W

　サントハイム城には大きな聖堂がある。安息日には、城の主だったものが集まり、礼拝がもたれる。壇上には司教のディルト。それより一段低い場所に、国王とその愛娘であるアリーナ王女。そして重臣達。それを警護する近衛騎士たち。そして、家臣たち多数。

　壁際に並ぶのは、神官たち。その中に一人、初めてこの場に居ることを許された者がいた。ついこの間神官学校を主席で卒業し、神の道への正式な一歩をやっと踏み出したばかりの青年、クリフトである。
　ミサ用の白い衣は糊をきかせすぎたのか妙に折り目部分がピンと立っていたが、それすらも初々しくて好もしい。
背筋を伸ばして聖歌を歌い、熱心に司教の話を聞く。その姿を見、ディルトも、先輩格の神官連もすっと穏やかに目を細める。
　祈祷のあと、会衆は黙祷する。背丈の高い椅子に座った小さな王女も胸の前で手を組み、床に届かない足は少しだけふらっと揺れたけれど、真摯に長く祈りを捧げる。

　やがて、司教の深い落ち着いた声がミサの終わりを告げ、静まり返っていた人々はお喋りを始めかけたとき

　「クリフトー!!」

　それまでおとなしく座っていたアリーナ王女が自分のそば仕えの名を嬉しそうに呼び、ピョンと椅子から飛び降り、タタタッ、と走って、神官連の末席目掛けて走っていった。人々の視線は王女に向けてさっと集まる。アリーナがやってくるのに気付いたクリフトは「ギ……」とか「ウ……」とかいううなりとも叫びともつかない声をあげ、硬直し、足を肩幅に広げて構えの体勢をとる。すると、アリーナはクリフトの予想通りに、軽い助走からぴょーんと飛び上がり、クリフトの首に飛びつくと首にぶらりとぶら下がり、必死に倒れまいと踏ん張っているクリフトにぶら下がったままで耳に何事か囁いた。それを聞いて新米神官の顔色がさっと変わる。アリーナは、といえば、それで満足したのか、何事も無かったようにもとの場所に戻っていく。
　人々は驚いたものの、すぐに何事もなかったかのようにお喋りを始める。アリーナがパタパタと走り回ってそば仕えを翻弄するのは今に始まったことではない。

　しかし、今目の前で起こった出来事をよしとしなかった人々もいた。そのうちの一人はぎりっと奥歯を噛み締め、肩を怒らせどすどすと足音高く大またで歩き、アリーナにぎゅっと締められた首のあたりをさすってまだ目を白黒させているクリフトの前に大きな影をつくって仁王立ちになった。
　彼は城の守備隊長であった。貴族としての位は低かったが、彼は自分が貴族の出であることに大きな誇りをもっていた。また、今の地位についたのも、不断の努力あってのことだった。それなのに、この平民出身の若造は神官位を得たばかりだというのに王女殿下になれなれしく近づいている。

　アリーナ王女は、やがて女王となる大切な御身。まだ幼いとはいえ、衆人環視のもとで男の耳に囁くようなことがあってはならない。王女のお相手には高貴な血筋の者こそが相応しい。そのようなこと、そば仕えであったなら理解していて当然ではないか。今のような王女殿下の振る舞いを許していてなんのそば仕えか。

　そのようなことを悪鬼の如き形相で怒鳴られ、クリフトが平静でいられるはずもない。

　「言え、王女殿下はお前の耳に何を囁いたのだ。」

　しかし、クリフトは頑として口をつぐんでいた。申し訳ありませんが、お話しすることはできません、といったきり、口を一文字に結んでじっと怒鳴られ続けるのに耐えていた。

　「ええい!!この場で言えぬようなことなのか！末席の神官風情が！そこに座れ。性根を叩きなおしてやる。」

　そう言われてもクリフトは黙っていた。いや、実際怒鳴られるまま、座ろうとしさえした。

　と、そこに、筆頭魔道士のブライがひょいと割って入った。白い髭に手をやり、ゆったりと撫でつつのんびりとした風に言う。

　「これはこれは、守備隊長殿、こやつが何か気に障るようなことをしでかしましたかな。」

　「おお、ブライ様。先程の様子、老師殿もご覧になられたでありましょう。王女殿下が何をおっしゃられたのかを口をつぐんで言わぬのです。何か疚しいことがあるに相違ございません。今から吐かせてやりましょう。」

　すると、ブライはふぉっふぉっと笑った。

　「ほう、そうか。ならば、クリフトの後見人たるわしにも責任があるのぉ。クリフトよ、姫さまは一体何を囁いたんじゃ？教えて差し上げろ。」

　クリフトは眉をしかめ、首を振る。

　「ブライ様、しかし。」

　ブライは呑気に魔道士の杖を一度くるりとまわして、トン、と自分の肩を叩いた。

　「言ってしまえ、そうしないと守備隊長殿の気はおさまらんじゃろうて。わしが許す。いや、命令じゃ。……いろんな意味で、これはきっと必要なことなんじゃ。」

　「……しかし!!」

　守備隊長は重々しく一度咳払いをした。

　ブライにパコン、と杖で一度脳天を叩かれ、クリフトはしぶしぶアリーナから何を囁かれたかを告げ知らせた。

　　＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊

　けしからん、全くけしからん!!

　守備隊長は頭から湯気を噴きそうに顔を赤くして城の裏手の雑木林を歩いていた。王女は、あの若輩者のことをこの場所で待っていると囁いたそうである。これはまるで逢引ではないか。若い男と娘が二人きりで待ち合わせるなど。王女殿下はまだ幼い。責任はすべてあの若造にある。姫に隙をつくらせ、誑かしたに違いないのだ。

　と、木立の向こうにアリーナの姿が見えた。ミサのときのドレスとは違い、黒いタイツに短い丈のチュニックといった動きやすい服装をしている。と、物音を感じたのかアリーナがこちらを振り向いた。

　「クリフト？」

　しかし、やってきたのが守備隊長だと知ると、キラキラと輝いていた瞳は途端に翳る。

　「守備隊長さん、クリフトは？」

　「あ奴は参りません。代わりに、自分が参ったのです。」

　アリーナはぷっと頬を膨らませた。

　「絶対来てね、約束よ、っていったのに！」

　だが、途端にころりと表情を変えるとにぱぁっと笑う。

　「仕方ないわ。守備隊長さん、クリフトの代わりをやって頂戴！今日のはとっても自信があるのよ。」

　「は？」

　今日の？自信？

　するとアリーナはぐんと一回膝を沈めると、驚異的な高さまで飛び上がり、足を横にのばしてからそこから体に捻りを加えて降下すると同時に足を横に出して雑木の一本を蹴った。その一撃でアリーナの腕ほどの太さがある幹が見事に割れた。

　「新しい必殺技なの！この前の奴に比べて、捻り具合がちょっとだけ違うの!!どう？どうかしら??」

　感想を聞かれても、守備隊長には目を剥いて口をぱくぱくさせることしかできなかった。まさか！おてんばと評判の姫であるが……このような、このような……このようなことをなさっていたとは!!部下の誰一人としてこのような技などできはしない。この幼さにしてこの破壊力！こ、こ、これは一体ッ!!

　「じゃあ、今度は実験台になってね！さあ、早くそこに立って」

　アリーナはにこやかにいう。

　じ、じ、じ、実験台？

　先程の雑木の如く、ぽっきり折れる自分の首を想像し、守備隊長は青ざめる。

　「用意はできた？じゃあ、行くわよ♪」

　……それから先の記憶はない。

　　＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊

　「……、……様、守備隊長様。」

　うっすら開けた目に初めに飛び込んできたのは、心配そうに自分を揺さぶるクリフトの顔だった。

　「うっ……」

　肩が痛む。

　「あ、動かないで下さい。……肩に姫さまの蹴りが入ったんです。回復魔法をかけましたけれど、しばらく痛みが続くと思います。今日一日は動かさないで居てくださいね。念の為にもう一度かけておきます。」

　肩にクリフトが手をかざすと、そこが仄かに暖かくなり、鈍い痛みが少し薄れた。

　「……お前、いつも姫殿下のあのような過激なお戯れに付き合っているのか。」

　「……はい。私が行かなければ、被害が大きくなるのは必至ですから。」

　「……怪我などせぬのか。」

　クリフトは笑う。

　「します。でも慣れました。避けることも。人を的にするときには姫さまは手加減してくださいますけれど、時々それがうまくいかないことがあって。今日はそうだったみたいです。」

　「……どうしてここに来た。いや、来てくれたのだ。」

　「守備隊長様のことが心配で……私が初めて姫さまに昏倒させられたときには、たっぷりいっときは意識不明になっておりましたから。」

　「……何故、気遣ってくれる。先程お前のことをあれだけ叱責したではないか。」

　「私は姫さまのそば仕えです。姫さまの行状には責任がありますし……なにより、神官ですから。」

　守備隊長は不覚にも目頭が熱くなり……後日、クリフトのもとには新しい学用品一式が届けられたということだ。

　　＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊

　「クリフトー!!」

　今日もアリーナはクリフトのところにやってくる。ああ、たたたたたっと走って、また首に齧りついて耳になにやら囁く。青年神官は、口を一文字に引き結び、待つ。そう、どんなに過激なことを聞かされても怯まず、冷静に対処し、必要があれば諌め……

　アリーナの囁きはいつでもクリフトを驚かせる。そう、いつも、いつまでも。だから彼はいつでも身構えている。どんなことを言われても大丈夫なように。いつでもその囁きを受け入れるだけの余裕をもっていられるように。

　だが、囁かれた言葉を聞き、神官は口を開ける。

　「だーーッ！どうしてそういうことになるんですか!!」

　……ま、余裕がいつもあるとは限らないけれど。

どうして恋愛モードに入らない?!
(↑もはや諦めモード)
そもそも「だーーッ！」なんて叫んでいる神官何か間違っています。尚、アリーナは今は城内にひきあげておりますが、神官に叱られあとから隊長さんに謝りに行く予定。

愛してる、とか大好き、とかおそらくアリーナはどれだけ時がたっても囁いたりせず

目一杯大声で叫びます。

いや、もしかして耳にそっとささや……くフリをして大声で叫んで神官をびっくりさせるかもしれません。

どちらにしても色っぽさ皆無。それがこのサイトのアリーナ。