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　サントハイムの王宮には大きな礼拝堂がある。クリフトは、祭壇の前に両膝をつき、神官学校の制帽を滑らかに磨かれたモザイク細工の床に置くと深く頭を垂れ、祈りを捧げた。

　神官を目指している彼にとって、祈りは日常的なものであったが、目指す道が何であるかを抜きにして、彼はここでこうして静かに祈りを捧げるのが好きであった。己を低くし、神様に挨拶をし、全ての人の為に祈り……長い祈りの後、目を開け、左に首を回し、彼は微笑んだ。そこにはこの国の小さな王女の姿があった。

　「サントハイムのおてんば姫」

　誰が呼んだか知らないが、クリフトはその呼び名はこの小さな王女に相応しくないと思っている。アリーナの傍仕えを一日でもしてみたら……「おてんば」などという可愛らしい呼び名が似合うなどと誰が考えるだろうか？アリーナがドレスにかぎ裂きを作らない日はなく、膝小僧を擦り剥かない日もない。勉強の教師が叫び声を上げない日もなく、門番が翻弄されない日もない。
　しかし……アリーナはこの礼拝堂の中では別人のようにいつも静かに祈りを捧げる。金色がかった蜂蜜色の髪が波打ち、そっと閉じられた長い睫、ばら色の頬。こうしておとなしくしていれば、アリーナはまるでお姫様のようだった。……いや、実際お姫様なのだが。

　まだ幼いアリーナは、暫く黙祷してから、いつも声に出して祈る。

　「神様、この国のすべての人々をお守り下さい。病気の人を癒し、食べものの無い人に与え、寂しい人にお友達をつくってあげて下さい。少しの雨と、いっぱいのお日様で、作物を沢山実らせて下さい。皆が元気で幸せに暮らせますように。神様の御許にいる人たちをお守り下さい。お母様のことを宜しくお願いします……」

　そこでアリーナの声が途切れて、クリフトはおや、と思った。いつもなら、この後に“新しい必殺技を完成させてください”だの“正拳突きで岩が割れるようにして下さい”だの“一日も早く世界一の武闘家にして下さい”だのブライが聞いたら目を剥き、クリフト自身ため息を連続でつきたくなるような“お願い”が続くのだった。が、アリーナは今日はそれを言わなかった。それどころか、パッチリ目を開き、口をへの字に結び、祭壇の上の十字架をじっと見ている。

　「アリーナ様、……気になることがあるのなら、僕に話してみませんか。」

　アリーナは目を見開く。そして、年上の友人に、どうしてわかるの？と訊ねた。

　「……アリーナ様、いつもの『神様へのお願い』をなさらなかったじゃありませんか。どうしてですか。いつものお願いと違ったお願いをなさりたいのでしょうか。」

　小さな王女はクリフトの方を向いた。身長がだいぶ違うので首をぐいと上に上げ、見上げる形になる。クリフトはすぐにしゃがんだ。すると、今度は若干クリフトの方が王女を見上げるようになった。

　「……あのね、お願いしてはいけないと思うの！！」

　「は？」

　アリーナはぷっと頬を膨らませた。

　「だから！！神様にお願いしちゃダメって思うの！！」

　どうしてそんなことがわからないの、と言いたげに、両手を肩からぐるぐると回す。しかし、そんなことをされても、クリフトには何のことやらわからない。

　「ど、どうしてお願いしちゃダメなんですか。他のことはお願いしていたじゃありませんか。」

　「それは、他の人のことだからいいの！！自分のことは……あのね、クリフト、自分のことは自分で頑張らなきゃいけないのよ！！」

　「え？」

　アリーナは得意そうに腕組みをし、師匠が弟子に教えるようにちょっと気取った声で言った。

　「クリフトは武人ではないからわからないのね。ロン先生がおっしゃったの！！武闘家というものは、修行こそが大切なのよ。たくさん修行して、他の人に勝つことより、自分に勝つことをまず考えるの。そうしたら、誰よりも強くなるのよ！……つまり、他の人に頼ってはダメなの！！自分の心を強く持つことが大事なのよ。この世界は神様のご計画に従って動いているって司教様はおっしゃったわ。そして、神様は何だってできるお方だって。目の見えない人がいれば目が見えるようにして下さるし、足の動かない人がいればすぐに歩けるようにして下さるわ。でも、神様の力で強くなるより、私は自分の力で強くなりたいの！！そうすることが『本当に強くなる』ことだと思うの!!」

　アリーナの子供らしい、しかし真剣な言葉に、クリフトは微笑んだ。そして、ぎゅっと握ってぶんぶんと振り回されていたアリーナの両手を優しく握った。

　「アリーナ様、アリーナ様は少し思い違いをしておいでですよ。神様は何でもできるお方です。数々の奇跡を行い、アリーナ様のおっしゃったように、目の見えない方を癒してあっという間に見えるようにして下さいました。それはとても有名なお話ですね。僕もアリーナ様に何度かお話ししたことがあります。家族と一緒に親戚の家へと旅する途中湖のほとりで小さな坊やが「神様、私を憐れんで下さるのなら、どうかこの目をみえるようにして下さい」と祈ると、神様の声が聞こえてくるのでしたね。あの時、神様はどうなさったのでしたっけ。」

　「神様は、『私の声のするほうに来なさい。そうしたら願いの通りになるだろう。』とおっしゃって、坊やがその通りにすると、目が見えるようになるの。……素敵なお話だとは思うの。でも……おかしいわ。何もしないでもお祈りさえすれば願いが叶うなんて……まるで、努力はいらないんだって言われているみたい。」

　すると、クリフトは握っていた手を放し、ポン、とアリーナの頭の上に手を置いた。

　「アリーナ様、目を閉じて下さい。」

　アリーナが、どうして、という顔をしながら目を閉じると、少し離れたところからクリフトの声が聞こえた。

　「僕の声がするほうに来てください。目を決して開けてはいけませんよ。」

　アリーナは頷いた。

　「こっちです。ここまで来てください。」

　目をぎゅっと瞑ったままクリフトの声を頼りにおぼつかない足取りで歩く。そんなに離れていなかったはずなのに、声は中々近づいてくれない。目蓋を閉じただけなのに、どうしてこんなに心細いのだろう。ここはいつもの礼拝堂で、そう遠くないところにクリフトが居るはずなのに。と、礼拝堂の椅子に足がぶつかった。律儀に目を開けず、よろけて倒れそうになったアリーナをクリフトがしっかりと支える。アリーナが目をあけるとクリフトは笑っていた。

　「アリーナ様、先ほどアリーナ様は坊やがお祈り以外は何もしなかったとおっしゃいましたが、そうではないのですよ。旅先、つまり自分がよく知らない場所で、目の見えない坊やが誰の助けも借りず一人で歩いていくことはそれだけでもたいへんなことなのです。場所は湖のほとりです。一歩間違ったら水に落ちて溺れてしまうかもしれない。湖に落ちなくても転んで怪我をするかもしれない。でも、坊やは神様を信じ、勇気を振り絞って歩いていったのです。……神様は人が神様の方に努力して近づいてくるのをしっかりとご覧になっているのです。」

　アリーナの顔がぱあっと明るくなった。

　「よかった！だって、やっぱり神様にはお祈りしたかったのですもの！！」

　そして、いつも通りに『世界で一番強くして下さい！』と大声でお祈りすると、にっこりクリフトに笑いかけ、ちょっと恥ずかしそうにくるっとドレスの裾を翻して礼拝堂から出て行った。

　「クリフト、しっかりと説明できたようですね。」

　いつから聞いていたのか、祭壇の横手の扉からディルト司教が現れた。クリフトは制帽を被り気をつけの姿勢を取る。

　「は、はい！有難うございます！」

　「もう少し詳しい説明が王女殿下には必要かもしれませんが。……クリフト、あなたも、必要を感じたならば、ただ祈るのではなく、自分から神様に向かって歩いていくのですよ。『すべては神様のご計画のままに』などと、半ば諦め何もせずに待つことが神官の役目だなどと間違ったことを考えぬように。……大人となってもね。」

　「はい！」

　「さあ、もう行きなさい。王女殿下はすぐにまたどこかで騒ぎを起こすでしょう。そば仕えとしてのあなたの出番ですよ。」

　クリフトは頷き、大きく扉を開くと陽光のもとへとアリーナを追って走っていった。

　司教は扉から差し込んだ光に目を射られその眩しさに目を細める。

　そのとき、司教の頭の中に、明確なイメージがどこかから送り込まれてきた。将来……といっても、そう遠くない未来、アリーナも、クリフトも、何か大きな苦難に、まっすぐ前を向いて果敢に挑んでいく、と。そして、何か冷たく黒いものがこの地を覆うことを。老いた司教はぶるっと一度肩を震わせ、膝を折った。

　「神よ、ここから歩んでいった小さな子供達をお守り下さい。……彼らに苦難が訪れたとき、願わくばこの身も共に歩むことができますように。」

　おてんば姫の冒険が始まる十年も前のこと、サントハイムの教会で、ディルト司教はいつまでも跪いていた。

信じて自ら踏み出す勇気を持った人にだけ、前へと進むことができるのだと思います…

ああ、やはりこれもクリアリじゃない……当初、司教さんが「意中の人ができたら、誰かに掻っ攫われる前に自分から行動しなさい、のほほんと見守っているだけじゃどうしようもないですよ、」とたきつける話でいこうと思ったのですが……