君がここに在り、僕が在る |
後に「聖戦」と呼ばれる戦いに参加した人々で、竜の血をひく戦士たちと共に戦った者たちは、その雄姿が目蓋にくっきりと焼き付いて離れないという。新生グランベルの初代の王となった聖剣ティルフングを受け継ぐセリス王は勿論、バルムンクを持つイザークの剣聖シャナン王。温かな風の魔法、フォルセティを操るシレジアの賢王セティ、そして神々の武器はもっていなくとも、レンスターのリーフ王、ドズルのヨハン王、など、“流石聖なる血筋の方々だ、初めてお会いしたときからその存在感に圧倒され、神々しささえ感じた、武器屋魔道書をその手に携えると不思議な波動が発散され、ときには光さえ見えた”、と家で、酒場で、他の人々に語った。 竜の神々の血をひく人々は、神そのものに近いのだ、と民達は彼らを畏れ、敬った。 ところが、人々の心に強い思いを残しながら、少しも「聖なる血筋」を感じさせなかった者も少数ながらいた。盗みを生業としていたパティ。そして、踊り子だったリーン……しかし、彼女ら二人は、自分が公女だと知らずに育ったのだ。 ……幼い頃から自分が公女だと知っていて、しかし、兵士達から公女だとは認識されていなかった少女が一人居た。それがユングウィ公女、ラナだった。 ラナは、母親であるエーディン公女にシスターとしての教えを受け、幼い頃から癒しの杖を使うことができた。母の心配を他所に、『一人でも多くの怪我人を助けたい』と兄と共にセリスを盟主とする解放軍の一員となってから、彼女は表舞台(前線)に立つ他の公子・公女たちとは違い、ずっと傷病者の収容されている場所に居て杖を手にしていた。いや、癒しの杖を扱っただけではない。ラナは怪我人の傷を洗い、薬を塗り、包帯を巻き……すべての治療の仕事を一心に行った。悪いものが身体にはいってしまった病人を徹夜で看病したことも何度もある。足を切断しなければならなくなった兵士の身体を、看護人仲間と一緒に懸命に押さえつけたこともある。膿んでただれた傷口から震える手で蛆虫を取り除いたこともある。もう助からないとわかっている病人の手をしっかり握って、心の中で泣きながらも“怖くありません、怖くありませんよ”と必死に微笑を浮かべ、呼びかけながら祈り続けたことも幾度もある。…………彼女には髪をとかす暇も、化粧をする暇もなかった。……いや、ラナがそうしたい、と少しでも思えばそうできただろう。しかしラナはそうする時間があったなら、傷病兵の傍に居たいと考えたのだ。美しく装うために人が一人死ぬとしたら…………ラナはそう考えただけで恐ろしかったのだ。兄も、従兄弟も、幼なじみ達も……大好きな人が死んだら自分は正気ではいられない。目の前に居る、名前も知らない怪我をした兵士も、きっと誰かの大切な人なのだ。だから、彼女はその大切な誰かに成り代わって手当てしようと決めたのだ。 更にラナは解放軍にあって、自分が替えが効かないような重要人物ではないことも重々心得ていた。ナンナのように馬を駆って戦場で怪我人を癒していくことはできないし、エッダのコープル公子のような高等な癒しの術を使うこともできない。……だから彼女はずば抜けた能力を持っている者より努力して休むことなく頑張っていくのだと心に決めていたのだ。それが、彼女をずっと装うことから遠ざけて傷病者のもとにとどまらせた。 戦場においては、白い僧衣はすぐに血や膿で汚れてしまう、生成りの布で押さえているため折角の綺麗な金髪は誰の目に触れることもない。いや、ラナは自分が綺麗な髪をしているなどと思いもしなかったのだ。実際、装うことをせず、前髪をピンで留めることもしない小柄なユングウィの公女は他の公女たちと違い「美しい」といわれることは殆どなかった。不思議な波動を感じさせることもなく、コープルのように復活の杖を使えるわけでもなく………… それでもラナは傷病兵からは慕われていた。彼らはラナがユングウィ公女だとは初めは夢にも思わず、何かの拍子にそれを知ってからも中々信じることができなかった。実際、彼らにとって、ラナが公女だろうがそうでなかろうが、評価に変わりはなかったのだ。彼らはラナを「俺たちのちっちゃな可愛い女神さん」と呼んで傷が癒えて戦場に戻るまで、或いは天国に旅立つまで、献身的に看護してくれるラナの幸せと無事を祈らないものは居なかった。 そして……「聖戦」が終わった。 ラナは、血と膿で汚れた世界から解放されたはず……だった。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ バーハラ城の二階にある空中庭園の外れをラナは一人歩いていた。初夏の午前の日差しがラナの白いドレスを優しく照らしている。そよ風が吹くと、ドレスに付けられた白い繊細なレースがふわりと揺れる。髪に手をやると、指が小さな真珠を綴って作った髪飾りの紐にかかった。 ラナは、はあ……と息をついた。 ついひと月前まで、彼女は教会の人々と共に、文字通り東奔西走していた。戦での傷がもとで今も苦しんでいる人々を救済するための施療院を設置し、孤児院を作り…………そのときにも彼女は現場に立って、汚れ仕事をすすんでやってきたのであった。小さな手は戦時と同じように荒れてがさがさし、肩までのばしたたんぽぽ色の髪はきゅっと後ろで一つに縛り……踵の高い靴も、ふんわりとしたドレスも彼女は拒否して、彼女の仕事に没頭してきたのだった。それは必ず誰かしかがしなければならない仕事であったし、彼女にはそれを手伝える力があったから。 しかし、世界はいきなり変わってしまった。 施療院設置の仕事に一段落がついたところで、ラナはグランベルの王位についたセリスに呼ばれた。そして、いきなり、婚約を切り出された。ラナは驚愕で声が出なかった。セリスが自分に寄せる気持ちは兄が妹に寄せるものと同じだと思っていたし、このバーハラにラナを呼んだのも、ラナが施療院設置の手伝いがしたいと申し出た意志を汲んでくれたからだと確信していた。…………今まで恋人だと言われたことも抱きしめられたことも、接吻されたことも一度だってなかったのに…………セリスのことを心から大切に思っていたラナであったが、そのときには震える声で『あ、あの、少しだけ待って下さい』と言う事しかできなかった。セリスは少し落胆したようだったが、すぐに微笑んで昔からよくそうしてくれたようにラナのたんぽぽ色の髪をゆっくりと撫でて『御免、いきなり切り出してしまってびっくりさせてしまったね……私はいつまでも待つから』と優しく囁いてくれた。 嬉しいはずなのに……胸の上に何か重い塊をトン、と置かれてしまったような気がして、ラナは沈み込んでしまい、ラクチェに相談の手紙を書いた。しかし、ラクチェからの返事が来ないうちにセリスから再び声をかけられ……今度はラナは躊躇しながらも首を縦に振った。ただ、彼女が顔色を青くし、身を固くした様子を見、セリスは彼女を抱きしめることなどはせず、前のときと同じように髪を撫で、『ありがとう』とただそれだけを優しく言った。 セリスとはあれから何度か話をしたが、ラナの胸のつかえはとれなかった。……今身につけているドレスは婚約式のためのものだった。ラナはもう一度真珠を綴って作った髪飾りに手をやった (この髪飾り一つだけで、施療院を三月は維持できるお金になるわ……このドレス一着だけで、孤児院の沢山の子供達の服をいっぺんに買えるわ。……唇に塗っている紅も、白粉もきっと随分お金がかかっている……生きていくのに絶対に必要というわけではないのに…………私はここで何をしているのかしら。) 持ち歩いていた小さな巾着袋――それにも金糸銀糸で豪奢な刺繍がなされていた――を開け、絹のハンカチを取り出すと、ラナは乱暴に口紅を拭った。白いハンカチに赤い汚れがつき、それを見ているうちに何故か涙がふくふくと湧いてきた。 するとバタバタ、と誰かが走ってくる音がした。顔を上げると、セリスその人がこちらに向かって走ってくるところだった。しかし、どういうことだろう。婚約式の支度をしていた途中だったのか、白いシャツを身につけているが、上着は着ておらず、靴はといえば明らかに簡素な部屋履きのままだった。 「セリス……様？」 セリスはラナの前まで来ると、長身を腰から折り、膝に手をついて、はあ、はあと息をした。 「君付きの侍女が、君がいなくなったと騒いでいたので……」 「…………それで、走ってきたんですか!?私なんかのために!?」 「当たり前じゃないか！」 そこで、初めてセリスはラナの目から溢れそうになっている涙に気がついた。 「…………泣いて……いたの？」 ラナが慌ててごし、と手の甲で目を拭うと、化粧がかなりこすれた。セリスは自分のハンカチを取り出してラナの顔を拭き…………化粧は更にたいへんな事になってしまった。ラナは俯いた。 「ラナ…………」 セリスはまた彼女の髪を撫で……今度は彼女の両肩にバン、と勢いよく手を置いた。 「私は君が大好きなんだ。心から愛している。誰より愛してる。君無しじゃいられない。」 「は、はい？？」 確か以前に求婚はされたはずで、だから、今日婚約式をすることになっているわけであって…… 「あ、あの？セリス様？」 「………………」 セリスは赤面して無言で固まっている。 「…………あの、熱でも…………？」 ラナがのびあがってグランベルの新王の額に手をあてると燃えるように熱い。しかし、セリスはそのままぎゅっとラナを抱きしめた。小さなラナはセリスの腕のなかにすっぽり収まってしまい、あまりに強く抱きしめられてじたばたと腕を動かした。 「せ、セリス様……苦しい……です」 するとセリスはばっと腕を放し、改めてふんわりと抱きしめた。 「…………すまない…………そのぅ…………私はこういうことに疎くて……。正式に約束をするまでは、こういったことはしていけないのだと思っていたから…………何か色々間違っているかもしれない。ラクチェから手紙が来てね…………ヨハン公子並に愛を語るのはやりすぎだけれど、はっきりとした言葉と態度で示さなかったら君が不安になると叱られ、そしてラナを不安にさせたら、流星剣の錆びにすると脅された…………あの、ラナ、私がこうするのは嫌じゃない？」 ラナはこくこくと頷いたが、セリスには腕の中でたんぽぽ色の頭が上下しているのしか見えていないだろう。 そしてラナはうん、と力を入れて顔を上に向けた。 「あ、あの、で、でも、まだいろいろわかりません。どうして私なんでしょう。セリス様はグランベルの王になったのに、私、そんなに綺麗じゃないし」 「私が王になったのとラナの容姿は関係ないし、第一、私にとってラナは世界で一番綺麗で可愛いのだけれど？」 「ええええええ？」 「そんなに驚くものじゃない。こういうことで私は嘘をいったことがないのはラナが一番良く知っているだろう。」 「と、とにかく私、お后様なんて似合わないんです……私……違う場所の方が役に立てる……私にできるのは、杖を使って怪我や病気を癒すこと………………セリス様の傍にいても、私なんにもできない役立たずです。…………」 そう、やっとラナにも自分の不安の理由がわかった。 「…………私にはもっと他に居るべき場所があるのじゃないかって…………王宮では何もできない私でも、他の場所では微力ですけれど、力を生かせる場所があるのじゃないかって…………」 すると、セリスは笑った。 「ラナはそんなことを考えていたのかい？」 そんなこと…………そんな言葉で済まされるほど自分の悩みは浅くはないのに…… 「…………ラナは判っていない。君はずっと……ティルナノーグの村にいたときから、今に到るまで…………私は傷を負ってラナに手当てを受けたことは数度しかないけれど、それ以外のときにも私は多くのものをラナから貰っていたんだよ。君が夜を徹して怪我人を看病し、服を血と膿で汚して手当てをし、この世界を旅立って行く者たちのために祈り…………そんな君の様子を伝え聞き、そして、多くの傷病兵達が君のことを慕っているのを知り、私がどれだけ勇気付けられ、励まされたかを君は想像もできないのだろうね。…………君の噂を兵士達がしているのを耳にするたびに、最前線で何も考える余裕もなくひたすら剣をふるい続けて凍りそうになっていた私の心に正常な温かい血が流れるようになったことを知らないのだろうね…………君はね、君が考えている倍、いや、十倍以上のことをやっているんだよ。私だけではない、沢山の人に対してね。…………ラナが私と一緒になってくれたなら、君が杖を手にすることは少なくなるだろう。…………君が“こうありたい”と思う自分でいられなくなることもあるかもしれない……それでも君は私の隣に居てくれるだろうか。私は君を励ますことができるだろうか。私は今まで少しでも君を励ましていたのだろうか。私は…………君に告げることしかできない。君が戦場で杖を振り、衣服を血や膿で汚すことのない世界を君に贈りたい。君が憂い顔を見せることがないような政をしていきたい。と。」 セリスが向ける真剣な瞳の先で、ラナは目を細め、ゆっくりと言葉を選んで答えた。 「……セリス様がそう言って下さることが私にとっての一番の励ましです。」 セリスはきょとんとし、すぐにラナと同じように微笑み、そして細いが筋肉質の腕で軽々とラナを抱き上げた。キャッ、と短く声をあげるラナに若きグランベル王は大きく口をあけて笑ってみせる。 「こうしてラナを抱き上げるのは久しぶりだね。……僕がシアルフィ公子であり、解放軍の盟主になるべき者だと知らされて以来、僕に対する皆の行動も、僕の皆に対する行動も変わってしまった。…………不思議なものだね。僕は王になり、こうしてまた君を抱き上げることができるようになった。………… ラナ……一つだけ約束して。僕は君と二人だけの時には自分のことを『私』ではなく『僕』と呼ぶ。君のことはラナと呼ぶ。だから君は僕のことをセリスと呼んで。『様』は抜きだ。……」 「え、あの、どうして……」 「…………僕は君に背を向けて前を歩みたいのではないから。いつも共に歩みたいから。」 はい、セリス。と恥ずかしそうにラナに名を呼ばれ、セリスは恋することに慣れていない青年らしく顔をあからめ、しかし、しっかりとラナを抱えなおした。 「さあ、戻ろうか。君だけでなく僕までいなくなってしまったから相当皆が気を揉んでいるだろう。」 ラナは眉を下げた。 「迷惑をかけてしまいました……随分お化粧を崩してしまって……また侍女の皆さんの手を煩わせてしまう……謝らなくちゃ。」 するとセリスは何か悪戯を思いついた子供のように、青い瞳をくるっと回した。 「一からお化粧をし直すのだったら、もっと崩れてしまっても構わないだろうね？」 はい？きっとそれはそうだけれど、とラナが首を傾げる中、セリスは頭を前に倒してたんぽぽ色の髪をした幼馴染の半ば紅がはげた唇に、優しくそっと、大人になってからは初めての接吻をした。 |
| 212121HITキリ番でもろもろさんからいただいたリク「『励ます』をテーマにセリスとラナで」の話です。大好きなコンビのリクをいただけて嬉しかったです！うちのサイトのラナはひたすら真面目で地味で……要領があまりよくなくて、でも皆から愛されている可愛い子です。聖戦後ということで、サイトにアップしている長編の「ラナは傷病者のために働いていた」という設定からはじめましたら、落ち込み、悩むラナになってしまいました。(従妹であるパティの悩みとラナの悩みはよく似ていますが、ラナはパティと違って思いつめてしまいます)なんとか明るく幸せに！と軌道修正しようとしましたら、お砂糖をかけすぎたかもしれません。 セリスは、皆の前では完全無欠の聖人君子で、ラナの前でだけ弱かったり子供っぽかったり甘えん坊だったりすると宜しいと思います。王と王妃というより「永遠の幼なじみ」で。 「励ます」というキーワードが少し霞んでしまいましたが、どうかご笑覧下さい。（そして意地でもラクチェ＆ヨハンを痕跡程度ですが出しました！) |