お馬鹿さん

サントハイム城の賄い方で働くミランダは、空いた時間に城の裏手の草原を歩いていた。彼女はよくひとりきりでここに来た。目に入るものはどちらかというとさびれた光景であるが、ここは彼女が生まれ育った街から見る風景にとてもよく似ていたし、魔物に襲われて亡くなってしまった彼女の小さな息子が大好きだった大きな木にそっくりな木も生えていた。その木のすこしざらついた幹に立ったまま寄りかかり、耳を寄せる。気のせいか水がこずえの上まで上がっていく音がするようで、ミランダはしばらくそのまま目を閉じていた。 　ここは静かだった…… 　と、その静寂がいきなり破られた。 　「馬鹿！アリーナの馬鹿！」 　甲高い大声がミランダの耳に入った。姫殿下のお名前に敬称も付けずに、まして馬鹿と言い放つこの子供の声は一体？ 　声の方を見ると、一人の少年が思いつめたような顔をして、声を限りに叫んでいるのだった。 　「アリーナの馬鹿！馬鹿馬鹿大馬鹿ッ！」 　濃い蒼の髪をした華奢な感じの男の子がそこに居た。 　ミランダは目をこすった。亡くなったわが子が生きていればちょうどあの少年と同じくらいの歳である。いや……あの子は死んでしまったのだもの、ここにいるわけはない。それに、目の前のあの子は神官学校の制服を着ている。ああ、そうだ、あれはたしか姫様のそば仕えとしての役目をこのたび与えられたという確か名前は…… 　「クリフト…君？」 　クリフトは声をかけられ、びっくりしてミランダを見た。瞳は大きく見開かれている。人が来るなど思いもよらなかったのだろう。ミランダは走り寄って少年を抱くと口を押えた。 　「お姫様を呼び捨てにして、馬鹿だなんていうなんて、誰かに聞かれたら大変なことになるわ。」 　そうしてクリフトの顔を覗き込んだミランダははっとした。クリフトはミランダの腕の中でぽろぽろと泣いていた。 　ミランダはハンカチでクリフトの涙を拭き、鼻をかませると、先程彼女が寄りかかっていた大きな木の根元に座らせた。 　「どうしたの？おばちゃんで良かったら話して？大声で泣きながら怒鳴らなけりゃいけないなんて、きっととても悲しいことがあったのでしょう？大丈夫。ブライ様にも、他の偉い人たちにも言いつけたりしないから。」 　確かこの少年は孤児だという。火事で両親とまだ小さかった妹を失い、遠縁であるこの城の筆頭魔道士に引き取られた。……家族と死に別れ、一人ぼっちとなった……自分と同じ境遇をもつ少年が城に附属する神官学校にやってきたという話はミランダの頭にしっかりと刻み込まれた。だからクリフトの名前も覚えていたのだ。少年はさっき泣いたことを恥じるように一度目をこすってまっすぐに前を見て話し始めた。 　「すみません。僕はお姫様のそば仕えになったのだから、少しくらいのことで泣いたりくじけたりしてはいけないんですよね。よく考えてみれば、僕が一人でからまわりしていたのかもしれません。でも……」 　ミランダが先を促すように頷くと、クリフトはとつとつと静かに続けた。 　「アリーナ様はとてもおてんばです。お母である王妃様を亡くされて寂しいのはわかります。でも、テーブルクロスをはさみでじゃきじゃき切ってしまったり、綴り方のノートをびりびり破ってしまったり、きれいなリボンを髪から取って踏みつけたりするんです……。僕には妹がいました。妹はそんなことをする子じゃありませんでしたけれど、もしもそんなことをしたら僕はおしりをぶってやるところです。……でもお姫様が相手じゃそれはできないから……だから僕は精一杯怖い顔をして注意をして……でもお姫様はニコニコ笑っているだけで……本気で怒ったら泣かれてしまって、大臣様に僕は叱られてしまって……お姫様は謝りに来てくれたけど、その次の日、またいたずらをなさるし……」 　ミランダはそっとクリフトの頭に手を載せた。 　「そうなの、大変ね………でもね、あなたの前でいたずらをするのは、あなたの注意をひいてずっとそばに居て欲しいからじゃないかしら。」 　「え？……」 　そうかもしれない。 　叱られるのがわかっているのに、不機嫌な顔をされるのがわかっているのにいたずらをやめないのは構って欲しいからなのかもしれない。でも・・・・・ 　クリフトは下を向いた。ミランダはじっと見つめる。そして言った。 　「クリフト君……他に……他に何か悲しいことがあるのじゃないの？」 　そう訊かれ、クリフトは堰を切ったようにさっきとはうってかわった大声で喋りだした。 　「お姫様が切ってしまったテーブルクロスは絹で、綺麗な花模様が刺繍されていました。絹なんて、僕の生まれた村では結婚式の衣装にしか使わないものなんです。紙だってそうだ！紙梳きのおじさんが、一枚一枚丁寧に作るんです。そして、大切な手紙を書くときにしか使わない。子供は石板で字を練習します。目茶目茶に落書きしたり、何も書かないうちに破ったりなんてするもんか！リボンを踏みつけるなんて！母さんは僕の妹に洋服を作った余り布でリボンを作ってくれた。リボンは毎日お日様にあたって、日に焼けて白茶けていたけれどとても大切にしていた！……おばさん。でも、僕はお姫様を叱れない。だって、お姫様は誰にも教わってこなかったんだ。だから平気で切ったり破ったり踏みつけたりするんだ！……でも、お姫様がいくら知らなくたって僕はお姫様を許せない。でも悪いのはお姫様じゃない。お城じゃ、村では当たり前だったことが当たり前でないことがたくさんありすぎるんです！だから、だからここに叫んでいたんです！……でも、全然気持ちは晴れなかったです。馬鹿だなんて叫んでも胸のムカムカはちっとも取れなかった。」 　ミランダは、手の甲で目を拭ったクリフトを見て微笑んだ。なんてまっすぐな子なんだろう。でも、こんなにまっすぐな子は王宮という場所ではきっと苦労をするだろう。 　「クリフト君。……あのね、『こうしなければならない、こうでなければいけない』と思うのは大切なことよ。でもね、そうやって自分や他の人をがんじがらめにするよりも『こうできたらいいな。こうだったら素敵だな』と思う方がいいこともあるかもしれないわ。それにね……王宮にいる大人たちはもう、お城での少しヘンテコなことをちっともおかしなこととは思えなくなっているの。……大人はなかなか変われないのよ。でも小さなお姫様は違うわ。……知らなかったら教えてあげればいい。きっとわかってくださるわ。あなたが大切だと思うこと、あなたが嫌だと思うこと。近くに居て教えてあげればきっと少しは知って下さるわ。」 　自分は王族に対して不遜なことを言っているのかもしれない、とミランダは思った。しかし、そんなことより、今は自分の目の前にいる少年の心を軽くしてやりたかった。 　「そんなこと……できるんでしょうか。」 　「おばちゃんはあなたの何倍も長い年月生きてきたのよ。そして小さな子供のことならよく知ってるわ。大丈夫。絶対に大丈夫ですよ。」 　ミランダはそう言ってそっとクリフトの肩をとん、と叩いたが、ミランダとて確信はできなかった。お姫さまなどミランダには遠い遠い存在で、市井の子供達と同じであるかどうかなど想像もつかなかったのだ。 　「ばかッ！ばかばかばか！大嫌い！大嫌いーッ！」 　次の日、ミランダが昨日と同じ木のところにいくと、今度は小さな女の子が声を限りに叫んでいた。茂みにでも突っ込んだのだろうか。赤みがかった金髪には小枝や葉が絡みつき、袖口と裾にレースをあしらった可愛らしい黄色のドレスはところどころにかきざきができている。女の子は大きく息を吸い、上半身をぐいと前に折るとそれと共に再び声を吐き出した。 　「クリフトのばかッ！ばかー！」 　あの真っ直ぐな少年の名前が出、ミランダはこの小さな子供が姫殿下なのだとわかった。しかし、彼女はこの高貴な身分の王女の前で膝を折ろうとは思わなかった。アリーナは涙で顔をぐしゃぐしゃにし、鼻水を垂らし、声を限りに泣き叫んでいる。握った拳はふるふる震えて時々咳をし、しゃくりあげ……だからミランダは走っていって王女殿下をぎゅっと抱きしめた。そこにいたのは小さな女の子。泣き叫び、何かを求めている子供。 　ミランダはクリフトにしてやったのと同じように涙を拭い、鼻をかんでやった。そして抱き上げた。 　「馬鹿なんて言っちゃ駄目よ。」 　腕の中の女の子は不思議そうにミランダを見上げた。見知らぬ女性はそのまま草の上に座り、アリーナの髪についた枝や葉を取り除いてやった。 　「だって、クリフトは怒るんだもの。いつも怒るんだもの！クリフト、私のことが嫌いなんだもの！わかってくれないんだもの！」 　「そんなことありませんよ。クリフト君はお姫さまのことが大好きなんですよ。大好きだから怒るんですよ。泣かないで、お馬鹿さん、お馬鹿さんね。」 　そう言い、アリーナの髪を撫で、時折叱って、ミランダはアリーナの体の震えが収まるまで抱きしめていた。 　すると、少女が言った。 　「あなたはお母様なの？」 　え？ 　王女が何を言いたいのかミランダには理解できなかった。それでも、微笑んでこう言った。 　「そうね、おばさんは……少し前まではお母さん……だったわね。」 　「あのね、私にも少し前までお母様がいたの。あなたは、お母様とは違うけれど、お母様みたい。」 　アリーナは安心して、この初対面の賄い方の女の胸に顔を埋めた。ミランダははるか昔に我が子がまだ幼かった頃のことを思い出し、目をけぶらせてもう一度きゅっと抱いた。 　ふと、誰かの気配がした。 　そして、城の方を見て、年齢の割りにすらりと背の高い少年の姿を認めて微笑した。 　「お姫さま、お迎えが来ましたよ。」 　地面の上に下ろすと、王女は心配そうにこちらを見守るクリフトに向かって一目散に駆けて行った。少年はなにやらお説教をひとしきりしていたが、少女の頭を撫で、背に負った。そして、ミランダに一礼した。 　アリーナはクリフトの背からミランダに向かって大きく手を振った。 　「私、また必ずここに来るから、待っててね！またお話してね！」 　ミランダは2人を見送ると、礼拝堂へと行った。 　下働きの者たちにも開放されているこの場所は、平日の昼にはあまり人気の無い静かな場所だった。その祭壇の前に膝をつき、彼女は首を垂れ、祈りを捧げた。祈り終わって立ち上がると、そこにはこの国の司教であるディルトが立っていた。 　「ディルト様。」 　再び跪こうとするミランダをディルトは制し、低い、穏やかな声で言った。 　「またお会いしましたね。……息子さんのことを祈っていらしたのですか。」 　「はい。…そして、もう1つのことを。……私は2人の子供に出会いました。……一人は王女殿下、もう一人はそのそば仕えの少年です。……王女様は私にまた話をしたいとおっしゃいました。……私はどうするべきなのでしょうか。身分の低い私などがお話しするなど不敬にあたるのではないでしょうか。」 　ディルトは少しだけ眉をあげたが微笑んだ。 　「あなたは一人子を失いましたが、神はあなたに新たな子を与えて下さったのでしょう。2人とも母親のない子です。力になってやっていただけますか？」 　「それが司教様の答えですか。」 　「……はい。でも決めるのはあなたですよ、ミランダ。もしもあなたがその役目を負って下さろうとするなら、偉い方々から叱責をうけるかもしれません。……それでもよいと思って下さるのなら……」 　　＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊ 　あれから随分と時が流れた。草原に生えた木は更に大きく太くなったが、風景はあのときとあまり変わっていない。 　草の上に座ったクリフトは、隣に座った婦人が微笑むのを見て尋ねた。 　「ミランダさん、どうなさったのですか。」 　「いいえ、ふっと随分昔のことを思い出してしまったの。……初めにあなたとここで会ったとき、あなたは“馬鹿！”って叫んでいたわ。クリフトさん、もうあなたは“馬鹿”なんていったりしないのでしょうね。」 　「はあ、……そういえばそんなことを子供の頃は言っていましたね。お恥かしいです。さすがに今はもう……。」 　 　クリフトの逆隣に座っていたアリーナがぶんぶんと首を振る。 　「……結婚してから“お馬鹿さんですね”って連発しているのはどこの誰？失礼しちゃうわ、馬鹿っていう人が一番馬鹿なんですからねー！」 　反射的にかあっと顔を赤くするクリフトと、顔色1つ変えず、むしろむくれているアリーナ。あらあら、お姫さまは愛情表現に気付いていないのね、とミランダは苦笑する。 　え、どうして？何？と首を捻るアリーナには答えず、ミランダは木を見つめた。 　自分をこの2人に引き合わせたのは“馬鹿”というとんでもない言葉だったけれど、それは、発する人間の心によってはこんなに優しい気持ちになれるのだ。 　「ミランダおばさん。どういうことなの？」 　大きなハシバミ色の瞳をパチパチさせるアリーナの身体をきゅっと抱きしめ、ミランダは言った。 　「お馬鹿さん。自分で気付かなきゃ駄目ですよ。」

母の日更新を目指していて間に合わなかったもの…憎しみではない感情で「馬鹿」といってくれる人がいるって素敵なことのように思えますが如何なものでしょうか。オリジナルキャラクター中心の話なので、お嫌いな方はすみません。 　因みに、８人の仲間達の中で最も「馬鹿」を連発しているのはミネアさんです。「姉さんの馬鹿！」おそらく一日に一度は必ず。これもまた一種の愛情表現。