ムワリムはぴく、と耳を澄ませ、嗅覚をはたらかせた。

 

　ニンゲンだ…この足音は…三人はいるだろう。

ただの市民ではない。鉄の…武器の匂いがする。

 

彼は同行者―――傷つき、足を引きずっている一人の猫族の若者―――の耳に低い声で囁いた。

 

　「ここは私が何とかしよう。…以前に説明した場所で仲間が待っている。」

 

　若者は追跡者の気配に怯えながらもムワリムに言った。

 

　「しかし、ムワリム、それではあなたが！」

 

　ムワリムは表情を変えず、静かに囁く。

 

　「私は大丈夫だ。…お前は逃亡奴隷として追われている身。見つかったが最後、酷い罰を受けるだろう。…私ならばまだ誤魔化すことができる。さあ、行くのだ。…ラグズ開放の同志として！」

 

　若者は頷いた。

 

　「ラグズ開放の為に！」

 

　ムワリムに背を押され、猫族の青年は堀に向かってジャンプし、音も無く着地すると傷めた足を精一杯伸ばして、ムワリムに教えられた抜け道へと走っていった。

　その姿を見送ったムワリムは、前方から、ニンゲンがやってくるのをじっと待っていた。幸い、ニンゲンたちが猫族の青年に気付いた様子はない。

 

　ニンゲンは予想通り三人いた。一人は強靭なラグズの体を傷つけることができるように魔力付与された剣を帯び、一人は炎の魔道書、もう一人は鞭を持っていた。

　……ニンゲンに害を成す行為をした半獣を捕縛するために主だった貴族の肝いりで編成された私兵の部隊。

 

　ムワリムは知っている。

 

　彼らが罪も無いラグズたちを無差別に捕らえ、少しでも抵抗するものを半死半生の目にあわせ…場合によっては命を奪ってきたことを。

 

 

　「おい、お前。聞こえているか、そこの半獣。」

 

　ムワリムはその大きな体を縮め、深々と頭を下げた。

 

　「虎…か。こんな夜更けに何をしている？お前らが夜に単独で行動してはならんことは、主人からよく聞いているだろうが。」

 

　「旦那様方、申し訳ございません。…ご主人様のお使いで街に出たのですが、道に迷いまして…今戻るところでございます。申し訳ございません。申し訳ございません。」

 

　平謝りに謝るムワリムを見て、男の一人がニヤリ、と笑った。

 

　「半獣、そこに座れ。」

 

　ムワリムは一瞬躊躇したが、のろのろと地面に座り込んだ。

 

　「上着を脱げ。」

 

　言われたとおりにすると、男はしげしげとその背を見つめた。

 

　「ふむ。お前の主人の屋敷ではそれなりにうまく仕えていたようだな。鞭のあとがそれほどではない。」

 

　ギリ、と奥歯を噛む。鞭の痕が少ない？…鞭打たれた痕は、蚯蚓腫れとなり、時に化膿し熱を持ち、前の傷が消えぬうちに新たな痕が加えられ…弱い仲間を庇って鞭打たれた傷だけでも数え切れぬというのに。

 

　「仕置きは主人が改めてするであろうが、法を守らぬ半獣を、我らは捨ててはおけぬ。…ここでも制裁を加えてやろう。」

 

　傍らから鞭を持った男が進み出た。魔道書を持った男はこれから起こるであろうことが楽しみでしかたないらしく薄笑いを浮かべている。

 

　ムワリムは更に奥歯を噛み締めた。

 

　ヒュン！

 

　鞭が鳴る音がした。背に激痛が走る。頭を垂れる。…頭を上げてはいけない。頭を上げるのは反抗の印だ。そして…頭を上げて彼らの顔を見てしまったら…きっと牙を剥いてしまう。

　爪の一旋で、牙の一噛みで、この汚れきった男たちの息の根を止めることは簡単だ…だが…ニンゲンを少しでも傷つけたなら、たとえムワリムは逃げおおすことができても、代わりに他の奴隷が見せしめに処罰される。

　ムワリムは体を震わせて耐えた。

 

　そこに甲高い声が響いた。

 

　「ムワリム！ここに居たのか!!」

 

　三人の男たちは振り向いた。

　そこにいたのは、赤毛の小さな少年だった。

 

　「小僧、もう夜だぞ。こんなところで何を…」

 

　一人が、少年にそう声をかけた男の袖を引き、少年の上着を指差した。黒い豪奢な上着には、銀糸で有力な貴族の紋章が刺繍されていた。

 

　「これは失礼いたしました。夜は物騒です。お一人でどうなされたのですか。」

 

　「いや、それは僕の方が聞きたい。うちの半獣が一体何をしたんだ。」

 

　「はっ、こやつは一人でうろついておりましたので、我々が罰していたのです。主人の使いに出たのだが、道に迷ったなどと嘘の言い訳を申しまして。」

 

　少年は腕を組んだ。

 

　「僕がその主人だ。」

 

　「え？あなたが…ですか？」

 

　「うん。友人のところに遊びにいったのだが、帰りは夜になるから夜目の効くこいつに、迎えに来いといいつけておいたんだ。」

 

　そして、少年はつかつかとムワリムのところに歩み寄ると拳を握ってポカポカと頭を殴りつけた。

 

　「おい！お前が馬鹿だからこんなことになるんだぞ！迎え一つできないなんて、なんてお前は馬鹿なんだ！父上に言いつけてうんと鞭で打って貰うからな！」

 

　そして、くるりと三人に向き直ると尊大に言い放った。

 

　「面倒をかけた。もう行っていいぞ！」

 

　三人の男たちは、内心、舌打ちしながらも少年に愛想を言って遠ざかって行った。

 

 

　男たちが見えなくなってしばらくしてから、少年はムワリムの服を握って着せかけ、ムワリムに上を向かせると、背の傷をさすりながらわんわん泣いた。

 

　「ゴメンよ！ゴメンよ！さっきはムワリムをいっぱい殴った！痛かっただろ。ゴメン、ゴメンよ！」

 

　小さな子供がいくら殴っても強靭なムワリムの体には少しもこたえるはずもない。

しかし、このベオクははらはらと涙をこぼしながらゴメン、ゴメンと謝っている。

 

 

　奴隷の半獣の為に、大貴族の息子が泣いている…

 

 

　「ゴメン…僕はムワリムを半獣と言った！鞭で打たれる前に助けてやれなかった！ムワリムのことを馬鹿と言った！僕は！・・・・」

 

　その小さな体をムワリムは包むように抱きしめた。

 

　以前、主人から鞭打たれそうになったとき、この小さな少年は、走ってきて父親とムワリムの間に入って泣き叫んだ。ムワリムを打つなら僕を打って。ムワリムは悪くない。ムワリムは悪くない…

 

　「トパック坊ちゃん。ムワリムは大丈夫ですよ。…どこも痛くはありません。坊ちゃんがムワリムの為にやってくださった、言って下さったとわかっておりますから…もう泣かないで下さい。坊ちゃんの涙が今の私には一番痛いのです。」

 

　ラグズの青年は上着を着るとベオクの少年の涙を拭ってやった。

 

　「それよりどうしてこんなところにいらしたのですか。」

 

　トパックは泣き止むと、じっとムワリムを見た。

 

　「僕はムワリムが何をしているのか、何をしたいのか知ってる。……ムワリムが他のラグズと話していることを前に聞いちゃったんだ。」

 

　「！」

 

　ニンゲンに虐げられているラグズを救い自由に暮らすことができる自分達の国をつくる…それがムワリムの成そうとしていることであった。砂漠に拠点をつくり、同志を集め、目的のためならばニンゲンと戦うことも辞さない・・・・そのリーダーが彼、ムワリムであった。

 

　「……それで…坊ちゃんは、どうなさろうというのです。」

 

　声がかすれているのをムワリムは感じた。…この少年が自分を止めようとしているのなら…そして、自分がそれを拒否したら、父親に話してしまうかもしれない。それは…それは許してはならないことであった。

 

　トパックは言った。

 

 

　「僕も、行く。」

 

 

　瞬間、ムワリムは何を言われているのかわからなかった。

 

　「僕もムワリムと行く。そして、ムワリムを手伝う。」

 

　やっとムワリムは少年の言葉を理解した。

 

　「何を仰るのですか!?家を、ご家族を捨てるおつもりですか？」

 

　すると少年は顔を歪めた。

 

　「怖いんだ。…ずっとここにいるのが怖いんだ。…ここにいて、ここで大人になっていったら、僕は…僕はムワリムを鞭で打ってもなんとも思わないベオクになっていってしまいそうで、…それが怖いんだ。…もうここには居られない。だって、僕は気付いてしまったんだ。ここから外に行って、変えなきゃいけないんだ、って。……ムワリム！僕は頑張るから！足手まといにはならないように頑張るから！……ベオクが居ればきっと便利なこともある。……ベオクが居た方がきっといい。ムワリムがしたいことをするのには僕が居た方がいい。」

 

　…何をこの少年は言っているのだ？ニンゲンと戦う組織のなかに何故ニンゲンが居た方がいいというのだ？人質にでもなろうというのか？

 

　すると、トパックは少し微笑んでまっすぐな瞳でムワリムを見た。

 

　「だって、ムワリムは、ベオクもラグズも幸せに暮らせるように頑張るんだろう？まず、ラグズを助ける。…ベオクのラグズに対するやり方はあんまりだもの。そして、それから、僕とムワリムみたいに仲良くなるんだ。ムワリムみたいに優しいラグズがいっぱいいるってわかったらみんな、みんな、きっと仲良くできる。」

 

　ムワリムは何も言えなかった。少年が自分に寄せる大きすぎる信頼が胸に突き刺さって言葉を失わせた。

 

　「…しかし。家を捨てるなどと！…ムワリムは坊ちゃんを危険な目には遭わせたくありません。」

 

　トパックはふるふると首をふり、釦を外すと豪奢な上着を脱ぎ、堀へと放り投げた。銀糸の縫い取りが一瞬ひらめき、堀の底へと落ちていく。

　少年は上着の下に動きやすそうな服を着ていた。よくよく見れば、下げている革袋も旅支度をしてきたらしくぱんぱんに膨らんでいる。

 

　「僕は、もう貴族なんかじゃない…僕、いや、おいらは、ただのトパック、まだ子供で、強がりで…でも頑張るよ！ぼ…おいら、ラグズの為に頑張る！」

 

　ああ、この少年ははっきりと物がわかって言っているのだろうか。

　どれほどの困難が待っているのか知っているのだろうか。

 

　「坊ちゃん…」

 

　「ムワリム。…おいら、ムワリムさえいてくれたら、どんなところにだって行けるよ。」

 

　そしてトパックははずみをつけてムワリムに飛びつくとその首にぎゅっとかじりついた。

 

 

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　これが正しい選択だったのかはわからない。

 

　同志達がこのベオクの子供を受け入れてくれるのかもわからない。

 

　確かなことは、この少年の想いが誰よりも純粋であることだけだった。

 

 

　…しかし、それでも……

 

 

 

 

 

　逞しい一頭の虎がその背に赤毛の少年を乗せて銀の三日月に照らされた砂漠をひた走っていった。

　虎の首に腕を回した少年はまどろんでいたが、その顔は母の胸に抱かれているかのように安らかだったという・・・・