はじまり
その日は朝から雨が降っていた。でも、お母さんは少し遠くにある川まで魚を捕りに出かけていった。雨脚はどんどん強くなり、穴の奥にいても雨の音が聞こえる。お腹はペコペコになってきたのに、お母さんは帰ってこない。 その動物は猫に似ていた。しかし、その瞳はまん丸の優しい緑色で、短い手足の先には肉球ではなく馬のような蹄になっていた。毛はあたたかなオレンジ色で、パタパタとよく動く尻尾は先が二つに分かれている。 お母さんは、出かけるとき、住居としている小さな穴から絶対に外には出てはいけない、といった。 お母さんの言うことはいつだって正しい。でも今日は時間がかかりすぎているのではないだろうか。お母さんは大きな鱒を捕まえる名人だけれど、水かさが増えて魚が取れにくいのかもしれない。でも、もしも何か別のことが起こっているのだったら？お母さんのところに行ったほうがいいのじゃないだろうか。 穴から出、雨粒が勢いよく地面を打っているところに一歩足を踏み出したが、思いなおして穴の奥に戻る。 お母さんは大きくて強い。怖くて大きな獣が来ても、全く慌てず、自分を後ろに庇い、正面から立ち向かって追い払ってくれる。そして、危険を避けるいろいろな知恵ももっている。もしもお母さんが何か悪いことに巻き込まれているとしても、自分に手伝えることはきっとない。むしろ足手まといになるだろう。…やはりお母さんの言いつけどおり、ここで待っているべきなのだ。 ぴかっと空が光り、ドーン、と物凄い音がした。反射的に頭を前足で抱え、体を丸める。そうっと前足を外すと、穴の外が明るくなっていた。 「ミャッ!?」 穴の傍にある大木が、雷に撃たれて燃え上がっていた。豪雨の中だというのに、ぼうぼうと燃え盛っている。 「ミャッ！ミャッ！ミャーッ！」 お母さんを呼ぶ。懸命に呼ぶ。でも答えはない。 「ミャーッ！」 穴から走り出て、煙と逆の方に懸命に逃げる。 と、空から青白い光が襲い掛かってきた・・・・それは稲妻に似ていたが、稲妻と違い、こちらを射るように直進してくる。 「ミャーッ！」 お母さん、と最後に叫ぶと同時に、光は体全体を覆っていた。 …次の瞬間、母を呼んで心細げに啼いていた動物の姿は消えていた。 ここ、獣界メイトルパから1つの小さな命が、リィンバウムへと転移したのはこのときであった。・・・・・ ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 「ミャア？」 白い砂の上に倒れていた猫に似た動物は体を起こした。 雨は止んでいた。燃えていた木はなくなっていた。そして…家だった穴までもが綺麗に消えていた。 「みゃあ〜!?」 白い雲が浮かぶ晴れ上がった青い空。その下には大きな大きな水溜りがあった。海を見たことがないその動物は歩いていって舌を水溜りに浸した。 「み、みゃッ！」 塩辛さに驚き、打ち寄せる波から一目散に逃げる。 お母さんはどこに行ったのだろう。お母さん、お母さん。 心細げに啼いていると、白い砂浜に、キラリと光るものがあるのに気づいた。 （こちらにおいで。メイトルパの小さな同胞。） その光るものは心の中に直に呼びかけてきた。蹄の横の小さな突起を使い、拾い上げるとそれはガラスの嵌った丸い輪が二つ繋がって、それぞれの輪に先の曲がった銀色の棒が出ている不思議な形のものだった。 （これをかけて。そう。君の鼻の上に輪の繋がっているところがくるようにしてね。きっとうまくかけられるから） 声に言われるままにその不思議なものを鼻に乗せると、急に頭にかかっていた霧が晴れてくるような気持ちになった。 （驚かないで。小さな友人。済まないけれど、君の体を時々貸してもらうよ。…私は…もうあまり『精神』だけの存在としても時間が残されていないから・・・私から君にして上げられることは殆どないけれど、私が持っているものを伝えよう。君はこれから“人間”という生き物と出会うことになる。人間達が話す“言葉”“文字”そして基本的な“知識”。どれも今の君は全く知らないものだけれど、私が近くに居る間はそれらが使えるようになる。いいかい。こんな風に。） 頭の中がかき回され、何かがなだれ込んできた。そして声はいろいろなことを小さな生き物に語りかけてきた。と、声が途切れた。 （気をつけて！敵がいる！この島にいるはぐれ召還獣たちはかなり凶暴だ。） 砂浜にゼリーのようなぶよぶよした生き物がやってきていた。 「ふーッ！」 お母さんは、一人でいるときに敵がやってきたときの戦い方を教えてくれていた。怯まないこと。後足だけで立ち上がって、体を大きく見せること。蹄をうまく使って相手の急所を強打すること。 小さなネコに似たオレンジ色の生き物は雄々しくも戦う準備をした。と、彼の前、敵との間に緑色の皮を被った今まで見たことがない二本足で歩く生き物が立ちふさがった。先ほど頭の中に流れ込んできた“知識”で、それは人間の男の子だということがわかった。 「ち、近づくなあッ！」 男の子は手にした木切れを無茶苦茶に振り回した。その深い緑の瞳には、恐怖と、不安と、孤独がはっきりと表れていた。短いブーツを履いた二本の細い足はがくがくと震えている。 しかし、小さな生き物は、この少年のことを“お母さんに似ている”と思った。震えてはいるけれど、お母さんよりずっと弱そうだけれど、自分を後ろに庇い、敵との間に入って立ち向かってくれている。・・・お母さんと同じだ。 ゼリーのようなはぐれ召還獣は、少年の必死な様子に気圧されてか、退散していった。少年は安堵から砂の上に座り込んでガタガタと震えていたが、小さな動物ををぎゅっと抱きかかえて言った。 「よかった…よかったよ。君が無事で良かった・・・。僕は…助けられないんじゃないかと思った…僕の目の前で、君が殺されちゃうんじゃないかと思って…」 小さな動物は少年の頬をぺろっと舐めた。 「アハ・・・アハハ…くすぐったいよ。」 震えながら少年は少しだけ笑った。 “声”が言った。 （力になってあげて。この少年と、この少年の“先生”の） 獣は同意の印に“ミャア”と鳴いた。 これが、ウィル少年と、後に『テコ』と名づけられる小さな獣の出会いであった。 |
| テコの出自のオフィシャルってあるんでしょうか。私はテコのことを「メイトルパの辺境に生息する希少生物」だと思っております。 |