| 非凡な戦士の平凡な日常 |
「………………」 ハア、ハア、とモンバーバラの踊り子は疎林の中にぽっかりと開けた小石混じりの荒地に立ち、肩で息をする。彼女の周りはぐるりと魔物に囲まれている。猛禽の頭と翼を持ち、ヘビの体を持ったキメラ。その青い鱗に包まれた胴体は空中でくねくねと左右に揺れ、マーニャの隙を狙っている。マーニャは右手に握った刃を仕込んだ扇状の武器を構えなおす。それは踊り子である彼女の手に馴染んだ武器であったが、炎の精を自在に操ってきた精霊魔法に比べれば、あまりに非力な戦う術であった。嘗ての旅の仲間がその場にいたら、誰しも思うだろう。どうしたのだ、マーニャ、魔法が封じられてしまったのか、魔力が切れてしまったのか。あなたなら軽く魔法を唱えただけで、周囲の半端魔物を瞬時に殲滅させるだけの威力を持つ炎が辺りに吹き荒れるだろうに、と。 背後に居るキメラが一度高空に舞い上がったかと思うと、勢いをつけて滑空し、マーニャへと突進した。気配を察知したマーニャは咄嗟に避けたが、キメラの鋭い嘴は肩口に浅いが長い傷跡を作った。 マーニャの顔が歪む。 (魔法は使えない……使っちゃダメ……でも……このままじゃ……) 再び得物を構えなおし、マーニャはカッと目を見開き、キメラたちを見据える。 (負けない!!) ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ ホイミンはバトランドの城下町を走っていた。イムル村の革細工師の親方から預かったなめし革を何枚も丸めて束ねたものや旅に必要なあれこれを詰め込んだ大荷物を背に負い、前には首から布袋を下げている。袋の中には小型の竪琴。走るリズムに合わせて上下に揺れる竪琴を自分の胸元に見ながら、ホイミンはにっこりする。 “早くアレクスさんのところに、この革を届けなくちゃ。アレクスさん、新しい色を気に入ってくれるかな。フレアさんは元気かな。ちっちゃなライアン(←アレクスとフレアは長男に『ライアン』と名づけました)はまた大きくなっただろうな。フレアさんのお腹の中の赤ちゃんは、男の子かしら、女の子かしら。ちっちゃなライアンとライアンのお友達のために準備してきた新しい歌は喜んで貰えるかな。ライアンさんはバトランドにいるかしら。お話できるかなあ。ちょっとでも会えたらいいな。僕、聞いて欲しいこと、いっぱいいっぱいあるんだ！” バトランドの人々は、イムル村からいつも走ってやってくるキラキラした瞳の少年を既によく見知っていて、やあ、ホイミン、元気だったかい、と声をかけ、ホイミンは気持ちのよい返事を返し……しかし、ホイミンは次の瞬間、目をまん丸に見開いてその場に立ち止まった。……建物の陰に人が居る。まるで隠れるようにして……そして、ホイミンはその人物が誰だか一目でわかった。だって、そうじゃないか、あんな人、他には誰も居ないもの。つやつやした長い紫水晶色の髪、大きな銀の髪飾り。この土地には珍しい、褐色の肌。マントを着てはいるけれど、これまたこの土地では破格に珍しい腕と足を恥ずかしげも無く露出するような独特の衣装。 「マーニャさん!?」 気付けば叫び声をあげていた。おかしい、絶対におかしい。マーニャさんはリオレラ大陸のモンバーバラの町で踊っている。モンバーバラはここからとても遠い。リオレラ大陸の王様がここにやってきたとき、マーニャさんの一座も一緒にやってきて踊りを献上したことがあったけど、そんなときでもなければ、ここに来るなんてことないはず。他の国の王様や使節様が来るなんて聞いていないし……。魔王が復活しそうになっていてここに『八勇士』が集合する、ことになったの？いやいやいやいや、だったらマーニャさん一人ってことはないはず。 一方、マーニャはホイミンに呼びかけられると、おいでおいでをし、ホイミンがトコトコとやってくると、ぐい、とまだまだ細っこいホイミンの肩と腰を引っつかんで建物の陰に引き入れた。 「ど、どうしたんです!?誰か悪い人に追いかけられているんですか？それとも借金取りさんかなんかに!?」 マーニャの拳がぽかり、と形だけだがホイミンの頭を殴った。 「なんでいきなり借金取りって発想が出て来るわけ？……ああ、ホイミン君が汚れてしまった……あああああ、こうやってみんな大人になっちゃうんだわぁぁああああ！」 「えええええええ、あの、汚れる、とかよくわかりませんけど、あの、僕、前にミネアさんからマーニャさんはカジノが大好きで、時々すっからかんになるまで遊んでしまうって聞いたものですから……お気に障ったのなら謝ります。」 ペコリ、と腰を折るホイミンに、マーニャはいやいやいやいやいや、なんか、ごめん、そういうのじゃなくってね、ああ、あなたはやっぱりまだまだまっすぐだわ、と手をわたわたと振ると、ポン、と彼の頭に手を置いた。 「改めて、ホイミン君、お久しぶり！うんうん、また最高のイイ男に近づいた、近づいてきた！」 くしゃ、と髪をかき回され、くすぐったく感じながらも、ホイミンは再会の喜びより戸惑いを禁じえない。 「僕こそ、お久しぶりです。お元気そうで何よりですが……あの、どうしてバトランドへ？……マーニャさんのお国はここから遠いですよね。何かあったのですか？」 眉をやや下げてマーニャを見上げているホイミンが、悪いことがあったのではないかと心配しているのは表情からわかる。いや、そんなことはないのよ、と答えたものの、ホイミンは顔を曇らせている。無理も無い。普通にモンバーバラからここに来ようとすれば、海路で一週間ほどかかる。 と、ぱあっとホイミンの顔が明るくなった。 「あ、もしかして、マーニャさんもブライ様と同じように転移の魔法を身につけられたんですか？あの、一度行ったことのある街に移動することができるっていう。」 マーニャは曖昧な笑みを浮かべた。彼女の場合、転移魔法はやってやれないことはないらしい。嘗て、世界一の魔導師と名高いブライがマーニャには素質があると認めてくれた。しかし、転移魔法は危険が伴う。ブライでさえ、『千度に一度は、予期せぬ場所に飛ばされるかもしれぬ』と言っていた。ブライが千度に一度なら、マーニャならば十回に一度はどこかに飛ばされてしまうだろう。……普通の場所ならばよいが、海の上や火山の火口や……次元の狭間なんてぇ所に飛ばされた日には命に関わる。……そんな恐ろしいことは試したくはない。 「魔法じゃなくてね……転移のアイテムを使って。」 「転移の？アレはとても貴重なものだと聞きました。」 「ん、そーなのよ。買うととても高いのよー、キメラの翼って奴は(←このサイトの独自設定ではキメラの翼は高価なものとなっています)だから、自分で調達して……」 マーニャは半目で、あのときのことを思い出す。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 酒場の喧騒の中で聞いた『キメラの群れに家畜が襲われて困っている』という切実な呟き。冒険者を探している、その村の村人に、マーニャさんに任せなさいッｖと即座に返事し、一座に休みを貰って出かけていったのが三日前。楽勝楽勝、あたしは世界を作った八勇士の一人なんだし！と軽く考えていたものの、世の中そうそう甘くはなかった。マーニャの得意の炎魔法では、キメラは魔力を帯びた翼を含めて丸ごと黒焦げになってしまう。ならば、と刃を仕込んだ扇を構えてはみたが、相手は雑魚に近いとはいえ、かなりの数。魔法を封印してしまっては、さしものマーニャも分が悪い。魔法を使わず、傷だらけになりながらも扇だけで戦うか、翼を諦めて魔法で一網打尽にするか……と一瞬考えて、次の瞬間に魔法を使うことを捨てた彼女であったが、翼を傷つけずにキメラを打ち据えることに気を使う余り、キメラは中々空から落ちてくれなかった。逆に彼らの嘴はマーニャの腕を、足を苛んだ。 そして、ああ、ダメだ、このまんまじゃ死んじゃう。やっぱり魔法を使おう、とため息ついた次の瞬間、マーニャは恐怖を覚えた。 そう……身が凍るほどの恐怖………… 「姉さん……タラタラタラタラ…… 何をやっているのよッ!?」 マーニャの横合いに走ってきたミネアはカマイタチの魔法を八方へと放ち、八羽のキメラは一瞬で沈黙した。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 「……あのときミネアが仁王立ちになってあたしを睨みつけた三白眼。それに続くいつもより五割り増しのお説教……アレはここ一年の中で一番の恐怖だったわよ。しかも、あたしが何を目的にしていたかをあの子ってば完璧にわかってたらしくて、８羽のキメラの16枚の羽根のうち７枚はイイ具合に根本からすぱっと切れてて……その後呪いかけて四枚がモノになって。」 どういった反応をしてよいのだか目を白黒させていたホイミンの様子に気付き、マーニャはホイミンの頭の上に置いたままになっていた手をポンポンと上下に動かした。 「つまり、ミネアの協力を得て自給自足でここまで来たわけよ。」 ホイミンはじいっとマーニャを見ている。 「……な、何？」 「はい、あの、マーニャさんはどんな御用でこちらにいらしたのですか。」 ああああああ、こんな真っ直ぐな瞳で見つめられたら言えないじゃない、特に意味は無くあの朴念仁の顔を、キョーレツに見たくなっただけ、なんて。 すると、ホイミンはにっこり笑った。 「もしかして、ライアンさんに会いにいらしたんですか？」 ホイミンは嬉しそうにそう言うとマーニャの手をとった。 「丁度良かったです。僕もライアンさんに会いにいこうと思うんです！さあ！行きましょう！」 そのままホイミンに連れられて、アレクスの家でお茶を振る舞われ、お土産まで持たされてその場を辞し、まだこの時間ではライアンには会えないから、と、宿屋近くの小さな広場で子供達にホイミンが歌を披露し、成り行きでマーニャも普段は踊らないような可愛らしい踊りを踊る羽目になり、さようなら、と手を振ってからホイミンはにっこり笑って先に立ち、王城の右翼、兵舎へと歩いていく。荷物の大半を降ろし、身軽になったホイミンは、時折くるりとまわって街の様子を眺めたり、空をいく鳥の群れを指差したり、中々忙しい。 「マーニャさん、ところで、どうして隠れていたんですか。」 マーニャは息をつく。その理由はまっこと彼女らしくないものであったから。キメラの翼で一瞬にして城下町にたどり着いたはいいが、その後のことを具体的には考えていなかった。ライアンは兵舎、つまりは完全に管理された兵の中に居る。外から様子を伺えるような壁の穴などあるわけはない。ならば、正規の手続きをとって面会を申し出ることになるわけだが…… 嘗て『天空の兜』を探しに王城に立ち寄っても居るが、そのときは仲間達と一緒であり、そもそもライアンが居たので何も考えずに城への跳ね橋を渡って中に入った。王宮戦士達にも出会ったが、平常運転モードのマーニャは若い純朴そうな兵士に秋波や投げキッスを送って赤くさせ、それを見て楽しんだりもしてしまった。……今、自分には、ライアンと共に戦った『八勇士』の一人という肩書きがある。面会はさせてもらえるだろう。しかし、しかし、だ。マーニャは、自分がどういう風に見えるのかを良く知っている。今は化粧をいつもよりは薄く抑えているが、それでもこの街の女性に比べれば遙かに濃い。エキゾチックな風貌や服装は男達の視線をひきつけぬはずもない。猫を被って変装してもよかったが、そんな誤魔化しをライアンは嫌うことをマーニャは知っているし、何より、踊り子としての自分を恥じることは看板スターの矜持が許さない。……で、自分が遠く離れたモンバーバラくんだりから大した用も無くやってきて面会を申し出るのが某朴念仁の迷惑になりそうで、軽蔑も買いそうで、どうしよう、何か他の手段は、面会を申し出るのならどういった台詞で、向こうがそれにこう返してきたら、こっちはこう言って、など建物に寄りかかってブツブツ一人ごちながら脳内でシミュレーションしていたのがホイミンには隠れているように見えたらしいのだ。 しかし、そんなどこぞの(普段は豪快だったり怠惰だったりのお酒大好きお宝大好きカジノ大好きだったりする)純情乙女なあれやこれやをホイミンに告げるつもりもなく『ちょっといきなり思いついたことがあって』とかわすと、そうですよね、頭にふわん、と浮かんだことがあったら、立ち止まって考えたいですし、道の真ん中で考えていたら歩いてくる人の邪魔になっちゃうかも、ですから、道端や建物の陰に寄りますよね、と感慨深そうに頷いたものだから、マーニャとしては、耳の先を赤くしてゲホンゲホンと咳払いして誤魔化さざるを得なかった。 兵舎の門の脇に立つ二人の兵士は、いかつい顔で槍を構え、微動だにしなかったが、ホイミンがぴょっこりお辞儀をすると、その表情を少しだけ緩ませ、槍が下ろされた。 「こんにちは！今日はライアンさんとお話できるでしょうか。」 「ああ、ホイミン。今は教練中だが、夕方までには少し時間が取れるはずだ。待てるかな。」 「はい！」 「……そちらの女性は？おお！これは！」 兵士二人は切っ先を己の方に向けて槍を地面に置き、バトランド風の最上位の敬礼をマーニャにして見せた。 「世界を救いし『八勇士』のお一人、マーニャ様！ようこそおいで下さいました！」 うわあああああ、門前払いは嫌だけど、こういう四角四面なのも反応に困る。第一どうしてこの人たちあたしのことなんて覚えているのよぅ。勇者のアレクや王族のアリーナならいざしらず、と多少退き気味のマーニャだが、『勇者と八勇士』がここに来た際一番悪目立ちしていたのがマーニャだとは気付いていないらしい。 「あらぁ、覚えていて下さったの？嬉しいわｖ」 そう返して投げキッスをしてしまうのは、職業病というよりはマーニャの素の性格なのでいたしかたない。というか、もうここまで来たならば頭の中で右往左往するのは自分に似合わないとマーニャは決め、兵士の一人に続いてスキップするような軽い足取りで兵舎に入っていった。 ホイミンは何度もここに来ているらしく、非番で寛ぐ兵士や、休憩に入った兵士から声をかけられ、まるで兵士達のマスコットのようになっているようだった。が、今日はその隣に艶かしい美女がおり、顔を赤くするものあり、言葉遣いが支離滅裂になるものあり、その度にマーニャは笑顔を振りまいてますます(特に)若い兵士達をどぎまぎさせた。 ライアンは教練中だということだった。今までもそういうことが多かったのか、ホイミンはマーニャの手を引いて教練場が見える場所へと連れて行った。そこは、兵士が教えてくれた場所だというが、物置のような場所で、窓には格子があり、こちら側からは見えても、あちらからは見えない、そんな場所だった。教練場はつき固められた土に薄く砂が敷かれた正方形の場所で、模擬剣を使っての打ち込みが行われていた。二人は壁に寄りかかり、じっくりと王宮戦士達の訓練の様子を見た。模擬剣とはいえ、金属。打ち合う度に重い金属音が響き、それはまるで真剣勝負のようだった。違う場所では、ロープに吊るされた重たげな藁の塊を木製の槍で突いている集団がいた。おそらくは、藁の塊を魔物に見立てての訓練だろう。教官らしき人物がロープを左右に降らせており、見た目よりもきつい教練だということがわかる。さて、ライアンは…… ぐるりと見渡し、探していた人物を教練場の隅に見つけ、マーニャは目を細めた。変わらない。広い肩も、実年齢よりずっと年上に見せさせるあの大仰な口ひげも、短く刈り上げた黒い頭髪も、笑っているときにすら少し気難しげに思えてしまうぎょろりとした目も太い眉の眉間の皺も…… そのライアンは、模擬剣を持っていなかった。木製の槍も持っていなかった。教官として号令をかけている訳でもなかった。王宮戦士の鎧すら身につけていなかった。……彼は素手で、一人の兵士と格闘技の訓練を行っているようだった。しかも、その兵士は体の出来上がっていない動きのぎこちない若者であった。今は受身の練習らしく、ライアンが投げを打ち、若者は地面に落とされてからいかに素早く起き上がり構えを取るかを指導されているようだ。もともと寡黙なライアンらしく、あまり会話はない。しかし、ライアンの一言一言に若者は頷き、流れる汗を拭う暇も惜しんで指導を受けているようだった。そして、しばらくそれが続いた後、今度は若者が技をかける練習となった。つまりはライアンが教練場の砂の上に転がるということであり、流れるような量ではないが、体表全体に滲んでいた汗でライアンの体は一気に砂が張り付いて白くなった。 「……あの坊や、新入りの王宮戦士にしてはひょろっとしてるみたいだけど？」 ライアンから目を離さずに呟くと、ホイミンは違うんですよ、と言った。そして、自分が説明できることが嬉しくて明るい声で続けた。 「あの人は普通の兵士さんです。お城に来て８ヶ月くらいになるでしょうか。ライアンさんと同室の人ですよ。」 「はあっ!?」 バトランドの王宮戦士といえば、相当な名誉職だ。それに加え、ライアンは世界を救った『八勇士』の一人だ。個室が与えられてしかるべきだろう。だのに、兵士になって一年に満たない頼りなげな若者と同室？ 「ちょっと、今は王宮戦士の教練なんじゃないの？」 「うーん、そうなんですけど、おそらくライアンさんは休憩時間で、あの若い人は休日なのだと思います。きっと特別に稽古をつけてあげているんですよ！休憩時間じゃなかったら、王宮戦士様同士で鍛錬しているはずですから。でも、ここは十分な広さがありますから、ライアンさんが場所を借りても差し支えないんですよ。」 自分の休憩時間を潰して若者に稽古をつける。ライアンらしいといえばライアンらしい。しかし……。ライアンはここ、バトランドでマーニャが想像していたのとは随分違う生活を送っているのかもしれない。……そして、それは、不本意なことだった。直接尋ねたことはなかったが、マーニャはライアンの人となりをそれなりに理解している積もりであったからだ。 気付けば彼女はホイミンを質問攻めにしていた。ホイミンはそれに次々と答えていく。ライアンのことを尊敬し、心から慕っているホイミンは、彼の日々の生活のことも良く知っていた。 本来、王宮戦士には特別な宿舎があり、一般兵よりも設備が整えられた個室が与えられること。しかし、ライアンはそれをよしとせず、一般兵舎に住まいしていること。世界を救う旅から戻り、国王から城下に一邸を下賜されたが、それも断ったこと。ライアンと同室になった兵士は、王宮戦士になったかどうかは別として、よい働きをしている者がほとんどであること。兵の中で、ライアンは厳しく非情なイメージを持たれているが、同室になると皆、そうではないことを知ってくれること。 朝は、朝稽古の時間より遙かに早く教練場に出て、人より長く素振りをしていること。朝食の時に、必ず感謝の祈りを捧げていること。食事の後、厨房の人々に必ず挨拶をしていくこと。若い王宮戦士達の弱点をよく見極めており、教練ではそれを克服するための方法を工夫していること。剣は勿論、防具の手入れにも余念が無いこと。努めて書物を手にするよう時間を決めて本を開いていること。夕方の自由時間に馬を駆り、今日は東、明日は西、というようにバトランド近辺の様子を見て回り、変わりはないかと自主的に巡視していること。休日にはもっと遠出をし、山岳地帯や荒野まで出向いて、魔物の動きを調べ、そこに住む人々の声を聞き……。 「勲章の他に、もっと上の階級も国王様から賜ったそうなんですが、ライアンさん、自分がいただけるような位ではない、って辞退しちゃったんだそうです。今までもずっとそうだったんですって。王様からどんな褒章をいただいても受け取らないで、階級もここへきてからあんまりかわっていないのだそうです……」 「ちょっとちょっと、それじゃ、ライアンは王宮戦士の中での位置って……」 「はい、僕が質問したら『班長』さんですって！」 『班長』？ライアンが王宮戦士になってから、少なくとも十年以上が経つだろう。ならば、ごく普通の人間でも、分隊長にはなっているはずだろう。剣の道に於いては世界最強と思えるライアンがなぜ班長の位に甘んじているのだろう。後進を指導するのが面倒だというわけではない。ライアンは、必要ならば物事を面倒とは思わぬ男だし、目の前でやらなくてもよい教練をほら、こうして行っている。指導力や周囲を見る力も十分にある。嘗てのあの旅でも、彼は寡黙ながらも、危なっかしい若年の仲間達を精神的に支えており、ブライと共にパーティーの陰のリーダーだった。 マーニャは事実を知らなかった。彼女はてっきり、ライアンが栄誉ある職名のもとに王宮戦士たちを束ねていると信じて疑っていなかったのだ。 「班長だなんて！いくらライアンが固辞したって、皆が寄ってたかって心から頼んだら、嫌、とはいわないでしょ、あの人は。名誉を求めない変わり者だったってことくらいは知ってたけれど、他の人たちはライアンのことをちゃんと遇してくれてるの？やっかみとかでライアンの実力に見合った待遇をしていないんじゃないの？」 意識してではなく、少し語気が荒くなってしまい、マーニャはペチンと自分の額を叩いた。そう、ライアンは名誉など全く求めない。しかし、本来名誉というものは貰うものではなく与える行為の方に意味があるのだ。真の学者や、芸術家は、自分を天才とは思わない。それは他者から与えられる評価なのだ。 ホイミンが何か言いかけた時、逆側から、深い、落ち着いた声が聞こえた。 「お嬢さん、お嬢さんの言うとおりだ。だが、安心しなさい。周囲の者たちは、ライアンの力を正しく評価した上で、彼を班長職に甘んじさせているのだよ。」 その男は、既に初老に達していた。白髪の量が濃い茶髪に勝りかけ、太い眉の奥で、キラキラした深緑の瞳が笑っていた。王宮戦士か、嘗て王宮戦士だったのか、簡素な白いシャツの上からも、腕や胸の筋肉が発達しているのがわかり、ライアンよりも長身であった。その声からは何か有無を言わせないものが感じられ、マーニャはライアンから目を離して老人を見つめた。 「確かに、ライアンの力量は他者を遙かに凌駕している。……剣技だけではない。精神力も、体力も、人心を掌握する力もあれば、頭も良い。」 愛想は悪く、無骨物の朴念仁だがね、と老人は含み笑いをした。 だったらどうして、とマーニャが呟くと、老人はその問いを待っていたようにすぐに答を返した。 「ライアンの成したいことと我々が彼に期待することが一致してしまったのだよ。……お嬢さん、王国に仕える隊長職というものは中々不自由なものでね。……戦士として立派ならば通用するかというとそうではない。時には王国の有力者達の間で面白くもない駆け引きをしていかなくてはらなない必要がある。……そういったことに彼は向かない。子供の時からライアンは常にまっすぐなものの考え方をする子だった。今もそれは変わらない。……それから、隊長というものは……常に安全なところにいなければいけないのだよ。最前線から一歩退いたところあって、戦況を読んで指示を出し、兵を動かす。隊長は死んではいけないのだ。隊長が死ねば、兵は動けない。時と場合にも寄るが、号令をかけるものがいなければ、兵は目隠しをされた人間と同じ状況になる。そして、隊長は非情でなくてはならない。隊を動かせば死に掛けている部下が命を永らえることができるとしても、それが後に戦況を悪くする選択であれば、隊長はその部下を見捨てる選択をする。……どうかね、お嬢さん。ライアンは隊長に向いているだろうか。」 マーニャは考える。ライアンは……あの人は……自分の命がなくなることを恐れない。救える命があれば飛び込んで行って剛剣をふるう。いつだって彼は前に居る。最前で剣を構え、それによって彼は自分を盾とする。……そうやって、マーニャたちは助けられてきた。自分達は誰一人欠けることなく最後の敵に相対した。それは、９人全員が、互いが生きてその場にいることが絶対に必要だと感じていたからだ。ライアンは強い人だ。……しかし、『捨てる強さ』を彼は持ち合わせない。彼が捨てられるのは、唯一つ。そう、自分の命だけだろう。彼は自分の命を賭して全てを救おうとするだろう。 「そうですね。……向いていないと思います。」 「……お嬢さんもそう思うか。その判断はどこから来たのだね。」 すると、マーニャは眩しいものでも見るように老人を見上げた。 「はい、彼は誰よりも優しい人ですから。」 すると、老人はマーニャの手をとってしっかりと握手した。そして、ライアンはよい友をもった、と呟いた。 「あの……あなたは。」 問いかけに老人は微笑む。 「ライアンはまだ乳飲み子のときに両親を失くし、彼の父親の同僚であった我々王宮戦士達が育ててきたのです。ライアンが少年の頃、私はまだ20代の若造で、『兄さん』と呼ばれていました。彼が成長し、王宮戦士となったときには『父さん』と呼ばれました。……私以外にも、老いた王宮戦士には、彼の『父』であるものが数多くいるのです。……アレは外側で随分と損をして、なかなか理解をして貰えぬ性格です。齢のせいか、そんなことが気になりましてね。いや、邪魔をしました。……もうすぐアレも教練を終えるでしょう。もしも良かったら部屋に戻ってお待ちください。私が呼んで来ましょう。」 すると、マーニャは、私はこれで失礼します。と毅然とした態度で言った。会わずに帰るのか、と問われると、はい、と答えたあとで、何だか照れくさそうに、『頭を冷やして出直します』と笑った。そして、自分が来たことはライアンに伝えないで欲しい、密命とかなんとか理由をつけて他の兵士さんにも言っておいて欲しい、とホイミンに頼み、ありがとう、ホイミン、また来るわね、早くに頭が冷やせればいいんだけど、と握手し、老人にも深々と一礼し、キメラの翼を片手に今来た道を戻っていった。 全速で走ってすぐに見えなくなってしまったマーニャを見送り、ホイミンは老人に声を掛けた。 「あの、将軍様……」 厳つい軍服ではなく私服に身を包んでやってきたバトランド軍を束ねる軍の最高権力者は、ホイミンの肩に手を置き、微笑んだ。 「そんなにしゃちほこばらないでいい。私達は君のことを、孫のように思っているのだよ。…………どうだろう、ホイミン。私達が『娘』を持つのはまだまだ先のことになるだろうか。」 それが何のことか合点がいったホイミンは、少し頬を紅潮させて、どうでしょう、お二人とも素敵な人ですけれど、といった。 「アレがどうしようもない朴念仁な上に、あちらは見かけによらず自己表現が下手なお嬢さんのようだ。」 「ええと……早く頭が冷えて、それからちゃんとマーニャさんがふざけないで真面目なとこ出せば、あの、きっと。」 将軍は、それは長くかかりそうだな、と笑い、ホイミンも笑い。 ……二人の視線の先では、疲れて地面に座り込んだ若い兵士の手を引いて立ち上がらせている体中砂まみれになったライアンの姿があり、二人は顔を見合わせて微笑んだ。 |
| ねこな様よりいただいた、260000HITのキリリクです。「ライアンさんメインで何気ない日常の話」ということでしたが、メインキャラクター指定があるライアンさんが一言も発していなくてすみません。二ヶ月近く以上お待たせした上にこんなお目汚し物件になってしまいました<(_
_)> ミネアさんはなんのかんのいいながらも姐さんの背中を強くプッシュし、ライアンの父を自認してマーニャの人となりを検分するためにやってきた将軍も姐さんのことを認め、お膳立ては揃っているのに、なかなか前へ進まないのがこの際とのマーニャさんクオリティです。 ライアンは剣技においては、世界最強ですが、日常は華やかなところが全く無い朴訥で要領の悪い徹頭徹尾どうしようもない朴念仁で今後も居て欲しいと管理人は思っています。 |