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　「え？姫さまが熱を出されたのですか？」

　ブライに言われ、クリフトは抱えていた本を落としそうになった。

　アリーナは今まで殆ど熱を出したことがない。下働きの者の子供から“はしか”をうつされ、そのときだけはさすがに高熱をだしたが、赤い顔をしてはいても元気一杯で、『外に出たいッ！外に出てクリフトと遊ぶのッ!!』と部屋の中で暴れ、侍女たちを随分と困らせたものだ。城の中をすみからすみまで走り回って堀に落ち、真冬にずぶ濡れになったこともあるが、そのときに熱を出したのは、アリーナを追いかけていて一緒に堀にはまったクリフトの方で、寝台でうんうんうなっているクリフトの枕元で、

　“もう、全く!!クリフトは普段から鍛えていないからこれくらいで熱が出ちゃうのよ!!”

　と、心配はしてくれつつも、憎まれ口をたたかれたものだ。

　不遜とは思いつつも『鬼の霍乱』という言葉が見習い神官の頭に浮かぶ。

　そんなアリーナが熱を出した??

　「いったいどうして？ご病気なのですか。心細く思っておいでならお見舞いに行きたいのですが。」

　ブライは片手で白い髭をしごくとふ～う、と息をついた。

　「理由は皆目見当がつかん。侍医も『体にはどこにも悪いところなど見当たりませぬ』というておる。……熱を出されたのは昨日の午後からなのじゃが……ま、それほど心配することはないと思うがの。一日たてばまた元通りの元気な姫様にもどるじゃろうて。」

　そうは言われても、心配なものは心配だ。クリフトは自室の椅子に座り、うーん、と唸りつつ考えた。昨日の午後は日課の『お勉強』の時間だったはずだ。歴史だったろうか。いつもアリーナは先生の目を盗んで途中で逃げてしまっているようなのだが……

　「ええ、私もびっくりしているのだよ。いつも私の隙を盗んで逃げ出そうとなさるアリーナ様が昨日は最後までおとなしく椅子に座っておられたので、今日はリンゴより大きな雹が降るんじゃないかと本気で心配したくらいだ。」

　神官学校にも講義を時々しにきている歴史の教師は、学年で一番熱心な生徒であるクリフトの質問にそう答えてくれた。

　「あの、先生。昨日の授業では何を？」

　「内容かね？建国して間もなく、海の向こうからやってきた敵を撃退したわが国の英雄の話だ。クリフト、君はもちろん覚えていますね。」

　「はい。たった一人で十人の敵を倒したという伝説の騎士隊長様のお話ですね。」

　「ええ、アリーナ様はこの話が気に入られたようですが、昨日は時間切れとなり、最後までお話しすることができませんでした。それが何か？」

　クリフトはある可能性に思い至り、はああああああ、と息をついた。

　　＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊

　微熱が続き、時折『頭がいたぁい』と不機嫌な顔で呻くアリーナの枕元に椅子を寄せて座り、クリフトはいささかむっとして腕を組んだ。

　「姫さま。熱があるのも頭が痛いのも、それは病気ではありませんよ。安心して下さい。」

　「……クリフト、怒っているの？……なんだかお説教されているみたい。」

　「……昨日は一人で十人の敵を倒した英雄のお話を歴史の先生からうかがったのですね。騎士隊長様は魔法も使えましたが、殆ど魔力は尽きており、魔法を唱えられるのはあと一度か二度、左足に傷を負い全速で走ることはできず、二刀流の使い手だった彼の愛用の剣は一本が真ん中からぽっきり折れてしまっていたのでしたね。……おそらく姫さまは、伝説の騎士隊長様がどのようにして敵を倒したのかをずっと考えていたのではないですか？」

　「クリフト、よくわかったわね!!私、あれからずうっと考えているのだけれど、彼がどういう戦術を使ったのだかさっぱりわからないのよ。で、熱は出ちゃうし、頭は痛くなってくるし……」

　クリフトは椅子に座ったまま天を仰いだ。そして、姿勢を正し、きょとん、として見ているアリーナにふうっとため息をついてみせると、やや疲れたような顔を見せた。

　「……姫さま、熱が出たり、頭が痛くなったりしたのは、おそらく『知恵熱』というものです。いきなり頭を使ったものだから頭がびっくりして熱が出たのに相違ありません。いいですか？普段から真面目にお勉強なさらないで、逃げてばかりいるからこういうことになるのです。たまたま戦いの話で興味を持ったのでしょうね。それは悪いことではありませんが、いちいち熱を出されてはたまったものではありません。」

　ベッドの上に上半身を起こしたアリーナは肩をそびやかした。

　「そんなことはないわ。だって、とっても難しい問題じゃない。クリフトだって真剣に考えたら熱が出ちゃうわ！」

　クリフトはゴホンと咳払いをし、これは想像ですが、と断って、昔々の騎士隊長がとった戦術を想像して語った。みるみるうちにアリーナの目がまんまるになり、キラキラと輝く。

　「凄い、凄いわ!!それだったら勝てる！今度歴史の先生に確かめてみるけど、きっとそれ当たっているわ!!」

　しかし、すぐに口をヘの字に結ぶ。

　「どうなさいましたか。」

　「……武人ではないクリフトに負けるなんて……悔しい。」

　クリフトは腕を組んだまま、澄まして言う。

　「私は確かに武人ではありませんが、様々な勉学に励んできました。実戦経験がなくとも、これくらいの想像は簡単です。言わせて頂けば、姫さまが勉強を疎かにしすぎたのです。……いいですか、これに反省して、これからはどのような学問とも真面目に取り組まねばなりませんよ。」

　アリーナはむっとしている。

　「返事は？」

　「はぁい……」

　「声が小さいです。」

　「はぁい!!!」

　＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊

　それからしばらくして、司教のディルトは、教練場から戻ってきたクリフトに気付いて声をかけた。

　「クリフト、どうですか。成果はあがっていますか。」

　クリフトは恥ずかしそうに蒼い髪を掻いた。

　「正直、辛いです。剣も、槍も、自分の思うとおりに扱うことなど全くできません。」

　ディルトは微笑んだ。クリフトが神官戦士としての修行を始めると聞いたときに随分と驚かされたものだ。神学校で学ぶ生徒のうち、最も武器が似合わないのがこの青年だった。誰かが武器を取ろうとするときに、最後まで反対し説得しようとするのが、クリフトだ。
　しかし、一度志したら決して努力を惜しまぬのがクリフトである。騎士のように優れた剣の使い手にはなれなくとも、神官戦士としての剣……攻め込むのではなく守るための剣……を極めるようになるだろう。

　「以前にも聞きましたが、あなたはどうして神官戦士を志したのでしょうか。」

　「はい、将来、辺境の地の教会に赴任したとき、危険な魔物が出たときには必要かと思いまして。」

　「ええ、確かにそれは必要なことです。しかし、あなたが剣技を身につけようとするのには、別の理由もあるのでしょう？」

　クリフトは口ごもった。

　「……別に隠すこともないですよ。……姫さまはあなたのことを『武人ではない』といって、侮ることがおありですが、徒手空拳で戦う姫さまに対して、あなたは剣の扱いだけをとれば上ということになります。……姫さまに色々と大切なこと……学問だけではなく、人として大切なことを学んでいただくには、そば仕えであるあなたが姫さまのことを上から優しく見下ろす目線で導いていくことが必要ですからね。……でも気をつけなさい。あなたが神官戦士としての修行を始めたと聞き、姫さまはもっともっとたくさん手合わせをしたいと意気込んでいらっしゃいますからね。」

　げぇ、というような妙な呻き声が出てしまい、クリフトは顔を赤くする。
　ディルトには何でもわかってしまう。そう、神官戦士になりたいと思ったのは、アリーナと互角に戦えぬまでも、それなりに武人として認められたいという気持ちもあったからだ。……認めてくれれば、あのおてんば王女も少し……もう少しだけでも自分の言うことを聞いてくれ、サントハイムの姫として落ち着いてくれるかもしれない。そういった打算が微かだがあったのだ。

　ディルトは慈愛の篭った眼差しでクリフトを見ている。クリフトは赤い顔のまま、ああ、少し熱が出てきたかもしれない、とまた頭を掻いた。

　

「熱」というと、どちらかが発熱してもう一方が看病という王道パターンがありますが、うちの二人は相変わらず。第一、クリフトが説教魔なのがいけないですね、はい。