約束 |
炎の色を赤黒いと感じたのは初めてだった。 バーハラ王城前の広場にはその空間を埋め尽くして炎が狂ったように激しく渦巻いていた。 未来が暗黒に閉ざされるかもしれないことは予測されていたとはいえ、このような地獄図の出現は、城を睥睨する小高い丘に陣取っていたブリギッドを驚愕させた。あそこには、一個師団を引き連れ、整然と整列してアルヴィス卿に謁見したシグルド達が居たはずだ。シグルドも、その他の公子公女も、ブリギッドの親しい顔なじみたちも、……そして彼女の連れ合いであるジャムカも。 あれでは……あれでは骨すらも残らず焼き尽くされてしまっている…… 両腕が弛緩し、左手から弓が、右手から矢が大地に落下する。その音も彼女の耳には入らない。 が、 赤黒く荒れ狂う炎の奔流が吹き散らされ、ぽっかりと空間が現れた。その限られた、そして残酷な運命から守られた小さな場所にはシグルド軍所属の同志達が、地に伏した姿勢からゆっくりと立ち上がっているのが目の良いブリギッドには見えた。 ――……あのふざけた振りしたお調子者の吟遊詩人が、本気の『フォルセティ』をぶちかましてくれたってか？……まったく、あんたはやるときにはやってくれるんだね、レヴィン!!―― そして、そこから一頭のペガサスが二人の人間を背に、空に向かって急上昇していくのが見えた。 ――忠義者の生真面目な優しいシレジアの天馬騎士。急げ！フュリー、そうだ、もっと速く！……あんたも、あんたがその後ろに乗せている誰かもあたしたちの希望の一人だ！……もっと、もっと速くだ！!!ッ!?――狙われている!？―― ブリギッドは間髪入れず地に落ちた弓を拾い、強弓を引き絞る。彼女の放った矢は、ペガサスを落とそうとしていたアーチの射出物を直前で弾いて逸らすことに成功した。 ――ジャムカ、あんたの言う通りだった。あたしがここにいることに、意味はあったよ。―― でないと、犬死にだからね、とブリギッドは笑う。 バーハラ城前では戦闘が始まっていた。……あそこから抜け出せねば命は失われる。……突破できたところで、城の外に配置された兵達が逃亡を黙って許すわけは無い。……実際、シグルドと共にバーハラへと向かった人々は、皆、覚悟を決めていたのだ。……王位継承権を持つ各国の公子、公女は監視され、登城しないわけにはいかなかった。ブリギッドのつれあいであるジャムカもヴェルダンの第三王子であり、例外ではなかった。ブリギッド自身は、ユングウィ公国の紛れも無い公女であり、王位継承権第三位の地位を持っているが、幼少の頃海で遭難し、海賊の首領の養女として育っていた。彼女が公女であることを示すのは、聖弓イチイバルの継承者の証である聖痕であるが、衣服を脱がない限りは誰もそれを確かめられない。……であるから、シグルドはブリギッドに、早急にバーハラ付近から逃げるように送り出したのだ。 しかし、ブリギッドはそれに従わなかった。……ブラギの司祭、クロード卿が受けた神託は多くの命が失われ、暗黒の時代の幕が上がることを示唆していたが、希望は潰えないとも報せた。暗黒の力が世界を覆う。だが、それを打ち破るかもしれない新しい光は存在する。……それがきっと新たな世代、自分たちの子供たちであることを、皆は無言のうちに了解していた。 ブリギッドはジャムカと共にバーハラに残り、最後まで戦うことを選択した。次代に一つでも多くの光を遺す為に。しかし、ジャムカは首を横に振った。……お前が命を落とす前に一つでも多くの命を救いたいのなら、俺から離れるべきだ、と。だからブリギッドはジャムカともよく話し合って、この丘の上に留まることを決めたのだ。自分の得物は弓だ。そして、自分には神が与えた強弓をひく力と、鷹の様な視力がある。もしも離脱できそうな仲間があれば、遠くから弓でそれを助け、一人でも多くの命を救い、更に、この丘のふもとを通る街道を通るだろう部隊を殲滅するのが彼女が自分自身に課した役割だった。当然、その後自分は死ぬだろう。懐に飛び込まれたあとの弓兵ほど無力な者はない。ジャムカとブリギッドはそれらのことを静かに話し、同じ場所で死ぬことはないが、どっちがどっちを待たせるにしてもそんなに時間はかからないだろう。だから、あっちに行ったらすぐに探しておくれよ、とブリギッドが言うと、ジャムカは、俺の目が良いのは良く知っているだろう。…何年たとうが、どれだけ離れようが、一万里先からでも見つけてみせる、と小さく頷いた。ジャムカは寡黙で、表情に乏しい男であったが、そのとき長く波打つ金髪を撫でながら連れ合いに見せた顔ははっきりと笑みを浮かべていた。 シグルドの指示で、主だった者達の中から数十人が既に軍を離脱していた。彼らの多くは、この丘の麓の街道を通って四方へと散っていったはずだ。……彼らを決して追撃させない。それが、ブリギッドの誓いだった。 離脱した者のうち、シグルド直属の三人の騎士のような、力のある者については心配がなかった。彼らはきっと、素早く対処し、然るべきところに身を隠して、十年以上先の蜂起の為に、シグルドの遺志を継いで行くはずだ。 死に急ぐ気持ちはないが、ブリギッドに心残りはなかった。最愛の双子の妹、エーディンは、伴侶であるミデェールと共にシグルドの息子セリスをはじめとした幼子達を守ってイザークへと逃れた。影となって働く護衛は腕利きであったし、ミデェールも見た目の線の細さと裏腹に頼れる男で、何よりエーディンを愛している。ブリギッドとジャムカの間に生まれた一人息子は、既にブリギッドの背後に広がる深い森を抜けて脱出しているはずだ。……お気楽極楽な盗賊少年の背に神弓イチイバルと共に負われて。 盗賊のデューは、ジャムカを兄貴、ブリギッドを姐御と呼び、何かとまとわりついてきたやたらに賑やかな少年だった。ここに居れば、食い物に困ることはないからさ、と兵士ではないのにヴェルダンからこのバーハラまでシグルド軍と共に移動し、城攻めのときにはその鍵開けの腕を買われて最前線にも参加し……しかし、デューの性格は戦場に出ても全く変わることはなかった。どんなに戦況が厳しくとも『明日はきっとイイ日だよッ！』と笑顔で言い、そのひたすら楽天的な振る舞いに生きる気力を貰っていた者は少なくない。 その盗賊少年に、ブリギッドとジャムカは、最愛の息子、ファバルを託した。七日前の夜、二人に呼ばれてその頼みを聞かされたデューは、その大きな瞳を更に大きくし、くるりと回してからぶんぶんと首を横に振った。 「え？え？えええ？どーしてさ？ファバルは姐御と一緒がいーじゃん。まだお乳を欲しがることがあるんだしさー。兄貴だって、一度はおいらたちとは離れるけどまた会えるんだろ？そーだろ？」 デューの言葉に返答はなかった。デューも、それ以上は騒がず、二人を困らせるようなことはしなかった。いつも子供っぽく振舞っていても、小さな頃から世の荒波に揉まれてしたたかに生きてきたデューは、頭もよかった。そうならないことを願ってはいたが、ジャムカも、ブリギッドも死を覚悟していることを彼は感じ取っていた。 「……兄貴、姐御、どうしておいらなんだ？……おいらはしがない盗人(ぬすっと)で、スリやかっぱらいや鍵開けは得意だけど、悪い奴が目の前に来たら全然戦えないよ。剣さばきはフィンやオイフェに別れる前に散々教えて貰ってたけど、おいらの得意は剣を振り回すことじゃなくって剣をかわす事なんだ。……おいら、自信ないよ。兄貴と姐御の大切な、ちっちゃなファバルを守って逃げるなんて無理無理無理。」 普段から寡黙なジャムカは立ってジタバタと両足を代わる代わる動かしているデューをじっと見つめていたが、その砂色の癖っ毛の上に大きながっしりした左手を置いた。 「無理なことなどない。……お前だから託せるのだ。」 デューは置かれたジャムカの手を外すようにぶんぶん首を振る。 「いや、兄貴、それおかしいってば！ここにはおいらよりも強くて頼りになる人がたくさんいるじゃん？」 首を振られても頭の上から外れなかったジャムカの手がゆっくりと動き、デューの頭を撫でる。 「……お前が一番信頼できる。」 納得できないよ、とデューは尚も首を振る。そのデューの肩にブリギッドの手が置かれる。そして、諭すように語り掛ける。 「……デュー。あんた、昨日、クロード神父に呼ばれただろう？その時に何を言われたか言ってご覧。」 デューの視線が落ち、いつも肩からかけてるいる、『お宝袋』を向いた。そこには外から見ても何か細長い棒状のものが入っているのがわかる。 「クロードさんは、おいらに言った。……あの、綺麗な真っ白な杖……神父さんがいつも持ってた『ヴァルキリーの杖』を持っていって欲しいって。……おいら、断ったんだ。だって、ヴァルキリーの杖って、大昔に竜神様から貰ったもので、死んだ人を復活させる力があるんだろ？そんな物凄いもの、おいらみたいなけちな盗賊、もってけないって。……でもさ、神父さん、言ったんだ。いつも通りの優しい声で。おいらは絶対にここじゃ死なないんだって。神父様にはおいらのまわりに普通の人じゃ見えない『幸運』の光が取り巻いてるのが見えるんだって。……おいらに娘が生まれたら、杖を渡してください、って神父さん言ったんだ。それも神託なんだって。おいらの娘が杖を持ってたら、きっと杖を使える人に巡りあって、一つの闇がはらわれるんだって。。おいら、それでも断ったんだ！だって、おかしいじゃないか。おいらがそんな役目するなんて。でもさ……神父さんがあんまり優しくいうものだからさ……兄貴や姐御ならわかるだろ？あの神父さんの頼みを最後まではねつけるなんてできないだろ。だからさ、おいら、杖、受け取っちゃって。」 ここに入ってる、と、袋を平手で叩くと、うん、そうだってね。あたしも神父から聞いたよ。とブリギッドは頷いた。 「……神父はあたしたちのところに来て言ったよ。デュー、あんたは絶対に生き残るって、未来に拡がる闇に負けない光みたいなものをあんたには持ってるって。……そんなことは皆の前では言えない。知れちまったら誰も彼も大切なものをあんたに託そうとするだろうからね。……あたしたちも気持ちは同じだ。……あんたが絶対生き残るのなら、あたしたちの大切なものを託さないはずがない、そうだろう、デュー。」 デューは俯いていた。 「デュー？」 デューはまたぶんぶんと首を振った。無造作に後ろで紐でくくった髪が彼自身の頬をぴしゃり、と打つ。 「おいら、嫌なんだよ！守る自信がないってのは本当だし、柄じゃないって思ってるし、そんなことより、おいら、託されるのが嫌なんだ。だって、それって、神父さんや、兄貴や、姐御がどうにかなっちゃうってことだろ？おいら、そんなこと考えたくもない。おいらみたいな半端盗賊が生き残って、希望になって、兄貴や姐御がそうならないってのが納得できない！」 デューが変声期を終えていない高い声で叫んだあと、静寂が訪れた。机に置かれたランプがたてる「ジジ……」という微かな音までが耳に入る。 やがてジャムカが口を開いた。 「勘違いはするな。俺も、ブリギッドも死にに行くのではない。」 ブリギッドも頷く。 「そうさ。死にに行くなんて殊勝なこと、ジャムカはともかくあたしに似合うわけないってことはあんたもわかるだろ？」 そうだ、死にに行くのではない。戦場に於ける死は結果であり目的ではない。誰もが死の為でなく生きるためにいくのだ。……ただ、今回ばかりは「生きる」のが自分達自身ではないだけで。 デューが蚊の泣くような声で言う。 「……ジャムカの兄貴は、今まで一度だっておいらに嘘ついたことなんかなかったよね？……嘘じゃ、ないんだよね？信じて、いいんだよね？」 そして、ジャムカの腹に突進するようにしがみついていってしまったので、ジャムカはブリギッドに目配せし、ブリギッドは奥の部屋に一度ひっこむと眠っているファバルを暖かな子供用のマントにくるんで胸に抱き、そっと部屋から出た。ブリギッドが出会う前からデューはジャムカの弟分だったのだ。ジャムカに任せた方がきっとうまくいくだろう。……冷え冷えとした暗い廊下に出たブリギッドに気付いた見張りの兵士が敬礼したが、ブリギッドは軽く会釈して砦の中庭から空を見た。 「いい月だね。」 少し黄色を帯びた暖かな光の満月を目を細めて見、腕の中の我が子に、あんたはあたしの分まであの綺麗なお月さんを何度も見ておくれよ、と囁いてからふくふくした頬に頬ずりした。 次の朝にはデューはいつもの元気者に戻っており、ブリギッドに向かって、おいら、ファバルを守って一足先に逃げるからさ、姐御は兄貴と一緒にあとから必ず来てくれよ！ま、大船に乗った気でいるといいや、と胸を叩いて見せた。盗賊少年のあまりの変わりように、あんた、どういう嘘ついて、デューをあんな具合に納得させられたのさ？と尋ねると、ジャムカは、ま、付き合いの長さだな、それから俺はお前よりは説得力のある話ができる。と小さく笑った。 今、デューはどこまでいっただろうか。砦を出たのは二日前だったが、シグルド軍の周囲にはバーハラの斥候が多数居たはずだ。見つからずに済んだだろうか。デューのことだ。誰何の声をかけられてもきっとうまく誤魔化せたに違いないけれど。 ――我が子のことを想いながらもブリギッドは狩人の目をして眼下に広がる戦場を眺める。 ああ、酷い戦況だ。……それでも想像したよりはまだマシか。弓騎士隊の姿は見えないが、剣士隊の一角が応戦している。相変わらずおちゃらけ吟遊詩人は鬼神の如く清き風の魔法を使い退路を確保している。どうか逃げ延びておくれ。あたしはここで最期まで援護する。もうあたしには思い残すことはない。愛する息子も、竜の神から託された神弓イチイバルも、可愛い弟分が守ってくれている。だから、あたしはこの腕が力を失くすまで弓を引き続ける！ ガサ、っと音がした。ブリギッドの背後、森の中からだ。ブリギッドの背を冷たいものが伝う。敵がここに？何故？…… ブリギッドは地面に矢を向けたまま弓を引き絞る。 相手が複数ならば、助かる可能性は殆ど無い。しかし、一人だったなら……相手の得物が自分を切り裂く前に眉間か心臓を射抜ければ…… ガサ、ガサガサガサ……丈の長い草が揺れ、砂色の髪の頭が顔を現し、陽気な声がした。 「姐御！！」 そこにはいつもブリギッドが使っていた紐を使ってファバルを背に負ったデューが草の切れ端を頭につけてひょっこりと立っていた。 「姐御！遅くなっちゃって御免よ！さあ、行こう！」 そう言って森の奥を指差すデューにあんぐりと口を開け呆然とすること数瞬、ブリギッドは走り寄り、デューの胸倉を掴み引き寄せた。背の低いデューの足が宙に浮き、それが楽しいのかファバルがキャッキャッとはしゃいだ声をあげる。 「このスットコドッコイ！なんでこんなところで油を売ってんだい!?あんたはとっくに森の向こうに抜けてる筈だろうが！」 少年は足をバタバタさせムッとしつつ、ハシバミ色の大きな瞳でブリギッドを見据える。 「これからすぐに行くよ！姐御と一緒にさ！姐御はファバルの母ちゃんなんだよ。やっぱさ、一緒でないとダメじゃないか。おいらが一人で行けるわけないだろ！」 ブリギッドはデューを地面に下ろすと、振りかぶって少年の頬を盛大に平手打ちした。 「何をいまさら！……あんたは……あんたは、ジャムカやあたしの覚悟を蔑ろにするつもりかい。……さあ、行くんだ。ぐずぐずしていたらやがてここにも兵が来るだろう。そうしたらおしまいだ。」 デューは下を向いている。表情は見えず、身動き一つしない。 デューが背負っている最愛の息子の柔らかい頬にもう一度触り、抱きしめたくなる衝動を抑えながらブリギッドは続ける。 「あんたはまだ子供だ。世界の大きな流れは見えていない。見えているのは身の回りの小さなことだけだ。……行きな。行くんだよ。あんたはあたしらの希望だ。あんたがいるからあたしはここに残れるんだ。」 すると、わなわなと腕を震わせていた。デューがぐっと顔をあげて怒鳴った。 「なんだよ！大きなことがそんなに大切なのかよ！小さなことはどうだっていいのかよ！おいらにはそんなことわかんない。わかんなくっていい、どうだっていい。おいらにとって大切なのはジャムカの兄貴との約束を守ることなんだ。……姐御と別れた後、おいら、兄貴に言われたんだ。ここに来てファバルを守って姐御と一緒に逃げろ、って。嫌がるだろうけど、絶対に一緒に逃げろ、って。」 ブリギッドは目を見開く……この少年は一体何を言っているのだ。ジャムカは……彼女の大切な夫は、未来の為に自分達の命を捧げると互いに誓った筈だ。あれは嘘だったのか。いや、彼は嘘をつけるような器用な男ではない。いや、彼は嘘などついていなかった。 “お前が命を落とす前に一つでも多くの命を救いたいのなら、俺から離れるべきだ” “何年たとうが、どれだけ離れようが、一万里先からでも見つけてみせる” ああ、そうだ、あの人は嘘など一つも言っていない。あたしに一緒に死のうなどとは一言も言っていない。 しかし、デュー、あたしは、といいかけたとき、デューの右手が高く上がり、次いで物凄い音がして左頬を打たれた。向き直れば、デューがただでさえ大きな瞳を一杯に見開いて、滝のように涙を流しているのだった。……ブリギッドはデューが泣いているのをはじめて見た。……そう、初めてだ。オイフェやフィン、シャナンといった齢若い者が号泣していたのを彼女は知っている。いや、号泣ではないが、大人たちの瞳に涙が溢れそうになっているのを彼女は何度も見てきた。酒が入ってのことであったが、あの豪放磊落なベオウルフですら、瞳を潤ませたことがある。しかし、この日頃お気楽極楽な盗賊がこのように顔を歪ませ、鼻水を垂らしながら恥ずかしげも無く声をあげて泣いているのは初めてで、ブリギッドは恐慌に似た感情を覚えた。 「……おいらに、……おいらに、ジャムカの兄貴との最期の約束、破らせないでおくれよ！姐御、お願いだよぅ！約束……兄貴との約束守らせてくれよぅ！お願いだから……お願いだから……」 ああ、なんて面倒な男達なんだろう。ああ、なんて、ああ、全く…… ブリギッドは手甲で目の辺りを一度拭い、デューが布でぐるぐる巻きにしてからお宝袋に括り付けていたイチイバルを握り、その紐を解き、包みから優美な弓を開放した。弦の調子を確かめているブリギッドの姿を見、デューはぱああっと表情を明るくする。言葉はなくとも、今のブリギッドの姿が全ての答だ。 背負われた息子の額にキスをしてから、ブリギッドはわしわしとデューの髪をかき回した。 「どうしたんだい。早く行くよ！……」 「う、うん！あ、そうだ、兄貴から手紙を預かってるんだ。姐御に渡すようにって。はい、これ。」 封蝋で厳封されている封筒を受け取り、中を開くと、そこには一言だけが書いてあった。 『俺の弟分を守ってやってくれ』 さっき止めた涙がまた溢れてきた。 (最期まで、なんて反則するんだい。デューはあたしたちとの約束でファバルを守らなくちゃいけなくなった。あんたとの約束で、あたしを守らなくちゃいけなくなった。あたしはこの手紙でデューを守らなくちゃいけなくなった。結局、あたしは死ねなくなっちまったじゃないか。……ジャムカ、あんたは………………最後の最後で、あたしと、ファバルと、デューと、まとめて全部守っちまった。……全く、あんたって奴は！……あたしは……たったの二年だったけどあんたの連れ合いだったことをいつまでも忘れない！) 「さあ、この森は深くて抜けるまで手ごわそうだ。急ぐよ！」 「姐御、ヴェルダンの森で鍛えたおいらの勘に任せてよ！二日前にここいら歩いて、土地者のじいちゃんにも抜け方はもう聞いてるしさ！で、難所を抜けたらイイ感じの洞窟と水場があるっていうから、今日はそこで野宿な！小川を辿っていけば集落がある。」 「いいねえ、そこで厄介になるかどうかは様子見だね。危ないと判断したら野宿を続けて川を下って海に出りゃいい.。……海まで出りゃ、元海賊の本領をあんたに見せてあげるよ。食料は大丈夫かい？」 「もちろん！おいらに限ってぬかりはないってば。」 「でも節約は必要だ。洞窟で火を起こせるようなら兎でも狩って、それ焼こう。」 「うおぅ！おいら、兎、大好きさ！」 「さ！出発だよ！後ろのことはあたしに任せてあんたは森を抜けることだけに専念しな。さあ、ぐずぐずするんじゃないよ！」 デューが歩き始める。彼の歩調に合わせてファバルは楽しげに声をあげる。ブリギッドは今一度眼下に広がる戦場の様子を目に焼き付けてからイチイバルをすぐにひける様しっかりと握りなおし、大切なモノを守るために森の中へ消えていった。 |
| 親世代「最後の戦い」のエピソードの一つ。子世代で提示したいくつかのこととも繋がっています。デューはこの時点ではしがない盗賊少年で、子世代の誰かの親にもなっていませんが、我が屋設定ではクロード神父にヴァルキュリーの杖を託されたことになっています。何故デューだったのか？その理由もこの話で提示しました。 鍵開けの腕を買われて砦攻めには狩りだされるものの、我が家のデューは護身以外では武器をふるうことはありません。子世代のパティと同じく彼が軍内の「希望」だったらいい、と思っています。ブリギッド姐さんが戦線離脱するのは、公女にあるまじきふるまいかもしれませんが、こうしてデューと共に退くことが、結果として未来に光をもたらしています。勿論、姐さんには死んで行ったシグルド達への後ろめたさは一生付き纏っていきますが、それを正視し生きていく強さが姐さんにはあるだろう、と。そして、ジャムカとの約束はずっと二人の支えになっていきます。 この後、逃亡先で二人は「約束」を守り続け、やがて新たな絆が結ばれてパティが生まれることになります。その辺りのことをいつか書きたいものです。 |
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