弓祭り |
ぎりり、と引き絞った弓弦から人差し指と中指を外すと、ヒュッと音をたてて矢が放たれた。矢は大人の足で三十歩ほども放れた場所に置かれた麦わらの詰まった麻袋に墨で書かれた的に見事に突き刺さる。まんまん中には命中しなかったものの、観客達は大歓声をあげる。子供も、大人も、老人も、生真面目そうな書生から、真っ赤な顔で野次を飛ばしている酔っ払い連中まで、誰もがこの場を楽しんでいた。 今日はユングウィの建国記念日である。庶民達は王宮で行われるお堅い儀式には殆ど関心がなかったが、城下の「弓祭り」のために一月も前から準備を始めていた。縁起物として赤や青の鮮やかな塗料で色づけされた玩具の弓と矢が売られ、店はとっておきの菓子や料理を提供する。他国からの珍しい品物を商う露店が大通りの両脇に立ち並び、たくさんの大道芸人もやってくる。昔、悪しき者からこの世界を救った12戦士の一人、ウル。そのウルが建国したのがこのユングウィであるが、この弓祭りは彼が携えていた聖武具『神弓イチイバル』と人にイチイバルを与えた竜神に感謝を表す祭りなのだ。ユングウィの全ての国民は感謝をし…ているのは間違いないが、この日を敬虔な祈りの日にはしていない。ユングウィの領主、リング公も城下がお祭り騒ぎで沸き返るのをむしろ良しとしていた。城下一番の広場は事前に兵士の手で飾り付けられ、飲食屋台のための竈が設営され、ワインの大樽がいくつも提供され、城下に住む領民はおだやかな気性の気前のよい優しいリング公を好いていた。 さて、祭の中で、もっとも盛り上がるのが王宮前広場で行われる『弓比べ』と呼ばれる腕試しであった。聖武具として剣が受け継がれているところで武術大会が行われるのと同様、ユングウィでは弓の腕を競う。勝者にはリング公から直に言葉をいただけ、褒章もある。その勝者が希望すれば、平民から一足飛びに騎士見習いとしての道が開けたことも今まで幾度もあった。因みに、騎士達は参加を許されていない。騎士は競うために腕を振るうものではない、その矜持があるからだ。 事前に予選があり、16人が勝ち上がっていた。庶民は観戦して純粋に勝負を楽しむが、その一方、こういった腕比べになると必ず沸いてくる『賭け屋』が胴元として大もうけを狙っていた。その掛け屋達が誰一人例外なく本命であると推していたのが二人の青年であった。二人は年恰好も同じであれば、職業も同じである。弓職人の家に生まれ、双方弓つくりの技を子供の頃か教えられ、並行して射手としての修練も積んできていた。その二人が揃って今年初めて参加できる年齢に達したのだ。 そして、二人の家が城下で一二を争う大きな弓問屋で商売敵であることに観客はわくわくさせられていた。ここで息子が優勝すれば、褒章として、大量の弓矢を城から受注することができ、大もうけができるはずなのだ。 一人五射つづの対戦で、二人は下馬評どおりになんなく勝ち上がり、決勝へと駒を進めた。その後、休憩が入り、音楽、そして、民族舞踊の出し物があり、三位決定戦が行われ…決勝戦が始まる…はずだった、いや、始まったのだ。 一方の青年が弓を射る位置についたとき、もう一方の青年は、出場者の控え場所となっている天幕の中で、右手中指に包帯を巻き歯を食いしばっていた。両親、そして彼の姉と妹、そして二人の弟が心配そうに長兄を見守っている。すぐ下の弟が、憤ったように叫んだ。 「あいつら、汚い手を使って！……風来坊を雇って兄さんの指を折るなんて…！リング様に訴えよう。ね、父さん、そうしようよ！」 おやめ、と母親が次男坊の肩に手を置いて嗜めた。 「あの人たちがそうしたのかもしれない、そうしなかったのかもしれない。でもね、おそらくはおそらくは、賭けをした人たちがやったこと。証拠もなしに人を疑ってはいけないわ……」 妹二人は、泣き出し一番下の弟も俯いて肩を震わせる。骨折の痛みで脂汗を流していた長兄は左手で弓を持ち、弦に右指を添えようとして痛みのあまり蹲った。父親が静かに言う。 「……係の方に、怪我をしたことを伝えて決勝は辞退しなさい。……今は静かに退こう。騒いでも、相手に、『勝つ自信がないためにわざと自分で我が身を傷つけた』などと嘯かれるだけだ…安易に人を疑いたくもなければ祭を台無しにするわけにはいかない。不正を行う者があったのなら、神により裁かれることを信じて……今は退こう。」 長兄は首を振る。 「父さん、辞退するだけでも、失礼にあたってしまう。せっかくの祭なのに、すべてが台無しでしょう？皆が楽しい気持ちで祭を終えるためにも俺は出なけりゃいけない。五射だけだ。その間だけ耐えればいいんだ。ひとさし指は折れていない。革で固定して、薬指と人差し指でひけば…！」 「ダメだ。……そのような状態では力が出せないことはお前もわかっているだろう。」 長兄は、俯いた。父の言うことが正しいことはわかっていた。と、姉娘がしっかりした声で、家族に呼びかけた。 「……お祭を楽しいままで終わらせる方法、あるかもしれない。」 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 対戦場に射手が一人しかいない会場では観客達がざわつき始めた。貴賓席のリング公は国賓として招き、隣に座っているシアルフィ公バイロン卿と顔を見合わせ近侍に状況を報告するよう指示した。リング公の小さな王子王女も首を傾げていた。幼いといってももう弓の鍛練を始めたアンドレイは、どうしたのですか？早く観たいのに、姉さま、何が起こっているの？と姉王女であるエーディンに眉を下げて見せた。エーディンは自分では弓をやらないものの、弓騎士長をはじめとした何人かの騎士達にたいそう可愛がって貰っていて、彼らが弓をひくのを見るのが大好きだったので、弟同様どうしたのかしら、と訝りながら、どうしたのかしらね、はやく始まるといいわね、静かに待っていましょうね、と宥めるように弟の髪を撫でていたところ、動きがあった。 その場に出てきたのは、準決勝まで弓をひいていた青年ではなく、エーディンとあまり年の違っていそうにない子供だった。ざわつく観客に向かい、臙脂のチュニックを着た可愛らしく華奢な子供は丁寧に深々とお辞儀をした。その長いお辞儀の間に、観客のざわめきは、静かに引いて行った。子供はゆっくりと頭を上げると、澄んだ綺麗な声を張り上げた。 「お集まりいただいた方々、リング様、バイロン様、その他の王族の方々、誠に申し訳ございません。」 ちらっと左の掌を見たのは、心覚えの言葉でも書き付けてあるからなのだろうか。 「この場に立つべき私の兄は、手に酷い怪我をしてしまいました。勝者を決めるこの試合に出場できないことをお詫び致します。」 その子は震えているようだった。 「もしもお許しいただけるのならば、この私を代理として出場させて下さいませんでしょうか。宜しくお願い致します。」 驚きの声が湧き起った。年端のいかない子供が決勝に出場？年齢制限にひっかかるだろう。予選に出てもいないんだぞ！許されるわけがないだろうが！引き摺り下ろせ！まて、俺はあの餓鬼の兄貴に賭けてたんだ。ダメもとでやらせろ！なんかよくわからねえが面白そうだ、やらせてやれ！様々な声が飛び交う中、リング公は立ち上がり、己の傍らに置いた聖弓イチイバルを手に取り、弦を引き絞った。矢をつがえなかったはずであるのにそこには金に輝く光の矢が生まれ、人々の前をきらめきながらまっすぐに飛んで、的の中央を射抜いた。 しん、と静寂が支配する中、リング公は叫んだ。 「兄を想うその心は健気であり尊ばれるべきものである。子供よ、兄君の怪我、残念なことであった。ウルの名において、出場を許可する。」 わあっと歓声があがる。対戦相手の青年は、子供を一瞥したが、馬鹿にしたようにニヤリと笑い、そこで観て居ろよというようにさっさと一射目をを放った。中央から指幅二つと離れていない位置に突き刺さり、観客が拍手喝采を送る。 子供はそれを見聞きしていなかった。おおきく深呼吸し、自分の的を見据え、自分の緑の髪をさらさらと靡かせる風をまだ子供らしい柔らかな頬で感じ、子供用の弓をひきしぼり… 空気が凍りついた。的までとどかぬのではないかと考えていた観客達、リング公やバイロン卿までもは、子供の矢が的の中央に刺さっているのを見て、声の一つも出せなくなっていた。子供達だけがわあ、すごいや、と同年代の活躍に声援を送る。 二射、三射と進むに従い、その差は徐々に開き、最期に子供が矢を放ったとき、結果は明白となった。 「これは茶番だ！」 どこが茶番であるのか自分でもわからぬままに対戦相手の青年は叫んでいた。すると、会場からも怒声が起こる。子供やおかみさん連中は、あれだけはっきり差があるのだし、あの子が優勝だ、と思っていたが、本来の手続きを踏まないで出場したものに優勝する権利はない、と考える者や、このままでは賭けが成立しなくなったりあまつさえ自分が負けるのではないかと危ぶむ者が、声をあげたのだ。子供は怖くなった。大好きな兄の役に立とうと精一杯頑張った。両親もきょうだいも、小さなあなたが頑張れば、皆和んでくれる。矢が外れても、万一届かなかったとしても平気だ、と励ましてくれた。頑張ったのに、勝負に勝ちすらしたのに、どうして怒鳴られるのだろう。怒られるのだろう。 弓をギュッと握って震えながら立ち尽くしていると頭にコツ、と物があたって、頭を押さえる。それは酔っ払いが投げ込んだ石だった。すぐさま投げた男は警備兵に捕らえられたが、石は一つ、また一つ、飛んできた。蹲り俯いて、どうにかやり過ごそうとする子供の前に、白いひらひらしたものが横切った。それは人影だった、その人は自分の前に立ち、大きく横に手を広げた。 辺りは静まり返った。 ユングウィの公女、エーディンは、貴賓席から近衛の制止を振り切って駆け下り、自分も泣きそうになりながら、やめてください、この子は何も悪いことをしていません。お祭に石を投げるなんて、いけません、絶対に駄目です、と声の限りに叫んだ。 と、リング公が娘を追うように近衛を従えて射手二人のもとに歩いていった。その右手はアンドレイ王子の手をひいていた。エーディンは父親がやってきたのに安堵したのか、その足に齧りついてぽろぽろと涙をこぼし始めた。 リング公は勝負には負けた青年に向かい、微笑みながらあなたが正当な優勝者だ、と告げ、銀色のメダリオンを首にかけた。青年は跪き、会場からははじめまばらに、やがて盛大な拍手が起こった。そして、勝負には勝っていた子供に向き直ると少し屈んで目線を合わせて言った。 「君はよい意味で私を裏切ってくれた。君に優勝を与えることはできない。手続きをしていなかったし……年齢も参加するには幼すぎた。君はまだ子供だ。子供、であるから……君への賞賛は子供から与えるのが相応しいだろう。」 リング公が促すと、アンドレイが蹲っている子供の前に立って手を差し伸べ、子供が躊躇すると、自らぎゅっと手を握って立たせてやった。 「素晴らしい弓術でした！市井にあなたのような弓に優れた者がいるなんて、さすが、ユングウィは世界一の弓の国ですね。私は早く大きくなってあなたと勝負をしてみたいです！私は父上のような褒章をあげるわけにはいきませんけれど、あとでお菓子をいっぱい届けさせます。それから・・・」 アンドレイは左手に握った赤い小さな弓矢を模した縁起物を差し出した。 「これは今日、私が父上からいただいた、弓祭の飾りです。私があなたにこれをあげたいといったら、父上が許してくれました。さあ、受け取ってください。」 満面に笑みを浮かべたアンドレイから恭しく子供が小さな弓矢を受け取ると、観客から歓声が起こった。 「公女様、助けて下さって有難うございます。申し訳ございませんでした。」 泣いていたエーディンはレースのついた袖で涙を拭うと、自分の前に先程の子供が跪いているのを見つけた。そして、公女はふるふると首を振った。 「いいえ、自然に体が動いていたのです。私の双子の姉は小さいときから弓がたいそう得意でした。そのため、あなたと姉を重ね合わせてしまい…あなたが石を投げられているときに、私はお姉さまが石を投げられているように感じて、自然と足が動いていたのです。」 そして、父の耳に何事か囁いて許可を得ると、王女は小さなオパールのついたネックレスを外し、相手のの首にかけ、跪いた子供にかぶさるようにふわり、と抱擁した。 「あなたにこれから幸多くありますように。」 もったいない！と顔をあからめる子供をエーディンはもう一度ぎゅっと抱擁した。 「もったいないなどということなどありません。…もしご迷惑でなかったら、姉の無事と幸を祈って下さい。それで十分です。……弓をひく、あなたを見て、ひと時ですが、姉さまが帰っていらしたようで、私は嬉しかったのです。」 跪いたままの子供を領主とその王子王女が祝福する光景に、観客達は、優勝した青年よりもずっとずっと大きな歓声をあげた。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ その後程なくしてエーディンは修道院へシスターとしての学びを成すために城を離れた。三年して戻ってくるときに、リング公から『城に帰ったらお前に護衛をつけたいと思う、お前と共に動くことが多くなる者だから、お前の意見を聞いておきたい、どんな者がよいかね』、と問われ、公女はすぐに『あのときの弓祭で私がオパールを渡した子がお城にきてくれるのなら嬉しいです』と答え、領主じきじきの打診に登城するよう請われた本人は面食らいつつも王女に助けてもらった恩返しができるなら、と快諾し・・・ 修道院から戻ってきたエーディンは、自分が護衛に、と切望した人が弟アンドレイと並ぶように立っていて、喜びに目を細めた。父がその人に挨拶するように言うと、緑のサラサラした髪を後ろで一つに結んだ頭を深く下げ、こういった。 「公女さまの護衛を拝命致しました。ミデェールと申します。」 瞬間、エーディンの表情が凍りついた。耳に入ったのは、やわらかく、少し高めの・・・テノール。 「あなたは・・・女の子ではなかったのですか？」 とたん、アンドレイが笑い出し、リング公は、そうか、そういうことか、と複雑な表情をし、ミデェールは身の置き場を失って眉を下げ、・・・エーディンが、ああ、私、間違えてしまったのですね、と泣きそうになり・・・すると、アンドレイが言った。姉さま、ミデェールはとてもいい弓騎士です。弓の腕はもちろん、人間としても信頼できる者です。よい護衛になりますよ。そういわれ、エーディンがリング公を見ると、父はうむ、と大きく頷いており・・・エーディンはすっとスカートの中ほどをつまみ、護衛さん、これからよろしくお願いします、と恭しく頭を下げた。 ＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 紆余曲折の後、オパールのネックレスは公女の元に戻り、銀の鎖を革紐に付け替えてエーディンはいつも身に着けていた。ティルナノーグの隠れ里で、出会いのときのことが話題になる度、『だって、あのときのあなたは、本当に女の子のように見えたのですもの！弓騎士となってからも、女性と間違えられたこともあったでしょう』、と今では世界の誰よりも彼が男性であることを知っているエーディンは恥ずかしげに頬を染める。 でも、それは嬉しい間違いであった。エーディンが彼を少女と間違えていなかったなら、自分の護衛としたいとリング公に頼むことなどなかったし、体を張って自分を守ってくれたエーディンの優しさに触れた経験がなかったならば、恐れ多すぎて公女の護衛など厳命されなければ受けなかったろう。 運命は不思議だ。自分を少女と間違えた公女は、弓職人の三男坊だった自分と夫婦となり、あのときに目を輝かせながら自分を祝い、縁起物の弓矢を贈ってくれたアンドレイ公子は長じて敵となり、自分達の目前でイチイバルを手にしたブリギッドによって倒された。 戦乱の中、自分の『正義』は他者の『正義』と同じではないことを皆が知っている。それに苦悩しつつ、それぞれの正義に従って前に進まねばならないこともまた人々は知っている。 ティルナノーグに来てから何度目かの『ユングウィ建国記念日』がやってきた。イザークのティルナノーグにあっては、弓祭など存在しないし、そもそも今日がユングウィの建国記念日と知っているものなど殆どいない。それでも、公女とその夫は、欠かさずそれを祝い続けていた。縁起物の小さな弓矢をミデェールは作り、今年は、あの時アンドレイに貰ったような赤に塗り、前の年の弓矢を下ろして棚の上に飾る。 今年の幸を願い、祈りを捧げたとき、今は亡きリング公とアンドレイの姿が二人の脳裏に浮かんだ。 やりきれない悲しみもなく、遺恨もなく、今は静かに、ひたすら静かに二人は祈りを続けるのだった。 |
| 14周年短編その4 エーディンとミデェールの出遭い編。…だったはずですが、「現在」のやるせなさを描くことになりました。 アンドレイを可愛らしい少年として登場させましたが、これは次の作品へと続く伏線です。 |