| 「あ〜っ！爪が割れちゃってる！」 夕食後、焚き火を囲みながら各々が静かに思い思いの休息時間を楽しんでいるとき、モンバーバラの舞姫はマニキュアのビンを片手にかなり大きな悲鳴を上げた。魔物と戦っているときは悲鳴など上げたことのないマーニャだが、日常生活では必要以上に喜怒哀楽がはっきりしており、賑やかなことこの上ない。 横で繕いものをしていた彼女の妹がやれやれといったように笑う。 「姉さん、舞台に立っていた頃ならいざ知らず、今は魔物と戦う毎日ですもの。爪くらいしかたないわ。」 穏やかに言うミネアの鼻先にマーニャは指を突き出した。 「あたしにしちゃあ究極的に短くしてるでしょ？」 と、言われても説得力のないくらい長い。ミネアも故郷の村の慣習で今も多少は爪を伸ばしているが、姉のはそれとは別次元だ。ミネアの顔がお説教モードに入りそうに見えたのか、マーニャはべらべらと言葉を続けた。 「あのね、こういうときだからこそ身の回りのおしゃれをごく普通にやってくことに深〜い意味があるわけよ。それに、あたしみたいな呪文使いは武器も扱うあんたとは違って戦いに爪の長さは関係ないの。爪が長いってのが問題なんじゃなくて、長いあたしの爪を割る状況がいけないのよ。今日だって勇者ちゃんがあの、ほら、なんとかっていうでかいトカゲみたいな・・・・・ 「コドラのこと？」 魔物の話になって、傍らに座っていたアリーナがすかさず反応した。 「うん、そう、そいつに前方を突破されて、詠唱が間に合わなくって止む無く鉄の扇でしばいたのよ、きっとあのときに・・・・・」 アレクは苦笑いした。マーニャは軽い気持ちで言っているが、確かに昼間の戦いは彼が油断をしていたのだ。だからこの話は少しばかり痛かった。 「ね、あたしの爪の為にももうちょっと強くなってねｖ」 しなをつくって色っぽくウインクするマーニャにアレクはそろっと立ちあがり少し離れたところで聖典を読んでいるクリフトの隣に移動した。マーニャはにこ、と笑う。アレクやクリフトをからかうのはマーニャのレクリエーションのようなもので、毎度のことだ。 「しかし・・・・しゃーない。やすりをかけて誤魔化せるかな。」 爪やすりを小物入れから出してふと横を向くと、そこには楽しそうに、武闘家独特の武器である鉄の爪の手入れをしているアリーナの顔があった。 実は、この可愛らしいそして世界最強の武闘家であるサントハイムの姫にちょっかいをかけるのもマーニャの日課であった。 「ねえ、お姫様は何にも手入れはしないの？ アリーナは鉄の爪をかたわらに置くと、ちょっとむっとした顔をして指を見せる。健康的な桜色の爪は短く切られている。 「マニキュアってはげるし、そんなもの、女の子のすることだわ！」 教育係のブライが咳き込む。 「あのねえ、あなただって女の子でしょう。ま、アリーナはいくら手袋してたって前衛なんだものね。マニキュアはしなくたって、他は？」 「他？」 「おしゃれっていうか、身支度。口紅とか。」 「美味しくないし。」 食べたのか？ 「アイシャドーとか。」 「日よけだったら墨塗るわ。」 用途そのものの認識が違う。 「白粉とかは？」 「塗られたことあるけど、毛穴が詰って息苦しくなったわ。」 それは絶対アリーナの思い込みだ。 マーニャはぱん、と手を叩いた。 「髪くらい結うでしょう？いくらお姫様がそのままでも綺麗な髪でも。」 「綺麗な髪なんかしてない！」 この応酬もいつものことである。 「はいはい、とにかく儀式の時や暑いときなんかは結ったことあるでしょう？」 アリーナは首を傾げた。 公式の行事の時に女官達に捕まえられて結い上げられたことは二三度あったと思うが記憶がどうも曖昧だ。あまりにアリーナが嫌がって結ってもすぐにぐしゃぐしゃ掻き回し、結う前より悲惨な状態にしてしまうのと、そのまま長くたらしていても簡単な髪飾りで十分綺麗に見えるからやらなくなったのだということはアリーナの知らないことだ。 アリーナの髪はブラシさえ入れれば、うまい具合に元気良くカールして赤みがかった金髪が見事に輝いて見える。ある意味うらやましい髪の質であった。 加えて、彼女の暮らしていたサントハイム城は、夏でも特に暑いことはなく、首筋に毛がかかるから何とかしようという思うこともなかった。 「あ、帽子を被っていなくて藪を突っ切るときにはその場でざっと結うかな。」 「・・・・・・それは”縛る”でしょ？お姫様、ほんとうに髪を結ったことないの？三つ編みとか。そんなのも？」 マーニャはからかい半分、心配半分で尋ねた。いろいろと話を聞くにつけ、このお姫様には母親やそれに変わる大人の女性の存在がなかったことで欠落している部分が大きいことを、モンバーバラの舞姫は知っているのだ。 アリーナは腕を組んで真剣に考えた。 「三つ編みならクリフトにやってもらったことがあるわ。」 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ あれはいくつのときだったか。おそらく６歳くらいの頃だった。母は天に召され、父は政務に忙しく、アリーナは一人で暴れまわったり、城の下働きの者と話したりして寂しさを紛らわせていた。 その日も退屈な礼儀作法の勉強をするりと抜け出して、城の調理場にやってきていた彼女は見知らぬ娘が居るのに気づいた。 「ね、あれは誰？」 料理番に聞くと、新しく勤めることになった者で、サントハイムよりずっと南の町の出身だという。服は王都の物と大差なかったが、アリーナの目は彼女の髪にひきつけられた。サントハイムでは、女性は大きくなると髪を上に結い上げて止めるが、その娘はウェーブのかかった長い濃い茶の髪をゆるく三つ編みにし、鮮やかな赤の大きなリボンで結んでいた。 娘が鍋を運んだり、野菜を持ち上げて歩くたびに、彼女の背で、リボンの結ばれた三つ編みが踊っているように揺れた。 ああいうの、いいなぁ。 珍しくも姫はそう思った。 アリーナは一度思ったことはやらずにはいられない子供だった。 だから、細い腕を組んで、一生懸命考えた。 一人ではできない。下手というよりやったことがない。 ここの人には頼めない。調理場はこれから忙しくなる時間であるし、下働きの人々はアリーナに気さくに話してくれるものの、ある線以上のことはしてくれないのを王女は肌で感じ取っていた。女官に頼めば結ってくれるだろうが、小さな銀の鈴のついた金の鎖だの、真珠のピンだの、余計なものをつけるに決まっている。そんなものはいらない。リボンさえついていればいいのだ。じいやは？・・・・駄目だ。ブライはすぐに女官を呼んでしまう。 お父様は・・・・お父様は忙しい。忙しいからアリーナの話を聞く時間がない。大きな赤いリボンは用意して下さるかもしれないが、その手でアリーナの髪を梳いてくれることはない。 そうだとすれば、行くところは決まっていた。 「優等、あらためておめでとう。クリフト」 城の右手にある、教会付属の神官学校から、見習神官衣を羽織った生徒達が寮に向かって歩いていく。その中の、穏やかで端正な顔をした背の高い少年は、声をかけられると同時に親愛の情をこめられてとん、と背を叩かれた。逆隣から別の少年がやってきて肩を組む。 「僕らも友人としてちょっとばかりイイ気持ちだったぜ。」 言われたクリフトの方は戸惑ったように首を振った。 「運が良かったんだよ。」 「謙遜するなって。ほい、これ、俺らから祝いな。」 鵞ペンにする大きな鳥の羽を何本か差し出され、クリフトは顔をほころばせた。 「有難う！そろそろ足りなくなりそうだったんだ。」 友人が人差し指をたて、左右に振る。 「それがわかってたから持ってきたんだけど、支給されてる羽じゃ足りなくなるなんて、お前、勉強しすぎだぞ！回復呪文の威力は学校じゃ向かうところ敵ナシなんだから、学科くらい手抜きしてもばちはあたんないぞ。体を壊しちゃ大変じゃないか。」 クリフトは少しむっとした。 「勉強ばかりしてるわけじゃない。釣りにもいくし、学科に関係ない本も読むしあと・・・・」 友人達は笑う。 「引き摺りまわされたり引き摺りまわされたり引き摺りまわされたり、だろ。わかってるって。それよか、何貰えたんだ？」 クリフトは左腕で布袋を抱えなおした。 「携帯用の聖典と帳面と新しい石版。それから・・・・」 「あ、あとはわかる。どうせ、明日から学校で見るんだし。あ、うわっ！」 クリフト以外の二人の少年は恐怖の形相で凍り付き、一人は鼻、一人は顎を押さえた。 二人の視線の先には小さなこの国の姫がいた。アリーナは二人の少年をきっと睨んだ。この二人、今でこそクリフトの友人だが、クリフトが神官学校に入りたての頃は彼ら上流階級の子弟を差し置いて、平民出のくせに成績のいい目障りな奴ということでことあるごとにクリフトを目の敵にしていた。そのためある日王女の飛びげりの洗礼を受けたという次第だ。アリーナもそのことをよく覚えている。クリフトの敵は彼女の敵である。今の３人は仲がよいとしても小さな姫の胸には不信感が宿っている。 「王女様！」 二人ははじかれたようにその場に跪いた。クリフトは二人の腕を引いて立たせる。そして、高い背を少し屈めてアリーナに尋ねた。 「アリーナ様。また、お作法の勉強を逃げ出しちゃったんですか。」 叱られているのに、アリーナはニコニコと笑った。 「でもね、クリフトと約束した通り、お作法を一個は覚えてから出てきたわ。」 そば仕えとしてはもう少しお説教した方がよいだろうかと、少し悩んだが、キラキラしたアリーナのハシバミ色の瞳に負けて少年は今日はこれ以上は抜け出してきたことに触れないようにした。 「僕に何かご用ですか。」 アリーナは他の二人のことを気にしていたようだが、うん、と首を縦に振った。 クリフトの友人達は、それでは僕らはこれで失礼しますとあたふたと走っていった。 「アリーナ様、前にも言いましたけど、僕ら、仲良くなったんですよ！」 「だって、前はいじめられてたじゃない。」 「前は前、今は今です。それに、アリーナ様、前にちょっとやりすぎましたよ。乱暴しちゃいけません。あんなに酷く蹴らなくても。」 神官学校一と言われるクリフトの回復呪文でもなかなか腫れのひかなかった二人の顔を思い出してクリフトはため息をついた。 アリーナは口を尖らせた。 「クリフトが弱いのがいけないのよ。私は代わりに蹴ってあげただけだもの。ねえねえ、それより、」 クリフトは身構えた。アリーナがクリフトのところにやってくるうちの半分以上は、彼が高いところに登らされるとか、武闘の稽古台にさせられるとかいう体力消耗系だ。 「とにかく、こっち、こっち」 ５才違いの幼い姫に神官学校の優等生はぐいと腕を握られ彼にとってはもうおなじみのルートを問答無用で引き摺られていった。 城の庭の一部で、アリーナのお気に入りの場所に到着すると、アリーナはじいっとクリフトを見た。 「クリフトは三つ編みできる？」 「三つ編みですか？」 「あのね、じいやがいってたの。クリフトは勉強がよくできていろいろなことを知っているって。」 だから，姫様もクリフトに負けないように勉強なさいませ、と言われたことはここでは言わない。 「知ってはいますけど。何を編むんです？」 「あのね、私の髪を三つ編みして欲しいの。駄目？」 珍しい、と思ったが、口には出さなかった。二年の経験で、アリーナがどんなことを好んで何を嫌がるかはわかっている。 神官見習の少年は、自分がやってよい範囲の事柄の中に、王女の髪を三つ編みすることが含まれているかどうかをしばらく考えていた。 「アリーナ様付きの女官の方に頼んだ方がいいのじゃないでしょうか。」 「駄目。じゃらじゃらくっつけるから。」 少年は再び考えた。アリーナが頬を膨らます。 「クリフト、できるのになんでしてくれないの！してくれなきゃ、また尖塔の屋根まで登っちゃうわよ！」 アリーナが尖塔の屋根に登り、それを追いかけたクリフトがあまりの高さにめまいを起こし、大騒ぎになったのは、城のすべての人々の記憶に新しい。 クリフトは、姫の無邪気な脅迫に負け、見習神官衣を脱ぐと草の上に広げた。 「この上に座って向こうを向いてください。初めにいっちゃいますけど、僕も久しぶりなんです。下手でも許して下さいね。」 見習神官衣を草の上に広げてアリーナをその上に座らせ、手で髪を梳く。赤みがかったみかん色の髪がクリフトの少年にしてはほっそりした指の間をすべっていく。くすぐったそうにして頭を動かす姫に、動いちゃいけません、と声をかけながら、クリフトは器用に三つ編みを編んでいった。 昔、妹にそうしてやったように。 よく似た色の綺麗な髪を編み上げる。 アリーナは思い出す。 昔、日溜りの中で母が自分を抱きしめて髪を撫でてくれたことを。 自分を置いて逝ってしまったあの優しい手の感触を。 端まで編んで、少し考えた後、ポケットからハンカチを取り出してそれで縛ろうとするクリフトにアリーナは言った。 「リボンがいいの。赤くて大きなリボン」 困ったクリフトの顔を見て、しゅんとなる。 「・・・・・・なかったら・・・・いい・・・・・リボンがなくたって三つ編みだもの。ね、クリフト。」 それは姫のわがままな要求だったが、クリフトはそれを叶えてやりたかったし、少し考えてみれば、リボンによく似たものを彼は今持っているのだった。少し大きすぎるが・・・・ 「はい、今結びますよ。少し待っていて下さい。」 少年は抱えていた袋からそれを取り出すと、小刀で傷をつけて、ぴり、と細く引き裂いた。 次の日、神官学校の少年たちは、昨日優等賞をとった少年を訝しげに眺めた。神官見習衣の肩をゆったり飾っているはずの、優等の印の大きなスカーフがどこに行ってしまったのか誰も言い当てられなかったし、クリフトも言おうとはしなかった。 赤というより少しえんじがかったスカーフの断片は却って姫の髪に良く似合い、女官に解かれてしまうまでの三日間、王女の背中で、王女が元気良く動くたびに軽やかに弾んでいた。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 「へえ、クリフトが三つ編み、ねえ。なんでそんなこと知ってたんだろ。」 ミネアは繕いものを終え、優しい瞳をアリーナに向けた。 「三つ編み、してあげましょうか。」 「え？いいよぉ、これから寝るところだし。・・・・」 でも、アリーナは吸い込まれるようなミネアの紫水晶の瞳に向かって結局はうん、といった。 くすぐったい、優しい感触。ミネアの指を頭に感じながらアリーナは思う。 魔王を倒し、すべてが終わったらサントハイムに帰ろう。あのときのスカーフは、とっておきのものを入れる箱の中に大切にいれてあったはずだ。いつか、クリフトにスカーフをもっていって三つ編みして、と頼んでみようか。 戦って、戦い続けて勝利したそのとき、 サントハイムの止まった時間がきっと緩やかに動き出す。 「あら、眠っちゃったわ。」 自分の胸にアリーナの華奢な体が寄りかかってきてミネアは小さく声を上げた。 マーニャがその寝顔を覗きこんで微笑む。 「無理ないか。あたしの１０倍は動いているものね。」 その微笑みは、アリーナが起きて見ていたとしたらびっくりするほど優しい。 「すみません、眠ってしまわれましたか。」 先程来から話題に上っていた神官が、ゆったりとした歩調でやって来る。ミネアはそっと小さな姫を抱え上げ、彼女の忠実な幼馴染に託した。クリフトはぎこちなく、壊れ物を扱うように馬車へと姫を運んで行く。 姫は夢の中で、上下へのゆったりとした揺れと共に、彼女といつも共にある優しい手が髪をとかしてくれているのを感じた。 |