びつく。 クリフトはといえば、安堵で膝立ちになったまま、アリーナの様子を呆然と眺め……首をめぐらしてブライが生み出したものを改めて見上げる。 そこには壮大な氷の宮殿とでもいうべきものが出現していた。倒壊寸前の家屋は形をたもったまま透明な氷の中に守られ、更に、その氷山のような氷塊は、クリフトたちの風除けとなっている。怪我をした男はその光景に一瞬言葉を失い、次に叫んだ。 「家の中には俺の家族がいるんだ！あの氷の中に！年寄り二人と、身重の女房と……」 ブライは男の傍に身を屈め、落ち着かせるようにその背をさすった。 「大丈夫じゃ。あの氷はすぐに壊れるもんではないぞ。そしてな……氷の中は存外暖かいものじゃ……この風雨が収まるまで、お前さんの家族を守ってくれるじゃろう。……すぐに助けがくるはずじゃ。何せわしの魔法力の殆どを継ぎ込んだのじゃからな。騎士団の中にも魔力感知のできる者はおる。風雨をついてやってくる。奴らはタフじゃからな。……ほーら、来なすった！」 頼もしい蹄の音が響いてくる。 「……あなたは一体……」 「……魔法をぶちかますことしか能のない通りすがりの爺じゃ。おーう、ここじゃここじゃ！」 ブライは大きく手を振り、下馬してきた数人の騎士に指示を出す。炎系に優れた魔道士を手配し、弱い炎魔法を使って入り口付近の氷を溶かし、中の住人を助け出すこと。救出したならば、この家の主人である怪我人と共に王城まで運び手当てすること。念のため、細君が産気づいてもよいように産婆も用意しておくこと。……それだけ指示すると、ブライはクリフトの傍に戻ってどっかと腰を下ろした。騎士達はアリーナ様とブライ様は一国も早く王宮へお戻りを、と言ったが、ブライは手をひらひらさせて、この生暖かい空気で風邪をひく心配もない。陛下に無事とだけお知らせすればよい、と、彼らを追い払うような仕草をした。 まだ氷の宮殿に凄い凄いと手を打ってはしゃぐ赤みがかったハチミツ色のアリーナの頭に、ブライはゴチン、と拳骨を落とした。 「いったあい！」 脳天を押さえるアリーナに、ブライは、そう、痛いですな。そのように打ったのですぞ、と不機嫌そうに言った。 「台風に備え、城の者が忙しく立ち働く中、城を抜け出す愚か者がどこにおりますか！姫様お一人の為に、何人の者がこの風雨の中探しに出たとお思いですか！」 ふくれっつらをして黙ったままのアリーナに尚もブライは続ける。 「……そして、陛下や侍女達や……このクリフトや……何人の者を心配させれば気がお済みか！」 初めてアリーナの瞳が揺れ、ごめんなさい、ごめんなさい、とブライに齧り付いてきた。そのアリーナを左腕で抱え、ブライは魔道士の杖でポカリとクリフトの背を打つ。 「クリフト、お前もお前じゃ！姫さまのそば仕えとしての責任を感じたのはわかる。……役目以前に姫様を心配でいてもたってもいられなくなったのはわかる。じゃが、何故一人で飛び出すか！まだ十一の未熟な小僧っ子に何ができると思うたか！」 神官見習いの少年は、嗚咽を堪え、僕が考えなしでした。じいさま、すみません、すみません……と消え入りそうな声で謝る。 ブライの説教は延々と続き、やがて台風が通り過ぎ、陽光が差し込んだ。ブライは言いたいだけのことを言ってしまうと、魔道士の杖をくるりと回し……先端についた宝玉で自分の頭を打った。これにはアリーナもクリフトも仰天した。 「更にはワシじゃ！……魔道士筆頭でありながら、一人勝手にお前さん達をここまで追ってきた。まったく大人気ない愚かなことじゃ!!……よいか、クリフト、そして姫様、われら三人、城に戻ったら陛下と司教のディルトにワシが今お説教した以上にそりゃあこっぴどく叱られること間違いなしじゃ。で、」 耳を貸せ、とブライは愛しい子供二人を抱き寄せる。 「姫様、これから帰る道々なるべく叱られないように口裏合わせて作戦会議を致しますぞ。クリフト、お前さんも知恵を絞って考えるのじゃ。」 ニヤリと笑うブライ。目を輝かせるアリーナ。え、いいのですか、そんなことでいいのですか？と複雑な表情のクリフト。ブライは、馬に乗ってくださいと嘆願する騎士を、歩いて帰ることがわしらへの罰の一つじゃからの、と退け歩き出す。 サントハイムのお転婆王女と筆頭魔道士の老人とと神官見習いの少年は濡れ鼠の服を嵐の後の透き通った陽光で乾かしながら横一列に並んでゆっくりと王城へと戻っていった。 |
| 開設12周年でいただきましたリク、「8月のお題・台風」です。サントハイム三人組ということで、前半はアリーナメイン、後半はブライメインです。こんなこともあったかも……というアリーナ幼少期の一場面です。もしかしてリクエストしていただいた内容とずれてしまったかもしれませんが(クリフトとアリーナの物語メインで、ということでしたら本当にすみません)ご笑覧下さいませ。以前、アリーナのお母さんがクリフトにアリーナのことを頼んだ話を書きましたが、きっとブライにも頼んだだろうな、だとしたら、王様のことも頼んだろうな…などと今まで触れられなかったあれやこれやも書いてみて、やっぱりサントハイム三人組が大好きだ、と再認識しました。ありがとうございました。 |