イザークの風と共に
「はぁッ！」 気合い一旋、練習用の刃を落とした片手剣を振り下ろす。すんでのところでそれを剣で受け止め、渾身の力を込めて押し返したスカサハは一歩飛び退いてから片手を上げた。 「ラクチェ、ここまでにしよう。もう日が暮れる。」 風が吹き渡るイザークの草原を一日中照らし続けた太陽は、その姿を西の地平へと随分と傾かせている。その様子をちら、と見たラクチェは、腰まで長く伸びた髪を肩から払いのけると頷いた。スカサハはすぐに薄く砂を敷き詰めた訓練場から、イザークの城内へ続く回廊へ歩を進めたが、双子の妹のラクチェは、剣を真剣へ持ち変えて素振りを始めた。連続した素早い剣の動きに、辺りの空気が切り裂くような特殊な音をたてる。 「ラクチェ、もういい加減に休め。朝稽古、午前中は子供達の指導、午後は兵士達の指導、そして、俺と模擬戦、いくらなんでもやりすぎだ。」 と、妹はぎッ、とスカサハを睨んだ。 「修行には“しすぎる”ということはない。……私達はシャナン様からそう教わって育ったのではなかったか？」 近頃、以前にも増してぶっきらぼうな口調になった妹にスカサハは肩をすくめてみせた。教練場の傍の椅子に腰掛けていたユリアは立ち上がって首を振った。 「ラクチェお義姉さま。修行して身体を壊してしまっては元も子もありません。ほら、それに……」 新妻が指差す方にスカサハが頭を巡らすと、回廊から、城主であるシャナンが歩いてくるところだった。 「ラクチェ、そろそろあがりなさい。……鍛錬は十分だろう。」 「しかし、シャナン様。」 「……近頃、お前の動きは機敏になった。私が目で追えぬ事もあるほどに。しかし、同時にお前の心がざらついていることも感じ取れる。……自覚はあるか？」 「……はい。……」 シャナンとラクチェが話をしている間、ユリアは心配そうに義姉を見ていた。 「そういえば……パティに聞きましたが、ヨハン様がしばらくお越しになっていらっしゃらないとか……ラクチェお義姉さまは、ヨハン様のことを心配していらっしゃるのでしょうか。」 ヨハンの名前が出たことに耳ざとく反応したラクチェはくるっと振り向いてきっぱりと言った。 「あの昼行灯のことなど心配などしてはいない！」 目を丸くするユリアに、ラクチェは鼻の辺りを紅くしてペコリと一礼した。 「あ、怒鳴ってすまない……シャナン様、やはり私は暫くここで素振りをしてから……」 剣聖は汗をかいたラクチェの頭にぽふ、と手を置いた。 「もうすぐ夕餉だ。そろそろ戻らぬと…」 遠くにパティの姿が見えた。小さな体のどこからそんな大声が出るのか、よく通る声で叫んでいる。 「ラクチェ！お湯をあびたら、すぐに食堂へ来て。今日は久しぶりにスカサハとユリアちゃんが来たから大御馳走だよ！遅れてきたら冷めちゃうんだから!!」 そういってすぐに姿を消した元盗賊の娘を愛情深く見送ってからシャナンはラクチェの頭をポンポン叩いた。 「……だ、そうだ。遅れたら、パティは烈火の如く怒るぞ。……それとも、ラクチェ、お前は噴火を起こしたパティをうまく宥めてくれるのか？」 あわてて剣を莢に戻し辺りの片づけを始めたラクチェに、スカサハとユリアは微笑んだ。 夕餉はとても楽しいものだった。普段は厨房につめっきりのパティも特別な客人が来る時だけはシャナンから直々に厨房頭に話がなされ、席を共にする。煮込み料理の中身を得意げに解説し、イザークで起こった珍しいことや楽しいことを次から次へとはしゃいで話すパティに、ユリアも白磁の頬を紅潮させながら少し前にバーハラに滞在していたときのセリスやラナの様子を伝え、一同よく笑い、よく食べた。ラクチェも食事中はにこやかに会話に参加していたが、ヨハンのことに話がおよぶと仏頂面になり、パティが焼いたパイを食べ終わると、そそくさと席を立ってしまった。 「やはり、ヨハン殿のことが気になるのだろうな……」 食後の茶を口に運びながらシャナンが呟くと、ユリアが頷いた。 「私は自分の目で見たわけではありませんが、セリスお兄様からドズルの状況をうかがいました。……随分大変なようですね。貴族が勢力争いをし、不作で農村が荒れ、そして、イザークの女性をお母様とし、イザークで育ったヨハン様を領主として認めない方々も多いのだとか。ヨハン様に聞こえるところで『父殺し、兄殺し、弟殺し』と声をあげて憚らない方まで何人もいるのだと……」 「……問題が山積みなのはわかるが……」 シャナンがこつ、と卓を指で打つと、うんうん、とパティが頷いた。 「そうそう、いっくら忙しくっても、顔見せてくれるだけでいいじゃない！ヨハンさんって、『転移の指輪』持っているんでしょ！ぴゅん、って来て、ぴゅん、って帰ればいいんだし。三月前までは毎週来てたのに！……もっともヨハンさんが来て、毎回のようにラクチェを讃える歌を捧げてるとき、ラクチェはげんなりしてたけど…」 と、スカサハが言った。 「違う違う。……ヨハンさんがここに来たって、ラクチェの不機嫌は治らないんだ。……いや、むしろ、もっと不機嫌になるかもな。」 どうしてですか、と問うたユリアに、君にそれがわかるようになるようなことは俺はしないから、とスカサハは笑った。 「でも！何にしても、会った方がいいと思うんだけどな。……会って不機嫌になるんだとしても、思いっきり喧嘩しちゃえばいいんだわ。お兄ちゃんもお父ちゃんもお母ちゃんも、『口をきかないのより喧嘩の方が何倍もいい』っていってたわ。アレコレ思いつめて考えていると、思い込みばっかりになって、ますます不機嫌になっちゃうのじゃないのかな。」 ぷうっと頬を膨らませるパティに、シャナンは、ヨハン殿にも何か考えがあってのことだろう、と優しく言ったが、パティはむぅー、と口を尖らせ納得が行かない表情だった。 考えがあるなら、その考えを報せたらいいではないか。秘密なんて良くないことだ。秘密にしていいのは、誕生日の贈り物の中身とか、森の中のとっておきの場所とか、この間強欲な金貸しから失敬した証文のことだとか(←これはシャナンにばれたらどんなにお説教されるか考えると身が縮む)……とにかくそういうものだ。今のままでは何もわからない。もしかして、ヨハンは(あの頑丈そうな男のことを考えるとありそうにないが)病気かもしれない。ここに来ることを忘れているほど多忙なのかも(ラクチェにベタ惚れの状況を考えると絶対ありえないが)しれない。 とにかく、何がどうなっているか、わからなければ始まらない！ あんな風にラクチェが不機嫌なのは良くないことだ。 美辞麗句がキラ星の如くに並んだ愛の詩をヨハンから贈られ、『わかったからもうやめろ！』と怒鳴りつつ、ちゃんとその瞳に優しい光を浮かべている。そんなラクチェがパティは好きだ。……それに今のままじゃ “ラクチェが指導してる兵隊さんたち、しごき抜かれて倒れちゃうよぉ。” 彼女は自室に帰ると以前にシャナンから貰った紙とインクを物入れから取り出し、ろうそくの心細い灯りの下で、鵞ペンを削ると唇を舌で舐め舐め苦労して手紙をしたためた。そして、仕上がりを見て満足げに頷くと封筒に入れてしっかり封をし、もうすっかり夜になったイザークの城下町へと駆け出していった。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ パティがどれほどの人脈を持っているのかはシャナンすらわからない。しかし、恐るべきことに、国同士の正式な手紙のやり取りよりも早く情報が伝わっていく。それは、ヨハン卿がそれから３日後にイザークに現れたことからも確かだろう。 その日もラクチェは教練場に出ていた。真昼の少し前だが、休日の為、兵士達はおらず、シャナンは政務に就き、スカサハとユリアは懐かしいティルナノーグへと出かけている。真剣を真っ直ぐ構え、横一文字に見えない敵を凪ぐ。戦乱の時が終わってしばらく経つが、その技の冴えは全く変化がない。平和が訪れたというのに、剣の腕を磨く姿勢は異様なまでに厳しい。『解放軍の死神』『戦乙女』。その通り名はイザーク城で今も健在だった。 「ラクチェ！」 大きな人影が走ってやってきた。 『その光輝く瞳に桃源郷の風景が見える』だの『幾千の紅薔薇より艶やかで幾万の白百合より清楚な』だのといった接頭語無しで名を呼んできたことからして、相当急いで来たのだろう。ラクチェは不機嫌な顔のまま、すっと剣を鞘に収めた。『昼行灯』『詩好きの奇行士』と渾名されるドズルの斧騎士はラクチェの前に立つと大きな手を彼女の両肩に置いた。 「ラクチェ、鍛錬などしていてよいのか。」 「……ヨハン、それはどういうことだ。」 「君が病気になったと聞いた。」 「……誰に？」 「フィー殿がシャナン殿からの書簡を携えてやってきた。」 「…………で、私はどこか具合が悪いように見えるか？」 ヨハンは目を見開き、にっこり笑ったラクチェの血色の良さそうな顔を目にしてふう、と大きなため息をついた。 「……我が愛しの女神、これはいったいどういう趣向なのだろうか。確かにあの手紙の筆跡はシャナン殿のものだった……それに、先程パティ殿とばったり会ったのだが、彼女も言っていたぞ。君が大変だからすぐに会うようにと。」 今度はラクチェがふう、と大きなため息をついた。 「……そうか、鍵開けだけでなく、そういう技術も身につけたのか、あの子は。……手紙はおそらくパティの偽造。あの子は手先が器用だから。……いや、私は全くの健康体だ。ただ、不機嫌の極みだったのだろうな。パティも心配したのだろう。叱らないでやってくれ。」 ラクチェが事の経緯を話すと、ヨハンは腕組みをした。 「ふむ。では責任は私にあるようだな。心配をかけた“盗賊の君”にも謝っておかねばな。そしてシャナン殿に彼女を叱らないでくれと言わねば。スカサハ殿にもユリア殿にも一言……」 それからヨハンは大仰に深く一礼した。 「我が希望の星たる姫ぎみよ。ドズル国内は生憎の凸凹道が続いておりまして、姫のそのたおやかなる白き足を挫くことのないよう、道普請の最中。ご連絡せずに居たことはお詫びいたしますが、程なく悪路は均され、歓迎の赤絨毯を敷き詰める予定でおります。……その時までお待ち下さいませ。」 ヨハンは頭上から、長い間放って置かれたことを怒る言葉が振ってくるのを待ったが、かけられたのは、静かな呟きだった。 「私の足は華奢ではない。どんな悪路でも歩けることをヨハンは知っているだろうに。赤絨毯など無用。私が通ってきた道は血で紅く染め上げた荒野だ。」 ヨハンは身を起こした。 「……ドズルの様子はおおよそのことはわかっている。時折ここに寄るフィーも、いろいろと報せてくれたし、パティも城下の商人達からの話を聞いて情報を仕入れていたからな。……ヨハン、お前の気持ちは判る。国内が落ち着くまでは私に会わぬと心に決めていたのだろう。しかし、ヨハン、お前は私の気持ちを全く判っていない。」 「…………私の決意を理解しつつ、それでも私に会いたかったということなのか。」 「違う!!……全く!!何で、何で判ってくれないのだッ！」 口を一文字に引き結び、ヨハンを睨むラクチェの顔は、凄みがあるというより、むしろ可愛らしいものだった。 「ヨハン！あなたは何故私をドズルに迎えようとしている？私はあなたの横で何不自由なく、何の憂いもなく暮らしていけばそれでいいと思っているのか？あなたは一体全体私がドズルで何をしようとしているか理解しているのか？……私が行けばそれだけで軋轢が生じる。あなたはイザークとドズルの両方の血をひいている。それは私も同じ。私達がドズルに行けばそこには必ずイザークの風が吹く。ドズルの慣習を知らず、ずっとイザークで育った私達はドズルの風を知らない。弟殺し、兄殺し、父殺し……ドズルの人々は、余所者である貴方の生き方を否定するだろう。命を狙うものがあってそれが当たり前。あなたの本当の姿を知らなければ私もきっとそうしているはず。……だからこそ私はドズルに行くのが嬉しい。私には成すべき役目があると思うから。」 「君の…役目？」 ラクチェは左手を剣の鞘にあて、右手で柄を握った。 「……何を……するというんだ？」 「……ヨハンの背は私が守る。……ヨハンが一流の演技でへらへらの笑顔でのらりくらりと、その実は頭を物凄い速さで回転させて政(まつりごと)をしている間、私はずっと腰に剣を帯び目を光らせていよう。……ヨハンが思うとおりにふるまえる様に。」 「…………」 「アサシン(暗殺者)の十人や二十人、苦もなく斬って捨てる自信はある。そのためにも鍛錬を続けているのだ。」 「……………………」 「政敵を何人か切っても構わない。」 ヨハンは『政敵にはいろいろと使い道もあるのだから、滅多矢鱈に斬らないで欲しい』と苦笑した。そして、ラクチェの細い腰を両手で掴むと高々と空に向かって抱え上げた。 「よいのかな。……城では陰湿な仕打ちや陰口のような、剣では決着がつけられないことも数多く待っているのだが。」 ラクチェはくす、と笑った。 「私がそのようなことを気にする人間だと思うか。……第一、殺気以外には生憎鈍感で気付くかすら疑問だ。」 「我が勝利の女神は、どのようなことにも白旗を振ることはない、と？」 頷きかけたラクチェは、眉根に皺を寄せた。 「……ヒラヒラしたドレスだけはできれば着たくない……それより……ヨハン、下ろしてくれ。」 素直にヨハンがラクチェを地上に下ろすと、イザークの姫は少々げんなりした表情で言った。 「気付いたのだが……さっきから二人してなんだかんだと話を続けているが……私はヨハンから“貴女無しではこの世は漆黒の闇、いや、無”だの“貴女の瞳は星の輝き、貴女の声は小鳥の囀り”だのいや、もっともっと恥かしい物言いを散々されてきたが……」 「ん？……我が愛しの宝玉、何が言いたいのかな？」 「……求婚された覚えは一度もない。」 「はぁ!?そ、それは迂闊だった!」 二人は顔を見合わせ、ついで発作に襲われたように笑った。 ヨハンが跪き、腰に挟んだ手斧の柄をラクチェに向けて地面に置き、一切の飾り気のない言葉で妻になって欲しいと告げるとラクチェはまさに女神の微笑みを未来の夫に投げかけたが、悪戯心を起こしてこう言った。 「……嫌だと言ったら？」 ヨハンは負けなかった。 「私を受け入れてくれるまで、我が愛しの姫君を讃える詩(うた)を日に三篇贈り届けますよ。イザークの吟遊詩人に頼んで朝昼晩と城下町で高らかに謳いあげて貰うとしましょうか。」 「……それだけは勘弁してほしい。」 そうしていきなり抱きつかれたので、ヨハンは結局求婚のはっきりした答えは聞けず仕舞いだった。 二人は上機嫌でイザーク城内に入り、厨房を目指した。そこでは、下働きの一人として、パティが忙しく昼食の用意をしていた。イザークの公女とドズル王の突然の訪問に一同がかしこまる中、パティは幸せそうな二人を見て満足そうに頷いた。 「一杯喧嘩した?」 「した。した。めいっぱい、ね。」 そう、よかったね、もう大丈夫だね。お昼もうすぐだよ、ヨハンさんも食べてってね。とおたまを振り回すパティの頭をヨハンは撫でた。 「心配をかけてしまったね、“天使の羽持つ盗賊の君”よ。……今回は見事に君のぺてんに引っかかってしまったが、今度は機会を見て君のために策略を練るとしよう。楽しみに待っているようにね。」 何のことかパティには判らなかったが、ヨハンの顔を見て、それはきっと何か楽しそうなことなのだろうと思い、はい、と元気良く返事をした。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 世に言う「聖戦」後のドズル公国の辿った道は平坦なものではなかった。貴族同士の勢力争い、旧王家派と新王家派の対立。国内がまがりなりにも落ち着いたのはヨハン卿が妻を迎えてからしばらくたってからのことだった。しかし、民達は破天荒な領主夫妻を愛した。昼行灯と戦女神。それは彼らの人となりを正確に写したものではない呼び名であったが、全くの見当違いでもなかった。そして、彼らが生きた時代には、旧態依然としたドズルの古い澱んだ空気がすっかり吹き払われたのは確かなことだった。それは二人が運んだイザークの風そのものであったが、その新風を人々が「ドズルの新しい風」と呼ぶまでにそう時間はかからなかった。 |
| 15万HIT記念リクそのイザーク＆ドズルその①です。レンスターのアルテナとフィンが同じ向きを向いて進む二人だとすると、この二人は互いの体温を身近に感じながらも、何だか背中合わせなような気がします。聖戦後はドズルに落ち着く二人ですが、ネールの血をひくといっても、彼らはイザークで生まれイザークで育ったのですよね。そんな彼らが領主としてドズルを治めるのは困難であると思いますが、乗り切って欲しいと思います。 パティは相変わらずイザーク城の厨房で働いていますが、イザーク＆ドズルその②で彼女の行く末を書こうと思います(ヨハンも何か画策しているようですし) しかし…結局これもまた王道の恋愛モノとは何か違うような… |