親心 |
突然、視界にに炎の奔流が満ち、続いて熱気が襲ってきた。 炎を操る力に長けた家系、ファラの血をひき、生まれながらに炎魔法への耐性が大きなアゼルでさえ、肌が粟立つほどの恐怖へ捉われ、まだ少年の面影を残す細い両腕で顔を覆った。 間違いない。これは、あの人の魔法だ。幼い頃から最も身近に居た家族、腹違いの兄であるアルヴィスその人の操る炎の究極魔法ファラフレイムだ。 その後、呆然としたまま、数瞬が経過してしまったのだろう。棒立ちになるアゼルを現実に引き戻したのは、彼よりも尚華奢な存在である、フリージ公女ティルテュの頬への平手打ちだった。 「アゼル！何をぼーっとしているのよ！逃げなきゃ！……あなたのお兄様は私たちを殺そうとしている。……見えてる？見えてるでしょ？魔法に巻き込まれないよう遠ざかっていた兵士達がやってきている。」 自分より背の低い少女に引っ張られ、走り始めたアゼルはうわ言のように呟く。 「シグルド…様は…」 少女は叫ぶ 「シグルド様は中央にいらした。どうなったかあなたはわかっているでしょう!?信じたくなくても信じるのよ！私だってお父様のこと、信じたくなかった！お願い！正気に戻って！」 悲痛な叫びに、アゼルははっとし、速力をあげ、幼馴染の公女の前へと出た。 逃げる？どこに？確かに、『何かとてつもないことが起こったときには、何も考えずに逃げるのです』とクロード神父から言われてはいた。妾腹の子であり、王位継承権も放棄した自分と、動乱の首謀者とされたレプトールの娘であるティルテュは、病身のアズムール王の代わりに政権を握るアルヴィスの前に参上を要請された公子公女の列からはシグルドの計らいで最も遠い位置に配されていた。でも、遠方に広がる地獄図絵を目の当たりにし、逃げることなど叶わぬと、心が挫けてしまいそうだった。 萎えそうになる気持ちをしゃんとさせたのは、上空を舞う一頭のペガサスの姿だった。 (フュリーさん！そして、後ろにいるのはラケシス王女！) 次いで、炎で満たされていた謁見広場の赤が消えた。熱気に代わってアゼルが感じたのは清浄な風魔法の気配。 (レヴィン王子も生きていらっしゃる！) 兄の間近にありながら、生きている仲間がいる。レヴィンが無事ならば、その隣に居たアイラ王女も、アイラ王女と最後まで共にあることを選び、中央にいることを選んだレックスも無事なはずだ！ 「アゼル！」 ティルテュの悲鳴に斜め後方を見れば、手槍を装備した縦走歩兵部隊がやってきていた。すかさず炎魔法を唱え、灼き尽くす。手槍に射抜かれたが最後、自分達は命を失う。その前に魔法で叩かねば。と、新手がやってきて、槍を構える。間に合うか!?と焦ったアゼルの目の前で雷魔法に撃たれて兵は倒れた。ティルテュが一つ頷き、アゼルは頷き返し、二人は走った。 どこかおかしいと気づくのにあまり時間はかからなかった。 手槍の存在は脅威であるが、二人のような身軽な魔道士に命中することはほとんどない。体にあたる直前に魔法で逸らせることもできる。自分達を殺すのが目的ならば、命中率の高い弓兵に追撃されるのが筋だろう。 殺すのが目的ではなく、捕らえようとしている!? 嫌な予感がアゼルを襲い、ならば、と自分の操れる最も強力な炎魔法を地面に向けて撃つ。土は溶融し、赤黒い光を発し、ほんの一時であるが、兵士達の行く手を遮った。その間に二人は雑木林に飛び込んだ。ハア、ハア、と大きく息をし、膝をつくティルテュの横でアゼルもしゃがみ込む。休んでいる暇などないのはわかっていたが、限界であった。レックスならばティルテュを背負って逃げられるのだろうが、自分にはそんな膂力などあるはずもない。そこに、中年女の声がした。 「アゼル様！」 一時は空耳と思ったが、ティルテュが辺りを見回しているのを見て、空耳などではないと確信したアゼルは声のするほう、雑木林の奥、地面から手が伸びているのを見つけて駆け出した。 「アゼル、何かの罠かも！」 「違う、大丈夫だよ、ティルテュ、だって、あの人は！」 地面から手が伸びていると見えたのは、地下に掘られた穴から頭だけを出して手を振っているためだった。二人がやってきたのを見た中年女は、二人を穴の中に降りてくるよう急かした。穴は人一人がやっと通り抜けられる大きさしかなく、途中まで梯子、そして、細い階段が続き、地下通路へ繋がっていた。女は、アゼルに念のために梯子と階段を壊すよう言い、アゼルはわかった、と答えると魔法で外への通路を破壊した。女は、ひとまずここから離れましょう、とランタンを持って二人の前に立ち、それから黙々と三人は走り、幾度かアゼルは振り向いて魔法で通ってきた地下通路を塞ぎ、追っ手が万一来たとしても通れないようにした。更に湿った古い横道に入り、迷路のような道をときには四つん這いになって抜け、少し広い空間に出たとき、やっと、もうきっと大丈夫でしょう、と女が言い、足を止めたときアゼルはひし、と女を抱きしめた。 「ティニー！」 「アゼル様！」 一体何が起こっているのか頭がついていかないティルテュに、アゼルは少しだけ微笑んだ。 「ティニーはね。僕の乳母なんだよ。」 (※このサイトでは、ティルテュの娘の名前はこの乳母さんからとったことになっています) 何故、アゼルの乳母さんが？とティルテュは睨みつけるようにティニーを見ていたが、ティニーにとってそれは想定のうちであったようで、不審に思われるのは当たり前のことです、とゆっくりティルテュに一礼してから仔細を話し出した。 アルヴィスは、バーハラ城に赴くにあたって、バーハラの臣は信頼できないとして、ヴェルトマーの家臣たちを数多く連れて行き、彼女もその一人であったこと。その中でも彼女は古株で、アルヴィスの直接の侍女であったこと。そして、自分はアルヴィスの恐ろしい計画を知ってしまったこと・・・ 「……アゼル様は聡い方でいらっしゃいますから、もうお分かりかもしれません。アルヴィス様は、アゼル様を殺そうとしていらっしゃるのではございません。」 やはり、そうなのか。とアゼルは床に置かれたランタンの心細げな光に照らされた、目の下に隈のできた、自分が良く知る、しかし、思い出からはずっと年をとってしまった容貌の乳母の顔を見つめた。 「アルヴィス様は最近お妃様をお迎えになられましたが、まだ御子はいらっしゃいません。……御子がお生まれにならなければ、アルヴィス様の受け継いでおられるファラフレイムの魔法は、継承者がはっきりしないことになります。…過去、そんなことがあったときには、傍系の地の薄い家系から継承者が出ております。もし、それがアルヴィス様の思うようにならない者であったら、新しいグランベルの脅威になる。そうお思いです。……アルヴィス様は恐ろしい方です。アゼル様を捕らえられ、その後、よく言って聞かせればアゼル様を自分のお心に素直に従わせることができるとお考えなのです。そして、アゼル様のお子に聖痕が現れ継承者となったときに確実に自分の旗の下に取り込むことができるはずだと。」 「そんな…！僕はずっとシグルド様の下に居た！今更兄上の味方になど……！」 すると、ティニーはじっとアゼルを見つめた。 「本当に？……私は覚えておりますよ。面と向かって反抗できないからこそ、アゼル様はエーディン様を助ける御名目で城から出奔なさった。…城を発つとき、私にだけは、と内緒で耳打ちしてくださったではありませんか。」 項垂れるアゼルの手を乳母はそっと撫でた。 「……恥じることなどございません、アルヴィス様の恐ろしさは、長年お仕えしたこの私が誰よりもよく存じております。」 一呼吸置いてから乳母は続けた。 「あの方は薄く笑いながらおっしゃったのです。アゼルもここに来ることになる、お前も嬉しかろう、と。……そして、アゼル様をこの疎林を越えた向こうにある湖のところで捕らえるというところまでをこの私にお話になった。アゼル様がバーハラに来た暁には、お前にも協力してもらう、と仰られて。アルヴィス様は頭脳明晰なお方です。しかし、お判りにならなかったこともある。乳母にとって、養った御子は実の子も同然だということを。そして、子の為ならば母親は何でもできるということを。……恐ろしい計画を耳にしてから、私はこの地下通路のことを探り出し、アゼル様を待ち続けました。アルヴィス様は疎林に逃げたアゼル様を包囲し、その後湖に追いやるおつもりだったからです。この通路のことは、一般兵にはわからないはず。私はアルヴィス様にもしものことがあったときのため、通路のことは聞かされておりましたが、この旧い脇道は、逃亡路としても打ち捨てられて、下働きの最も年嵩のものだけが覚えていたものです……アゼル様……私にできることはここまでです。これ以上はお供できません。」 そんな、ティニー。ここに残ったらお前は兄上に殺されてしまう、と息を呑むアゼルに、乳母は自分が背負っていた皮袋を下ろして差し出した。 「私はもう疲れきってしまいました。足手纏いにはなりたくはございません。……二日分の食料と市井で出回っている銅貨の入った袋です。……お召しになっている服は豪奢過ぎますから上着はすぐ脱いで。ティルテュさまは、私のショールをお持ち下さい。不審がられたら、戦に巻き込まれた難民を装うのですよ。アゼル様、ティルテュ様を守るのですよ。お二人ならきっと頑張れることでしょう。ティルテュ様、アゼル様は…アゼル坊ちゃまは、頼りないところがおありですから、時にはひっぱたいてでも気合を入れてやってくださいませ。……でも、芯はとても強いお方です。」 はい、知っています。とティルテュが泣きそうになりながらティニーを抱擁した。 「私はお忘れしてしまっていたのに、私のことは覚えていて下さったのですね。……アゼルの乳母様、また、また、お会いしましょう！」 ポンポンと乳母はティルテュの背を叩き、坊ちゃまを宜しくお願い致しますと囁いてから、立ち上がり、上着を脱ぎ、背負い袋を背負ったアゼルを抱きしめ、通路の出口が川に面した崖に通じていること、そこから近くの村に行くまでの方法を伝えた。、暗記できたことを自分で確信するまでアゼルは幾度かそれを呟き、魔法で自分の掌に明かりを宿らせると、ティニー、ティニー、僕は頑張るからね。ティニーも諦めないで！と呼びかけ、ティルテュと肩を並べて駆けていった。・ 小さなランタンの明かりの傍に乳母は座り込み、さめざめと泣いた。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 乳母の言ったとおりに抜け道は崖へと通じていた。眼下には流量の大きな急流が渦巻いている。乳母のこと、兄のこと、シグルド軍のこと……いろいろなことを考えてアゼルは呟いた。 「生きているということはなんて怖ろしいんだろう。」 すると、横からティルテュがパンと頬を軽く叩いてきた。 「私は死ぬことの方がよっぽど怖い。……生きているから怖いと思うこともできる。死んだらそれもできない。だから私は死ぬ方が怖い。」 アゼルは笑った。そうだね、と。そして、崖上への道なき道をゆっくり、ゆっくりと、二人で上っていった。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 翌日、執政官の執務室、アルヴィスの前にはティニーの姿があった。乳母は、こういった。 「全て、アルヴィス様の仰るように致しました。」 アルヴィスはゆっくり頷いた。その前で乳母は掌で顔を覆った。 「何故、あのようなことを……！以前にも申し上げましたが、あれでは、アゼル様は、アルヴィス様を憎むことしかできないではありませんか。」 アルヴィスは動じなかった。 「道は分かたれたのだ。二度と元には戻らぬ。」 ああ、なんて、残酷な方なんでございましょう、と乳母は呻く。アルヴィスは、だが、お前もそれに加担してくれたのだろう、と呟いた。女は搾り出すように声を上げた。 「アゼル様はご存知ではありませんでしたが、私はアルヴィス様の乳母でもございました。アゼル様をお助けするためのアルヴィス様の方便をどうして拒絶できましょう……ああ、ああ、アルヴィス様、ご兄弟が揃って幸せに暮らせることはもうないのですか。」 それにアルヴィスは微笑を持って答えた。 「私は、己の信念に則った王国を作る。……そこにアゼルの場所はおそらくない。だが、もしも万一私が誤っていたら、天は私を殺し、アゼルを生かすだろう。ティニー、お前は養い子を二人ともは失うことはないのだ。それで我慢するのだな。」 すると、乳母は涙を拭い、私は諦めておりません。結局アルヴィス様は今後敵対されるだろうアゼル様をお助けになられた。きっと道はある。あなた様は優しい。その優しさを乳母は信じております。とアルヴィスをまっすぐに見た。アルヴィスは目を細めた。 「アゼル如きが敵にまわったとて、脅威にはならぬ。アレには大事のために小事を切り捨てる怜悧さも、人を惹きつけまとめる人望もない。ただただ優しいだけの者だ。私を超えられるはずもない。……アレを逃がしたのは兄としての気持ちではない。ティニーよ、アゼルと私は年の離れた兄弟であった。そして、父上は子を顧みるようなお方ではなかった。だから、私はアゼルにとっては兄ではなく……父、であったのだ。……アレは私を憎むだろう…その憎しみがアゼルを生かす糧となる。それでよいのだ。子は父の屍を越えて生きる。それが親子というものだ。」 アルヴィス坊ちゃま、私には納得できません。どうして、どうして、と泣く乳母を、アルヴィスは豪奢な椅子から立ち上がって、ゆっくり、そっと支えるように抱きしめた。 |
| 14周年短編その6 アルヴィスとアゼルの話。アゼルはアルヴィスを愛しながらも「怖い」と感じていますが、それではアルヴィスはどうだったのだろう。面と向かってはクールな対応をしていたかもしれないけれど、家族には恵まれていなかった彼は、年の離れた腹違いの弟には兄としてぎこちないながらも精一杯の愛情を注いでいたのではないでしょうか。ならば、バーハラでも、アゼルだけは助けようとしたに違いない、いや、そうあって欲しい。 そして、アゼルにもアルヴィスの真意はやがて伝わると信じたい。 |