ずっとここに
イザーク城の石造りの廊下を歩きながら、パティは深刻な表情であれこれ考えていた。彼女の手には盆があり、仄かに湯気をたてた薬湯の入った大きなポットとカップが載っている。 夜寝る前にこの薬湯を城主の部屋に運ぶのがいつからか彼女の役目になっていた。薬湯を２つのカップに注ぎ、それをシャナン王が飲み終えるまでの間、今日起こったことなどの四方山話を自分も薬湯を飲みながら話し、飲み終わったらカップを下げる。仕事としてはそれだけのことで、パティはそのひと時を楽しく思っていたのだが、今日は少々状況が違った。 「少しばかり込み入った話がある。厨房頭に夜の厨房の片付けからは外してもらうように。」 そう、にこりともせずに告げられたのが今日の昼食後のこと。どうにも“少しばかり”というそれは楽しいこととは思われなかった。 (……この前、リボーの族長さんが謀反を起こしそうだって噂を聞いてちょこっと情報収集に出かけたのがシャナン様にばれたときは物凄く怒られたけど、あれから大きなことはなんにもしてないはず。あ、アレかな？銀の食器が一つなくなったあの事件。下働きのあの子が病気のお母さんの為に盗んで売っちゃったこと、知ってたけど言わなかったのがわかっちゃったのかな。でもあれはもう半年以上前のことで、ばれるとしたらもっと前にばれているはず。) シャナンの部屋の前で警備についている兵士がパティの出現に小さく飛び上がった。この娘はどういう歩き方をしているのか、まったく足音をたてない。そして食器をかたりとも揺らさない。彼はご苦労、と言い、扉の前からどこうとして、パティが浮かない顔をしているのに気付いた。 しばらく以前から王の居室の警備をしているこの兵士は、薬湯を運んでくるパティとは顔見知りになっていた。初めのうちこそ、何故下働きの少女がこんなところに、と訝しがったが、彼女が入っていくと公式の場では仏頂面を崩さない王の笑い声が部屋から聞こえ、また、彼自身パティと話す機会を何度かもってから、この少女が彼女の天真爛漫な明るさをもって人を癒すのだとわかってから不思議だとは思わなくなった。不思議なのは王の態度の方だった。 もう三十路も近いというのに妃を迎えようとしない王に、イザーク各地の族長達は見合いの話を山ほど持ってきたが王は会おうともしなかった。誰か想い人がいるのだ、誰しもそう思った。であるから、王がこの少女に就寝前の薬湯を持ってくる役を命じたとき、外見はまだまだ少女で、その溌剌とした挙動から少年にさえみえることがあったけれども誰しもが彼女がその運命の娘なのだと考えたのだ。しかし…彼女がその役を始めてからもう３年以上になるのに、何も進展はなかった。大鍋と格闘するのが大好きで、厨房一の元気者のパティ。その母親役を自負する厨房のおかみさんが、一向にお手つきになった様子のないパティに、どうして陛下はお前さんを薬湯係にしたのかねぇ、と訊ねると、パティはきゃらきゃらと笑いながらこう言った。 「シャナン様はあたしの話を聞きたいみたい。ほら、王様なんてやってると、城や国の隅々までしってなきゃいけないはずなのに、実はあたしたちのことなんてわからないじゃないですか。だから今日一日のことを聞くんだわ。厨房で起こったこと、町の人がしている噂。あとは……そーだなー。シャナン様、私が作る薬湯が好きなんですって。だからかなー。」 おかみさんは釈然としなかった。若い娘を夜に部屋に呼ぶ……普通はそれは夜伽をせよということではないか。しかし一方……この子なら、という気持ちもあった。パティと話しているとおかみさん自身、楽しい気持ちになってくるのだ。あのしかめっ面の陛下もパティと話すと心が軽くなるのかもしれない。 兵士もまた、パティと時折話すのを楽しみにしていたので、浮かない顔のパティを見、思わずこう言った。 「何か心配事があるのかね。……陛下がご無体をなさりそうになったら叫びなさい。出来る範囲で何とかするから。」 パティはきょとんとし、ついで笑った。 「シャナン様は絶対にそういうことはしないから大丈夫大丈夫。それに」 パティは伸び上がると兵士の耳に囁いた。 「万一そういうことがあったら、シャナン様の向こう脛を思いっきり蹴っ飛ばしちゃいます!!」 兵士も笑った。パティが扉をノックすると王の『入れ』という声が聞こえた。兵が扉を開けるとにこりともせずこちらを見ている王が居た。兵士がドアを閉めるとパティはひょこひょこと歩いていってまずテーブルにトレイを置いた。そして、おそるおそるシャナンの様子を見る。 (よかった。何か悪いことがあったんじゃないみたい) シャナンは悪いことがあるとパティを近くに呼び寄せ、自分の膝の上に抱いて彼女の頭に軽く頭をのせ、しばらくじっとしている。ソファラの近くで信頼していた部族の反乱が起こったときも、夜盗団が辺境の村を襲い、兵を送ったものの間に合わなかったときもそうだった。『私のつっかえ棒』、シャナンはパティをそう呼び、こうしていると背も丸くならない。と静かに言い。……しばらくするとパティを開放し、今日あったことを話してくれ、といつもの会話が始まるのだ。 政治のことなど全くわからないパティだが、そんなときシャナンが心に鈍い痛みを覚えているのはよくわかった。……今日のところはそれはないらしい。すると、やはりなんらかのお説教だろうか。ならば…… 先手をとって謝ってしまおう!! 「シャナン様、ご免なさい！リボー城に忍び込んでいろいろ探ってたの実はあたしです。族長さんは何もご存知ではなくて、大臣がワルなんだって投げ文したのもあたしです。」 シャナンの眉が上がった。いけない、これじゃなかったらしい。 「えと。城下の盗賊騒ぎ。犯人の根城を見つけて、警備隊長さんに報せたの、あたしです。」 シャナンの切れ長の目が大きくなった。 「あの……お城に来て、回廊のところでお付の人のことを『この愚図め！』って錫杖で殴ってたいけすかない人がシャナン様に持ってきた贈り物の中身を摩り替えてカエルを入れておいたのも私です！」 シャナンは長身を前倒しにして脱力気味にパティの両肩に手を置いた。 「……お前はもう二十歳を過ぎたのだろう？……頼む、少しは落ち着いてくれ。これ以上私をハラハラさせるな。寿命が縮む。」 「あれ、怒らないんですか？」 「怒る気力も失せる……とにかく、だ。お前に何かがあったら、ブリギッド様とデュー、そしてイチイバルを担いだファバルに命を狙われる。……そうなったら、私は自分の命を守る自信はないぞ。」 「ははは、大丈夫ですってば。お父ちゃ……師匠は攻撃より逃げ専門だし、ファバル兄ちゃんは頭に血が上っていると狙いが外れるし、お母ちゃんは……」 パティは青い目を見開いた。きりきりと弓を引き絞る母の姿……母は女だてらに強弓をひく腕をもち、しかもいつだって冷静だ。 「シャナン様！やっぱりそれはまずいかもしれません!!」 二人は笑った。扉の外で聞き耳をたてていた兵士も、それに安心してほっと胸をなでおろした。 あはあはあはと笑っているパティの頭をシャナンはコツンと拳骨で軽く叩いた。 「ひとまず今日のところはこれで説教は終了だ。今日は大切な話があるのだ。」 シャナンは自らポットを傾けて二つのカップに液体を満たし、パティに椅子にかけるように言った。 「ひと月たつと、新生グランベル王国の建国記念日となる。セリス王はその式典に諸国の王族、そして竜の血をひくもののほとんど全てを招待した。今までは各々が自国の政で精一杯だったが本国を留守にしても大きな支障は出なくなったと、オイフェが判断したのだそうだ。……確かに、戦の後、これからの世界のあり方について会談することなど今まで一度もなかった。……これは式典のための招待ではない。会談のための招待なのだ。」 パティがうん、と一つ頷くと、シャナンはふっと表情を和らげた。 「そして、交流と交歓のための招待でもある。ご覧、机の上の手紙の山を。お前も良く知っている人々から今回の建国記念日についての書簡がこんなにも届いたのだよ。」 シャナンは手紙の束を持ち上げ、パティの前に差出人がわかるようにして置いた。 セリス、リーフ、レスター、ファバル、オイフェ、アーサー、セティ、アレス、ヨハン、コープル…城主以外の者からのものもある。ティニー、スカサハとユリア… 「近況を伝え、バーハラでは是非旧交を温めようと、そのように書いてある。そして……皆、はかった様にもう一つのことを私に言ってきた。パティ、お前を絶対に連れて来い、と。」 へ、と間の抜けた声を出したパティに、シャナンはセリスからの手紙を握らせた。パティはジッと読み、ついで満面に笑みを浮かべた。セリスもラナも、是非パティに会いたい、ついてはシャナンにつれてくる様にと念を押していた。ラナはパティ本人に向けた私信を書いており、パティは何度も何度も読み返した。 一方シャナンは今度の手紙に不可解なものを感じていた。バーハラからの手紙にパティのことがあるのは頷ける。セリスの妃となったラナはパティの従姉なのだし、親友でもあったのだ。他にも、実の兄のファバル、従兄のレスターについても話はわかる。ドズルのヨハンのところにはラクチェが嫁いでいるのだしスカサハはラクチェの兄だ。ティニーもパティには世話になったくちだし、優しいコープルや気さくなリーフはすべての知人に会いたいのだろう。いや、アルテナもリーンもフィーも解放軍の女性たちはみな、パティとはよく話していた。しかし、こんなにも熱烈に『パティを伴うように』と口を揃えているのはどういうことだろう。そして……シャナンは最も不可解な一通の手紙を取り上げた。 差出人はノディオンの黒獅子、アレス王だった。彼の妃のリーンからの手紙は別にある。であるから、この手紙に書かれているのはアレス一人の考えのはずだ。 『シャナン王よ。あの盗賊娘を必ずバーハラへと伴うがよかろう。……さもなくばミストルティンが一旋することとなろう。』……これはおそらく冗談なのだろうがシャナン自身に比べても面白味など全くないアレスが書くと冗談も冗談と思えない。そもそも、アレスがパティと懇意であったなどと聞いてはいない。いや、むしろパティはアレスを嫌っていたはずだ。そうパティにも話すと、パティはじっくりアレスからの書簡を読み、ふん、と鼻を鳴らすと嬉しそうにこう言った。 「シャナン様、これは挑戦状です！」 「？？？挑戦状？」 こくこく、と盗賊娘は頷く。 「先の戦のとき、私、あんにゃろうの財布を掏ったことがあるんです。」 「!?アレス王の財布をか？何故そのようなことを？」 「そりゃあ、セリス様のことを目の仇にするわ、何考えてるかわかんないわ、むすっとしてとっつきにくいわ、気に入らなかったから。とにかく掏ったの。でもって、あんにゃろうは掏らせるものかって、財布をポケットに紐で縫い付けたりいろいろと工夫したんだけど、あたしの敵じゃなかったんです。……あんにゃろう、今回をいい機会だと思って逆襲するつもりなんだわ！」 おそらくそれはない……しかし、戦時中にパティとアレスが財布を掏るの掏らせまいのとおよそ緊張感を欠くような攻防をしていたとは……シャナンは少し笑って、慌てて口を結んだ。 「パティ、今何を考えている？」 「……えーと、売られた喧嘩は買わなくちゃ、て。」 シャナンはがっくりと頭を垂れた。 「……私の立場というものは考えてはいないのか？」 「えー？挑戦を受けない方が、ダメだと思うんですけど、違いますか？ここにあんにゃろう、あたしが行かなかったらミストルティン使うって言ってますよ？そりゃ、あんにゃろうがいくら魔剣持ちでもシャナン様が負けるわけないけど、斬っちゃったら外交問題って奴でしょう？それに、あんにゃろうがいくら気に食わない奴でも、リーンさんの悲しむ顔見たくない……」 「……これ以上アレス王を『あんにゃろう』などと呼んではくれるな。どういういきさつがあるにせよ、分別のある大人が使って良い言葉ではない。」 はーい、と舌を出すパティの前にシャナンは空にしたカップを置いた。 「このように、皆から言われたのだ。私もお前をバーハラに伴いたいと思う。」 パティは目をキラキラと輝かせた。旧知の人々に会うのが余程嬉しいのだろう。 「だが、お前の身分のことがある。……以前共に戦った者たちは、王、王妃、公女、公子と肩書きを持っている。お前もまたユングウィの血筋を受け継いではいるが、世間にはそれを公表してはいない。今度を機会に、ユングウィ公女として正式に名乗りをあげる気はあるか？」 パティは居心地悪そうにもじもじと体を動かした。 「いくらウルの血筋っていっても、お母ちゃんは海賊の女頭目やってたし、今は市井で生きてます。お父ちゃんは……盗賊だし。あたし、聖痕があるわけじゃなし、今更公女なんて柄じゃない。」 シャナンは目を細めた。予想していた答だが、次の言葉を言うのは少々辛かった。 「ならば、侍女として連れていく他はなくなるのだぞ。」 「え？それって何か問題ですか？」 「……セリス王は特別の便宜をはかって下さるだろうが、いつもというわけにはいくまい。ラナや、ラクチェやファバルや私が華やかな式典に参加している間、お前は宿舎で他の兵士や侍女達と待っていることになるのだ。舞踏会もあるだろう。そこにもお前の居場所はない。それでいいのか。」 パティはいいですよ、と即答した。 「式典なんて窮屈なだけだし、舞踏会っていったって、あたしは村のお祭の踊りしか踊ったことないし。あ、お兄ちゃんが舞踏会でどんだけギクシャク踊ってるかは見たいな。そうか、じゃ、そのときちょっとだけ忍び込んで…」 シャナンはパティの長く編んだ三つ編みの先を握った。 「……先ほども言った。これ以上私をハラハラさせるな。……もう一度問う。本当に良いのだな。」 いいですよ、とパティはまたもや即答した。でもあちこち忍び込みますけど、シャナン様には迷惑かけないようにして、と付け加えはしたが。 そうか、ならば明日仕立て屋を呼ぼう。いくらなんでも厨房で働くときの服では連れていけないからな、とシャナンは話した。パティは建国祭がとても楽しみだとはしゃぎ、絶対にアレスとの勝負には勝ってみせると宣言し、大いによく喋った。 結局パティが部屋を辞したのは真夜中を過ぎてからであった。 パティを部屋から帰してから、シャナンは寝台に座り、友からの書簡を読み返した。普段四角四面の文しか書いてこないフィンが、打って変わった柔らかなことばで、アルテナ王女と婚儀をあげたことを報せていた。未だに畏れ多いだの身に余る出来事だのと並べていたが、行間から滲み出る幸せは隠せなかった。第一、この婚儀に反対するものがあるとすれば、余程頭の固い貴族以外にはないだろう。救国の英雄である蒼の槍騎士と王女との婚儀は身内だけの間で行われたというが、結婚を知った国民は熱狂的に歓迎したはずだ。 シャナンはふっと息をついた。先ほど、パティには「公女として名乗りをあげるか、侍女として行くか」と二択を迫った。……しかし、それ以外の選択がなかったわけではない。シャナンもそれはよく承知していた。 パティを自分の妃としてしまえばよい。 妃にしてしまえば、例えパティが平民の出だったとしてもシャナンに随行できる。 ……この元気者の盗賊娘がイザークの城に来て以来、シャナンは何度か求婚らしきことをしてきたが、彼の言葉の思い切りの悪さと、天真爛漫にもそれを何かの冗談としかとらえなかったパティによって、かわされてしまった。 今は……シャナンは己の気持ちが判らなくなっていた。族長達は早く妃を迎えろと急かし、できればイザークの娘を、そうでなければせめて隣国グランベルから政略に使えそうな娘をと強く王に求めた。パティはユングウィの公女だ。族長の言う資格はある。深い愛情はある。パティがイザークを去るようなことになったなら、と想像するだけで胸が切なくなる。命の続く限りずっとここに、自分の傍らに居てほしいと思う。パティが立場的に窮地に陥ったなら体を張って族長達との間に入る覚悟もある。……しかし、一時期強く感じていた『妃として迎えたい』という感情はすっかりと鎮まってしまった。 ……だとしたら何を自分は恐れているのだろうか。 シャナンは大きく息をついた。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 建国祭の日はすぐにやってきた。落ち着いた薄紫色の服に身を包んだパティは真っ先に馬車から飛び降り、一緒にきた侍女や侍従が降りてくるのに手を貸した。 「まー！大きなお城だこと。」 「うんうん。バーハラのお城はすっごく大きいよ。でもね、私はイザークのお城の方が好き。ええっと、これからどうすればいいの？」 「侍従長様が指示をしてくださるまで、待っているんだ。」 荷を降ろし、バーハラ兵の誘導で城の中庭に移動すると、ばさっという羽音がして、ペガサスが下りてきた。翠の髪を短く整えたフィーが下馬して走ってくる。 「ああ、やっぱりパティだった！久しぶり…!!っていっても、この間イザークで会ってからまだふた月かな？その服似合ってるわ。」 「へへへ、シャナン様に作って貰ったんだ。フィーはマーニャで来たの？公女様達ってみんな馬車で来るんだと思ってたわ。」 フィーは槍をくるっと回してみせた。 「私は公女である前に天馬騎士だもの！マーニャも遠出したくてうずうずしていたしね。でも、シレジアが特別なんだと思う。昔から天馬騎士は女ばかりだったから、他の国の人に比べて自由に動いてきたんじゃないかしら。ラクチェなんてドズルで窮屈だ窮屈だってたいへんらしいわよ。さ、セリス様に挨拶してこようよ。」 パティの手をひくフィーにパティは慌てた。 「ちょ、ちょ、ちょっと、フィー。あたしは侍従長様が指令を出すまでここから動けないから……」 フィーは目を丸くした。 「ま、まさか、パティ、あなたは侍女扱いでここに来たわけ!?」 「……？そだけど？」 フィーは肩を怒らせた。 「シャナン様ってば、相当な朴念仁だと思ってたけど、ここまで無配慮だとは思わなかったわッ！」 「？？？？？？怒らないでよ。シャナン様はユングウィ公女としてここに来るか、それとも侍女としてここにくるか選ばせてくれたんだよ？」 フィーは口を半開きにしたが、にこっと笑った。 「うん。……私も選ばせて貰うんだとしたらそうする。……もう私はシレジア皇女の肩書きを消すことはできなくなってるけど……もしも叶うんだったらセティお兄ちゃんの護衛騎士としてここに来たかったものね。それじゃ、またあとでね！」 パティは大きく手を振ってフィーと別れた。 それから大忙しの時間が続いた。各国ごとに割り当てられた宿舎を更に割り当て、荷を解き、王族達の式典の時間を確認し、打ち合わせをし、準備を整え……パンとチーズと酸いブドウ酒だけの夕食を済ませて眠りにつくまで、パティは一緒に来たイザークの人々としか話す機会はなかった。 次の日も、似たようなものだった。原則として宴の準備はバーハラが受け持っていたが、その他の日常のこと、洗濯や宿舎の清掃は召使達の仕事だった。また、正式な食事以外に茶を入れたり菓子を出したりすることも任されていたので、バーハラ厨房のどの場所をどの国が使うか。水汲みの当番は誰か。竈の始末は誰か。と不慣れなことも手伝って戦場のような忙しさだった。パティは厨房からあちこちへと移動する間、何人かの旧知の人々の姿を見かけた。パティはこれでもか、というほど大きく手を振ったが気付いてはくれなかった。…いや、遠くて見えなかったのだろう。それが証拠に、晩餐会のときにはテラスからフィーが厨房横の空き地にいるパティに向かって手を振ってくれた。そして、ファバルとレスターも。アルテナ王女も。彼女の隣にぴたりと付き添っているフィンは、こちらが見えてはいないらしかったがアルテナに促されたのだろう、手を振ってくれた。……弓を扱ったり、天馬や飛竜で哨戒任務についていた『目のよい人々』にはちゃんとパティの姿が見えるのだ。 結局、二日目も誰かと話す機会はなかった。 三日目、待ちに待っていた時間がやってきた。セリスは公式の夜会を早めに切り上げ、それからは非公式に気の置けない者たちを小さめの広間に集めて交歓の時を設けたのだ。仕事を済ませて遅れて入っていったパティは扉を開けたとき嬉しくてたまらなかった。ラクチェが居る。ティニーが居る。みんな、みんな揃っている。 「パティ！」 「ラナ！」 最愛の従姉に走り寄ってぎゅっと抱きつきほお擦りすると、隣からセリスが『焼餅焼いていいかい？』と笑って囁いた。レスターと握手し、兄のファバルに頭をどーんとどやされ、漫才めいた言葉の応酬をしていると、ティニーが父親のアゼルと兄のアーサーと共にやってきて優雅にお辞儀をし、頬に接吻してくれた。ナンナとリーフ、それにアルテナとフィン、さらにはトラキアのアリオーン王とハンニバル将軍がまとめてやってきたときには、ちょっと悪戯心を起こしてフィンの周りを『ご結婚おめでとう』と連呼しながらぐるぐるとまわってみせた。槍騎士は可哀想なほど紅くなり、アルテナ王女は桜色に頬を染め、最後に会ったときより数段美しく可愛らしく見えた。横からコープルが『ほら、僕が言ったとおりですよ。フィンさんがなさる大きな仕事ってこのことなんですね。…いや、これから、なのかな。がんばって下さい!!』と無邪気に言うとフィンは更に顔を紅くし、オイフェが相変わらず似合っていない口ひげを捻りながらくすくすと笑った。後ろの方からヨハンが大声でラクチェを讃える歌を歌って現れ、それをラクチェが激しくどつき、いつものこととはいえスカサハはタメイキをつき、ユリアは目を丸くした。そんな風に盛り上がる一同をセティは穏やかな表情で見回し、フィーはポンポンと合いの手を入れている。 と、澄んだ声がした。 「パティ、久しぶりです。」 リーンは二歳半になった男の子の手をひいていた。 パティはリーンの手をとると、次から次に思いつくままに言葉を並べて再会できた喜びの気持ちを表した。そして、その場にしゃがむと男の子に視線を合わせて自己紹介し、手遊びをしてはしゃがせた。と、誰かが無言で近寄ってきた。 「おとうしゃま。」 見ればアレスがそこに立っていた。パティは早速彼の懐のものを狙おうとすす、と近寄っていき……見事にかわされてしまった。黒獅子王は口の端をあげて笑った。 「帰国するまでに一度でも成功すればお前の勝ちだ。」 アレスに随行するデルムッドは何のことか判らず頭を掻いた。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ その日、セリスの計らいでパティはラナと一緒の部屋で寝た。長い間会えなかった間、手紙でやり取りはしていたが、手紙では言えない事もある。楽しかったことの他に悲しかったことや困ったことも全部話して、話し疲れて眠りについた。 夜半、物音にラナが起きると月明かりの中、パティがしきりに目をこすっていた。見れば、頬に涙の跡が見えた。 「パティ、どうしたの？」 「あ、何でもない何でもない。ちょっと嫌な夢をみちゃって。」 「……嫌な夢？良かったら話して。悪夢は人に話したら絶対にその通りにはならないって聞いたことがあるわ。」 ラナが優しく言うとパティは目をこすりながら言った。 「扉をあけるとね、誰もいなかったの。そこに皆がいるはずなのに。大きな部屋には私一人しかいなくって。……そうしたら物音が聞こえたの。部屋の中にはもう一つ扉があって、そこからみんなの楽しそうな笑い声が聞こえて。…でも、扉は開かなかった。どうしても中に入りたくて七つ道具を使って鍵穴を探ったんだけれどやっぱり開かなくて、そうしたら兵隊が来て、捕まって牢屋に入れられて……」 話しているうちに涙が収まったパティはにこっと笑ってみせた。 「ご免、起こしちゃった。時々同じ夢を見るの。子供じゃないのに夢で泣くなんてどうしようもないよね。」 ラナはううん、と首を振り、ぎゅっとパティを抱きしめた。 「本当にパティがユングウィの公女だって公表しなくていいの？私からセリス様に話してみる？ここで公表したら、みんながあなたのことを認めてくれる。そうしたらきっとそんな夢なんてみなくなるわ。ね、パティ。」 「ラナ……悪い夢はみなくなるかもしれない。でも、あたし、今見えているものが見えなくなってしまうんだったら悪い夢を見ているほうがいい。」 ラナにはパティが今みているものが何なのかはっきりとはわからなかった。が、きっとそれは公女になったらわからなくなってしまうものなのだろう。市井にあってこそ見えるものなのだろう。 「……そう……パティ、覚えておいて。私はどんな立場になってもいつまでもあなたの従姉なのだから。あなたが私に会いたいと思ったらセリス様がなんと言っても私はあなたに会おうとする。もしも会えなくても…そう、私はあなたの夢に出てきた空っぽの部屋に続く扉を挟んであなたと話をするから。ラクチェだってそう。信じて。」 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 同じ頃、シャナンはアレスの部屋に居た。強い蒸留酒を入れたグラスがテーブルに置かれていたが、二人とも手をつけた風はない。随分遅くまで男達だけで酒盃を傾けていたのだが、その後呼び出され、今に至る。 「アレス王。何の用だろうか。他の者の前でできぬような話とは一体……」 アレスは足を組み、まっすぐにこちらを見つめてきた。 「貴公のところに居る盗賊娘のことだ。」 「……！もしや、既に失礼をしただろうか。パティは貴公からの手紙を挑戦状だとして受け取り、懐中のものを掏り取ると息巻いていたのだが。」 「……安心しろ。それについては貴公を責めるつもりはない。これは私とあの者の間の正式な勝負だ。……聞きたいのは貴公の心だ。シャナン王よ、貴公、あの娘をどうこうする気はないのか。」 シャナンは動揺などしなかった。 「それを聞いてどうするつもりなのだ。」 アレスはいともあっさりと言った。 「どこうする気がないのならば、私がアグストリアに連れ帰る。」 これにはシャナンも驚愕した。 「アレス王、あなたにはリーン殿という妃が既に・・・」 「あわてるな。もとより側室になどする気はない。……身近に置きたいだけだ。あの娘が来てくれればリーンも喜ぶだろう。……いや、そう思っている者は私以外にもいるはずだ。……貴公も或いは気付いているかもしれないが、あの娘をここに呼ぶにあたっては画策があった。ヨハン卿が音頭をとり、イザークに宛てた手紙には必ずあの娘をバーハラに連れて行くようにと一筆書くように要請されていたのだ。 もっとも卿の当ては半分は外れたようだ。卿はシャナン王、貴公があの娘を未来の妃としてここに連れてくると予測していたのだ。」 「何ゆえ、パティに拘られるのか。」 「あの者は私を畏れなかった。あまつさえ、私から財布を掏り取り、“あんにゃろう”などと呼び、使い走りまがいのことまでさせた。……そして、リーンからあの娘は心底優しい娘なのだと聞いた。それが理由では不足か？……それより、貴公に問いたい。何故あの娘を身近に置きながら妻としないのだ。……障害があることは容易に想像がつく。私は傭兵あがりの王だ。リーンはエッダの公女とはいえ、踊り子として糊口をしのぎ、しかもブラムセルの手中に落ちたことがある。……あの娘が盗賊あがりだといってもそれに怯む貴公ではあるまいに。……どうしてなのだ。 ……野の鳥を籠に入れると死んでしまうことがあると思うのか。あの自由な魂をコルセットで締め付けるのは酷だと思うのか。」 シャナンははっとした。そして、自分が今まで気付けなかったことを気付かせてくれたアレスに感謝した。 「ノディオン王よ、パティは籠に入れられたからといって死んでしまうようなヤワな人間ではない。コルセットで締め付けようと、苦しい苦しいと騒ぎはしても大人しくちんまり椅子に飾り物のように座っている人間でもない。 結局、私はずるい人間なのだと思う。私はあの娘を愛している。あの娘の天衣無縫さを、敵地に情報収集に行く大胆さを、いつも笑顔で居る明るさを愛している。孤児の子供達に注ぐ優しさを愛している。誰とでもすぐに打ち解ける性格を愛している。下働きの者達の間で懸命に働く姿を愛している。下働きの者達から愛される姿を愛している。 それは妃になったからといって失われる性質ではない。新たな場で、新たな善きはたらきをしていくだろう。彼女も、自由が失われたからといって悲嘆にくれはしない。そう信じている。 しかし、確実に変わってしまうことがあるのだ。毎日竈で火を起こすこともなく、タマネギを刻むこともない。大鍋をかき回すこともなければ、その鍋を洗うこともない。……私はパティの作るシチューの味を愛している。それは永久に失われるのだ。孤児の子供達の靴下の穴を繕うこともなくなり、城下に出て出店を冷やかすこともなくなる。そして……おそらくは貴公を“あんにゃろう”などと呼ぶことはなくなるはずだ。」 「それは困る。」 「そして、私は、あの子が『夫の傍らに居さえすれば他に何もいらない、幸せだ。』などと言わない娘であることを誇りに思うのだ。あの子は父母を愛し、兄を愛し、友を、城の者を、街の者を愛している。私は、私があの子の愛する多くのものの一人でありさえすればよい。」 「……そこまで言うのなら、これから成すべきことは一つのはずだが。」 「貴公は私に碌でなしになれ、と進言するのか。」 「……あの娘だったら貴公が碌でなしであることを愛してくれるかもしれぬ。」 アレスは席を立ち、廊下へと続く扉を開けた。シャナンが外に出ると、青い月が美しい光を投げかけていた。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 次の日の夜、シャナンはパティにイザークと同じ薬湯を運んで来て欲しいと命じた。いつも通りに葉を混ぜ合わせ、シャナンが少し疲れているように見えたのでホンのすこぅし糖蜜もたらして運んでいく。ノックをするとシャナンが扉を開けた。調度はイザークと殆ど同じものが用意されていた。パティが茶を置くなり、シャナンは彼女の手を引いて、自分の膝の上へとかけさせた。シャナンの頤がそっと頭の天辺に乗せられたのを感じ、パティは身を硬くした。今日はいったい何が起こったのだろう。何がシャナンの心を疼かせているのだろうか。どうしたら自分はシャナンの心を軽くできるだろう。 剣聖は、低く、静かに、話し始めた。そして、パティは、自分の存在こそがこの男の心に痛みを与えているのだとわかった。泣き出しそうになりながら身じろぎもせずじっと話を聞いていると、話はなんだか思いもよらない方向へと動き始めた。 （何？……どういう……これって…………) 頭の上に乗せられたシャナンの表情は見えないけれど、仏頂面であることは容易に予想できる。 (……夢じゃないのかしら、本当に夢じゃないのかしら。シャナン様がこんなことを言うなんて！) 「……これは全くもって私の身勝手な願いだ。……しかし、心からの願いなのだ。」 パティは答えなかった。 「……誓おう。いずれにせよ、私は妻を娶ることはしない。」 パティは何も言わなかった。 「いっそなじってくれて構わぬ…」 パティはまだ何も言わなかった。どうしたことか、とシャナンがパティの頭から顎を外し、パティの顔を覗き込むと、あろうことか、この親愛なる盗賊娘は、必死に自分の頬をぎゅーっとつねっているのだった。呆気に取られたシャナンの顔を肩越しに見上げたパティは満面の笑顔だった。 「何故お前は笑っているのだ？私はおまえをイザークの城に縛りつけようと言っているのだぞ。」 「え？だって……それでシャナン様に恩返しができるなら。最初にあったときのことを覚えてますか？シャナン様はあたしの命の恩人なんですよ。お城でいくら働いたって、命を救ってくれた恩は返せない。だって、シャナン様が命を落とすような危険があったって、あたしなんかじゃじゃ絶対に守れないもの。怪我をしたって治せない。あたしはラクチェでもラナちゃんでもないんだもの。でも、あたしがずっとイザークの城にいることが、シャナン様の望みなら、それならあたしにもできる。言ってませんでした？あたし、厨房の仕事、大好きなんですよ！それに、知ってました？あたし、シャナン様のことが大好きだって！」 そう言ってくるりと向きを変え、シャナンの首に勢い良くかじりついたので、シャナンは椅子もろとも床に倒れた。柔らかな絨毯が敷き詰めてあるとはいえ後頭部を床に打ちつけたシャナンは顔をしかめた。が、パティを抱いた腕をゆるめることはなかった。 「でも、シャナン様、あたしがいうのもなんですけどやっぱり結婚はした方がいいですよ。……お世継が生まれないと、それこそたいへんなことになっちゃいますって。ティニーちゃんなんてどうですか……あたし、シャナン様にだったらティニーちゃんのことを任せられる!! …………… ああ、 馬鹿だった。 全然肝腎なことが伝わっていないではないか。 全くもってこの天真爛漫な盗賊娘は、心は童女のままなのだ!! ………………………… 剣聖は長く長くタメイキをついてから囁いた。 「パティ。私は妻を娶ることはしないが、お前が心配するようなことはない。…というか、今、最大級の心配をしているのは私の方だ。」 「へ？」 間の抜けた返事をする娘をイザーク王は愛情込めて抱きすくめた。 次の日、イザークの人々は帰国していった。 見送るアレスの横で、リーンは微笑んだ。 「あなた。お財布をすられたそうですね。パティちゃんが喜んでました。」 黒獅子王はふっと笑った。 「故意に油断して掏らせたのだ。あの財布の中にはイザーク王への書簡と指輪が入っている。」 「指輪？それは私がこの間選んだものでしょうか。」 「ああ、あの娘への贈り物の婚約指輪だ。……あの不器用な朴念仁はそういうところには気がまわらぬだろうからな。」 リーンはくすっと笑った。 「ええ、そうかもしれません。でも、あなた、お母様の形見だという懐中時計も贈ってしまってよかったのですか？パティちゃんが私の目の前で鎖に下げて揺らして見せてくれました。とっても嬉しそうでしたが。」 アレスは顔色を変えた。 「それは違う！……あの盗賊娘め！やられた！リーン、私は取り戻してくる。」 リーンは夫の背を見送りながら、またいつか挑戦しないといけませんね、あなた。と呼びかけた。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ シャナンは中庭にしつらえた鍛錬場で二人の少年を前に稽古をつけていた。手製らしい揃いの稽古着を身につけよく似た風貌の少年達は、まだまだ小さいが、木刀を振る型はなかなかどうして堂に入ったものであった。 「よし、今日はここまで。」 シャナンが手の甲で汗を拭い、礼をすると、少年達も深く礼をした。 「有難うございました。父上。」 厨房から大きな前掛けをかけた女性がやってくる。スカートには可愛らしい女の子が齧りついている。 「ご飯ですよ～。」 少年達は走っていく。 「今日の昼ごはんは何ですか。母上。」 年嵩上の少年が言うと、女性はむっとした。 「こら、大きな声で“母上”はダメっていったでしょ！」 小さい方の男の子が『だったら、おかあちゃん』と小声でいうと女性は破顔一笑した。 「今日は暑いから冷たいスープを作ったの。さあ、早く手を洗っていらっしゃい。ちゃんと一人で汗も拭くのよ。」 男の子たちが歓声をあげて水場へ走ると女の子はその後を追った。その様子を目を細めて見送った剣聖は、いたずらっぽい表情をして鍛錬場脇の木造りのベンチに座ると、パティを引き寄せ膝の上に抱いた。昔からよくそうしてきたように、金の髪の上に顎を乗せる。 「あら？シャナン様、また何か困ってますか？私にできること、あります？」 「ああ。……もう一人くらい子供が欲しいな、と。」 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ イザーク王シャナンは生涯妻を娶ることはなかった。 しかし、二男二女に恵まれ、治世は平和であり、その生涯は最後まで幸福なものであった。城の者達は、子供達の母親である女性を愛し、親しみを込めて「陛下の大切なつっかえ棒」という不思議な愛称で呼んだという。 |
| 15万HIT記念FE連続更新その③、シャナンとパティの話です。 よくラブソングに「君だけ居れば何もいらない」系の歌詞がありますが、(うちの)パティにはそれは似合わないな、とか(うちの)パティには生涯大鍋をお玉でかき回し続けておいしい食事をシャナンに供給して欲しい、とか、できれば盗賊の腕も発揮しまくってほしい、と思いながら書いていったら、恋愛モノとは名ばかりの複雑怪奇なものになりました。 この結末はパティのことを考えたとはいえ、シャナンの自己満足とも取られかねないものですが、この道を選択したことによってシャナンはいろいろとしなくてよい面倒を背負い込むことになるわけで、考えようによってはもっとも茨な道を進んでいるのかもしれません。(族長さん達からの突き上げも激しいでしょうし、子供達の王位継承にもゴタゴタがあるでしょうし、ひとまず、ファバルがイチイバル担いで怒鳴りまくってやってくることは必至) もーいっそ少女漫画的展開を目指そうと開き直ったのですが、よく考えてみないでも、一般的な少女漫画を最後に読んだのはいつのことだったか… で、こんなことになってしまったわけですが、どうぞ、どうぞお許し下さいませ!! (頭を下げつつ光の速さで退散) |