空へのあこがれ |
空を飛びたい。青く澄み切った空気の中を飛び回りたい。遠くに見えるあの雪白に輝く山稜の上へ、いや、もっともっと遠くまでいってみたい。 初めてそう思ったのは、いつだったか。シレジアの大空を行く天馬騎士を見たときだったろうか、それとも、ペガサスと心を通わせ冒険をする少女の話を絵本で読んで貰ったときだったろうか。今となってはもう忘れてしまったけれど、フュリーは物ごころついたころには、早くペガサスと友達になって、一緒に飛びたいと空に憧れていた。彼女の家は多くの天馬騎士を輩出し、彼女の母もまた天馬騎士であったので、フュリーが望みさえすれば、その希望はやがては叶う筈であったが、絵本のお話のように小さな子供のうちにペガサスに乗れることなどはない。小さな子供が馬を操ることに無理があるのは当たり前であるが、その他にもシレジアは、天馬騎士以外がペガサスに乗ることを固く禁じているためである。……険しい山稜を、ペガサスは気流を捕まえ軽々と越していく。他国の、時には国内の動きを監視し、事が起こればすぐに王都に報告できる天馬の存在は、シレジアの防衛の要であった。そのため、ペガサスを駆る者は国家の枠組みの中に一人残らず組み込まれている必要があり、許可なくペガサスに騎乗した者は重く罰せられた。それが天馬騎士であっても、だ。山間の緑の原で育った娘がペガサスの子馬と出会って仲良くなって空に舞い上がる……そんなお伽噺が実際にあったとすれば、このシレジアが他国からの脅威を感じずに成立していた何十年も前のことだろう。 そのため、天馬騎士になりようがない男性(どういうわけかペガサスは女性だけを自分の主とする)や、天馬騎士ではない女性がペガサスに乗る機会があるとすれば、災害でも起こって、騎士の後ろに乗せて貰うときだけなのだ。シレジアは空を自由に舞うペガサスの国、と言われていても、空を飛ぶ者はほんの一握りなのである。 しかし、フュリーは、幼いころに一度だけ空を飛んだことがあった。 その日、暫く病床にあった彼女の母が、フュリー、お散歩をしましょう、と子供部屋にやってきた。父や姉のマーニャが居れば、母親の体を気遣ってとめたかもしれなかったが、父は城勤めの身であり、姉も既に天馬騎士となるべく週末以外は寄宿舎での生活を始めていた。フュリーはただただ母親と外出できる嬉しさ一杯で、病で細くなった白い手をキュッとしっかり握って庭師達が母の好きな花々で飾った庭に出て行こうとしたが、母は綺麗に笑って、今日はお庭ではないところにいくのよ、まずは着替えましょうね、とふんわりとフュリーの髪を撫でた。フュリーは男の子が身につけるようなズボンをはかせて貰い、母は、丈夫そうな緑の生地の上下を纏った。ベルトを締めても、病で痩せた胴のあたりはぶかついており、母親は少し悲しそうで、着付けを手伝っていた館の者は泣いてさえいたけれど、フュリーはそれがなぜなのかはわからなかった。 幼子の手をひいて、厩(うまや)に近いところに出た母は、掌に隠れるほど小さな銀の笛を隠しから取り出し、空に向かって吹き鳴らした。数瞬後、純白の天馬が魔法のように現れて優美に螺旋を描いてふわり、と着地した。その鼻面に母は抱きつくように寄り添い、優しく撫でながら接吻した。ペガサスは、自分が生涯の主と決めた女性を何か問いかけるように黒い瞳でじっと見つめる。 「ずっとあなたと一緒に空に行けなくて御免なさい。……そして、きっともうこれが最後だと思うの。この子、私の娘のフュリーに空を見せてあげたいの。連れて行ってくれるかしら？」 フュリーは母親の足に齧りついた。冒険物語が大好きではあったけれど、極度の人見知りで、臆病ですらある。そして、このペガサスと言う生き物は、遠くで見たり絵本の挿絵から考えるよりずっとずっと大きかった。……その前に、ペガサスはぐっと首を倒して視線をフュリーに合わせる。母は微笑む。 「大丈夫、承知してくれたわ。フュリー撫でてあげて。お母さまの一番のお友達なのですよ。」 小さな手でおそるおそる一瞬だけ触れた白い鼻づらは、ほんのり暖かかった。母を見上げると、顔は愛娘に向けながら、ペガサスの背をトン、トン、と指で叩いている。ああ、お母さまのお友達なら大丈夫、と合点したフュリーは、今度は何度も何度も撫でた。 その時の経験をフュリーは忘れない。母はずっと寝付いていたことが嘘のように薔薇色の頬をして元気そうで、ペガサスも楽しそうに空を駆けた。空も、雲も、上空から見る景色もすべてが新しく、美しく、頬にあたる風は清冽で気持ちよく、でも、母の胸は暖かで、寒いことなど何もなく……彼女にしては珍しく、フュリーは幾度も歓声をあげて、母親を驚かせ、そして喜ばせた。 お母さま、お母さま、私、すぐに天馬騎士になるね、そうして、今度はお母さまを乗せてあげるね、フュリーは空の散歩から戻って、興奮気味に話したけれど、母親はそれについては何も言わずに微笑んでいた。 ……勝手にペガサスを駆ったことへの咎めはなかった。 ……それから程なくして亡くなった者を処罰することができる者などいようはずもない。 母親を想う時、フュリーは葬儀の時の悲しい光景と共に、初めて天馬で飛んだ時のことを思い出す。そして、早く天馬騎士になり、母に連れていってもらったときのよう空を飛びたいと決意を新たにするのであった。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ その時既に姉のマーニャは見習い騎士となっており、自在に空を駆ることができた。フュリーはというと、見習い騎士の見習い、といったところだった。まだ年は10。寄宿舎で学んでいるが、学んでいるのは騎士としての学問ではなく、読み書き算盤の類が主である。そして、裁縫や料理なども日課に入っていた。これは、女性だからということではなくシレジアでは遍くそうらしい。その証拠に、男性の多い魔道学校でも、裁縫は学ぶし、寄宿舎の料理は自分達が持ち回りで行っている。フュリーは真面目な子供だった。天馬騎士を多く輩出している家柄の出であることを鼻にかけず、黙々と努力し、座学は着実に向上していった。寄宿舎の生活でも、周りのことに気を配り、進んで手を使い、困っている友人たちに優しく接し、皆から信頼を得ていた。だからといってフュリーは皆の先頭に立つことはなかった。そういう機会があっても、彼女はもじもじと一歩後ろに退いてしまい、誰もやるものがいないときだけリーダーの役目を負った。友人たちは心配していた。フュリーは真面目すぎる考え過ぎる……一歩を踏み出すのに躊躇する、石橋を叩いても渡らない……しかし、彼女らもまだまだ子供で、やらなければならないことは山ほどあり、心配するだけにとどまっていた。 フュリーは厩に居た。明かりとりの窓からは半月が見える。今はもう少女達は眠っていなければいけない筈の時間だったが、フュリーは思い詰めた表情で立っており、宿舎に戻る気はない。厩の中では、彼女の『半身』となったペガサスの仔馬が気配を感じて目を覚まし、フュリーの来訪に喜んで、小さな蹄でコツコツと厩の地面を叩いている。フュリーが傍に立つと、仔馬は少し湿った鼻面を、フュリーの手の甲にすりつけた。フュリーはペガサスの仔馬独特のふんわりとした鬣(たてがみ)をもう一方の手で梳いてやる。どこをどう撫でれば仔馬が嬉しいのかはよくわかっていて、鬣をひとしきり梳いてから、腰の物入れをあけて、ブラシを取り出して体を撫で始める。 「ごめんね、うまく手綱をさばけなくて」 フュリーの声は震えていた。仔馬は耳をぴくんと動かす。 「あなたが一生懸命に翼を動かしているのに、私がうまくできないから、飛びあがれなくって……」 飛行練習で、友人たちは既に自分のペガサスを操り、二階家くらいの高さまで飛びあがれるようになっていた。それは羽ばたき二回くらいの軽い動きのはずなのだが、フュリーはそれがうまくできず、一度は落馬してしまった。幸いうまく受身をとれたので怪我はなかったが、フュリーは全てを自分の責任だと感じていた。実際は、そんなことはない。慎重すぎる性格の為、決して手綱さばきが器用であるとは言えなかったが、乗り手としての技量は合格点を上回っているのを教官役の天馬騎士達はわかっていた。問題は、ペガサスの年齢であった。ペガサスと天馬騎士には相性がある。それは努力とか時間とかいったものが解決してくれるものではない。そして、人間がペガサスを選ぶのではない。ペガサスが人間を選ぶのだ。山間部にシレジア軍が周囲を守っているペガサスが子育てをする草原があり、そこで天馬騎士の卵の少女達は自分の友となる仔馬に選ばれるのを待つ。普通、そこにやってくるのは、乳離れをしてしばらくたち、人間に興味を持つようになった成長具合の仔馬だけなのだが、フュリーを選んだのは、彼らよりずっと幼い、ひときわ小さなペガサスだった。フュリーは驚いたけれど落胆せず、ありったけの愛情をこめて世話をし、年齢にしては骨格のしっかりとした体に育っていたけれど、それでも、まだまだ他のペガサスよりも小柄で人を乗せるのには若干の無理があったのだ。大人たちは繰り返しそのことを説明したが、フュリーは納得しなかった。手綱捌きが悪いに違いない。いや、自分が少し重すぎるのかも、とにかく自分が悪いのだ。どこを直せばいいのだろう。…………ああ、私は駄目なんだ。マーニャお姉さまはあんなに素敵に空を飛べるのに……この子だって私なんかが乗り手でなかったら…… 厩の中でフュリーは座り込んだ。ぽろ、と涙がこぼれる。そのまま膝の間に頭を埋める。さらっとした今日の夕方に洗った緑の髪の先が地面についたが、そんなことは気にならなかった。 と、微かな音がした。ぴく、とフュリーは頭を起こす。寝棚にフュリーの姿がないことに気づいた友人が来たのだろうか。それとも教官だろうか。フュリーの瞳に後悔がよぎる。もしも教官であったら、罰を受けるだろう。自分はよいけれど、自分が罰をうけたなら、自分の半身であるペガサスも何らかの罰をうけるのだろうか。そんなことがあったら！ 音は近付いてくる。 いや、教官ではない。……大人がたてる音ではない。だったら……？ フュリーは厩の入り口に身を寄せ、外を見た……小柄な姿が少し離れた木立の間に見える。そして、彼女が見つめる先でその姿は木立からこちらを窺っていたが、だっと走ってきてこちらに……フュリーが立っている厩の入り口に転がり込んできた。 「!?」 暗がりに慣れていたフュリーには月明かりでその姿がはっきりわかった……しかし、いったい、これはどういう…… 転がり込んできた侵入者もフュリーに気づき、床に倒れ込んだ姿勢のまま、頭をあげ、二人の視線が絡まった。 「誰、あなたは!?」 「あんた、誰!?」 闖入者はぐいっとフュリーの手首を掴んだ。悲鳴をあげかけたフュリーの口はもう一方の手で塞がれる。その手は埃の匂いがした。 「騒がないでよ！……あんた、見習いだよね!?見習いがこんな時間にここにいるって変だよね!?見つかったらすごく怒られるよね!?叫んだら見つかっちゃうよね!?だったら叫んじゃ駄目だよね!?……いい?これから手を外すけど、叫んじゃ駄目よっ！」 優等生のフュリーは、自分が怒られても叫ぶべきだと思ったが、自分のペガサスのことを思うとそれもできず、叫ぶ代わりにはあ、と息をついた。そして、まじまじと相手を見た。 背は自分より少し低い。しかし、「少しひょろっとしている」といわれる自分より腕はがっちりしている……埃だらけで爪の間は真っ黒で……服は……大きさが合っていない上に破れたり擦り切れたりしている。袖はまくり上げられていて……着古されて捨てられた大人のチュニックを拾って、腰のところを紐で縛っているというのが正解だろう。靴は履いていない。ただ、裸足ではない。足に布切れをぐるぐる巻き付けて靴の代わりにしている……髪は……シレジア人の御多分に漏れず、フュリーと同じ若葉の緑色だが、櫛を通していないことは明白だ。そして、髪も埃だらけだ。しかし、フュリーは闖入者を胡散臭いと思わなかった。埃っぽい前髪の下にある緑の瞳はキラキラしており、それだけで悪い人ではなさそうだと不思議と思えてしまった。 「あ、あなたは一体ここに何をしに来たのですか。」 すると、少女はポリ、と一度頭を掻いてからニッと笑った。 「ペガサスに会いに！もう何度もここに来てるの！」 考えてみればおかしな話だった。生き物の気配に敏感なペガサスが、外の物音に気付かないはずはない。そして、こんな怪しい風体の子供が転がり込んできたなら、大騒ぎするはずなのだ。それなのにペガサス達は大人しくしている。いや、むしろ少女を歓迎している風さえある。 「ど、どうしてペガサスに!?それにどうしてここに入れたの!?」 「うわ、いっぺんに二つ訊かれちゃった。あとのほうから答えると、入ろうとして入れたから入っちゃった。前の方は…………駄目もとなんだけど、あたし、空を飛びたいんだ！どうしても空を飛んでみたくって、空をペガサスが飛んでたらそれだけでうきうきしちゃうんだ……でも、あたしは天馬騎士にはなれないから、ペガサスと友達になったら一度くらいのっけてくれるんじゃないかなってそう思って。」 フュリーは首を振る。 「あのね、駄目よ。ペガサスは、一生に一度『この人』って決めた人と絆で結ばれるの。うーん、あなたには難しいかしら。とにかくここにいる子達は、もう相棒が決まっているからあなたが乗ることはできないわ。」 少女の顔が曇る。が、にぱあ、と笑う。 「なんか、どっかでそういうこと聞いたけど、だったらあたしが『世界で初めて』相棒以外でペガサスに乗った子になってやる！」 フュリーは頭痛がしてきた。だが、目の前の光景に息を飲む。薄汚い少女は、厩を回ってペガサス達一頭一頭に声をかけ、体を撫でており、仔馬たちはそれを心地よさそうに受け入れているのだ。早くこちらに来て欲しいといわんばかりに蹄で音を立てたり、鼻をならしたりもしている。 ペガサスは主人にしか慣れない孤高の生き物だと人は言う。フュリーもそう言われ続けて来た。男性については少年から老人までそれはあたっている。主人の居ない場所でペガサスに男性が近付くのは自殺行為に近い。しかし、女性は……天馬騎士が存在する前からペガサスはこの世にいた筈ではないか。きっとそのときには、ごく普通の少女がペガサスと友情を結んでいたのだ。そして、どうして一人だけしか友人になれないのだろう。「特別な一人」がいても、「ごく普通の沢山の友達」があってもおかしくはない。 一頭のペガサスには一人の騎士しか乗れない。それは天馬を統括するための「きまり」でしかないのではないか。 少し俯いてこの後何をどうしようかと迷うフュリーの前に少女は近付いてきて、下から彼女を見上げた。 「よーし！決めた！あたし、あなたのペガサスにのっけてもーらう！」 あまりのことに声の出ないフュリーに少女はにこにこと続ける。 「夜じゃ、もし飛べても周りがよく見えないし、黙って借りるのもやっぱりよくないしねー」 黙って侵入するのはいいというのか。 「できたら、でいいから！無理だったらいいから！あなたに担がれてでもぶら下げられてでもいいから！……あたしだってまだ日があるうちにここに忍び込めるかとか今は絶対ないから！そうそう、お互い無理はなしでいこう？いいのいいの、夜中にあなたがここにこっそりきてたってことは黙っててあげるから。」 誰に黙っているというのか。教官の前に出て行っただけで捕まるのはそちらの方だが。 「うん、そういうことで。はーい、指きり！」 少女の薄汚れた小指がフュリーの白い小指に絡められ、一方的に約束させられ、次の瞬間にはもう彼女の姿は消えていた。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ そっと宿舎にもどったフュリーは、翌朝起きた時にはあれは夢だったのではないかと思った。あまりに自分が煮詰まっていて、煮詰まった頭が見せた夢だったのではないか、と。ただ、あの埃だらけの少女の事は不思議と不愉快には思えなかった。自分が市井で育ち、空をいくペガサスに憧れたなら、やはりきっと飛びたいと思っただろう。自分だったらあの子のような行動はできないだろうけれど、ペガサスがいるところに忍び込もうとする気持ちはじゅうぶんにわかる。夢だとしても、だ。 しかし、それは夢ではなかった。 いろいろなことがうまくいかなくて夜に厩に泣きに行った何回目かの時、また彼女は現れた。そして今度はいろいろと話をした。少女は天馬騎士のいろいろなことを聞きたがり、いいなあいいなあとフュリーを羨ましがった。でも私はまだふんわりうかぶことしかできなくて、とフュリーが思い詰めたように言うと、あたしなんかうかぶこともできないんだよ！と少女は言った。 何度かそんなことが続き、打ち解けた二人は、待ち合わせるようになった。少女はペガサスについての物語を驚くほどよく知っていた。大人たちが話すのをよく聞いていたのだという。フュリーも自分の知っている絵本の話を披露して、そうよね、騎士じゃなくたってペガサスには乗れるはずよね、きっとあなたもいつか乗れるといいね、と自分でも少し無責任だとは思ったが励ました。少女がどんな生活をしているのかはフュリーにはさっぱりわからなかった。ただ、あまりに汚れているのでせめて体を拭いてあげようと濡らした手拭いを持って行って、上着を脱がそうとしたときには全力で抵抗されあとで謝られたが平手で頬を張られた。痣があるから、と小さな声で言われてフュリーは固まった。市井で貧しい人々が子供を殴ったり鞭打ったりしている噂は耳にしていたが、その被害者を目にしようとは考えたこともなかった。逆に、物凄く小奇麗に髪が洗われていたことも一度あった。少女はフュリーの前で髪に砂を擦りつけており、なんでそんなことをするの、といったら、少女に睨まれた……普段清潔にしてもらっていない子供が綺麗に体を洗われるとはどういうことだろう、と色々考えた末にとても怖い可能性に行きついてしまい、フュリーは少女を抱きしめて泣いた。 やがて、フュリーも相棒と一緒に空を飛べるようになってきた。いや、フュリーは自分ではまだまだだと思っていたが、今では同期の中では一番息を合わせて巧みに空を駆けられるのだった。フュリーは少女に礼を言った。これには少女の方が驚いた。 「あたし、何もやってないよ？」 「だってあなたはいってくれたでしょう？きっとできる、きっと飛べる。どんどんよくなっている、もう少しだよ、って」 「それはフュリーが頑張ったからでしょ？フュリーは自信をもっと持った方がいいよ！自信がないからいろいろ迷っちゃう、自分は駄目だって思っちゃう。本当は駄目じゃないのに駄目だって思っちゃう。フュリーはいろいろできるんだよ！できるのにやらないのは最低だよ！」 ほら、そういって励ましてくれるから私は頑張れたのよ、とフュリーが泣くと、少女はフュリーの綺麗な髪を撫でて駄目だよ、泣き虫フュリー、泣いてもどうにもならないよ、それにあなたには頑張ってもらわなくっちゃ！あたしを乗せて飛んで貰うんだからと言って笑った。 そんな中、城で事件が起こった。シレジアは古くからある国であり、城も部分的な改築を何度か経て今に到っている。その最古の部分の一角にある尖塔は崩れる危険があるということで、人の立ち入りが禁じられ、じきに解体が行われる運びとなっていた。そこに王家に表敬訪問にあがっていた有力貴族の8歳になる子息が退屈して夜の宴を抜け出して上がって行ったのだ。塔の中ほどまで到達した時に階段が崩落、少年は取り残され、救助を待っている。が、足を怪我したらしく身動きが取れない状況となっていた。天馬騎士達が幾度も近付き、中の様子を探り、手を伸ばして呼びかけたが、姿を認めることはできなかった。ただ、痛い、怖い、と泣き叫ぶ声だけが石塔内にわんわんとひびき大人たちの心を痛ませた。 そして、見習いの少女達が厩の前に集められた。天馬騎士の一人が説明をする。 「―――まだ修行中のあなたたちにこのような指示を出すのは心苦しい限りですが、時間がありません。……今の塔の中の状況は先程説明した通りです。御子息が倒れている場所の傍に庇のついた明かりとりの窓があります。私達には無理でも、あなた方の中で体の小さな人になら通れる大きさです。そして、庇には仔馬ならば足を揃えて立つことができるでしょう。私達シレジア天馬騎士団が援護します。万一飛び移り損ねても、受け止めてあげられるでしょう。」 教官が、何人かの名前を呼んだ。その中にはフュリーの名もあった。 「誰か志願を……」 フュリーは唇を噛む。早く助けてあげなくちゃ。でも、私なんかができるはずない。きっとその子を助けられない。 すると、木立の方から大声がした。 「フュリー！あなたが行きなよ！あなたが一番うまく飛べるんだ！あなたなら絶対大丈夫！できるのにやらないなんて最低だよ！」 大人たちは顔色を変え、何人かの天馬騎士が木立の中に入っていく。ああ、どうしてあの子がここに？どうか、うまく逃げてくれますように、とフュリーは木立に目をやり、それから天馬騎士に目を戻し、決然として言った。 「私が行きます。」 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 「大丈夫、大丈夫よ、大丈夫だからね。」 全然大丈夫ではない様子でフュリーは相棒の鬣を梳く。相棒は、とにかく落ち付いていこう、というようにブン、と勢いよく一つ首を振った。目の前には老朽化した尖塔が聳え立つ。……根本の部分は崩落が始まり、時折、石壁の一部が落下してたてる音がする。 「フュリー！」 走って来たのは、姉のマーニャだった。天馬騎士達から妹が志願したことを伝えられ、励ますように命じられたのだと言ってから、どん、とフュリーの背を叩く。 「でもね、フュリー。私はあんまり心配していないのよ。私達はシレジア天馬騎士団の分隊長だったお母様の娘なんですからね！あなたが緊張しすぎなかったら平気平気。次のお休みには姉さんがお母様直伝のアップルパイを焼いてあげるわ。万一落ちても大丈夫。姉さんが落ちる前にちゃあんと拾ってあげる。」 姉のペガサスが同意するようにぶるっと鼻を鳴らす。フュリーは頷いて相棒に跨り、ふわりと浮きあがる。最前から空を待っていた騎士達が、ここよ、というように小さな窓を指さす。一人の騎士がフュリーに近付いて、彼女に長いロープを投げ渡す。フュリーはその端を腰に巻く。これが彼女の命綱の一つとなる。もう一つの命綱は彼女の相棒と結ばれている。至近距離まで近付き、慎重にペガサスを庇に寄せる。そう、そう、気をつけて！ちょこんと庇に立ったペガサスの仔馬はフュリーが重心を移動させるのにあわせて自分の体を傾かせる。小さな庇にしゃがみ、縁に手をかけ、ぶら下がり、足から窓に入っていく。確かにこれでは小さな少女にしか入れないだろう。その踊り場に降り、相棒と繋がっている何重もの輪になったロープを引き出しながらフュリーは鳴き声のする方に向かった。階段を少し下ると豪奢な衣装を着た少年が倒れていた。傍には大きな岩塊が落ちている。傍に寄ったフュリーは触って足の具合を確かめる。片方は腫れあがりただの捻挫かもしれないが、もう一方は妙な向きにねじれている。応急手当できることはないと判断し、泣き叫ぶ少年を背負い、降りて来た階段を踊り場まで上がる。そして、騎士から手渡された方の命綱を少年の腰に解けないようにしっかりと結び付ける。窓から顔をのぞかせ、騎士に、少年を確保して命綱をつけたことを大声で叫ぶ。騎士に安堵の表情が浮かぶ。これで少年が空中で落下することはない。フュリーの相棒は、首をうんと下げ、庇越しにフュリーの顔を見て安心したように一つ嘶いた。 すべてがうまく行ったように思えた。少年につけられたロープは手繰り寄せられこれ以上はペガサスを近付けられないと判断して3メートルほどの長さで固定される。それを確認してからフュリーは自分も戻り始めた。 「今戻るからね、待っていてね。」 相棒に声をかけ、命綱を確かめ、窓の縁によじ登り塔の中を向いて腰かけた。庇に手をかけ、自分の腰に付けたロープを引く。すると翼ある相棒は庇の上からふわりと離れ、窓の横辺りに上下しながら浮かんだ。 「いつもと違うけれどお願いね。地上に降りるまで私をあなたからぶら下げていてね。」 フュリーは庇から手を放し、空中に身を躍らせる。ピンと張ったロープが振り子のように揺れ、ペガサスの仔馬はバランスを取ろうと必死に翼を大きく動かす。と、その時、少年が突然暴れ始めた。怖いよう、高いよう、怖いよう、助けて、助けて、とジタバタする少年に腹を殴られ、よく訓練されている大人のペガサスも興奮して体勢を崩した。その拍子に少年の命綱が緩み、フュリーと同じように宙づりになり、……振り子運動をしていたフュリーのロープと絡まった。ぐらりと大きく揺さぶられ、フュリーはしっかりロープにしがみ付いたが、不思議と恐怖は感じなかった。なんてバカな子だろう、と彼女は思った。ペガサスの上よりよほど古い塔に登る方が危険なのに。ああして暴れて全てを台無しにしてしまうなんて。世の中にはつり下げられてもいいから空を飛びたいと思っている子だっているのに。ああ、でもどうしよう。このままじゃ、私のお友達もうまく羽ばたけずに一緒に落ちてしまう。 「フュリー！落ち付いて！あなたは小刀をもっているわね！」 ああ、マーニャ姉さまの声が聞こえる。小刀？ああ、そうだ。装備の中に小刀があるわ。ロープを切ったらあの子の事だけは助けられる。 「よく聞いて。それでロープを切るのよ。大丈夫。あなたが落ちる前に私や、天馬騎士の方々が必ずあなたを助けるわ。 フュリーは我に返った。 「は、はい、姉さま！」 妹の声を聞いてマーニャは安堵する。天馬騎士の一人が叫ぶ。 「すぐに切るのです。私達を信じて！」 フュリーは腰の小刀を鞘から抜きロープにあてた。その時、ゴゴゴ……と不気味な音が聞こえた。塔の崩落が始まったのだ。石材の欠片が顔に当たるのをフュリーは感じた。ペガサス達は主人の指示を忠実に守ろうとしている。ぎりぎりになるまで彼らはフュリーの近くに留まるだろうが、その時はすぐそばに迫っているのは確かだ。怖い。怖い。気が遠くなりそう。そのとき、遠くなりそうな意識の片隅で、フュリーはあの埃まみれの少女の声を聞いた気がした。 『できるのにやらないなんて最低だよ！』 そうだわ。最後まで希望は捨てない。私にはまだやれることがある。信じよう、そしてペガサスと天馬騎士達に全てを委ねよう。 彼女はロープを切り、落下していった。……そして次の瞬間、彼女は意識を手放す直前に優しい救いの手を差し伸べられて、命を失わずに済んだのであった。 フュリーの目が覚めたのは、次の日、太陽が天頂に登りきったあとだった。石材の破片が飛んで腕や頬に小さな傷を負っていたが、それ以外に痛いところはなく、落下してからすぐに受け止めて貰えたのに相違なかった。目を覚まして真っ先に大切な『相棒』の様子を尋ねたフュリーに、休暇をとって妹の世話をやいていたマーニャはくすっと笑い、傷は殆どなくとても元気でご褒美のニンジンに本をパリパリ食べていたと教えてくれた。貴族の息子も無事で、一カ月もすれば歩けるようになるだろうということだった。フュリーは、見習い達のペガサス舎近くにやってきていて天馬騎士に追いかけられた少女の消息も知りたがった。マーニャは少女の事を知らなかったが天馬騎士に聞いてあげると請け負ってくれた。だが、その返答は悲しいものだった。あの闖入者は天馬騎士に捕まり、あのあと酷く罰せられたという。そして、もう二度とフュリーに厩で会うことはないと断言された。フュリーは少し泣いた。 「私はあの子に勇気を貰ったの。やればできるって。できるのにやろうとしないのは最低だって。そして約束したの。いつかあの子をペガサスに乗せてあげるって……あの子はペガサス皆ととても仲が良くて……天馬騎士じゃないけど、とっても空を飛びたいと思っていて……だから私は……」 普通は叱るところなのだろうが、生真面目すぎて危なっかしい妹が、規則を破って秘密の友達を作っていたことをマーニャは何故か嬉しく思い、そっと抱きしめて、そうね、もしもどこかで会える事があったら、そのときにはきっとペガサスに乗せてあげなさいね、と優しく囁いた。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 時は流れた。姉のマーニャは史上最年少でシレジア天馬騎士団の一員となり、フュリーは見習い騎士となった。ひときわ小さかった仔馬も今ではフュリーの同期の少女達の相棒と遜色のない体格である。フュリーの美点である努力家で真面目な性格は今も変わらず、今日も全体の教練が終わってからも一人残って相棒の背で主に護身目的で使用する細身の槍の鍛練に余念がなかった。 「フュリー。」 姉の声に気づき、フュリーは下馬した。槍を握り、騎士に対する敬礼をきっちりとした型で行う妹にマーニャは笑う。 「フュリー。公今を使い分けるのも騎士の務めと思いなさい。今は自由時間ですから私は天馬騎士ではなくあなたのお姉さんよ。」 でも、とフュリーは言いかけたが、姉に片眼を瞑られて苦笑した。 「姉さま、何かご用ですか。」 「うーん、それがね。私、というより、私がお目付け役をしている腕白坊主さんが、あなたに用があるって……」 マーニャが手招きすると、銀糸で刺繍されたかっちりとした緑のチュニックを纏った少年が現れた。姉が、この度、この国のただ一人の王子の目付け役となったことを知っているフュリーは槍を置いて跪いた。 「あー、フュリー、この王子様はそういうのあまりお好きではありませんから。それに、跪かなければいけないほどの御方ではまだありません。」 マーニャ、と王子は口を尖らせ、マーニャは、事実でしょう、とゆったりと微笑んだ。 フュリーは跪いたまま、殿下、私にご用とはなんでしょう、と尋ねた。王子は、ゴホン、と咳払いをし、フュリーの前にしゃがむと言った。 「ペガサスに乗せて欲しい。」 は？ 姉を見れば、マーニャはただただ面白いものを見ているように笑っている。 「あの、殿下、恐れながら申し上げます。何故見習い騎士にすぎませぬ私が殿下をペガサスにおのせするということになりましたのでしょう。」 すると、王子殿下は、長くのばしで後ろで白いリボンでぎゅっと結んだ美しい若葉色の髪をくしゃっと一度掻きまわしてから、顔を真っ赤にして叫んだ。 「乗せてくれるって約束しただろうッ！」 まだ変声期を迎えていないその叫び声に、フュリーは目を見開いた。見かけは全然違う。でも声が似ている。そして瞳のキラキラしたところも。 「な、な、なんで！なんで変装なんかして厩にきた、あ、いえ、いらしたんですか!?」 「変装しないで抜け出せるかよ！とにかくペガサスに会いたかったんだ。天馬騎士団の警備は厳重だから無理だったけど、あそこは少しゆるくて。で、もしも見つかった時の為に女の方がいいかと思って。」 「それにしても酷過ぎる格好でした。埃だらけで靴もなくて。」 「王子の服で出られるわけないだろ。手に入れられたのが風で飛ばされてきた侍女の服だけで、それでも上等すぎにみえたんで、あちこち破ったり切ったりして、靴は手に入れられなかったから布を巻いた。埃はつかわれなくなった古い宝物庫にいくらでもたまってた……とにかく汚しとけばなんとかなるだろうって懸命に考えたんだ。」 「嘘をついていらしたんですね。痣があるとかなんとか、私……殴られたのかと思って心配していたのです。」 「嘘はついちゃいない、そっちが勘違いしただけだ。……服を脱がされると、胸に聖痕ってやつがあって王子だとばれてしまうから。殴られなくったって人間には痣くらいあるんだぞ。」 「第一、どうして女の子ではないのに、ベガサスと仲良くなれたのですか。はっ、まさか、王子殿下は実は王女様でいらっしゃるとか!?」 「そんなことないからな!?どうして仲良くなれたかなんてわかるわけないだろう。……風の精霊って奴が関係……しているのかもしれない……」 急に歯切れが悪くなった王子にフュリーは首を傾げた。マーニャは妹と王子の両方に対して言う。 「ペガサスは風をとらえて飛ぶものですから……風の精霊に愛されていらっしゃる殿下がペガサスに好かれるのは当たり前のことですわ。」 「精霊に愛されてなんて……いな……」 「いいえ、……シレジアに風魔法の使い手は数多くおりますが、精霊に愛されているのは王家の風使いの方のみ。……空から落ちて行く私の妹をお助け下さったのはどなたでしょうか。風魔法は本来敵を切り裂くためのもの。しかし、あのときの魔法はとても優しいものでありましたわ。まるで風の精霊が手を延べて支えてくれているようで……妹も、妹の相棒も、見えないクッションに乗っているように私には見えました。……風使いとなることを殿下が拒否なさっているのは存じ上げております。しかし、あのときはその力をお使いになられた。……どうしてそうなさったのですか。」 王子はもごもご、と呟いたが、うううう、と唸ったあとに怒鳴るように言った。 「だって、そうだろう!?助けたかったんだ。できるのにやらないなんて最低じゃないか。」 ああ、ではあのときに聞こえたと思ったあの言葉は、本当に叫ばれた言葉だったのか。 「さあ、フュリー、殿下はあなたの命の恩人ですよ。約束を果たしてあげてはどうですか。」 フュリーは姉に促されて一度頷こうとしたが、再び跪いて言った。 「畏れながら、今一度お尋ねすることをお許し下さい。殿下は何故ペガサスに会いにいらしていたのですか。」 「はあっ!?あの時何度も話しただろう。……どうしても……どうしても空が飛びたかったんだよ！それは今でもかわらない。」 合格かしら、と目で問うマーニャに妹は笑顔を返した。ひらりとペガサスに跨り、手を差し出すとレヴィンはゴクリと唾をのみこみぐいと握りマーニャにも手伝って貰ってフュリーの後ろに跨る。ペガサスも少年が乗って来たのを嫌がらなかった。彼は友であり、命の恩人であり、風の精霊の友でもあるからだ。 「剣帯をしっかりお掴み下さい。」 「よし、掴んだ。」 「バランスを崩されたら、決して後ろには倒れませぬように。私の背中にしがみついて下さい。」 「う、うん、そうなったらよろしく。」 フュリーが小さく合図をしただけで、ペガサスは螺旋を描いて空へと駆け上がった。背後から上がる歓声にフュリーは目を細める。 「如何ですか、空は。」 「思った通りだ！いや、思っていたのの何倍も素敵だ！」 王子の人となりをまだよく知らないフュリーであったが、これだけは言えた。この人は私と同じく、小さな頃からずっと空に憧れてきたのだ、と。 「殿下、速度をあげます。いいですか！」 剣帯を掴む手に力が込められたのをフュリーは感じた。 「望むところだ。」 はしゃぐように縦横無尽に空を駆け巡るペガサスを眺めながら、マーニャは思う。ペガサスを勝手に飛ばした罰は自分も受けることとしよう。ラーナ様は烈火のごとくお怒りになる。そして小さな二人を退出させてからきっとおっしゃる『あの二人も私達のように空に魅入られたのですね』、と。そして、夕焼けが出るまでは呼び戻しの笛を吹くのは待ってあげましょうと目を細めた。 |
| このサイト初の「親世代シレジア」。シグルドも王族としては破格ですが、自分の脳内設定では、最もはっちゃけている王族はレヴィンです。彼のことを私は「影の主人公」と呼んでおります。彼の持つフォルセティの魔法は破格の強さですし、彼がいなかったら物語は終わりませんし……。 ご覧のように我が家設定のレヴィンは腕白で自由奔放。マーニャ姉さんは、いろいろな意味で最強。皆様の思い描く性格と大きくずれていて違和感を感じるほどでしたらすみません。(自分で書きつつ『もう少しレヴィンは王子様していた方がよかった……』と思うことしきり) |
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