月を見る
机の上の金属が立てたカチャ、という音でモブリット・バーナーはハッとし、首を左右に振った。睡魔に負けた自分を恥じるように、眉間のあたりを親指と人差し指で抓る。痛みが意識を清明にし、改めて首を左右に振る。うとうとしたのは一瞬だったのだろう。左手はワイヤーの巻き取り装置の正しい場所をしっかりと押さえている。 昨日は徹夜であり、今日も既に夜半を回った。ここで一度仮眠を取り、覚醒後の冴えた頭で整備を行った方が短時間で確実に整備を終わらせることができるのは彼にもわかっている。しかし、今ここで手を動かすのを辞める気は彼にはなかった。 仮眠中に非常召集がかかったら、彼は点検されていない機動装置に命を預けることになる。恐らく一日くらい点検をしなくとも支障はない。昨日も整備はしたし、装置を使用した訓練がなかったため整備後触ってもいなかったのだから。だが、『まあいいだろう』と妥協をすることが死に繋がることをモブリットは知っている。自分の命も、そして、上官や部下の命も。……そのようなことが起こらないことを祈るが……自分よりもずっと優れた技術と指揮力を持つ直属の上官、第四分隊長が万一危機に瀕したときには、自分が彼女の前まで『飛び』、身を挺して守らねばならない。彼女は第四分隊を率いる分隊長であり、彼女の死は隊員の死と直結する。そして、彼女の業績は巨人研究に関しては壁内随一であり、その知能を失うことは、人類にとって大きな損失である。 彼は拳を作り、ゴッ、と鈍い音をさせて前頭部を殴った。そして、机の端に置かれたカップから冷え切った泥のようなコーヒーを喉に流し込む。大丈夫、完全に目が覚めた。これで整備が続けられる。 すべての整備が終了し、モブリットは椅子に背を預け、両手を挙げて伸びをする。 そして、隣の部屋に続く扉をちら、と見遣った。あの部屋では、上官が忙しく紙にペンを走らせているはずだ。既に完徹三日目を迎えているはずだが、物に憑かれたように目をらんらんと輝かせ、口角を上げ、嬉しそうに机に向かっている。……あれを捨て置くわけにはいかない。モブリットはハンジの直属の部下として副長に任じられたとき、エルヴィン・スミス調査兵団団長じきじきに言い渡されたのだ。 『モブリット・バーナー。君の職務はハンジ・ゾエ分隊長の補佐だ。それは彼女の着手している研究についてをも含む。君の人物経歴および座学の成績はレポートも含めゾエ分隊長が承知している。この人事は分隊長が君を推したことによる。君が兵士としてのみでなく研究助手として手腕を奮うことも私は期待している。更に言えば、君の主たる仕事はゾエ分隊長を制止することになるだろう。』 何を言われているのか理解できず、訝る気持ちが表情に現れていたのだろう。エルヴィン・スミスは大柄だが引き締まった体躯のがっちりとした肩を竦めて笑った。 『食事をさせ、眠らせ、研究対象に突っ込んでいきそうになったら後ろから止めてくれ。』 先程も、風呂に入らせることは諦めたが、左手に具を挟んだパンを握らせ、ペンを走らせる紙の上にスープの入った破格に大きなカップを置き、その下となっている紙に筆記を続けるためには食事という行動を起こすのが最も手っ取り早い状況を作り、分隊長が嚥下している最中に『テンションが上がっていても疲労していれば思考力が低下するのは分隊長もわかっていらっしゃるでしょう。寝て下さい、寝て下さい、寝て下さい』とクレッシェンドで怒鳴ってみたが、その通りにしてくれるはずもなかった。 『いやー、さっき、凄いことに気付いちゃってさ！聞きたいかい、聞きたいだろう？書くより話すほうが早いしね、あー、でも紙に残さないと結局はいけないのかー。うーん、とにかく忘れないうちに書くべきだな。じゃー、気が散るから黙っていてくれるとありがたーい。君が茶々を入れなければ私の仕事は早く終わり、結果、君が望むように私は睡眠を最速で取ることができるようにだろう。』 こうなったときには気が済むまで眠ってくれないことが経験上わかっているモブリットがはあああああああと、立体機動装置がガス欠になる直前に立てる音に似たため息をつくと、ハンジはペンを走らせつつ左手をひらひらさせて言った。君ができる仕事は私がこれを書き上げないうちにはもうないから、君こそ早く寝るといい、と。 そのため、モブリットは、この隣部屋へと移ったのだった。もとはハンジの仮眠室として使用されていた小部屋だが、研究熱心な分隊長殿は寝台を研究室に引っ張り出して厳密な意味での職住一体型の部屋を作り出してしまった。空いた部屋は放置されれば何がなにやらわからないものに何がなにやらわからない風に占拠されてしまうと1ミリ秒の速さで予測したモブリットと第四分隊構成員の部下達により、管理責任者を副長であるモブリットとし、分隊長殿の侵食の魔の手を免れ、しっかりと整頓された作業小部屋兼ファイリングされた書類置き場となった。そして、この大きな作業机が近頃のモブリットの根城となっている。 一度伸びをしたモブリットは、立ち上がろうとはせず、腕を組んで目を閉じた。ハンジの言う通りに自分ができる仕事は今のところはない。今ハンジが書き殴っている物は、書きあがってハンジから一通りの説明をされてからでなければモブリットの分担となっている報告書形式の清書はできない。寝台で眠っておけるときに寝るのが鉄則ではあるが、自分の体力と気力と相談し、あと一時間程度はいけるだろうと判断し、こうやって目を瞑って休むだけにする。何せ、我が分隊長殿ときたら…… 「うおおおおおおおおおおお！」 ハンジの雄叫びのような歓声が聞こえ、モブリットは反射的に飛び上がって弾丸の如き速さで隣室に飛び込むと、机にハンジの姿はなく、大きく開け放たれた窓からふくらはぎから下の両足が見えるだけだった。巨人が現れて上半身が食べられているのなら、嬉しげな歓声が続いているわけはないが、情景としてはそれに近い。一体何が起こっているのか定かではないが、とにかく足首を掴んで部屋の中に引っ張り込む。ハンジは、いったいなあ、といいつつ、両膝をついた姿勢から起き上がった。 「何やってんですか、あんたは！落ちますよ！」 すると、ハンジはきょとん、とした顔をして、右手を天に向かって延ばした。 「何、って、月を見ているんだよ。」 「は？月？」 およそ普段は情感と無縁の上官の意外な返答に、モブリットはそう大きくない目をぱちくりさせる。 「……あの、今日の月には、何か異常なことが起こっているのでしょうか。」 窓から空を見れば、少し黄色がかった大きな月が見えたが特にいつもと変わっているとは思えなかった。 「自分には、ごく普通の満月に見えますが。」 するとハンジは笑った。 「あれは満月ではないよ。……満月は明日だ。今日は微妙に欠けた状態だ。君の質問に答えると、特に異常なことは何も起こっていない。しかし、いい月じゃないか。そうだろう？」 研究のヒントを見つけいわゆる『滾って』いる状態のハンジが月を愛でるために時間を割くなどモブリットには信じられないことであった。ハンジはそんなモブリットを見透かすように微笑む。 「人間は水晶体をレンズとし、光を網膜に結像させて『見る』という感覚を得る。この場合、太陽の光が月面で反射された光が私達の目に入ってきたわけだ。私が言っている『月を見る』はそれじゃあない。では何だと思う？知識か？月の満ち欠けは天文学上非常に興味ある事象であり、地動説の確立と共に天体の様々な運行が科学的に説明されてきた。更に、月には非常に面白いことがある。それは、球体の同じ面をずっとこちら側に向けているということだ。満ち欠けはしても、表面に現れる模様はいつだって一緒だ。ああ、モブリットはこんなことは先刻承知だったね。私は時々思うんだ。月の裏側はどうなっているのか、ってね。無論、確かめようがないことはわかっている。あんな遠くにあるでかぶつを裏返す手段なんて現在はありえないし、あそこまで行くなんてことは少なくとも我々が生きているうちには無理だ。しかし、月の裏側は確かに存在するはずだ。存在するのならどうなっているのかを確かめたいと思うのは人間の基本欲求のなせる業だろう。そして、確かめられないまでも、どうやったら確かめられるのか考えることも人間にだけ許されている醍醐味だ。実際、今まで月を見上げるときにはそういったことを考えて見て来た。私は天文学者ではないけれど、月というのは中々興味深い観察対象だ。」 そこまで一気に喋り終えてから、ハンジはニヤリと笑った。 「しかし、それもまた今回私の言う『月を見る』ではないんだ、モブリット。私はね、知ったんだよ。『お月見』という概念を。」 分隊長は窓から顔を出し、月を見上げる。 「あの時は君が中央に代理で使いにいってくれたときだったなあ。私はあの隠れ家に行き、帰りは夜となった。そしてケイジ達が馬の準備をしてくれている間に散策していた。これ以降の実験の為にもあの建物の周囲を空間的に掴んでおく必要があったからね。その日は満月だった。そして、私は見たんだ。あの農家の傍らの草地に三人並んで座っているシガンシナの三人の子供達をね。」 シガンシナの子供達――巨人化能力を持ったエレン・イェーガー、新兵ながら並の兵士100人と等価と噂されるミカサ・アッカーマン、体力に劣るが頭脳明晰でハンジも一目置いているアルミン・アルレルト――。彼ら三人は強固な絆を持っていることを、対面数回であるモブリットも肌で知っていた。 「真ん中にね、エレンが座っているんだ。そして、腕を回して二人の肩を抱いていた。あれはミカサとアルミンを守りたいという意志の表れなんだろうね。だけど、ミカサとアルミンはそのエレンの手を自分達の手でしっかりと握っていた。ミカサも、アルミンもエレンを守っているわけだ。そして、エレンの膝の上でミカサとアルミンの手も繋がれていたよ。アルミンは二人に月の満ち欠けの仕組みを楽しそうに説明していた。あの子は説明上手だね。かなり難しいことも、噛み砕いてわかりやすく語っていたよ。エレンは頷きながら時々感嘆の声をあげて月を見上げていた。ミカサは殆ど喋っていなかったけれど、アルミンが『御免、僕ばかり喋ってるね』と言ったら、あの子は『アルミンの話は聞いていてとても楽しい、ので、私は構わない』と、柔らかな声で返していたね。そして、ミカサが私の気配に気付いて、三人揃って立ち上がろうとしたものだから、そのままでいい、と制止したんだ。三人で何をしているんだい、と尋ねたら、エレンが、はい、『お月見』です。と答えてね。その言い方が単に月を見るっていことじゃなさそうだったから尚も突っ込んで聞いたんだ。そうしたらアルミンが説明してくれたよ。ミカサの民族の故郷……東洋ではこんな秋の満月の日に『月見』という古い行事があったんだそうだ。ただ月を見るのではなくて、供物を捧げ皆で集まって見ながら話をするのだって。ミカサは母親からチラッと聞いただけで詳しいことはわからないのだと済まながっていたけれど、エレンが、こいつの故郷で大切にしてきたことなら、そんな手間がかかることじゃなし、供物はないけど見に行こうと言い出してそうことになったらしいよ。」 そこでハンジは一つ息をついた。 「私はそこで『お月見』を傍観者としてではあるけれど初体験したわけだよ。いやー、この年になっても『はじめて』って奴はいくらでも存在するんだね。――さて、ここからが現在の状況に繋がる。私は眼精疲労を感じ、無限遠の彼方にある月を見て目を休めようとして窓辺に寄った。視覚的に満月に近い月の像を捉え、――ここから先を論理的に説明できないのは困ったことだが、その像に何故か感動を覚えて声をあげたというわけだ。いやいや、研究には不必要というか寧ろ排斥すべきものだとは思うけれど、人間は感情の動物だからね。いたしかたない。そして図らずも、私は本式の『お月見』をすることになったわけだ。私は月の美しさに感嘆したが、一人だった。君が来てくれたおかげで複数となり、あの子達の言っていたお月見の不可欠要素『集まって話をする』という必要条件がクリアできたのだからね！」 興奮気味に話す上官に、そんなことより早く寝て下さいと怒鳴りつけたくなるモブリットだったが、月を眺めるいつにない穏やかな様子のハンジに投げつけようとした言葉を飲み込んだ。ハンジは目を細め眼鏡を外した。 「こうやって眼鏡を外せば、更にお得感満載だ。乱視が酷いせいで月が二つ見える。」 「……はああああ。多けりゃいいってもんじゃないでしょうが。」 振り向いたハンジは声をたてて笑った。 「ひゃっひゃっ、違いない。モブリットの顔が二つに見えるけどあんまり得って気はしない。」 ハンジは突然真顔になった。眼鏡をかけ、月を見、またモブリットを見る。 (ああ、そういえば我が親愛なる副官は月みたいだな。) 月はいつも同じ側の顔しかこちらに向けない。……目の前のこの青年も、巨人を前にしての実験や作戦行動中は背をこちらに向けない。それは副官という立場からくるものもあるが、常にハンジの後ろに控えていて、有事の際には後ろから全力で引き止めるためであるのをハンジ自身も知っている。 (月と違うのは、どうやれば後ろを見られるかがわかっているということか。) このおっとりとした兵士らしからぬ容貌の部下は、いざというときにはハンジの一歩前に出る。……昨日、中央憲兵団とやり合ったときもそうだった。最もあのときは斜め前で、完全な後ろ頭を見たわけではないが。 (……しかし君の裏側は見たくないものだね。) それは、この副官が命を手放す覚悟を決めた時だろうから。 「まあ、少しは付き合ってくれるだろう？……これが最初で最期の『お月見』かもしれないんだからね。」 よほど危険なこと以外は原則として(往々にして諦めながら)受け入れる副官は上官の右斜め後ろから空を見上げた。 「最期、ということはないでしょう。分隊長が召集をかければ少なくともうちの班員は明日でも明後日でも揃って空を見上げて月を見ますよ。」 「違いない。……で？どうだい、ご感想は？」 「洒落た台詞など出てきませんよ。ありきたりなことしか。……ああ、でも……今日の月は本当に綺麗ですね。」 すると、分隊長はチッチっと人差し指を副官の前で振って見せた。 「違うよ、モブリット。」 そして、目を見て続けた。 「月はね、いつだって綺麗なんだ。……たとえ新月の時だって光っていないだけで私を見ていてくれるんだ。」 何を言われているのか上官の真意がわからず戸惑う副官は、目を月に戻して嬉しそうに語り続ける上官の後ろでそれでも律儀にきっちりと背を伸ばし月を見遣る。 そして、“ああ、すっきりした、また仕事に戻るぞ！”とハンジが宣言するまで、深夜の『お月見』は続いたのだった。 |
| 五月雨さんよりのリク「お月見」です。「進撃の巨人」のキャラクター、「奇行種」と仇名される調査兵団第四分隊長のハンジさんと副長モブリットさんのコンビ。物語の展開にあまり関係のない小さな挿話として書きました。お月見でこの世を去っていった調査兵団の兵士を思い出すような展開もあるべきでしょうが、今回はとにかく月を愛でる方向で。次はつまみ持参でハンジ班全員で愛でられるといいと思います。 「進撃〜」はまだ連載中の漫画ですから、二次を自分で書くのはとても怖いものですね。「実は○○」という衝撃の事実がこれからいくつもでてきそうです。 願わくは、精一杯生きようと力を尽くしているしているキャラクター達が、その人生を全うできますように。 そして、モブリットさんが、ストレスで胃に穴をあけることがありませんように!!! |