月明かりだけが煌々と照らすミントスへの街道を、一人の少女が走っていた。 走り始めたのはまだ日が落ちる前。もう何時間たっただろう。 氷で覆われた洞窟にひっそりと保存されているという熱病の特効薬、パデキアを探しに一人で飛び出し、がむしゃらに進み、魔物を蹴散らし・・・・・見つけたのは霜で覆われた空っぽの箱一つだった。 その箱がいつ、誰によって開けられたのか、彼女は知る由もなく、彼女とずっと共に旅をしてきた青年神官の命を救う最後の手段が失われたという絶望感がその小さな胸を満たしていた。 もっと早く気づいてもよかったのだ。 “大丈夫です” と無理して微笑みながらいったその顔は真っ青で、嶺打ちをくらわせて宿に無理やり運び込んだときには、あきらかな熱病の兆候が現れていた。 その直前まで、嬉々として魔物にうちかかっていく自分に対し、彼は不可視の盾の呪文を唱え、目くらましの霧を作り、いつもと同じように治癒の呪文を施してくれていた。 倒れる寸前だったというのに、苦しかっただろうに、何も言ってくれなかった。 「！」 自分の後ろからひたひたと別の足音がつけてきているような気がしてアリーナは止まった。 気のせいだ。誰もいるはずはない。 ・・・・死神・・・・？ アリーナは勢いよく頭をふるふると振ると、暗い考えを頭から追い出してまた走り始めた。 ミントスの宿屋で、ホフマンは自分の目の前の病人を気遣わしげに見ていた。意識は無く、体は燃えるように熱い。端正な顔は熱が高いのにもかかわらず青ざめており、苦しげな息の音は間断なく続いている。 彼は、傍らの器から氷のかたまりを取り出して砕いた。病人の遠縁だという魔法使いの老人は甕一杯の水を凍らせていってくれたが、もうそれも半分しか残っていない。 “きっとこの人は助からない” 宿屋の息子として、病に倒れた宿泊客を何人も見てきた。そして、これほどに衰弱した病人が回復したのを彼は知らなかった。 “でも、最後まで、希望を捨てちゃいけない・・・・皆、この人のためにパデキアを探しにいったんだもの！僕は戦えない。でも僕にできる限りのことをするんだ！” と、部屋の扉が音をたてて開けられ、そこには一人の少女が立っていた。 むき出しの腕には幾つもの傷が走り、黒いタイツはひどく裂けて膝から流れた血が黒く固まっている。少女は部屋の中を見て、泣きそうな顔をした。 じいがいない・・・・ ブライが自分を追ってくることをアリーナは半ば予測していた。 だから彼女は最後の希望をもっていた。 あの箱を開けたのはブライで、もうパデキアを持ち帰っていることを。 “姫様、遅うございましたな。ほれ、パデキアはこのじいが。クリフトももう大丈夫ですじゃ。” そう言ってくれないかと絶望的な期待をしていた。 移動魔法のルーラを使えるブライが戻っていないということは、パデキアを手にいれていないということだろう。 「クリフト！」 ホフマンは傷だらけで駆け込んできて病人のベッドの横に膝をついて病人の手をとった少女に驚いて椅子を立った。 「君が魔法使いのおじいさんがいっていた子なの？傷だらけじゃないか。早く手当てを！」 「・・・・・・」 「ねえ、君。」 アリーナは、唇をぎゅっと噛んで首を振った。そして睨む様にして投げかけた目の光の強さに、ホフマンは差し出そうとしていた手を止めた。そして優しく言った。 「この人の様子にかわりはないよ・・・・氷嚢があたたまってしまったら水を入れ替えてくれる？氷を足してね。」 アリーナが頷くのを待って、ホフマンは今まで自分が座っていた椅子にクッションを置いて差し出した。 「座っていたほうが、病人さんのことが良く見えるよ。それから、」 彼は拒絶しようとする少女の手をそっと湿した布で拭いた。 「嫌なら手当てはしない。でも、病人の居るところでは清潔にしなけりゃ。ね？」 ホフマンは少し離れたところで、しっかりと病人の手を握っているアリーナを見つめていた。 何かしてあげたいけれど、して上げられることがない。・・・・それはあの子も同じなのだろう。思いつめた表情が全てを物語っている。あんなに傷をこしらえたということは、、魔物と戦ってきたということだ。そんな気丈な少女が、病魔という敵の前にはなすすべがない。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ どこかでヘマをやったんだ。 今の私には何もできない！ アリーナは燃えるように熱いクリフトの手を握った。 城にいるとき、もっとがんばれば治癒魔法ができるようになっていたかもしれない。 そうしたら、今、このとき、少しは楽にしてあげられるのかもしれないのに。 攻撃魔法だって使えたかもしれないのに。 私には爺のように氷を用意することもできない。 そして・・・・もっともっと強ければ良かったのに！魔物を一撃で屠る力があれば！不可視の盾の呪文も、目くらましの霧の呪文も必要としないだけの力があったら！傷や毒を負ってクリフトに負担をかけることがなかったら！ 勉強すればよかった、練習すればよかった。もっともっと修行すればよかった。 ううん、この人に甘えてばかりの自分さえいなかったらよかった！ 聖地への巡礼を目標にしていた神官がこんな過酷な旅に出る羽目になったのは、自分の所為だ。いつも傍に居て、いつも一緒に笑ったり泣いたりしてくれて、いつも守ってくれて・・・・子供のころのそんな関係を知らず知らずにいつも強要していた。 クリフトはそれが負担だったかもしれないのに。 もう、祈ることしかできない。 少女は頭を垂れた。 千回お祈りしたらきっとクリフトは助かる。きっときっと助かる。 そう自分に言い聞かせて・・・・ 真夜中はとうに過ぎた。 千回の祈りは済んだ。 “どうして！” アリーナは首をふるふると振った。 どうして無鉄砲ではねっかえりの自分が生きていて、神様に近いところにいるクリフトが死ななければいけないのだろう！ 死ぬ・・・・ 自分が心の中で発したその言葉にアリーナは肩を震わせた。 ・・・・・クリフトが居なくなる・・・・・ そんなこと、あってはいけないこと。 あってはいけないことが起こるというの？ 嫌・・・・！ 俯いた彼女は、疲労と絶望に苛まれ、ふっと意識を失った。 ここは・・・・・？ 暗く茫洋とした空間にアリーナは居た。 何も・・・・ないの？ と、彼女はきっと空間の一点を見据え、身構えた。 そこには黒衣を纏った人型のものが立っていた。 それが悪いもの、クリフトを連れ去っていくものだと、アリーナには分かっていた。 そして、それにはどんな攻撃も通じないのだということを。 彼女は無力な子供になっていた。薄桃色のドレスを身に付けた、手足の細い小さな王女に。 それでも彼女はその悪いものに向かって一歩を踏み出し、両手を大きく広げた。 「絶対にここから先へは行かせない！」 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ クリフトはその身を横たえ朦朧としていた。倒れてから何日がたったろう。・・・・もう何も見えない何も聞こえない。苦しかったはずの呼吸も、今はしているのかしていないのかさえ分からなくなっている。 （起きて下さい。クリフト・・・・） 聞こえなかったはずの耳に、澄んだ女性の声が響いてきた。 「・・・・・すみません。・・・・・もう私は疲れてしまいました・・・・」 （起きて下さい。がんばって。クリフト、あなたの“癒しの手”が必要とされているのです。） 「私の・・・・手？」 クリフトは薄く目をあけた。そこにはたおやかで美しく・・・・そしてはかなげな様子の娘が宙に浮かんで優しく微笑んでいた。 「あなたは・・・・神ですか。」 （私は精霊。この世界にとってはほんのちっぽけな存在です。クリフト。あなたは必要とされています。） ゆっくりと体を起こすと、精霊の姿は掻き消え、彼の父と母の姿が現れた。 「父さん！僕を迎えに来たの？」 父は首を横に振った。 （この世の中で意味のないものはない。お前が大きな癒しの力を持って生まれてきたことも。） 小さな妹を腕に抱いた母が微笑んだ。 （お仕事が終わるまで、もうひと頑張り。ね、クリフト。） 神官は立ち上がった。両親に近づこうと足を動かすが、全く前に進まず、そうするうちに二人は闇に融けるように消えていってしまった。 「!?」 代わって彼は多くの魂に取り囲まれていることを感じた。 ひょい、と青い半透明の頭に白い触手を何本も生やした魔物が現れた。それは人懐こいまん丸のつぶらな瞳をくるりと回してクリフトを覗き込んだ。 （僕の代わりにライアンさんにホイミしてあげて！） その隣に居る男は服装からして錬金術師だろうか。 （私の見つけた秘法が暴走するのを止めて下さい。） そして剣士、魔術師、僧侶、武闘家・・・・彼等は口々に“勇者を頼む！”と言った。 その中から淡いばら色の髪をした一人の少女がすっと進み出た。片耳に瑠璃のイヤリングをつけた少女は背の高いクリフトを見上げるようにして言った。 （アレクを・・・・アレクをお願いします。・・・・・私はもう守ってあげられないから。） 少女が闇に融けていくと、亡くなったサントハイムの王妃が現れた。 （あそこでも・・・・・まだあなたは必要なんですよ。） 王妃の指し示す先には小さな王女が立っていた。細い両手を精一杯横に広げ、足をふんばり、こちらを守るように背を向けているアリーナを。 （約束ですよ。守ってやってね。） “魂を運ぶもの”は、動けないでいた。 もうとっくに運命を刻む砂時計の砂は一粒残らず落ちてしまっていたが、死を迎えるはずの者との間にたちはだかる小さな王女の発する何かが彼の足をその場に止めていた。 強大な魔導師の結界や優れた神官たちの退魔の魔法・・・・それらにも匹敵する何か・・・・・ “魂を運ぶもの”は、ふっと表情を和らげた。そうだ、以前にも幾度かあったことだ。どんな魔法よりも強いものがこの世界にはあるのだ。 アリーナは気力だけで立っていた。もう限界に近い。あの黒いものをこちらに来させたくない。でも・・・・ アリーナの、そしてクリフトの背後で何かがはじけた。暗い空間に金色の光が射す。 “魂を運ぶもの”は、手にした砂時計の砂が下から上へと逆に動いていくのを見た。彼はゆっくりと背を向ける。足止めされる経験も悪いものではない。 アリーナは黒いものがいってしまったのを見て、一度に体の力が抜け、前のめりに倒れていった。その腕を一つの手がしっかりと掴んだ。だが、その手の主も共に倒れていく その時 ６人の力強い手が伸びてきて しっかりと・・・・しっかりと神官と姫を支えてくれた。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 意識をとりもどしたクリフトは、そっと目をあけた。朝の日が射し込んできた室内は、優しい光に満ちている。 体全体がだるかったが気分はよい。 「クリフト！気づきおったか！」 ブライの声がした。 間髪をいれず、彼はぐいっとシャツを掴まれていた。 アリーナが右手で彼の胸倉を掴み、余りに前後左右に揺さぶるものだから、病み上がりの身としてはふたたびあちらの世界に行きそうになるかとも思えた。 「無理して！無理して倒れて、心配させて、迷惑かけて・・・・クリフトのバカ！私は！私は！私は何もできなかったっ！何も、なんにも！」 「すみません・・・・」 「なんでっ！なんで謝るのっ！何にもできなかったのは私なのに！」 クリフトは微笑んだ。 「・・・・・倒れたのは私が不甲斐なかったため。だから気に病むことなどないのです。それに、姫さまは何もできなかったなんてことありませんよ。・・・・うまく説明はできませんが、私は・・・・姫さまに助けていただきました。」 そういいつつアリーナの腕にできていた傷を彼は癒そうとした。アリーナはくすっと笑って神官の腕を両腕で抱える。 「まだいいわ・・・・絶対にクリフトに治して貰うって昨日から決めてたけど。もうちょっと元気になってから・・・・ね。」 「あ、手当てを嫌がったのはそういうことだったんですか。」 少年の声がした。 クリフトはアリーナとブライの後ろにいる見知らぬ人々の顔を見た。 緑の髪の青年、褐色の肌の女性が二人。商人らしき太った男性に黄色い髪のそばかす顔の少年。 「おお、この方々はお前さんの為に特効薬を取りに行って下さったのじゃ。・・・・・詳しい話はまたあとにするが、そちらにおられるのが・・・・勇者殿だ。」 緑の髪の青年が会釈する。クリフトはその片耳に瑠璃のイヤリングがはまっていることに気づいた。 「アレク・・・・・さんですか？」 アレクは目を丸くした。 「何故僕の名を？」 クリフトは目を閉じた。 自分は守られている。 自分の腕を支えるように抱く目の前のこの大切な少女に、ブライに、そして死んでいってしまった母に、父に、王妃に・・・・・精霊に・・・・ ・・・・そして、この青年もまた、あの沢山の人々やばら色の髪の少女に守られている。 クリフトはそっと手を差し出した。 「アレクさん。私の癒しの手、どうか役立てて下さい・・・・・あなたたちを守る力になれるよう力を尽くします。」 アレクは新しい仲間の手をぐっと握った。 （私の可愛い子供たち・・・・がんばって・・・・そして頼みます・・・・） 精霊と、彼女の中にいる魂たちはそこまで見届けると、空へ・・・・天の高みへと上がっていった。  |
えめるさんよりの1000HIT キリリク。ミントス看病編。
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