| 惚れ薬 |
くすくす、とスカーレルは笑った。 「何です？何か可笑しいことでもありましたか？」 ヤードの前に腰かけたスカーレルは、口に軽く曲げた左手の人差し指をあてて笑い続ける。 「可笑しい、っていうのじゃないのよ。昼、ここに来たことのことを思い出しちゃってね。」 ここは『忘れられた島』の学校。以前の激しい争いのときには青天井の下に椅子代わりの切り株と黒板しかなかったのだが、生徒も増えてきて島の人々の好意で建てられた小さいながらもしっかりとした学校だった。大きな黒板に、小さな机と椅子。小さな子供たちが読む絵本やもう少し大きな子供たちが読む童話の本が詰まった本棚。……その、いつもは子供たちが座っている小さな椅子に、二人は長い脚を折るようにして座り、談笑している。 長身の召喚士は驚いたように眉を上げた。 「えっ、昼にここに来たのですか？全然気がつきませんでした。いってくだされればよかったのに。」 カイル海賊団の航海士兼ご意見番は、両手の指を組み前にきゅっと突き出して微笑んでいる。 「だって、授業中だったんですもの。こんないかにも怪しい風体の奴がいきなり入って行ったら、邪魔者以外の何者でもないでしょ？それに、今日はいろんなとこへの挨拶まわりでカイルたちと一緒に歩いてたから。ここへはラトリクスに行く途中でたまたま寄ったのよ。だから、気にしないで。」 昼に寄って、窓から中をそっと覗いたときの様子を彼は思い出して目を細めた。黒板にはくっきりとした白いチョークの文字で算術の問題が書かれており、幼馴染のスカーレルにはそれがヤードの字であるとすぐにわかった。彼は、問題を解いているらしい大きな子供たちの間をゆったりと歩いて回っており、子供たちから“ヤード先生”と呼ばれると、その長身を屈めて頭を子供たちの顔の少し上まで下げ、丁寧に解説していた。彼の先輩にあたるアティは、教室の奥のスペースで椅子に腰かけて絵本を開いており、そのまわりには小さな子供たちが真新しい白木造りの床に尻をペタンとつけて彼女の読む物語に耳を傾けていた。 「先生。」 と誰かが呼んだ。自分が呼ばれたか、と同時に顔を上げたヤードとアティは二人で視線を合わせ、目を細め、ちょっとだけ頷いてから、アティは再び絵本を読むのに戻り、ヤードは呼ばれた生徒の方に歩いて行った。 そんなどうということもない光景がスカーレルにはたまらなく嬉しくて、だから先程も思い出してくすっと笑ってしまったのだ。 「で、カイルさん達は一緒ではないのですか？」 「ん？カイルは、『客人はどうせいずれ船にやって来るだろう』ってソノラと帰っちゃったわ。……なんかね、気を利かせてくれたみたいよ。……昨日は鍋を囲んで大宴会で、アナタもその勢いで飲めないお酒を虎さんに勧められるままに飲んで早々に潰れちゃったじゃない？カイルはなんか、アタシ達二人だけで色々積もる話もあるだろうって思ってるみたいよ。……クノンもそれは同じみたい。」 機界集落ラトリクスからスカーレルと共にやってきたフラーゼン(看護人形)のクノンは、二人をこの教室に残し、扉を隔てた小さな“教員室”でアティと話をしている。 「クノンさんはどうしてここに？私達とはいつでも会えるというのに。」 「ああ、それはね。アタシが帝国から運んできた“恋する乙女シリーズ”を船まで取りに行くためよ。後でもっていったげるから、っていったんだけど、あのコってば、一分一秒でも早く読みたいって言い張って。今まで貸した本も何度も読み返してたらしいけど、新作を読むのは格別ですからって。……凄いのよ。あのコ、貸した本を完全複製してるのよ！あくまでも本の形にこだわってるのよね。メモリっていう奴にに移しておけばいいじゃないって思うのに、何度読んでもページをめくる時の感覚が楽しいって。あれだけ楽しんで貰えると貸す方も嬉しいんだけどね。あ、それからなんかアティセンセにお土産がある、とかなんとかいってたっけ。」 そしてまた笑う。 「…………安心したわ、ヤード。あなたがちゃんと先生してて。」 「まだまだ未熟ですよ。ゲンジさんには日夜叱られていますし、アティ先生にも子供たちにもいろいろ教えられてばかりです。」 「あのおじいちゃんの叱り方には愛があるし、あたしが昼間に見た限りじゃアティセンセも子供達もあなたを信頼してたわよ。…………ほんとアナタは変わらないわね。真面目すぎで融通が効かなくて……でも、少し変わったかしらぁ？昨日の宴会の時に訊こうと思って聞きそびれていたんだけど、上着の裾が短くなったわよね？」 確かに、以前は地面から10cmほどの丈であった、召喚士独特の上着が、膝の下あたりまで上げられ、ダークグレーのスラックスが見えていた。ああ、これですか、とヤードは上着の裾を手で触った。 「丈夫な生地でしたが、酷使して随分と擦り切れてしまって。それに、子供たちが、上着の中身がどうなっているかにとても興味を持つらしく捲りたがったのです。何人かが捲り始めると、それが流行になってしまって、大騒ぎになりまして。」 「……そうねぇ、ソノラも昔、アナタのいない時にあたしに訊いたことがあったっけ。『客人の上着の中身ってどうなってるの？まさか素足じゃないよね。』なんて鹿爪らしく声をひそめて。」 「そうでしたか。ソノラさんでそうなら、あたりまえですね。島の子供たちにとっては私達の衣服そのものが珍しいですから。……私の裾を捲るだけですんだらよかったのですが、アティ先生の裾を捲る子供たちが出始めまして。」 「…………そりゃ、アナタの裾より捲り甲斐があるでしょうね。」 あの伸縮性のある、体にぴったりあっていたワンピースの裾を捲ったら捲りあがりっぱなりになってしまったのではないかと、スカーレルは想像した。 「…………アティ先生は、叱りつつも困ったように笑って流していたようですが、先生の下着の色を私に楽しそうに報告して来る子たちまでいまして……アティ先生には、もう少し裾を長くして貰うよう頼みましたが、それからもスカート捲りは続きまして……私がお灸をすえるまで収まりませんでした。」 どんなお灸を据えたのだろう。……ヤードの怖さを知るスカーレルは、身から出た錆とはいえ、叱られた子供達に同情した。 「それも、子供たちがセンセを大好きだからなんでしょうけれどね。…………もとい、下着の色なんて、教えて貰わなくてもアナタにはわかっていることだったのにね。」 は？と普段は細い目を丸くするヤードの前で、これまた普段はヤードより細い、アイラインをばっちり引いた目をスカーレルは丸くした。 「まさかって思ってたけど、アナタたち、全く進展してないわけ!?」 立ち上がり、机をバン、と叩き、叫ぶスカーレルに、ヤードはぽかん、とする。 スカーレルはそのまま手を後ろに組み、うろうろと歩きまわり始めた。 「この島じゃ、アタシたちの世界より、時間の流れが緩やかだってことはわかってたけど……それでもよ！ここまで何も進んでないってのはどういうわけよ。第一、あんた、この前会った時にはセンセのこと“アティ”って呼んでたのに、なんて“アティ先生”になっちゃったわけ。」 「あ、……確かにそうですね。それは、子供たちの前で会話する時に“先生”とつける癖がついたからだと……別に仲違いをしたわけではありませんよ。」 「だー、もーぅ！アンタ、昨日の宴会で、センセの隣で時々二人だけの世界作って目で会話してたけど、アレはなんなの？青春の熱愛時代を通り越して、一気に縁側でひなたぼっこしているじーさんばーさんになっちゃったわけなの？それじゃあ、だめでしょうが。」 再び、机のところに戻ってきて、バン、と机を両手で叩く。 「一体アタシはいつになったら孫の顔を拝めるのよぅ！」 ヤードは苦笑する。 「……スカーレル。いつから私のお母さんになったんですか。」 幼馴染はドン、と小さな椅子に座り直す。 「少なくとも、お父さんじゃないでしょ、アタシは。」 そして、優しい目をする。彼のこんな目は、この幼馴染とアティにだけしか向けられたことがない。 「……ヤード、アナタは、今まで自分がやってきたことを想って踏ん切りがつかないんでしょ。……いいわよ、何も答えなくって。アタシにはわかってる。アナタ以上に酷いことをやっちゃってきたんだもの、アタシは。……自分は彼女に相応しくない。自分が踏ん切ることで、彼女を不幸にしてしまう、センセを汚してしまう。……そう思うのはアナタの勝手よ。でもね、アティセンセだって、聖母じゃなのよ。アタシ達なんかはと違うけれど同じ人間。汚れたところもあるし、迷うところもある。…………でもね、センセはアナタのことを信頼しているし、信頼以上の感情を持ってるってアタシにはわかる。……そしてね、女心はアナタなんかよりもずっとわかっているつもりよ、ヤード。あなたがセンセに寄せているような想いをきっと彼女はアナタに対して持ってる。アナタに支えて貰ってる。もっと頼りたいって思ってる。女の子はね、声をかけて貰えるのを待ってるのよ。このまま待たせて置くつもり？あなたが踏み切れば、センセは幸せになる。あなたも幸せになる。……それがどうしてできないの。島がこれからどうなるのか、正直アタシには予想できない。このままの平穏が続くかっていわれたら、やっぱり首を振っちゃうわ。……でも、何がどうなったって、そんなことはどうでもいいのよ。何が起こっても道は開ける。……それをアタシ達は誰よりも知っている筈でしょ？」 ヤードが、“ですが、スカーレル”、と言いかけた時、教員室への扉がパタンと開き、クノンがひょいと出てきて、スカーレルをちょいちょい、と手招きした。エ？アタシ？とスカーレルが反応して彼女の元に行くと、クノンは伸びあがり、スカーレルはやや頭を倒して、彼女の囁きを聞き、顔色を変えた。そして、ヤードを見、クノンを見、教員室の中の様子を見、再びヤードを見、じーっとクノンの一見無表情に見えて彼女をよく知る人物ならわかる楽しげな顔をみつめてから、パタン、と一度扉を閉め、何か決断したようにヤードに向き直り、つかつかと歩み寄ると、召喚士の腕をとって引きずるように教員室前まで来た。細身で一見すると女性と見間違えるスカーレルだが力は強い。成されるままに引きずられていたヤードがなんなんですか、と幼馴染に問うと、スカーレルは一度咳払いしてから重々しく言った。 「一度しか言わないからよーっく聞きなさい。クノンがセンセに惚れ薬を飲ませちゃったっていってるわ。アンタ、なんとかしなさい。」 「は？え？薬でしたらスカーレル、アナタの方が私よりよほど詳しい筈では。」 「媚薬なんてアタシの守備範囲外よ！それにアナタ、こんなナリでもアタシの中身が男だってわかってるでしょ！そんな薬を飲んだ女の子のとこに、自分以外の男を入れちゃダメでしょ！あんたも霊属性召喚士の端くれならピコリットでもプラーマ様でも呼んで治療してあげなさい！頼んだわよ！」 そして、扉を開けるなりヤードの腰のあたりを蹴りつけて職員室に叩き込んだ。すると、間髪いれずにクノンがウッドテーブルをドカンと召喚して開かないように蓋をする。 「ナイスアシストよｖクノン。でも、部屋には窓があったわよね。」 クノンは御意見番とハイタッチすると、いつも通りの抑揚のない声で答えた。 「既に『石細工の土台』で塞いであります。」 ああ、そう、用意周到ね、と言いつつ、自分の掌にある先程ヤードから掏り取った召喚石を見る。 「本来アシストなしじゃ召喚できない聖鎧竜スヴェルグだけど、あのコ、怒ると不可能を可能にしかねないものねえ。まあ、風雷の里の棟梁さんたちに折角建てて貰ったこの学校を破壊して脱出するとは思えないけど。」 ドアノブがかちゃかちゃ動かされ、開かないとわかると扉にドン、と体当たりが来て、スカーレル！というヤードの厳しい声がしたが、スカーレルは平気の平左だった。 「他の召喚石はどういったものでしょうか」 「ええっと。ダークブリンガーにパラ・ダリオにタケシーに聖母プラーマね。」 「聖母プラーマの召喚石がないのではヤード様は治療ができないのではないですか？」 スカーレルは面白そうに笑う。 「いいのよ。だってアタシもクノンの計画に乗っちゃったんですもの。」 そう言って、二人は頭を寄せて辛うじて石細工の土台に塞がれていない鍵穴を覗きこむ。 「……それにしても、いきなりなことよねえ、どうしちゃったの。」 「私は、以前より、スカーレル様から御貸し頂いていた本に記載されている“恋”という感情について、更に知識を得たいと思い、アルディラ様にもその旨を表明しておりました。アルディラ様は、“恋”というものは本に書いてあるような綺麗ごとではなく、とても苦しいものだとおっしゃいましたが、それと同時に、恋は素晴らしいもので、その感情を私が理解することは私の今後に大きなプラスをもたらすとお考えでした。そのため、書籍以外からも“恋”を学習しようと、島の方々にご相談申し上げましたところ、実際の恋人を参考にするのがよいだろうという趣旨の言葉を風雷の里のミスミ様よりご教示いただき、私と親交がある方で恋人をお探ししましたところ、まだ、恋人とは言えない状況である可能性は否めませんが、アティさんとヤード様に考えがいきついたのです。」 「そうねえ、ま、そうだわねえ。」 「しかし、観察を30日ほど続けましても、一向に進展を感知するような行動データが見当たらず、このままでは“恋”を学習できない可能性が高いと分析し、今回の行動に出たのです。」 「それはいいんだけど、なんで、惚れ薬なの。」 「以前スカーレル様に貸していただいた『恋する乙女は視線で氷河をも溶かす』の中で、ヒロインは惚れ薬を誤飲し、恋人関係に至っていない幼馴染と共に一つの部屋に共に閉じ込められていました。あの折、助けに来た仲間達が解毒剤を飲ませなかったら、もっと飛躍的な進展があったらしいのですが、とにかく、ヒロインが薬を飲んだことで全く進行していなかった二人の仲は進展しました。ですので、私もそれに倣い、薬を使用しようかと。」 ああ、あの二人はもだもだしているところが、全世界一千万の『恋する乙女シリーズファン』の萌え心をくすぐったのよねえ、とスカーレルは呟いてから言った。 「……にしても、よくそんな薬の配合がわかったわね。アレは毒薬や麻酔薬よりよっぽど難しいわよ」 「はい。様々なデータを検索し、その製造の難しさを痛感致しました。瞳孔が開き、体が熱くなり、ぼうっとして、秘められた感情を吐露したくなる。そのような薬剤はラトリクスのデータにはございませんでした。ですので……」 クノンが説明した薬の配合を聞いて、スカーレルは笑った。 「クノン、それは間違っているわ。それじゃ媚薬にはならないわよ。」 目の光がすっと弱くなったクノンを慰めるように彼はフラーゼンの少女の髪を梳く。 「それでも、いい方向に進むかもしれないわよ。」 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 「アティ先生、大丈夫ですか。」 なにやら俯いてブツブツと呟いていたアティは顔をあげた。その蒼い目はうるうるとうるんでおり、やけに色っぽい。 脈をみるために手をとれば、肌は熱く、脈は随分と早い。 「待って下さいね。苦しいですか？今、召喚術で治療を……」 ポケットに手を入れて、召喚石がないことに気づくと、彼は扉に突進し、ドアノブを捻った。……開かない。謀られた！気づいて少し下がって扉に突進したが、扉はびくともしなかった。振り向いて窓を見れば、そこは石細工の土台が出現しており…… 「スカーレル！クノンさん！どういうことですか！返事をして下さい！」 ―――無論、返事はない。呼ばれた二人は、熱心に出歯亀続行中である。 はあ、とため息をつき、ヤードはアティの元に戻る。来客用のテーブルの上には紅茶のセットが出してあり、その横に、小さなガラスの瓶が並んでいて蓋が取られている。おそらくこれが薬だったのだろう。クン、と鼻を動かせば、ナウバの実の匂いがした。ナウバが大好きなアティに、ナウバからとったシロップで紅茶によく合いますとでも勧めたのだろうか。とにかく今はアティだ。苦しんでいるのをそのままにしてはおけない。 「アティ先生。大丈夫ですか。苦しいところはありませんか。」 その間にもアティは呪文のようになにかを呟いていた。何だろう、とヤードが耳を傾けると、彼女は実に意外なことを喋っていた。 (♪おひさまさんが、キラキラキラ〜、ワンワンさんとヤンチャさんと委員長さんとテコテコさんと先生さんとゲンコツさんとブーブーさんとパタパタさんとヨロイさんとお姫様さんとニンニンさんとシマシマさんとメガネさんとお人形さんと……) それはそんな風に聞こえた。 「アティさん、どうしました！気をしっかり！何を呟いているんです。どうしたんです。」 すると、アティはふるふると首を振った。 「ヤードさん、大丈夫です。私、気持ちはしっかりしています。……紅茶を飲んだ後、クノンから話を聞いて、私が何を飲んだかは知っています。ですから、そういう薬じゃなくても、同じように精神面に働くクスリ、自白剤のことはよく教えられました。もしも、飲まされたのなら、中和剤がなくても、何かに集中することで効力を抑えられるって。軍学校では、帝国軍規を暗唱することを推奨してました。でも、試しにって瞑想して暗唱する時間が設けられた時、私、両親が亡くなった時のことを思い出そうとしていたんです。その方が軍規を暗唱するよりもずっと集中できたんです。さっきもそうしていました。でも、ヤードさんが入ってきたとき、私、まだそこから抜けられないのじゃいけないって思って、考えていたら、マルルゥちゃんの歌っていた歌を思い出したんです。昔、子供たちを連れてヤードさん達と、キャンプに行った時に聞いた歌です。あれからマルルゥちゃんはキャンプに行かなかった人たちの名前も付け足して、歌詞がとても長くなりました。増えているんです。護人の皆さん、ユクレス村の人たち、学校で一緒の風来の里の子供達、みんなのあだ名をマルルゥちゃんは……効き目、あります。私、ちゃあんと自分を保っていますから。でも、悲しいです。どうしてなんでしょう。ヤードさんのあだ名はどうしてないんでしょうか。ヤードさんだってマルルゥちゃんの先生なのに。私が先生だからいけないんでしょうか。ヤードさんも私も先生だから、被っちゃったってことなんでしょうか。」 息継ぎせずにそこまで一気に喋って、アティははあ、と熱い吐息をついた。 ヤードは気遣いながらも大真面目に答える。 「そんなことはありませんよ！マルルゥさんは、私のあだ名のことをちゃんと考えているとこの前言っていましたよ。でも、なぜかそれはまだそれは言う時ではないし、期間限定のものだと……！！アティさん、しっかり。」 突然机につっぷしたアティの肩を抱き、気分が悪くなった生徒を寝かせて置くための小さな寝椅子に連れて行き横たえる。 アティは先ほどよりもずっと赤い顔をしている。 「平気ですか？私がここにいても大丈夫ですか。」 「すみません、ヤードさん平気です……ちょっとくらくらしてしまって……こういう薬のことはよく知らなくて、飲んでしまった人を見たこともなくて。あの、大丈夫です、よかったです。今ここにいるのがヤードさんで。…………ヤードさんなら、私の弱いところやだらしないところ見せても、大丈夫……ですよね？」 疑問形でで問われれば、頷くしかない。そして、横たわったアティは扇情的というよりも、風邪をひいて熱を出してしまった小さな子供のように見えた。額を冷やしてやりたくても、冷やす氷も水もここにはない。少しでも足しになれば、と額に手をあてれば、手首を掴まれて頬ずりされた。 「冷たくて気持ちがいい……子供の頃、『手が冷たい人は心があったかい』って友達に言われたんです。大きくなってそんなことないってわかったんですけど、当たっていることもありますよね。ヤードさんの手がこんなに冷たくて気持ちよいのは、心があったかいからなんですよね。」 「……そんなことはありませんが。」 アティは笑う。 「本当に心があったかい人だから、否定するんですよね。ヤードさんはそういう人ですから。あったかいのに冷たいって言う。まっすぐなのに捻くれているって言う。…………どうしてそうなんですか。私の前では本当のヤードさんを見せられませんか。ヤードさんが本当に冷たいのなら、捻くれているのなら、私にそういうところを見せればいいんです。私、もっともっとヤードさんに頼りたいです。でも、ヤードさんが頼ってくれなかったら、頼ること、できないです。笑って、私は大丈夫ですっていって、誤魔化すことしかできないです。」 召喚士は絶句する。もっと頼りたい……アティは一人でしっかりと歩いて行ける芯の強い女性であり、教師という仕事を共にしているときにはあれこれと仕事についての意見を戦わせながらも互いを支え合ってうまくやってきたつもりであった。……しかし、目の前にいるアティは彼に頼りたいと必死に訴えている。 「今だって、私、誤魔化してます。薬の力なんかで言いたくないことは堪えて誤魔化してます。……だって……だって……そういうことは気持ちがはっきりしている時にいわなきゃいけないことですから……そうでしょう？そうでしょう？」 その声は次第に小さくなって、やがてアティは眠ってしまった。ヤードは子供用の上掛けをかけてやり、自分の手を握っていたアティの指をそっと外すと、その背をさすった。眠っている彼女は先程までの必死な様子が嘘のようで、小さく笑っていた。 (あなたの笑顔が私にとっては惚れ薬ですよ、アティ。) そう思った後、召喚士は後悔する。アティにとって、笑顔とは、自分に嵌めた枷のようなものであった。泣いてはいけない。いつも笑っていなくてはいけない。……この島で初めて会った時、小競り合いをした直後だというのに、彼女はカイル達を信じて微笑んだ。どんなときにも人の命が失われずに済む方法を何よりも優先して考え、どのような相手にも対しても、きっと分かり合える戦いたくない、投降してくれ呼びかけ、誰もが笑顔で居て欲しいと願ってきた。ヤードも初めは人生経験の薄い理想主義者の甘い夢想だと思っていたが、真実は違った。 初めの頃の彼女は確かに笑っていることで自分の弱さを隠そうとしていた。笑顔は彼女の防御柵だった。それは間違いない。しかし……様々な経験の後、彼女は命を賭してもなおその甘い理想を貫こうとした。よく考えてみないでも、甘い理想を捨て去り、人の良心を信じず、悪鬼となって復讐することの方がずっと容易いのだ。ヤードやスカーレルがそうであったように。……しかし、この女性は、甘い、と散々言われながらもその理想を捨てようとはしなかった。彼女は強くなった。一度壊れてしまう寸前までいったけれど、彼女の生徒にも教えられ、支えられて心から笑えるようになった。 (……私達は今でもあなたに笑顔だけを強要してしまっているのかもしれませんね。……すみません。いいんですよ。泣いても、怒っても。……生徒の前ではそうもいかないでしょうけれど、彼らの前でも本当に悲しい時には涙をこぼしてもいい。我を忘れて怒ってもいい。確か昔、ゲンジさんもそういったことをいっていた気がしますよ。……そして、私のような大人の前では号泣しても、激怒してもいいんです。…………あなたが笑えなかったら、私がその分笑ってみせますから。) アティの息が規則正しく深くなった。ヤードは寝椅子の傍から立ち上がり、コツ、と扉を叩いた。 「スカーレル。開けて下さい。アティ先生は寝てしまいましたよ。」 ボム、と召喚術の解ける音が扉の向こうでして、扉が開くと、“は〜い、元気だったぁ”と幼馴染が手をひらひらと振っていた。 「怒らないでねぇ。あ、コレ、返しとくわぁｖ」 ヤードの掌に先程掏り取った召喚石をぱらぱらっと乗せる。 ヤードはコホン、と咳払いをした。 「……悪意があってのことではないと思いますから召喚術を打つのは今回はやめておきます。……ですが、次があったら本気で打ちますからね。」 彼は笑顔であったが、スカーレルは『次は絶対にアシスト無しでスヴェルグ打つわよ、この子』と思ったという。 そのヤードにクノンは頭を下げた。 「どうしました？」 「参考になりましたので。」 は？と首を傾げるヤードの横をすり抜け、スカーレルは部屋に入り、熟睡しているアティの寝顔を覗き込む。 「可愛い顔して眠ってるわね。クスリ、よく効いちゃってるわ。」 (……アタシも惚れちゃったわよ。センセのこの可愛い顔と、センセを気遣うあなたの顔にね……。) 「……そのクスリ、ですが、アレは本当に媚薬だったのですか？……少し違うように思えるのですが。」 御意見番はくすっと笑う。 「クノンは媚薬のつもりだったんだけどね。……目をうるっとさせるために、瞳孔拡張成分。体温を高くするために血行をやたらよくする成分、それから自白剤もどき……っていうか、自制効かせずにべらべら喋っちゃうような成分。要はナウバのお・さ・け。……ただでさえアルコール度数高い所に、クノンってば効力高めるような成分添加しちゃったらしくてセンセってば酩酊しちゃったのよねー。こりゃあ、しばらくは寝てるわ。」 と、ヤードがアティを背負った。そして、腰のあたりに上掛けを巻くとアティの肩掛けカバンを自分の肩にかける。 「どうするの？」 「このままでは風邪をひいてしまいますから、彼女の家まで送ります。学校の戸締りを宜しく。机の横に鍵が下がっています。鍵はゲンジさんのところに預けて下さい」 「……そう。頼むわね。……あんまり怒んないでよね。……積もる話の続き、まだ有るから、宜しく。」 「ええ、そうですね。……もう怒ってはいませんからね、スカーレル。」 「そう言って貰えると嬉しいわ…………再三言うようだけど、アタシが本格的に年とる前に孫の顔を見せてよね。……島の外じゃ、ここよりずっと時間は早く動いて行ってるんですもの。」 それは、と難色を示すヤードの手をスカーレルは綺麗にマニキュアされた長い指できゅっと一度握る。そんなに急がなくてもいいから、と。 二人を見送ると、スカーレルは嬉しそうに笑った。 「あの子もやるじゃない。センセを照れることなくおんぶするなんて。お姫様だっこでないところが減点だけど。ん、まあ、照れないところが拙いのかしらね……あんなに密着してても恋人に見えないところが大減点。」 横でクノンが頷く。 「はい。……もだもだ萌え。ああいうのもアリなのですね。ああ……」 「どうしたの？」 「いえ、『創作意欲』というものが、私にも芽生えたようです……お二人をこれからも観察し、記録に残していくことが、人間の『感情』を理解することに繋がるように思います。 それは創作意欲とはちょっと違うわねえ、と御意見番とフラーゼンが会話しているところに、花の妖精マルルゥがひらひらと飛んできた。 「あら、マルルゥじゃない。どうしたの、もう学校はおわったんでしょう？」 「……いや、授業を受けにきたのではないのですよ。昨日マルルゥはそこに居るお人形さんにナウバのお酒を渡したのですが、考えてみたら、お人形さんはお酒は飲まないことに気付いたのです。で、いやーな予感がしたので、ラトリクスに行ってみましたら、お人形さんはスカーレルさんと一緒に学校に行ったとメガネさんに聞いて、急いできてみたのですよ。……大丈夫でしたか。アレはとーっても甘くて美味しくて飲みやすいですが、シマシマさんもちょっと飲んだだけでひっくり返るほど強いものなのですよ。」 大丈夫だったわ。それどころか役に立ったわ、とスカーレルに言われ、心配そうだった妖精は、お役に立てたのならマルルゥはとぉっても嬉しいです、と胸を張った。その小さな妖精を肩にとまらせ、スカーレルは優しく問う。 「マルルゥ、アナタはヤードのあだ名を考えているんですって？アタシに教えてくれないかしら。」 「あうー、ヤード先生は背が高いですから初めは『ダイ先生さん』と呼ぼうとしたのですが、ゲンジさんからそれはおかしいと言われちゃったのです。今一ついいのを考えついてはいるですが、期間限定ですし、まだその名前では呼べないのですよー。でも、どうしてもっていうのなら、おしえちゃうですね。」 そして、さっきよりも反り返って胸を張る。 「マルルゥの自信作なのですよ、それはですね、『お婿さん』というのですよ。」 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 学校から少し離れた海が遠くに見える丘の上にアティの家はあった。それまでは、ミスミの住む“鬼の御殿”に間借りしていたのだが、『学校に近いところに家がある方が何かとべんりじゃろ？』と、新しい学校と同時くらいに棟梁達が建ててくれたものだった。同じ時期にヤードはゲンジから、『間借り人のお前さんには悪いが、そろそろワシの庵も修繕が必要な時期じゃ。わしゃあ、鬼姫の好意に甘えて鬼の御殿に移ろうと思うが、 お前さんはどこか捜しておけよ。』と言われた。 新しいアティの家は、一人で住むには広すぎるくらいで、書き仕事をする作りつけの机が二つあり、食事をするテーブルには椅子が二客あり、寝台もとても大きかった。アティも、ヤードも、島の人々皆が、 『二人で暮らしなさい』 と厚意を示してくれているのを感じ取っていたが、アティも、ヤードも、決してそれを口には出さなかった。一度だけアティが『朝起きた時に、おはようございます、って挨拶する人がいないのはちょっと寂しいかもしれません。』と言っただけ。それも 一度きりだけだった。 背負っていたアティが柔らかに身じろぎした。ヤードが肩越しに、アティ先生、目が覚めましたか、と問うと、アティは、慌てたように、ごめんなさい、私、寝てしまったのですね、すみません、下ろして下さい、と言ったので、ヤードは言われるままに彼女 を下ろし、足がふらついていないのを確認すると、並んでゆっくりと可愛らしい平屋の家へと歩き出した。アティは何を喋ったのかを覚えていて、しきりといろいろ謝ったが。ヤードが、あれはクノンさんが作った惚れ薬のつもりの薬でしたが、ほんとうのところ、ナウバのお酒に少し何かを混ぜたものだったようですよ、と説明すると、そうなんですか、とアティは頷く。 なぜ、クノンがそんなことをしたのか、アティも気づいているだろう。それでも、アティは何も言わないし、ヤードも何も言わない。 すぐに家の玄関へと着き、アティは肩掛けカバンから鍵を出して開ける。 『ありがとうございました、ヤードさん』 『いいえ、明日は学校が休みとはいえ今日は早く休んだ方がいいですよ。体は消耗しているでしょうから。』 『今日の夜、ソノラの ところに遊びに行くって約束していたんですけれど。』 『それは私から言っておきますよ。明日、午前中の出会いの泉での会合でソノラさんには会えるでしょうし。』 そんな風な穏やかな会話をし、ヤードは、では、私はこれで。では明日、出会いの泉で、と会釈をして玄関を出れば、はいまた、明日、出会いの泉で、とアティは返して手を振った。 ヤードが外に出て少しの間アティは手を振っていたが、そっと扉を閉じた。ヤードはそのまま何歩か歩いた。……そして、一度、歩みを止め、また歩き出し……二度目に歩みを止めた後、彼は右手の拳をぐっと握り、目を閉じ、天を仰いでいたが、目を開け、急ぎ足でアティの家に戻ると、大きくノックした。 アティが驚いた表情で扉を開けると、ヤードは言った。 「私がこうしてここに入って来る時、これから先、『ただいま』と言ってはいけないでしょうか。」 何のことやらわからなかったアティが、状況を飲み込んでその青い瞳をうるませて、言う。 「いけなくなんか、ありません。そうして下さい。」 アティが、手を拡げ、お帰りなさい、ヤードさん、と言うと、長身の召喚士は彼女を抱きしめると改めてその耳に『ただいま、アティ。』とそれは優しく囁いた。 |
| 250000HIT企画祭自爆企画「甘いのに挑戦」に閑坂様よりいただいたお題アティ先生＆ヤードさんで「惚れ薬」です。 もうこの二人に関しては告白からして「多分…好きです」ですし、エンディングでもはっきりとした言葉にしていませんしむしろ「しなくていい」てなことになっちゃってますし、そのもだもだ具合たるや私の知る限りでは最強の部類に入るのではないかと思います。……今回も甘く、甘く、と心がけるも、この結末では本格的にくっつくまではまだまだ時間がかかりそうです(しばらく、ヤードさんは間借り人状態だと思われます)。 アティ先生の「笑顔」については、いろいろ考えるところがありますが、サモ３エンディング後の世界では、無理した笑顔は見たくはないものです… サモンナイト3PSP版をプレイして、図らずもヤードさん熱が上昇していたところにお題を頂きまして鼻息だけは荒く「折角『惚れ薬』なのだし、あーんなことも、こーんなことも！」と考えなくもなかったのですが、頭が沸騰してしまったので、こんな形に相成りました。 閑坂様、ヘタレな私をお許し下さいませ(そして、願わくば、ヤ―ドさん成分を補給させて下さいませ!!) |